20 望まれなかった命たち――アリアと隻腕の竜④

「ペトローヴ……?」


 アリアは倒れるアルケーの後ろに立つペトローヴを、壁の上から見下ろす。ペトローヴはアリアの視線に気づいて微笑んでいる。

 アルケーは倒れたまま動かない。背中に突き刺さったナイフの周囲には血が滲んでいる。白く積もった雪に、赤い花が咲こうとしているみたいだった。


「アルケー……?」


 街の外からは依然として連合国軍からの攻撃が続いていた。投石や魔法によって街を守る足元の壁が大きく揺れ、アリアは周囲の魔術師たちと同じように体勢を崩し、その場にへたり込んだ。魔術師たちはすぐに立ち上がり反撃を開始するが、アリアは圧倒的な虚脱感に全身を押さえつけられて、うまく立ち上がることができなかった。

 大剣の英雄率いる連合国軍の兵たちが猛々しく声を上げると、ふたたび足元の壁が揺れた。魔術師たちは体勢を崩さないよう踏ん張るが、そこへ魔法や矢が飛んできて、ひとり、またひとりと倒れていく。


 門はもう破られる。そのあとは市街戦が始まる。それが終われば――それはおそらくジェラティオの敗北によって終わる――略奪が始まる。勝者の当然の権利であるように命が奪われ、仮に生き残ったとしても、誰も彼も等しく尊厳を徹底的に傷つけられる。フリスティングはまもなく陥落し、そういった末路を辿ることになる。


 しかしアリアにとって、そんなことはもうどうでもよかった。これからどれだけの人が死のうが、知ったことではなかった。


 アリアは呼吸を乱しながら、がくがくと震える脚で立ち上がる。アルケーはまだ背中にナイフが突き刺さったまま倒れている。その周囲にいた魔術師たちは数を減らし、もうペトローヴしか残っていない。ペトローヴはさっきと同じ場所に佇んだまま、アリアを見ていた。まるでアリアが下りてくるのを待っているみたいに。


 アリアはよたよたと歩き、街の方へ落ちるように飛び降りた。接地する寸前に魔法で体勢を整えようと試みたがうまくいかず、左肩を強く地面にぶつけ、そのまま倒れ込む。


 左肩が痛い。着ている服越しに触れる雪が冷たい。その痛みと冷たさが、命に向かってゆっくりと這い寄ってくる。


 顔だけを動かしてアルケーの方へ目を向けると、ペトローヴがゆっくりとこちらに歩み寄ってくるのが見えた。アルケーの姿はその向こうにあってよく見えない。でもまだ生きているかもしれない。いますぐに治癒魔法をかければ、一命を取り留められる可能性は十分にある。しかしアリアには治癒魔法が使えなかった。ペトローヴの方は、分からない。アリアとペトローヴは魔法について話したことがなかった。


 いずれにせよペトローヴの姿を見れば、彼にアルケーを助けようという気は一切ないということは明らかだった。それも当然と言えば当然で、彼がアルケーの背にナイフを突きたてたのだ。アルケーの周囲に立っていた魔術師たちも同じだ。彼らはアルケーを見殺しにする気でこの場を去った。


 混乱するアリアは、状況が物語る結論に目が眩みそうになる。アルケーはこのタイミングで、保守派の反対派閥の人間として、同じジェラティオの人間に殺されようとしている。


 どうして? とアリアはペトローヴに向けて言ったつもりだったが、声は出ていなかった。喉になにかがつかえている。それが何なのか分からない。吐き出そうとしても出てこない。怒りとか悲しみとか具体的な感情ではなく、もっと複合的で混沌としたなにかに喉が塞がれている。確かなのは、自分の内側が乾いていく感覚だけだった。


「だいじょうぶか、アリア」ペトローヴはアリアを見下ろしながら言う。その顔には薄っぺらい笑みが張り付いている。


「どうして……?」アリアは地面に伏せた状態から右腕だけで上半身を持ち上げ、声を絞り出した。「どうしてアルケーを刺したの……? ペトローヴ……」


 ペトローヴは黙っていた。門の向こう側からは、巨大なムカデが這っているみたいに無数の足音が聞こえてくる。


 アリアはまだいくつか残っている僅かな可能性に縋りたかった。ほんとうは、ペトローヴはアルケーを刺していないとか、まだアルケーが生きていて治癒が間に合うとか、なにか都合の良いことが起こってフリスティングは陥落を免れるとか、そういったことが起こりはしないかと、心のどこかで期待していた。しかし、黙っているペトローヴと門の外のムカデの足音が、アリアに現実を認識させてくる。僅かな希望は砂の上に建った城のように音を立ててゆっくりと崩れていく。アリアの心はその瓦礫の下で悲鳴を上げ始めた。その悲鳴は誰にも届かない。目の前にいるペトローヴやアルケーにさえ。


「答えてよ、ペトローヴ……」アリアはもう一度ペトローヴに語りかけた。


「僕は……」ペトローヴの顔から笑みが消えて、目に冷たい光が灯った。「僕は宮廷魔術師テロスの弟子……保守派の人間だ。結局のところ、きみやアルケーとは分かり合えない。以前にも言ったように、僕は貴族でもなければ特別優秀なわけでもない。そんな人間に用意された椅子は、いつか他の人間に奪われてしまうかもしれない。だから、やれと言われれば、僕はやるしかない。だから、やった」


 ああ、とアリアは心の中で呟いた。

 そうか。

 そうだったんだ。


 わたしは改革派の宮廷魔術師アルケーの弟子で、彼は保守派の宮廷魔術師テロスの弟子。最初から分かりきっていたことだったのだ。わたし達は相容れない。わたし達はひとりの人間ではなく、政治闘争の駒としてあの場にいた。アルケーもそうだ。でもわたしは――わたしだけが、彼とのあいだに愛が存在しているという幻想のなかにいた。そのなかで陽を浴びて、水を吸い、蕾をつけ、花を咲かせた。


 しかしそれはすべて幻想でしかなかった。ペトローヴの吐いた言葉が、その甘い霧みたいな幻想を切り裂き、空っぽになったアリアを冷たい現実に引きずり出す。寒さと怒りに身体が震える。こんなくだらない争いの果てに愚かな決断を下し、アルケーはいまここで死ななければならないのかと思うと、空っぽの心に溶岩が流れ込んだみたいに胸が熱くなった。そしてその溶岩は同時に悲しみを連れてきた。アルケーと離ればなれになる絶望と、ペトローヴに裏切られた失望が、今度は急速に心を冷たくしていく。

 気分が悪くなり、アリアはその場に胃液を吐き出す。こんな状態だというのに、空腹感と乾きがやってくる。胃は食物を欲し、心はぬくもりを欲していた。でもこの場にはそのどちらもなかった。


 アリアのなかに渦を巻いたさまざまな感情は、腹の底で熱を帯び、明瞭な形を持って蠢き始めた。

 殺してやる、と誰かが言った。誰かが下卑た笑い声を上げる。殺してしまえ、と誰かが言う。


 アリアは腹に異物感を覚え、ふたたび嘔吐した。自分のなかに自分じゃないなにかがいるような感覚が、原始的な恐怖としてアリアに襲いかかる。自分が自分じゃなくなるような、そんな恐ろしさが体内で暴れまわっている。

 心臓の音がうるさかった。身体が熱かった。心が壊れそうだった。目に映るすべてが眩しい。肌を刺す冷気が痛い。ペトローヴが憎い。アルケーと話したい。いやだ。まだ、死にたくない――


 アリアは底のない怒りと恐怖に包まれ絶叫した。その声も、門の外のムカデみたいな足音と、勇猛果敢な兵士たちの雄叫びによってかき消される。この場にあるすべてのものがアリアの存在を否定するような状況が現出した。


 そして、竜が現れた。


 片腕のない小さな真紅の竜が、アリアの腹を内側から食い破るように飛び出してきた。小さな翼を必死に動かし、口にアリアのはらわたを咥えながら、ペトローヴの眼前で浮遊する。ペトローヴは慄き、数歩後ずさる。竜は口を大きくひらき、下卑た笑い声のような咆哮をした。咥えていたアリアのはらわたが雪の上に落ちる。


 アリアはそれをぼんやりと眺めていた。そうすることしかできなかった。なにが起こっているのかよく分からないまま、アリアはふたたび空っぽになった。おぞましいほどの痛みと根源的な恐怖が、アリアに思考を許さなかった。腹に空いた穴から、血と体温が急速に失われていく。


 小さな竜は自由を謳歌するみたいに飛び回った後、その場で立ち竦むペトローヴの腕に噛みつき、肉をちぎり取った。ペトローヴが悲鳴を上げる。竜はその肉を咀嚼し飲み込むと、ふたたび下卑た声で吠えた。ペトローヴは治癒魔法で傷を塞ぎながら、街の中心へ向かって逃げていく。竜はそれを追いかけることなく、笑いながら見ていた。


 アリアは横たわりながら、倒れるアルケーだけを見つめていた。


 助けて、アルケー。わたし、変だよ。

 そう言ったつもりだったが、声は出ていなかった。しかしアルケーの指先がぴくりと動く。アリアはそれを見逃さず捉えた。アルケーは生きている。


 できることならアルケーの隣まで行きたかった。ふたりいっしょに生を終えたかった。きっとアルケーもそう思っただろう。しかし状況がそれを許さなかった。ふたりは近くにいたが、もう歩み寄ることができなかった。触れることもできなければ、言葉を交わすこともできない。ただお互いが死んでゆくのを、見守っていることしかできなかった。


 ほんとうは、もっと生きていたいのに。アルケーだってそうでしょう?


 声が出せれば、いますぐ子どもみたいに大声を上げて泣きたいのに。身体が動けば、いますぐ走ってアルケーに抱きつきたいのに。ふたりであたたかい食事をとって、きょうは寒いから、同じ布団に包まって寝よう。ふたりで朝日を拝んで、ふたりで星を観察しよう。それから、それから――


 視界が滲んで、アルケーの姿がぼやけてしまう。アリアにはもう涙を拭う力さえ残っていなかった。しかし身体は、アルケーの方に向かって進み始めた。


 アルケーは朦朧とする意識のなかで、血まみれになった愛娘のような弟子が、その背中から伸びる竜の腕のようなものに引きずられているのを見ていた。その近くで片腕のない真紅の幼竜が、下卑た声で喚いている。門の向こうから、歓声にも似た雄叫びが上がる。幼竜はそれに反応し、壁の向こうへ行った。直後、歓声は悲鳴に変わった。


「アル……ケ……」


 アルケーの横まで引きずられてきたアリアの口から、かろうじて言葉と呼べるような音がこぼれ落ちた。アリアの腹からは長いはらわたが飛び出している。目の焦点は定まっておらず、意識も不明瞭だった。声が届くかどうかさえ分からないが、アルケーは残った力でアリアに語りかける。


「いいか、アリア……わたしの懐に、小瓶がある……万能の……霊薬だ……」

「ア……う、あ……」


 アリアがふたたび口から音を鳴らす。それはもはや言葉とは呼べないものだった。しかしアリアはアルケーの声に反応して声を出したつもりでいた。アリアの意識は、まばゆい光と深い闇の狭間を彷徨っていた。


「きみが……飲むんだ……」

「ア……ルケ……が……ん……」


 途切れ途切れだったが、アリアの口から言葉が紡がれた。アリアには意識があり、声も聞こえていて、思考もできることがアルケーには見て取れた。そのうえでアリアが「アルケーが飲んで」と言いたがっていることも理解できた。

 アルケーはアリアの潤む紫の双眸を見つめる。深い絶望の奥底に、淡い輝きが見える。それはもうアルケーには残っていない、生への執着がもたらす希望の光だった。


 アルケーは最後の力を振り絞って、懐から小瓶を取り出した。手のひらほどの大きさで、なかには銀色の液体が入っていた。それをアリアの口元まで運びたかったが、もう力は残っていなかった。小瓶は伸ばした手から落ち、アリアの目の前に転がる。


「アリア……私は……見守っているよ……きみが……この世界に……」


 アルケーはそう言うと、ぴくりとも動かなくなった。目からは光が失われ、指先からはわずかに残っていた体温が失われていく。そのぬくもりはアリアに届く前に消えた。

 判然としない意識のなかで、アリアは痛みを感じていた。身体の感覚はもうなかったが、確かに痛かった。痛くて痛くてたまらなかった。この痛みから逃れたい。消えてしまいたい。アリアは心の底からそう願った。一度も祈ったことのない神に向けて祈りを捧げた。どうか、わたしをアルケーのところへ――


 突如、アリアの身体ががくんと揺れる。背中から伸びる竜の腕がひとりでに動き出し、目の前の小瓶を掴んだかと思うと、指を二本使って器用に瓶の蓋をあけた。そしてそのひらいた口をアリアの口に押し付け、なかに入っている銀色の液体をアリアに流し込んだ。


 アリアの心はそれを激しく拒絶した。もうすでにアリアは生きる意味を失っていた。しかし身体は動かない。生き続けるという選択肢を拒むことさえできない。


 小瓶が空になると、竜の腕はそれを放り投げた。アルケーの背に当たり、雪の上に落ちる。アルケーは動かない。どこかから下卑た笑い声が聞こえてくる。


 次の瞬間、アリアはふたたび腹に異物感を覚えた。失われたはずの感覚が戻ってくる。アルケーの死で感じた痛みを超える激痛が襲いかかってくる。苦痛に絶叫し、意識を失い、また痛みに覚醒し絶叫した。その苦悶のなかでアリアの身体は、人ならざるものに変化していった。腹に空いた穴は、竜の目や爪、鱗、牙などで塞がり、背中の竜の腕は成体のもののように大きく成長した。そのなかでアリアは死ぬことが許されないまま、何度も生死の狭間を見せつけられた。苦痛と恐怖にのたうち回ることしかできなかった。


 何十回もの覚醒と失神を繰り返し、アリアの身体は再生した。激しい痛みが消え、鈍い痛みだけが残る。腹の底で、なにかが燃えているような感覚がある。


 アリアは自分が生きていることに喜ぶよりも恐怖し、子どものように声を上げて泣いた。

 わたし、頑張ったよ、頑張ったんだよ。アルケーにそう伝えたかった。


 目の前の冷たい肉塊の背には雪が積もり始めていた。突き刺さったナイフの周りの血は、雪に埋もれて見えなくなっている。声はもう永遠に届かない。アルケーのいる空へ行くこともできない。あれがほんとうに万能の霊薬であるのなら、アリアはもう老いることもなく、死ぬこともなくなったということになる。


 アリアは泣きじゃくりながら、冷たくなったアルケーの手を持ち上げ頬ずりした。その手はいままでに触れたどんなものよりも冷たかった。何度も名前を呼んだが、アルケーは一度も返事をしない。皺だらけの冷たい手で涙を拭う。拭っても拭っても涙は止まらない。強い風に乗った雪が頬を打つ。冷たくて、痛かった。ここに温かくて柔らかいものは、ひとつもない。


 背後で爆発のような大きな鈍い音が鳴った。アリアはゆっくりと振り返り、フリスティングを守る壁に備えられた大門が破られたことを確認した。大剣を担いだ英雄を先頭に、連合国軍の兵士たちが街へ入り込んでくる。


 アリアはアルケーの亡骸のそばに座ったまま涙を流し、押し寄せる人海の波頭を走る大剣の英雄を見ていた。彼はアリアに気付くと足を止め、剣の切っ先をアリアに向けて短く言い放った。


「魔女め」


 魔女、とアリアは頭のなかで反芻する。


 それは畏れと侮蔑を含んだ言葉だった。しかしこの言葉はもっともよくいまのアリアを形容していた。着ている服はあちこちが血で黒ずんでいて、腹の辺りには穴が空いている。そこからは無数の小さな鱗や爪、目や牙などが覗いていた。背中からは大きな竜の腕のようなものが伸びており、その指先は見えないオルガンを弾いているみたいに駆動している。これがただの人でないことは明らかだった。


 顔も名前も知らない男から放たれた魔女という言葉を通して、アリアはようやく自分が異形に成り果てたのだと理解した。そして魔女も異形も、同じ末路を辿るものだ。アリアも例外ではない。


 アリアは冷たい空気を肺いっぱいに吸い込む。肺がふくらむのを意識して感じる。それから煙草の煙を吐くように、空を見上げながら口から白く熱い呼気をゆっくりと吐き出した。喉を焼けるような熱さが通り抜ける。もう一度息を吸い、吐く。肺はふくらみ、喉が焼ける。吐き出された白い呼気が空に昇って消える。まるで身体から抜けていく魂みたいに。


 わたしは生きている、とアリアは思う。まだ生きていて、だから生き続けることができる。これは生きている者だけに許された権利だ。わたしはアルケーが遺したこの命を抱えて生き続ける。生き続けなければならない。これには意味があるのだ。そうでなければ、アルケーが浮かばれない。望まれなかった命とは誰にも言わせない。これは、アルケーが遺した命の形なのだ。魔女と呼ばれても、異形と呼ばれても構わない。わたしはそれでも生きて、アルケーに報いる。アルケーからの最初の贈り物である、アリアという名前を抱えて。

 それに、約束もした。わたしが星になったアルケーを見つけないと、わたしは嘘つきになる。アルケーはそれを許してくれるかもしれないけど、わたしはわたしを許せない。だからわたしはここを――アルケーの元を去らなければならない。でも、そんなのは、いやだ。ほんとうは離れたくない。でも――


 アリアの逡巡を遮るように、頭上から下卑た咆哮が響く。アリアの腹を食い破り飛び出してきた、あの隻腕の幼竜のものだ。見上げると、幼竜は地上から十数メートルの辺りを飛びながら、地に足をつけている人間たちを嘲るように、口を大きくひらいて吠えていた。身体は赤かったが、それがあの竜本来の色なのか、血を被ったためにそうであるのか、判別がつかない。


「あの竜もおまえが呼んだんだな」と大剣の英雄が言う。


 ああ、とアリアは思う。

 彼にはそう見えているんだ。ほんとうはそうじゃないのに。いや、あの竜は確かにわたしの腹から出てきた。わたしが産んだとも見ることはできる。でも、そうじゃない。そうじゃないのに。きっと、どれだけ言葉を尽くしても伝わらない。音楽や花の素晴らしさが他人に伝わりきらないように。容姿が、生まれが、立場が、なにもかもが違うために、わたし達は分かり合えない。


 いったいわたしは、これからどうなるのだろう。アリアはほとんど諦観しながらも考える。

 たとえば、あの英雄の担いだ大剣がわたしの頭を叩き潰し、雪上に血の花を咲かせる。すると、わたしはどうなる? 裂けた腹が塞がったように、激痛を伴って頭も再生するのだろうか。仮に再生したとすれば、その頭は、ほんとうにわたしのものなのだろうか。そのときわたしは、わたしのままでいられるのだろうか?


 分からない。

 なにも分からない。わたしはなにを飲んだのか。どうして腹から竜が飛び出してきたのか。わたしは何者なのか。これからどうすればいいのか。


 この場にあるすべての『分からない』が、恐怖だった。早くそれから逃れたい一心で、アリアは震える脚に力を込めて立ち上がり、大剣の英雄に向き合う。彼から向けられる眼差しは、宮廷内で幾度となく浴びせられた保守派の人間たちからの蔑むような視線に似ていた。


 ふたたび頭上で幼竜が吠えた。風が強く吹いて、空を切る音が鳴る。連合国軍の兵たちが、幼竜とアリアに罵詈雑言を浴びせる。それらすべての音は、幼竜が飛んでいるよりも遥か高くから聞こえてくる竜の咆哮にかき消される。


 その場にいた全員が空を見上げた。暗く厚い雲から降る雪の隙間を縫うように飛んでくる、二匹の竜が目に入ってくる。

 二匹の竜はアリアと大剣の英雄のあいだに、足を地面に叩きつけるように力強く着地し、積もっていた雪を高く巻き上げ地面を揺らす。体長はどちらも二〇メートルほどで、それぞれ黒曜石のように黒光りする鱗と、真珠のように白く光る鱗を備えていた。


 白い竜は大剣の英雄の方を向いており、黒い竜はその黄色い目にアリアを映していた。アリアはそれを感じ取り怖気立つ。次の瞬間には黒竜の爪先で腹を裂かれながら、十数メートル後ろに転がる。まるで目の前のゴミを払うようだった。

 アリアはゴミみたいに雪上で転がりながら、ふたたび裂かれた腹へ走る激痛に叫んだ。そしてふたたびやってくるであろう激痛を伴う失神と覚醒の繰り返しに絶望した。


 いやだ。この痛みから逃れたい。いますぐこの場から逃げ出したい。いやだ。いやだ……死んで楽になりたい……。


 まもなく裂かれた腹に抱える痛みを上塗りするほどの激痛が腹部に走る。アリアは絶叫する。そしてまたその苦痛に、失神と覚醒を繰り返した。






 連続する意識が戻ったときには、もう周囲には誰もいなかった。ひとつだった死体は数え切れないほどに増えており、白かった足元は真っ赤になっていた。それを隠そうとするみたいに雪は降り続いている。どこかから竜の吠える声がした。竜はまだこの街にいるようだった。そして人の声もする。


 アリアは真っ赤になった雪の上で、手足を伸ばし仰向けに倒れていた。目を見開き、荒く呼吸をし、えずいて吐き出した血を顔にかぶり、それを流そうとするみたいにまた声を上げてたくさん涙を流した。


 ようやく、終わった。もう、行こう。立って、歩かなきゃ。

 そうでしょう? アルケー……。


 竜にふたたび見つかる前に、ここから逃げなければならない。もうジェラティオやフリスティング、アルケーを刺したペトローヴや、それを指示した保守派の人間のことなど、どうでもよかった。ほうっておいても、どうせすべて壊れるのだ。なぜかいまも街に居座る、あの二匹の竜によって。

 どうして幼竜に続いて成体の竜が二匹も現れたのか、アリアには見当もつかなかった。まるで幼竜に要請されてやってきたようでもあったが、ほんとうのところは結局分からない。


 アリアは腹に残る鈍い痛みにうめき声を上げながら立ち上がる。歩こうとすると頭がくらくらして転んでしまう。今度は手で冷たい地面の雪を押すようにして身体を起こす。胸に詰まった血の塊を吐き出す。腹の底にあった熱は、すこし冷たくなっているように思えた。意識すると、寒気を感じた。同時に飢餓感が襲いかかってくる。瞼も重い。こんな身体になっても、まるで人みたいだな、とアリアはぼんやり思う。


 時間をかけて立ち上がり、最後に振り返って死体の山からアルケーを探したが、見つけられなかった。おそらくみんな竜にやられたのだろう、アルケーを除いて。あちこちの死体はもはや原型を留めていないほどに変形していた。


 さよなら、アルケー。アリアは死体の山にそう呟き、街の西門へ向かった。アルケーが言ったように、あそこから街を出るのだ。






 ふらふらと時間をかけて歩いたが、その姿を竜に見咎められることはなかった。しかし竜の声はまだ街から聞こえてくる。


 西門にたどり着く頃にはもう夜が訪れていた。西門は小さく外向きにひらかれており、ちょうど人ひとりが通れるほどの隙間があった。おそらく誰かもここから逃げ出したのだろう。アリアは身体を横にしてその隙間を通る。が、背中から伸びた竜の腕が引っかかってしまう。竜の腕は勝手に門を掴みこじ開ける。そして真っ白な雪原に出た。そのまま西に向かって歩く。


 どれだけ歩いても周囲には雪しかなかった。いずれは大きな街が見えるとアルケーは言ったが、それがいつ現れるのかは分からなかった。アリアはアルケーを思い、空を見上げる。空は厚い雲で覆われていて、星はおろか月さえ見当たらなかった。全身から力が抜け、その場に倒れ込む。身体も心もボロボロで、ほとんど限界だった。しかしそれよりも、星が見えないことがアリアを打ちのめした。見上げた空にアルケーは見当たらない。見守ってくれると言ってくれた星が、そこにはない。これでは、お互いに約束を守れない。


「どこにいるの……アルケー……わたし、ひとりぼっちだよ……」


 アリアは夜の闇と深い雪のなか、飢餓感と寒さに苛まれ、寂しさと喪失感に涙を流した。






 こうしてアリアは、せいという永遠の牢獄に囚われた。

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