19 望まれなかった命たち――アリアと隻腕の竜③
連合国軍がフリスティングの街に迫るなか、宮廷魔術師とその弟子たちは薄暗い礼拝堂に集まり、戦いに備えていた。
街は高く堅牢な壁で覆われており、破るのは容易ではない。仮に破られても、この場には街全体を覆う防護壁を展開できる魔術師がいる。しかし、そのような魔術師は魔導師団のなかにもいた。それらを押し退けここまで進攻してきた連合国軍に、その魔法の防護壁が通用するだろうか。アリアには甚だ疑問であった。
直に連合国軍は街になだれ込んでくる。南方の国に駐屯していた魔導師団を殲滅し、冬のジェラティオを守る天然の要害を越えここまで辿り着いた彼らが、街を覆う物理的な壁ごときで足を止めるとは到底思えなかった。数時間ないし数日は足止めできるかもしれないが、いずれ壁は破られることだろう。その際に極寒の要塞が士気を蝕んだとしても、彼らはきっと進軍を止めない。おまけに、魔法の防護壁の効果にもあまり期待はできない。
状況は絶望的だった。しかしこれはジェラティオが始めたことだ。約七年前に始まった南下政策は、巡り巡ってこの国を窮地へ追い込んだ。適当な理由をでっち上げて占領した街のある南方の国からは恨みを買い、そこへ至る過程で通りすがりに蹂躙した遊牧民族から憎悪を抱かれ、周辺諸国からは脅威と見做され監視されるようになり、それらすべてが要因となり連合国軍が生まれ、その集合体の手に握られた剣がいままさに、ジェラティオという国家の喉笛を切り裂こうとしている。
見方によれば、これは自業自得ともとれるかもしれない。しかしアリアには、もはやなにが正しくてなにが間違っているのか、よく分からなかった。
ジェラティオにとって、不凍港や温暖で肥沃な土地の獲得は悲願だった。これが成就すれば国は安泰だった。逆にそうしなければ、長い目で見ると国は衰退していたかもしれない。謂わばこれはジェラティオにとっての生存戦略であり、掲げている正義だった。しかしこの正義は、べつの正義に進路を阻まれた。そしてその衝突は戦争へ発展した。ふたつの正義のぶつかり合いの果て、敗北した正義は、その身と歴史に悪と刻まれることとなる。
わたし達が悪かったのだろうか、とアリアは静まり返った礼拝堂でぼんやりと思う。いったいなにが善で、いったいなにが悪だというのだろう。この場で皆が祈っている神というのは、善悪を相対的に見ず、絶対的な価値基準のもと、わたしを善悪のどちらかに選別できるのだろうか。であれば、教えてほしいものだった。誰かによってここへ捨てられ、アルケーに拾われ、星を詠み、魔法を学び、派閥争いに巻き込まれ、保守派の人間に蔑まれ、ペトローヴと恋をして、この国のため命を賭すことになるわたしは、いったい善と悪のどちらであるのか。
周囲には十人ほどの魔術師がいるが、誰も彼も口を閉ざしていた。目を閉じ神に祈る者もいれば、目をひらき茫然自失とする者もいた。アリアはただぼんやりと、礼拝堂の最奥に設置された豪奢なパイプオルガンを眺めていた。安息日にここへ礼拝に来たこともなければ楽器にも興味はなかったが、このときだけはそのパイプオルガンの音を聞いてみたいと思った。
いったいどんな音がするのだろうか。ペトローヴはその音を聞いたことがあるのだろうか。聞いたことがあるのなら、その音についてどう思っているのだろうか。自分は生きているうちに、あのパイプオルガンの音を聞くことができるのだろうか――
「アリア」
思考を遮ったのはアルケーのしゃがれた声だった。
アリアはパイプオルガンの方を向いたまま、「なに」と素っ気なく返事をする。
アルケーが言う。「すまないな。怖い思いをさせて」
「ううん、だいじょうぶ……それに、アルケーはなにも悪くない」
「彼には会わなくてだいじょうぶなのか?」
「……なんの話?」
「ペトローヴのことだ。会いに行かないのか?」
ゆっくりとアルケーの方を見る。アルケーは前を見ながら、目を細めて笑っていた。
アリアはアルケーにペトローヴの話をしたことは一度もなかった。アルケーは猜疑心の強い人で、近寄ってくる保守派の魔術師には警戒を怠らない。自分の娘のような弟子が保守派の若い人間と恋仲であると知ったら、いったいなにを言われるか、アリアは不安だった。もし知られれば、最悪の場合ペトローヴと会うことができなくなるかもしれないと思っていた。だからアルケーには言えなかったのだが、すべては杞憂だったのだと、このときようやく気が付いた。
「……知ってたの?」アリアは恐る恐る訊ねてみる。
「半年くらい前から、ぼんやりしている時間が増えたな、アリア」
「そ、それは……その……ごめんなさい……」
「いや、いいんだよ。まだまだ子どもだと思っていたが、時間が経つのは早いものだ」
「うん……」
「なあ、アリア」アルケーはアリアの方に向き直って言う。「私はここに残るが、アリアがそうする必要はない。いますぐペトローヴの元へ行ってもいいし、この街から逃げ出してもいいんだ。まだ間に合う。西門から出てそのまま進み続ければ、いずれ大きな街が……」
「なに、それ」アリアはアルケーの言葉を遮って言う。「アルケーを置いて逃げるだなんて、わたしはそんなことしない」
「しかし、このままだと私もアリアも死ぬかもしれないんだ」
「だからこそよ。だから置いてなんかいかない。ずっといっしょにいる。し……」
死ぬときもいっしょよ、と言いかけて、アリアは言葉を飲み込んだ。
わたし達は死なない。アルケーを死なせたりなんかしない。戦って、生き延びるんだ。
「アリア。私はきみに、たくさんのものをもらった。そしてきみには、たくさん迷惑をかけた」
「なに……? どうしたの、アルケー……」
「言葉を尽くしても伝わらないだろうが、私はきみのことを娘だと思って愛を注いだ。しかしまあ、親としては三流以下だったかもしれないな」アルケーは目を細めて笑う。「アリアには、勉強ばかりのつまらない生活をさせてしまったな。私の事情に巻き込んで、自由も与えてやれなかった。すまない……でも、私はこの宮廷のなかで、アリアと過ごしている時間がいちばん楽しかった。なかでもアリアと彗星を見たあの夜は、私のもっとも大切な思い出だ」
「うん……わたしもよ、アルケー。勉強も、つまらなくなんてなかった」
「アリア。彗星を見ながら、私たちは約束をしたな。覚えているかい?」
「うん……」
アリアは十年前のことを、昨日のことかのように思い返す。わたし達は死んで星になっても、相手が見つけてくれる。そういう約束をした。しかし圧倒的なリアリティを帯び始めているアルケーの死を思うと、それがいったいなんだという気持ちになってしまう。所詮は子どもの戯言だったのだ。そんなものはいまのアリアにとって、慰めにも気休めにもならなかった。頭のなかで輝く彗星と、思い出のなかで瞬く星々は、アリアの胸を締め付けた。
「あの約束があるから、私はこうして心穏やかでいられる。仮に死んでも、アリアが見つけてくれるのなら、こんなに嬉しいことはない。この約束が、アリアからのいちばんの贈り物だ」
まるでアルケーが別れの言葉を口にしているように思えて、アリアは泣き出してしまいたい気持ちになった。たくさんの言葉が頭のなかに渦を巻いている。アリアはそのどれかを掴み取ってアルケーに届けたかったが、声が出なかった。代わりにこぼれそうになる涙をこらえ、アルケーのことを見つめる。
アルケーはアリアを見て、優しく微笑んだ。アリアは幾度となく見てきたその表情を真似して微笑んだが、そのとき涙が頬を伝った。一度あふれ出した涙は止まらなくなり、アリアは嗚咽した。
「いやだ……アルケー……そんな、お別れみたいなこと、言わないでよ……」
「……そうだな。べつに、きょう死ぬと決まったわけじゃない」アルケーはアリアの背中にそっと手を置いて言う。「でもね、アリア。ここで死ななかったとしても、私はもう長くない。こんな話をする日がいつか来るとは思っていた。それがきょうなんだ。私はきみに、どうしても感謝を伝えたかった。すまないな、悲しい思いまでさせて。でも、これは必要なことなんだ。分かってくれるね、アリア」
「うん……うん……わたしだって、アルケーには感謝してる……アルケーがいないと、わたし……」
「私は星になってもアリアを見守っているよ。だから、泣くことなんてない」
「それじゃあだめなの……アルケーがアルケーでいてくれないと、わたしは……どこに帰ればいいの……」
アルケーはなにも言わず、アリアの背中をさすっていた。
きい、と背後で木の戸が軋む音がした。外光が細く、礼拝堂に入り込んでくる。その場にいた魔術師たちがゆっくりと振り返る。アリアは自分の心のなかに溢れた不安と悲しみの重さで、振り返ることができなかった。
「南門が破られる」背後で誰かが言った。その声は低く、礼拝堂を覆うように響く。「杖を持て、同志諸君」
周囲の魔術師たちは数秒逡巡するような沈黙を置いた後、ひとり、またひとりと立ち上がる。しかしアリアはその場で動けないでいた。手が、足が震える。背中を撫でるアルケーの手が離れる。俯くアリアの隣で、アルケーは立ち上がる。アリアはその皺だらけの手を掴む。アリアの手の震えが、アルケーの手に伝わる。そしてアルケーの手の震えも、アリアに伝わってきた。アリアが怯えているように、アルケーもまた、眼前に迫る死に怯えていた。
「いかないで、アルケー……」
アリアは座ったままくしゃくしゃになった顔を上げ、手に力を込めて、アルケーをここに繋ぎ止めようと試みた。しかしアルケーの目に灯る強い意思の光の前では、アリアの意思の力はあまりにも弱かった。アルケーが一歩、アリアから遠ざかる。足元に伸びる影が、いちばんあたたかい灯が、離れていく。
「立て」と背後から声がする。
「よせ、プロータ」とアルケーが背後の声の主をたしなめる。
「喜べ、アリア」宮廷魔術師プロータは声を大きくして言う。「望まれなかった命であるきみが、ようやくその命に意味を与えられたのだ。気に入らないが、きみは魔法の扱いにおいては抜群の感覚を持っている。その力をいまここで遺憾なく発揮するのだ。そうすることで、きみの命にようやく価値が生まれる。きみを棄てた親も……」
「プロータ!」
アルケーが怒号を飛ばし、プロータと睨み合う。
アリアは立ち上がることができないまま項垂れた。指の一本すら動かせないくらいに、身体の力という力が抜けていく。アルケーを掴んでいた手がだらりと下り、身体の横に戻ってくる。涙が床に数滴落ちる。その小さな音がよく聞こえた。
「あなたが悪いんですよ、アルケー。あなたはアリアを甘やかしすぎた。あなたほどの人間なら、このような状況に陥ることもそれなりに予測できたはずだ。どうしてアリアに言ってやらなかったんです」
「おまえに私とアリアのなにが分かる!」アルケーは声に怒気を孕ませて言う。
「……そうですね。確かに分かりません。なので、アリアを特別扱いはできない。彼女にも来てもらう」
「プロータ! やめろ!」
「アルケー。だいじょうぶ……わたし、だいじょうぶだから……」
アリアは震える声を絞り出し、残っている力を脚に込めて立ち上がる。袖で涙を拭い、プロータの顔を見上げる。その目に映る光は氷のように冷たく、刃のように鋭かった。宮廷の回廊で幾度となく浴びせられてきた蔑むような眼差しと、アリアは初めて真っ向から対峙する。
「プロータさま……わたしも、戦います……だからどうか、アルケーを守ってください……」
「……それは、きみがやればいい」プロータはそう言い振り返った。「生まれた意味を見せてみろ、アリア。ここからきみは、何者にでもなれる」
「はい……与えられた機会に、感謝します……」
厚い雲に陽光を遮られたジェラティオは薄暗く、どこか陰鬱に感じられた。異様なほどに静まり返った街のなかを魔術師たちは南に向かって歩く。途中、雪が降り始めた。目の前で花びらみたいに舞う雪のなかを歩いていると、アリアはすこし落ち着いてきた。とはいっても、やはり目の前にあるのは冷たい現実だった。歩くごとに身体が冷たくなり、死へ近づいていってる感覚が芽生えてくる。それは周囲の魔術師たちも同じようで、何人かの足取りは重く見えた。
ほんとうは誰もこんなこと望んでいないのだ。誰も死にたくないし、誰にも死んでほしくない。
そのなかでもプロータは早足で南門へ向かっていた。アリアやアルケーよりも数十メートル前を、まるで死を恐れていないみたいに歩く。プロータは本気でこの街を守るつもりでいるようだった。なにがプロータをそうさせるのか、アリアにはまるで理解できなかった。しかし彼には、口だけでなく力と地位がある。そしてそれを態度や意思で示す。アリアや周囲の魔術師たちはその背中を見て、もしかするとほんとうにだいじょうぶなのかもしれない、と小さな希望を湧き上がらせる。あるいはそれは、現状へ対する盲目による楽観視なのかもしれないが。
しばらく歩くと、南から怒鳴り声や雄叫びなどが聞こえてくるようになった。南門を破らせまいと戦っている兵たちの声だ。ここまで来ると、いよいよアリアも覚悟を決めた。冷えた頭で恐怖を殺すよう努めた。自分のなかに流れる血と魔力を意識した。死んでもアルケーを守ると自身に誓った。自分が死んでも、生き残ったアルケーがわたしを見つけてくれると、そう自分に言い聞かせた。意思と筋力で震えを抑えようとした。でも震えは止まらなかった。怖かったし、寒かった。
それでも進むしかなかった。それはアルケーもプロータも、周囲の魔術師たちも同じだった。
街を覆う高い壁の上に、数人の魔術師の姿が見える。黒衣を靡かせ杖を構え、壁外から飛んでくる矢や魔法や岩石を、魔法で撃ち落としている。しかし連合国軍の攻撃は苛烈で手数も多く、撃墜し損ねたそれら攻撃が壁に激突し、大きな音を立てて街を揺らす。壁外の連合国軍兵たちも壁の上に陣取る魔術師を排除しようと、あらゆる角度から矢や魔術を放ってくる。防護壁を張る魔法があるとはいえ、攻撃の手が止まないため、魔術師たちは消耗する一方だ。まさに壁が落ちるのは時間の問題だった。
アリアは振り返り、アルケーを視線を送る。そしてふたたび前を向き、プロータの背中に声をかける。
「プロータさま……わたしも壁の上で戦います」
プロータは振り返って、小さく笑みを浮かべた。その口元には善意とも悪意とも取れない感情が見えた。「そうか。なら、行くぞ」
「アリア」とアルケーが背後で引き止めるように言った。
アリアは振り返らずに言う。「アルケーはここにいて。わたしは……だいじょうぶだから」
わたしが魔法で壁外の連合国軍兵を皆殺しにしてしまえば、街は守られ、ここでアルケーが死ぬこともない――アリアは真面目にそう考えていた。なにも知らない故の全能感と未来への恐怖が、思考回路をほとんど麻痺させていた。
実際のところ、アリアは宮廷に身を置く魔術師のなかでは、高い実力を持っているほうだった。周囲の魔術師たちよりも早くから魔法について学び、アルケーに考えを矯正されたり否定されたりすることなく自由に魔法を発想した。魔導師団の訓練に混ざり(アルケーを含む宮廷魔術師は魔導師団の指南役でもあった)模擬戦などを行ったときも、戦績は悪くなく、むしろ他の宮廷にいる魔術師たちよりも良い結果を残した。しかし周囲の人間は、アリアのこういうところがまた気に食わなかった。
プロータが杖を振り合図をすると、アリアを含む数名の魔術師の身体が浮き上がった。そのまま皆、魔法によって上へと運ばれていく。
「上に着いたらすぐに身を低くして周囲を確認しろ!」プロータが檄を飛ばす。魔術師たちに緊張が走る。
浮き上がってから二秒も立たないうちにアリアたちは壁の上まで来た。言われたとおり、地に足が付くと同時に身を屈め、壁の向こうを見下ろす。
街の外側、南の壁の下には、蟻の群れのように人が集まっていた。南方の国から押し出された魔導師団の姿はなく、壁外にあるすべての目がこちらに向けられていた。門の前には鎖を繋いだ巨大な丸太が転がっており、周囲には人が倒れている。そのすこし後ろには逆茂木や拒馬が組まれ、それを遮蔽とする射手や魔術師や騎士がいた。そしてさらに奥、遠くの方には投石機がふたつ見えた。そこから飛んできた岩がまさにいま壁に激突し、アリアたちの足元を大きく揺らした。
連合国軍とジェラティオの壁を挟んだ戦闘は始まってからもう数週間になるが、アリアはここで初めて現状を目の当たりにした。壁外の魔導師団は全滅し、街の外からの補給もままならない。しかしそれは連合国軍側も似たようなものだった。冬のジェラティオに至る道はまさに天然の要害という様相を呈しており、補給は容易ではない。しかし連合国軍は持久戦も辞さない覚悟でいるようだった。実際、この戦いは開始からもう一ヶ月に差し掛かろうとしているが撤退する気配はない。連合国軍の士気は高く、意思も強かった。
投石によって体制を崩した魔術師たちが立ち上がり、魔法による攻撃を再開する。アリアのそばにいた魔術師が杖を構え、壁外に配置された木の遮蔽物に向かって火球を放つ。炎で遮蔽を退け、それから厄介な射手と魔術師を先に排除してしまおうという判断をしたようだったが、火球の着弾地点に連合国軍の騎士が現れ、手に構えた盾でその魔法を弾いた。
アリアは信じられないものを見るような目でそれを見ていた。魔法を弾くことのできる盾など、聞いたことがない。しかしこれも魔術大国であるジェラティオに対抗するために要請され生み出された技術なのだろう。こういった力学が働き、事実としてジェラティオはいま追い詰められている。この国の振る舞いが、眠れる獅子を呼び起こしたのだ。
それなら、とアリアは思い、身を低くしたまま目を瞑る。
瞼の裏に思い描くのは、青白く尾を引く巨大な氷塊。十年前、アルケーと見上げた夜空を横切っていた凶星――七十五年に一度現れる、あの彗星だ。
アリアは目をひらき立ち上がる。杖を構え、壁の向こうの標的を目視し、落下点を決定する。狙うのは射手と魔術師がいる一帯だ。盾を持った騎士が現れても関係ない。魔法を弾くことができるというのなら、弾くことができないほどの質量で潰してしまえばいい。
蒼白の尾を引く巨大な氷塊が、空を覆う厚い雲を裂いて頭上に現れる。連合国軍兵たちがどよめき、落下点にいる魔術師や射手、騎士たちが走って後退しようと試みるが、見えてから走ったところでこの氷塊の射程外へは逃れられない。
もう一秒もあれば着弾するというタイミングで、遠くに配置されていたふたつの投石機のあいだから、氷塊に向かって真っ直ぐに飛んでくるふたつの影があった。アリアは目を細め、睨みつけるように影を見る。両方とも投石ではない。ふたつの影の正体は、ひとりの男と、その身の丈ほどある巨大な剣だった。あまりの大きさに思わず目を疑った。そしてそれを振るおうとしている男の姿がまるで修羅のように見え、アリアは怖気をおぼえた。
男は躊躇いも迷いもなく、アリアの呼び寄せた氷塊に向かって剣を振るう。周囲に硬く重い打撃音が響く。次の瞬間には、氷塊は粉々に砕け散った。欠片は巨大な雹のように周囲に降り注ぐが、騎士は盾でそれを防ぎ、魔術師たちは炎によって氷を溶かし、被害を最小限に留めた。
氷塊を斬った、というよりも砕いた男は、アリアが設定していた氷塊の落下点に立っていた。片手で巨大な剣を持ち、その切っ先を壁の上へ――アリアへ向けている。その姿は軍旗を振る戦乙女のように、周囲の兵士たちを奮起させた。あちこちで士気の高まりを感じさせる歓声や雄叫びが上がる。アリアはそれが不快でたまらなかった。まるであの男が、おとぎ話や神話に語られる英雄のように思えてくる。物語の主導権があちらにしか存在していないような理不尽さが、足首に掴みかかってくる。
この世界の主人公は、こちら側ではなくあちら側にいる。あれが英雄で、わたしは悪党なのだ。歴史に残るのは彼の名前で、わたしは死者の数としてだけ歴史に刻まれる。名もなき大量の犠牲者たち、そのひとりとして。
アリアは虚脱感に襲われ、その場に立ち尽くした。たった一度魔法を放っただけだったが、もうなにをやっても無駄だという諦めに全身を包まれていた。周囲の魔術師たちは魔法で応戦するが、やはり無駄だった。ほとんどすべての魔法が盾や遮蔽物に防がれ、大剣の英雄を先頭に連合国軍が門に迫る。
ジェラティオ側は長い籠城戦で疲弊していた。対して連合国軍も補給は困難を極めたが、士気は依然として高く保たれていた。それも、いままではこの場にいなかったあの大剣の英雄の存在があったからだろう。彼はおそらく勝利の象徴であり、つらい戦争を戦い抜く精神的支柱としての
門が、破られる。わたしは、いったいどうすればいい?
アリアは振り返り、街の方を見下ろす。もう自分ひとりではなにも考えられなかった。目算も期待も自己評価も楽観的思考も、なにもかもが甘かったのだ。結局、ひとりではなにもできない。アルケーに助けてほしかった。だからアルケーを探した。
そしてアリアはすぐに見つけた。冷たい雪の上に倒れるアルケーの姿を。
周囲に数人の魔術師が立っていて、アルケーはまるで後ろから押されたみたいな体勢で倒れていた。その背中には、ナイフが突き立てられている。
アリアはふたたび虚脱感に襲われた。視界が歪み、足元が揺らぎ、魂に亀裂が走る。
なにが起こっている? どうしてアルケーが倒れている? 門はまだ破られていない。まだ連合国軍は街に入り込んでいない。じゃあ、どうして? まだ壁の内側に敵はいないはずなのに――
アリアはアルケーの後ろに立つ魔術師の男を凝視する。その男は視線を上げるとアリアを捉えたようで、小さく笑みを浮かべた。
どうして笑っている? アルケーが刺されたのに、どうして誰も助けようとしない?
アリアは混乱に脳を揺さぶられながら、アルケーを刺したと思しき微笑む男の名前を呟いた。
「ペトローヴ……?」
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