18 望まれなかった命たち――アリアと隻腕の竜②

「アリア?」


 回廊で声をかけてきた男性は、アルケーと対立する保守派の宮廷魔術師テロスの、若い弟子だった。歳は二十歳で、アリアより四つ上だった。アリアは彼の名前を知らない。いや、聞いたはずなのだが、覚えていない。


「なんでしょうか」

「いや、きょうの夜、いっしょに食事でもどうかなと思って。魔術について、きみの意見をゆっくり聞いてみたいんだ」

「いえ……遠慮しておきます」

「そうか……また気が向いたときにでも声をかけてくれると、僕はうれしい」


 にこやかに微笑むテロスの弟子に会釈をしてから背を向け、アリアはアルケーの部屋へ早足で向かった。

 ここのところこういったことが増えてきた。数人の男性――そのすべてはテロスとプロータの若い弟子だった――に言い寄られるようになったのだ。しかしアリアには、彼らがなにを企んでいるのか分かっていた。


 彼らは純粋にアリアに向けて好意を抱いているわけではなかった。たしかに宮廷魔術師のあいだに形成されているのは男性社会で、女性は珍しい。しかし本当に狙われているのはアリアではなく、アルケーの知識と地位だった。


 つまりアリアに言い寄ってくる保守派宮廷魔術師の弟子たちは、アリアに取り入り、そこからアルケーの研究を盗み出そうとしているのだった。アリアにはそれが分かっていた。彼らに張り付いた薄っぺらい笑顔の奥には、そういった算段が隠れていた。


 大抵の男は一度声をかけてきて、アリアの毅然とした対応を見た後、話しかけてくることはなかった。しかし先ほど声をかけてきた彼は何度も声をかけてくる。昨日も食事に誘われた。余程アルケーの研究成果が欲しいと見える。明日もこうなのかと思うと溜息が出た。


 しばらく回廊を進み、アルケーの部屋の前で立ち止まる。大きく深呼吸をして、落ち着いてから扉をあけて中へ入る。扉をしっかり閉め、もたれ掛かる。少し気持ちが落ち着いて、身体から力が抜ける。また溜息が出る。


「疲れた顔をしているな、アリア」


 アルケーは机にひろげた本から顔を上げて言う。その目と口には笑みが浮かんでいた。


「笑いごとじゃない」


 アリアは溜息混じりにそう言い、アルケーの横の椅子に座る。ふたりは並んで、同じ本の紙面に目を落とす。そこには、魔法や天文では見慣れない単語が多くあった。


「これは?」とアリアが訊ねる。


 アルケーは言う。「ヘルマのじゅつについて記されたものだ」


「ヘルマの術?」

「所謂、錬金術というやつだな」

「ああ、錬金術。なんでまたそんなものを?」

「王のめいでな」

「ふうん」


 アリアはふたたび紙面を見る。皺が刻まれたアルケーの手を退かし、並ぶ文字を目で追う。

 ひらかれていた項に書かれていたのは、万能の霊薬についてだった。万能の霊薬とはつまり、万病を治癒したり、人を不老不死に変質させる薬のことだ。製造法や医学的な視点からの研究成果などが記されている。


 アリアは顔を上げてアルケーの方を見る。アルケーもアリアの方を見ていたので、目が合う。


「なにこれ?」アリアが言う。


 アルケーは肩を揺らして笑う。「なかなか面白いだろう、古代の夢物語は」


「ああ……そうね」


 アルケーの言葉を聞いて、アリアは安心した。べつにアルケーは真面目に錬金術と向き合おうとしているわけではなかったらしい。ただ、いちおう王の命であるからには、多少は調べておかなければならないだろうという考えからの行動だったようだ。


 いまでこそ信じるものも少なくなったが、古代の錬金術が化学や医学にもたらした影響は計り知れない。決して馬鹿にできるものではないのだが、万能の霊薬となればまた話は変わってくる。これに関してはおとぎ話の類だ。


 なぜ王はこんなものを、とアリアは不思議に思ったが、力を持って老いてきている為政者の典型的な行動なのかもしれないと思い至った。要するに、死にたくないのだ。自分さえ生きていれば国は続き、また本人は死の恐怖から逃れられると思っているのだ。しかし現実はそうはいかない。現に不老不死の人間など見聞きしたことがない。実存するのならば、見つかり次第解剖されるか人体実験されるかだ。死や恐怖から逃げ切ることは、決してできない。アリアはそのことを理解しているし、もちろんアルケーも理解していた。そのうえでアルケーはこんな本を読んでいるのだ。


 いや、と思い、アリアは記憶のいちばん深いところにいるアルケーと、目の前のアルケーを見比べる。一六年の年月は、アルケーの肌に多くの皺を増やした。腰は曲がり、毛髪は減り、視力は落ちた。

 アルケーはゆるやかに死へ近づいている。もう数年もすれば、いなくなってしまう。想像すると胸にぽっかりと穴が空いてしまうような気持ちになる。


 アルケーが死んだ後、自分はどうするのか。アルケーの後継者として、この宮殿で魔法の研究を続けるのだろうか。仮にそうだとして、味方はいるのだろうか。いや、結果を出せばいいのだ。実力で黙らせてしまえばいい。しかし、そんなことができるのだろうか。なにもできず、周囲の目に屈し、潰れてしまう自身の姿をありありと想像できてしまう。だんだんと気が滅入ってくる。


 不老不死など、馬鹿げている。そうは思いつつも、アルケーには死んでほしくないという気持ちが強く湧き上がってくる。

 アルケーはアリアにとって親であり、仲間であり、教導者であった。迷える魂を導く、たったひとつの灯だった。それがいま消えかかっていることにアリアは気付かされ、愕然とした。


「アリア?」アルケーが言う。「どうしたんだ、そんな怖い顔して」


 アリアはハッとして頭を振り、意識の底から自分を連れ戻す。そんなに怖い顔をしていただろうか。アルケーが心配そうにこちらの様子をうかがっている。アリアは笑顔を浮かべて言う。


「いや……なんでもない。万能の霊薬について、なにか分かるといいわね」


「ああ……そうだな」アルケーは寂しげに言った。






 数日後の昼下がり、宮廷音楽家が演奏会をひらくということで、宮廷内は王に招かれた客人や貴族たちでごった返していた。いつもと違う様相の回廊に辟易としてしまう。とはいえ、このなかに声をかけてくる面倒な奴はいない。そう思うと多少マシなのかもしれない。


「アリア」


 背後から声がする。聞き覚えのある声だ。というかここのところ毎日のように聞いている。溜息を吐いて、ゆっくりと振り返る。無視をしてなにか言われたらたまったものではない。

 そこに立っていたのはテロスの弟子である二十歳の彼だった。


「なんですか」アリアは彼を睨みつけるように言う。


「アリアは音楽には興味ないのか」

「そうですね。あまりよく分かりません」

「舞踊とか、演劇とかは?」

「分かりません」

「アルケーは、そういった文化的なことはなにも教えてくれないのか?」


 アリアは彼の言葉尻から侮蔑のような感情を汲み取って、苛立ちを覚えた。さらに険しい目で彼を睨みつけて言う。


「アルケーのことを悪く言うのはやめてください。わたしが知らないだけなので」

「あ……いや、そういうつもりで言ったわけじゃなかった。ごめん」

「じゃあいったいなんなんですか? 毎日のように話しかけてきて。そんなにアルケーのことが疎ましいんですか?」

「誤解だ、アリア。僕はただ、きみと仲良くなりたくて……」

「嘘ばっかり、不愉快です」

「嘘じゃない」


 彼はいつになく真面目な面持ちで、真っ直ぐに見つめてくる。アリアはその真剣な眼差しに思わずたじろいでしまう。助けを求めようにも周囲に知っている人間はひとりもいない。それどころかアリアが気を許せる相手はアルケー以外にはいなかった。


「な、なんなんですか……ほんとうに」

「言葉が悪かったのは確かだ。アルケーにもきみにも失礼なことを言った。それについては謝罪する。ごめん……僕はただきみのことが知りたいだけで、この場においてアルケーの研究や魔法については、どうでもいいことなんだ。とにかく僕は、きみと話がしたい」


 アリアは困惑していた。どれだけそれらしい言葉を並べられても、心の底からは信用できない。しかし並べられた言葉によって、彼がいったいなにを企んでいるのか、まったく分からなくなってしまう。この場から逃げ出してしまいたい衝動に駆られ、数歩後ずさる。


「……きょうは、やめておこうか」


 彼はアリアの反応を見て引き下がった。そのまま振り返り、人間でごった返す回廊へ歩き出す。

 アリアは黙って遠ざかるその背中を見ていた。困惑と恐怖が、警報みたいに心臓を強く鳴らしている。


 彼は最後に振り返って言った。「明日、僕は南翼の庭園に一日中いる。気が向いたら来てほしい」


 アリアは黙っていた。彼は人混みのなかに埋もれるように、視界から消えていった。






 翌日も回廊は王の客人と貴族たちでごった返しており、どうやらまた演奏会があるらしいことがうかがえた。アリアは溜息を吐く。灯に群がる羽虫みたいに集まって、いったいなにがそんなに楽しみなのだろうかと思う。とはいえ、アリアは音楽をちゃんと嗜んだことはない。テロスの弟子の彼が言ったとおり、そんなことはアルケーに教わっていない。


 きょうは安息日で、アリアは暇を持て余していた。本来であれば礼拝などを行う日だが、アリアは信心深くなく、そんなものは心底どうでもいいと思っていた。普段はアルケーと魔法について見識を深めるための議論や勉強をしているのだが、きょうはアルケーもどこかへ行ってしまっている。


 もしかするとアルケーも演奏会に招かれたのだろうか、とアリアは思う。アルケーは音楽を嗜むのだろうか。演劇や舞踏、絵画などに理解があるのだろうか。もしあるのだとすれば、それは少し寂しく思えた。アルケーはいろんなことを知っているが、自分が知っているのはそのうちの僅かなことだけだ。魔法や天文についてはもちろん、文化的なことについてもそうなのかもしれない。そう思うとふたりの間には、知識による深い断絶があるように感じられた。あるいは諦観による深い溝があるように。


 つまりアルケーは、こんなことを教えても無駄だ、という考えから、芸術についてなにも教えてくれないのかもしれないと、アリアにはそう思えたのだった。もちろん確証はないが、アリアのなかの不安は膨れ上がり、もはやはち切れそうだった。先日、万能の霊薬について考えたとき、アルケーの背後に死の影を見た。昨日はテロスの弟子の彼に、自分の無知を思い知らされた。いかに自分が世間知らずなのかを垣間見た。このままひとりになった時のことを思うと、泣きそうな気持ちになる。


 アリアはとぼとぼと回廊を歩いた。周囲の豪奢な装飾に不相応な暗澹たる思いを隠しながら、あてもなく人の海を進む。人混みは宮殿の南翼に流れていっているようだった。おそらく南翼の大広間辺りで演奏会を演るのだろう。もしかしたらアルケーはそこにいるかもしれない。しかしアリアはその演奏会に招かれていない。行ったところで無駄なのは明らかだ。


 それでもアリアは南翼へ向かって歩いた。知っている誰かに会いたかった。きょうは南翼に、アルケー以外に知っている人間がいる。彼に会いにいってみようと思った。いまは昨日の彼の言葉を信じたかった。






 南翼の庭園の中央には綺麗な円形の池があり、それを囲うように草木が幾何学模様に整えられて植わっていた。花壇は極彩色の花で彩られ、新緑の樹木もよく手入れされている。宮殿から出てアーチをくぐり、足元の砂利を鳴らす。青空は高く、心地よい風が吹いた。アリアは花と緑の香りを肺いっぱいに吸い込み、長い息を吐いて気持ちを落ち着かせた。


 それからアリアは庭園内をゆっくりと歩き始めた。すこし進むと足元の砂利が芝になり、足音が小さくなる。枝に止まった白い小鳥のさえずりが聞こえてくる。ここだったら、演奏会の音も漏れ聞こえてくるかもしれない。仮に聞こえてきたとしても、その素晴らしさが自分に理解できるとは到底思えなかったが。


 池の前まで行くと、強い風が吹いた。風は花を散らし、一枚の白い花弁を波立つ水面にそっと落とす。深い水の蒼に、淡い白がよく映えていた。アリアは池の中心に落ちた孤独な一枚の花弁を憐れに思った。そしてそれ以上に、美しく思った。


「アリア」


 背後から声がした。彼はいつも視界の外からやって来る。というのは、アリアは彼を見つけるとそそくさと逃げてしまうからで、彼がアリアに近づくにはこうするほかなかったからなのだが。

 アリアは栗色の長い髪を揺らし振り返る。そこには一輪の白い花を持った、テロスの弟子である二十歳の彼がいた。


「来てくれたんだね」と彼は言う。


 アリアは黙っていた。いったい次になにを言われるのだろうと、すこし怯えていた。のこのこと現れたことを嗤うだろうか。芸術への理解のなさを嘲るだろうか。考えれば考えるほど、後悔の念が湧いてくる。胸の辺りに感情がぐっと込み上げる。やはり、来なければよかった。


 彼はゆっくりと近づいてくる。流麗な動作で、まるで足元の芝を傷つけないように、そっと歩み寄ってくる。アリアから数歩離れた辺りで立ち止まり、膝をついて白い花を差し出す。にこやかに微笑み、優しい声色で「どうぞ」と言う。


 アリアは恐る恐るそれを受け取る。「あ、ありがとう……ございます」


 彼は微笑みを浮かべながらアリアから離れ、木陰に腰を下ろした。アリアもそれに続いて、彼からすこし離れたところに腰を下ろした。


「花は好きかい?」と彼は訊く。


「……分かりません」


 アリアは小さな声で言った。考えれば考えるほどに、アリアという人間の浅さが炙り出されるようだった。自分は文化や芸術どころか、自分のことさえまともに知らない。


「じゃあ、質問を変えよう。その花は、綺麗だと思う?」


 アリアは受け取った白い花をじっくり見つめる。淡く白いしっとりとした花弁が幾何学的に重なり、その外側には控えめな緑のがある。花柄かへいには棘があり、しかしその生物的な柔らかみからは、自然からの慈しみのようなものを感じる。様々な部位と色が作る調和としての一輪の花は、それが摘み取られているというところも含めて、アリアにとっては美しいと思えるものだった。


 アリアは言う。「そう、ですね……わたしは、綺麗だと思います」


「そうか」と彼は微笑みながら言う。「僕もそう思う」


 アリアはそっと彼の顔を覗き見る。その朗らかな表情から悪意は感じられない。

 もしかするとこの人は、ほんとうにアルケーの研究や地位に興味がないのかもしれない。では、なぜわたしに言い寄ってくるのか? それが分からない。


 彼に対して、なにか言おうと思った。でも、吐き出すべき言葉は身体のなかのどこを探しても見つからなかった。結局のところ、アリアには魔法と天文以外にはなにもなかった。アルケーに教えてもらったこと以外には、なにもない。


 アリアはそれを自覚してまた悲しくなった。彼もなにも言わない。ただ草木がさらさらと風に揺れる音だけがふたりの沈黙の隙間を埋めた。


 しばらくすると、楽器の音色が聞こえてきた。南翼の大広間で演奏会が始まったらしい。初めに弓のつるが弦の上を滑る低い音がゆっくりと鳴り、それを追うように木管楽器の音色が続いた。散らばった音は徐々に高く大きくなり、ひとつの体系となって庭園を含む南翼全体の空気を揺らす。


「よく聞こえるだろ」と彼が言う。


「……いつもこんなふうに盗み聞きをしてるんですか?」アリアは訊ねる。


「まあ、そうだね……招待されていない以上、僕が音楽を聴くにはこうするほかない。べつに僕は貴族でもなければ、特別優秀な人間でもない。楽器も扱えないし、演奏会に招待されることなんてまずない。でも、音楽は好きだ。機会があれば、ぜひ聴きたい。たとえこういった形であっても」

「音楽のなにがそんなにいいんですか」


「うーん……」彼は腕を組み、難しい顔で考え始めた。


「わたしには、分かりません……音の調和やその連なり、リズムは、いったいなにを意味しているんでしょうか。わたしにとって音楽というのは、わたしの経験や感性から遠く離れたところにある、まるで知らない言語のようなものです。なにがそんなに……」


「そうだな……たとえば……アリアは、その花を綺麗だと思ったわけだろう?」


 アリアは手元の一輪の花を見下ろし、小さな声で「はい」と言う。


「うん、僕もそう思った。ひと目見て美しいと思った。だからきみに持っていった。でもどうしてそう思ったのかと訊かれると、難しい。アリアはうまく説明できるだろうか?」


 アリアは黙っていた。楽器の音色が一度途切れ、また演奏が始まる。


「花の美しさが筆舌に尽くし難いように、音楽の心地よさもまたそうだと僕は思う。言葉にした途端、ほんとうの良さはそこから損なわれてしまう。なぜなら音楽は言葉ではないし、花の美しさもまた言葉ではないからだ。変換の過程で、その美しさは劣化する。でも、知識によって本質へ近づくことはできる。その本質へは決して辿り着けないだろうけど……僕らが感覚を通して得た最初の感動は、確かにある。アリアが花にそういったものを感じるように、僕は音楽にそういったものを感じる。だから僕は、音楽が好きだ。で、きみはきっと、花が好きだ」


 アリアは彼の言い分を聞き終えると、すこし吹き出してしまった。


「な、なんだ。なにが可笑しい」

「あっ、いえ……感覚の話をしているのに理屈っぽいところが、研究の徒だなと思って」

「それは……たぶんきみも同じだろう」

「ええ、そうですね……わたしも同じです」


 彼は笑って言った。「きみが笑ってるところ、初めて見た」


「そう、ですか」アリアは短く返事をして顔を伏せた。


 それから彼は目を閉じながら、しばらく聞こえてくる音楽に耳を傾けていた。アリアも目を閉じ、同じようにしてみる。できるだけ先入観を捨て、耳から入ってくる純粋な情報を頭に入れ、理解を試みる。が、上手くはいかなかった。理解を試みようとしている時点で音楽を愉しむという感覚が乏しく、また知識がないために愉しむための土台がない。アリアは諦めて目をひらき、音楽を愉しむ彼の顔を見つめる。


 しばらくそうしていると、だんだんと彼に対して興味が湧いてくる。彼はいったいどういった出自でここにいるのだろう。まさか自分と同じように拾われたわけではあるまい。きっとちゃんとした親がいて、愛を他人に分け与えられるくらい愛されたのだろう。誰かの手のなかで産声を上げ、両親から最初の贈り物である名前を受け取って――そうだ、名前。聞いたはずの彼の名前は、なんだったろうか。思い出せない。


 言いたいことは特に浮かばなかったが、訊いてみたいことはたくさん湧いてきた。そして最後には、自分は彼にどう思われているのかが気になってきた。嫌われてはいないと思うが、どうもいままでに見たことのないタイプの人間で、本心が見えてこなかった。たぶんそこにあるのは悪意ではないのだろうと、願望に近い推察をする。少なくともアリアの目からは、我慢強い野心家のようには見えない。


 四十分ほど演奏は続き、最後には大きな拍手が宮殿の南翼に響いた。彼も目をひらき、小さく拍手をする。


「どうでした」とアリアは訊ねてみる。


「素敵な演奏だった」と彼は言う。「アリアはどうだった?」


「わたしにはやっぱり、よく分かりませんでした」

「そうか。じゃあきみとはあまり音楽の話はできないか。寂しいよ」

「ごめんなさい」

「いや、いいんだ。どうせ言葉を介さないと共有できないんだから」

「それは、ほんとうの音楽の素晴らしさじゃない?」


「そう。ほんとうは言葉なんか必要ない」彼は立ち上がり、アリアの隣まで歩み寄り、腰を下ろした。「僕の言いたいことが、分かるだろうか」


「は、はい」


 アリアは間近に迫った彼の顔に、思わず狼狽した。瞳の揺らぎに彼は気づいているだろうか。顔の熱が彼に伝わっていないだろうか。筋肉の強張りを気取られていないだろうか。

 指先が彷徨い、熱を求めている。目の前に散る火花に触れてみたいという、切実な祈りのような気持ちが芽生えてくる。


「アリアはいま、なにを思っている?」


 彼は真っ直ぐにアリアの目を見つめる。アリアは熱くなった顔を彼に向け、その目を見つめ返す。彼の言ったとおり、この瞬間において言葉は必要なかった。アリアは彼の目の奥に淡い光を見た。そしてきっと、彼も同じものをアリアの瞳に見た。


「言わなくていい」


 彼はそう言って立ち上がった。アリアも遅れて立ち上がる。春の終わりの風が、花の香りを周囲に運ぶ。


「きみと話せてよかった」彼は言う。「今度の安息日もここで話せないかな」


 アリアは言う。「は、はい……」


「そうか、よかった。じゃあ……きょうは部屋に戻るとするよ。また、今度の安息日に」

「あ……あの」

「なんだろうか」

「すみません……ほんとうに失礼なんですが、その、名前を失念してしまって……」


「ああ」彼は微笑んだ。「ペトローヴだ。ちゃんと覚えておいてくれよ」


「はい、すみません……」


 アリアは宮殿に戻っていくペトローヴの背中を見送り、庭園にひとり座り直した。心のなかの嵐が過ぎ去るのを待ちながら、手元の花を眺めた。それは受け取った時よりもさらに美しく見えた。その甘い香りに頭がくらくらする。嵐はまだ止まない。まるで自分のなかに、自分ではないなにかが息吹き始めたみたいだった。


 日が傾き、火照った身体が冷え切ってからアリアは部屋に戻った。ベッドに寝転がり、ペトローヴにもらった花を眺める。湿り気の残る白い花弁を撫で、花柄の棘に触れる。指先に小さな痛みが走る。花からはまだ淡く甘い香りがする。胸に言葉が詰まって苦しい。そのすべての感覚が、アリアの意識を南翼の庭園に引き戻し、ペトローヴの瞳の淡い光を想起させる。その日、アリアはうまく眠れなかった。


 それから半年間、安息日になるとアリアとペトローヴは会って話をした。でも絶対に魔法についての話はしなかった。ペトローヴはアルケーに気を遣っていたし、アリアはより深い個人的な部分に踏み込まれたくなかった。でもそれでよかった。それでもふたりの関係は上手くいっていた。しかしこの関係は半年しか続かなかった。


 アリアが一七歳になる直前の冬の日、南下政策に大きな亀裂が走った。膠着してたジェラティオの南部戦線が連合国軍に押され、北上を余儀なくされたのだ。それはつまり、ジェラティオの首都であるフリスティングに戦火が迫っていることを意味していた。


 ほどなくフリスティングは、戦争の最前線となった。

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