17 望まれなかった命たち――アリアと隻腕の竜①
宮廷魔術師アルケーは、空が白み始めた頃に、赤ん坊の泣き声を聞いて表に出た。澄んだ冷たい空気を吸い、白い息を吐き出す。まばらに残る白い雪を避け、泣き声に導かれるように歩いていくと、厩舎にたどり着いた。
戸をあけて薄暗い小屋に入ると、泣き声は一層激しくなる。というより、アルケーと赤ん坊を隔てていた壁がなくなり、直接声が届くようになったからそう聞こえるだけだった。しかし、アルケーには大きな声で自分を呼んでいるように思えた。
アルケーは声の発信源であろう小屋の奥へ真っ直ぐ進む。途中、飼われている馬数匹の脇を通り過ぎるが、馬たちはまるで気に留めていないようだった。
そしてアルケーは、泣き叫ぶ赤ん坊を見つけた。藁の上に、布で幾重にも包まれた小さな人の命があった。周囲に親らしき人間の姿はない。まさか馬が産んだわけではないだろう。仮にそうだとして、馬が丁寧に布で我が子を包むだろうか。
状況から察するに、その赤ん坊は忌み子であると思われた。要するに、望まれなかった命であるということだ。しかし親は、多少の愛、あるいは憐憫を持っていたと推察できた。丁寧に布で包んであるのは、そういった気持ちの表れと窺える。本当に要らないと思っていたなら、生まれたままの姿で棄てればいいはずだ。
いずれにせよ、この子は棄てられた。もしかすると、家が貧困であったのかもしれない。この子を養いきることができないと、泣く泣くここに置いていったのかもしれない。あるいは宮廷内での不埒な行為の結果、誰かが宿した子なのかもしれない。この子の存在が、宮廷内での自分の立場が危ぶまれる要因になりかねないとして、ここに置いたのかもしれない。
すべては憶測でしかない。目撃者もいないだろう。いまとなっては、この子がどういった存在なのかを知る術はない。そしておそらくこの子を見つけたのは、親以外にはまだアルケーしかいない。
べつにこのまま捨て置いてもよかった。息の根を止めてしまってもよかった。わざわざ拾い上げて育てる義理もない。誰かにとっての忌み子であるなら、それは不吉な印象を孕んでもいる。
しかしアルケーは皺のある両手で泣き叫ぶ赤ん坊を拾い上げた。両腕で抱え、小さな命の脈動を受け止める。
究極的に言えば、人が生きている意味など無いように、人の命を見捨てる意味も感じなかった。だからアルケーは赤ん坊を拾い上げ、宮廷で育てることにした。とはいえ、これにはすこし打算もあった。宮廷魔術師間での派閥争いなどもあり、アルケーには研究の後継者がいなかったのだ。
アルケーはもう六十になった。弟子を取っても良かったのだが、一度芽生えた猜疑心が、他人への信用を失わせていた。だから、丁度いいと思っていた部分もある。最悪の場合は、実験台にでもしてしまえばいいと、そう思っていた。
アルケーは赤ん坊をあやしながら、宮廷内にある与えられた自室へ戻っていった。そしてその子の名を『アリア』として、教育を施した。
北方にある魔術大国ジェラティオの首都、フリスティングの宮殿には、三人の宮廷魔術師が在籍している。アルケーはそのひとりで、魔術師でありながら天文学者でもあった。
当時はいわゆる天動説が世界を支配しており、いわゆる地動説は異端の思想とされていた。しかしアルケーは、地動説こそがこの世界の真理であると確信していた。それゆえ、伝統を重んじる保守派とは相容れなかった。
宮廷魔術師の三人のうち、改革派に属しているのはアルケーのみだった。他の二名――それぞれ名をテロス、プロータという――は保守派に属しており、つまりアルケーは魔術師間での派閥争いにおいて、ほとんど孤立無援の状態だと言える。もちろん改革派の人間が他にいなかったわけではない。しかしアルケーの思想に興味を示す者はほとんどおらず、アルケーを良いように利用しようとする者ばかりがいた。そのうえ、アルケーには弟子や後継者もいない。この世の真理であるはずの思想は、風前の灯火も同然だった。
本来、宮廷魔術師の役割は、魔法の研究を行うことにある。そして当然、結果を求められる。この点においてアルケーは優秀だった。保守派との魔法についての理論闘争でも負かされることはなかった。だからこそ宮廷に居られたという部分もあり、だからこそ妬まれていた部分もある。老いぼれたアルケーを排斥しようと、様々な策を講じる保守派の人間もいた。しかしアルケーは王の寵愛を受けていた。あいつは王の愛人だと根も葉もない噂が囁かれるほどに優遇されていた。それは彼が優秀であることの証左に他ならないのだが、こういった状況がまた保守派の反感を買った。
アリアを拾ったのは、そういう人間だった。
複数人の侍女や使用人の片手間にアリアは世話をされ、大病を患うこともなく成長していった。物心がつくと、アルケーが天文や魔法について簡単な教育を施し始めた。教育といってもまずは興味を持ってもらわなければならないとして、アルケーは最初に神話やおとぎ話の類を読み聞かせた。アリアは思惑通り興味を示し、もっと深く知りたいという姿勢を見せた。そのうえで天文学に必要な数学の知識と、魔法の理解を促す思想などを、簡単なものから積み上げていった。
これはアルケーにとって有意義な時間だった。教えるために情報を整理し、伝えるために言葉にするという作業のなかに、見落としの発見や新たな疑問の浮上などがあった。アリアの純粋な疑問に答えられなかった日の夜には、眠れないほど星と魔法について考えた。それはもちろんアリアのためでもあり、自分のためでもあった。
アリアが六歳(誕生日はアルケーが彼女を拾った日とした)になったある冬の夜、アルケーとアリアは宮殿の中庭で、星空の観測をしていた。吐き出す白い息の向こうで瞬く星について、アリアは考えていた。
「ねえ、アルケー」とアリアは言う。
「なんだい?」とアルケーは優しく答える。が、内心ではなにを訊かれるのかとヒヤヒヤしていた。
「あの明るいお星さまは、誰?」
アリアが指さして言う。アルケーはその小さな指先が示す方を見る。そこにはひときわ明るく輝く、尾を引く星があった。夜遅くにアリアを連れて中庭に出たのは、まさにその星を見るためだった。
アルケーは目を細め、その星を見上げる。彼方からやってきた巨大な氷の塊が、太陽の光を受け、青白い尾を引きながら冷たく暗い星の海を泳いでいる。過去数百年の記録のなかに、一定の周期で姿を現す、凶兆を示す星。それこそがいま頭上を
「あれが彗星だよ、アリア」
「ううん、違う。そうじゃなくて」アリアは空を見上げながら言う。「あれは元々、どんな人だったの?」
「ああ、そうか」
アルケーは納得して微笑んだ。アリアが言っているのは、おとぎ話のことだ。
古今東西、星にまつわるおとぎ話は多く存在する。なかでも、人の命と星の輝きはよく繋がる。たとえば、人が生まれた時ひとつの星が生まれ、その人が死んだ時、対応したひとつの星が流星になって消えるという話がある。いまアリアが思い浮かべているのはその逆で、死んだ者が星になるという話だ。だから、あの彗星は誰かが星になった姿なのだと思っているようだった。
「あれは……どうだろうな」アルケーは言う。「私も初めて見たから、ちょっと分からないな」
「初めて見たの?」
「そうなんだ。だから、アリアといっしょに見られてよかったよ」
「じゃあ、わたしと同じだね」
アリアは目を細めて笑った。アリアの言う『わたしと同じ』というのは、初めて彗星を見たことについて言っているのか、それともいっしょに見られてよかったということについて言っているのか、判別がつかなかった。しかしアルケーにとってはどちらでもよかった。どちらにせよ、そこに悪意はない。
アルケーにとってアリアと話している間は、数少ない安らげる時間だった。悪意の蔓延る派閥争いから離れ、純粋な疑問や好意をぶつけられる時間は、日々に必要なものとなりつつあった。摩耗して黒ずんでいく精神が、すこし洗われたような気持ちになれる。
「わたしも死んだら、お星さまになるのかな」
アリアがぽつりと呟いた。彗星の光が、目に焼き付くように映る。アリアは彗星に命を見ていた。
あれは、ほんとうは氷の塊なんだ、とアルケーは言えなかった。いまは言わなくていいと思ったのもあるし、なによりアリアが間接的に死と触れているこの状況に動揺していた。
アリアは、死についてどれほど理解しているのだろうか。死に思いを馳せるアリアに、アルケーは思いを馳せた。
私の死は、そう遠くないうちに訪れるだろう。その時アリアは、いったいなにを思うのだろう?
「ねえ、アルケー」アリアが不安気な表情で言う。「もしわたしが死んでお星さまになったら、アルケーが見つけてくれる?」
アルケーは微笑みを湛えながら答えた。「ああ、もちろん」
「ほんとう?」
「ああ、約束する」
「わたしも約束する! アルケーが星になっても、わたしが見つけてあげる」
「アリアに見つけられるかな?」
「見つけられる!」
アリアはくしゃっと笑って、ふたたび空を見上げた。流れる彗星は、たくさんの人に見つけてもらえて喜んでいることだろう。アルケーはきっと、こんな大きな星になる。自分もそうなるんだ。そして、アルケーに見つけてもらうんだ。アリアはそんなことを考えた。
これがアリアのなかに残る、もっとも古い記憶だった。
そして、生まれて初めて死を意識し、生まれて初めて彗星を見たこの日の美しい夜空が、アリアの鏡にいまも映る原風景となった。
アリアが十歳になる頃、ジェラティオの首都であるフリスティングから南へ向かって、魔導師団と呼ばれる部隊が侵攻を始めた。これが以降何年と続くことになる、ジェラティオの南下政策の先駆けであった。
北方に国土を置くジェラティオは、決して多くの土地を有していないうえに、そのほとんどが極寒の荒地だった。冬は殺人的な寒冷と豪雪に見舞われ、少なくない凍死者をだし、そしてそれと同じくらい餓死者がいた。というのは、この地域での作物の栽培は難しく、また冬は海も凍りついているために漁業が行えなければ貿易もできなくなるという土地柄のためだ。この問題を解決するため、ジェラティオは国として南方の温暖で肥沃な土地と、不凍港を確保したいという強い思いがあった。
首都フリスティングはジェラティオの南部にあり、比較的人の住みやすい気候の街と言えた。ジェラティオの人口のほとんどはここに集中している。逆に言えば、飢えや寒さに怯えず、ある程度密集した人口を賄えるくらいの生産能力を有する街は、ここくらいのものだった。
このような状況下にあってもジェラティオは魔術大国と呼ばれていた。実際、土地や気候に要請されて編み出された魔法や技術が、この国の地位を押し上げてきた。滅ぶことなく現存しているのはやはり魔法のおかげであり、国もそのことを強く意識していた。ゆえに魔法の追求は肝要だった。
自国を滅ぼさないために始まった魔法の研究は、いつしか他国への攻撃手段に成り代わった。環境による死者の多いジェラティオにとって、魔法は費用対効果が高く、都合がよかった。騎士ひとり育てるのも、魔術師ひとりを育てるのも変わらない。なら、得られる効果の高い魔法を扱える者を育てるほうが有意義だ、というのがジェラティオの考え方だった。
そしてその成果は形となり、南方へ向けられ進み始めた。
フリスティングから放たれた魔導師団は南方の国へ攻め入り、成果を収めた。つまり、そこにあった開墾された土地を奪い、そこで機能していた街を占領したということだった。いちおうこの行為には、ここは元々ジェラティオの土地であったという言い分があったが、ほとんどの国は懐疑的だった。この非人道的な行為を許してしまえば、いずれは自国の領域が侵犯されかねないと周辺諸国は判断した。
これにより、ジェラティオはさまざまな国から脅威と見做されるようになる。周辺諸国は結託し、南方進出を阻むためその動向に目を光らせ、そして度々ジェラティオと衝突するようになった。
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