16 月が綺麗
夜が更け、ヒノエが自分に当てられた部屋で眠りについてから、ゴールとアリアは穴の空いた家を抜け出し、海岸に向かった。満月の翌日だったがもう街に人の気配はなく、ふたりを見咎める者は誰もいない。いちおうゴールは外套を羽織ってフードを深くかぶってはいるものの、あまり意味はなかった。
しばらく雑多な街の隙間を縫うように歩くと視界がひらけ、海岸にたどり着く。当然そこにも人はいない。足跡もない。数日前に退治した魔物もいなければ血の跡もない。真っ白な砂浜が月光に照らされ、淡く輝いているみたいだった。
アリアは裸足になって、砂浜に足跡をつけていく。ゴールは靴のままそれに続く。しばらく無言で歩き、波打ち際まで行ったところでアリアは立ち止まる。裸足が波に飲まれ、アリアは驚いたように数歩下がる。どうやら海水が思ったより冷たかったらしい。
ゴールはその姿をすこし離れたところから見ていた。波の音が鼓膜を揺らし、潮の香りが鼻腔をくすぐり、瞳に、月の光を浴びるアリアが映る。まるで幻想のなかにでも迷い込んだみたいな気分だった。投獄される以前にこんな穏やかな時間を設けたことはなかった。そういったこともあって、ここにあるすべてのものが夢と
「ねえ、ゴール」
アリアが振り返る。寂しげな笑みを浮かべ、少女のように言う。
「もしわたしが死んでお星さまになったら、あなたが見つけてくれる?」
ゴールは真っ直ぐアリアを見つめる。アリアも真っ直ぐにゴールを見る。ふたりのあいだに跨る沈黙に、波の音が覆いかぶさる。やがてゴールは口をひらく。
「……どうした、急に」
「ううん……やっぱり、なんでもない」
アリアは波打ち際からゴールの横まで来て、腰を下ろす。ゴールもその場に腰を下ろし、海を眺める。海面には波に揺れる月と、光の粒が浮かんでいる。
「月が綺麗だ」ゴールは海面に映る滲んだ月を見て言う。
「うん」とアリアは言い、夜空を見上げる。
空に浮かぶ月はすこし欠け始めていた。昨日の満月に比べればその輝きは控えめになっているが、それでも綺麗なものは綺麗だった。ふたりは暗黒にぽっかり空いた光り輝く白い穴のような月と、周囲に散らばる星の光を、しばらくぼんやりと見ていた。
「ヒノエのことなんだけどね」やがてアリアが口をひらく。「ほんとうはわたし……あの子とどう接していいか、よく分からなくて」
「なにを言う。五年いっしょにいたんだろう?」
「うん……でも、それだけ。五年いっしょにいただけ。文字の読み書きとか、魔法について教えたりはした。でも、あの子の心のなかに踏み込んだことはない。ヒノエがほんとうはなにを考えているのか、わたしには分からない」
「ならば、聞いてみればいい」
アリアは首を降る。「できない」
「どうして?」
「知るのが、怖い」
「なにを怖がることがある」
「ヒノエはいずれ、わたしの元を離れることになる。あなたもそう。わたしの目的が達成されたら、わたし達がいっしょにいる意味はもうなくなる。それにあなた達は、わたしより先に死ぬ」
「私はそうだろうが、ヒノエがそうとは限らないだろう。それに、この話は要領を得ない。きみはいったい、なにが言いたい」
「もしもいま、ヒノエがわたしを好いてくれているとしても、今後そうであるとは限らない。だから、はっきりさせるのが怖い。でもわたしは、ヒノエのことをちゃんと愛しているつもり。だから、別れるのが辛い」
「つまり……きみはヒノエとの別れを恐れている。その時のことを思うと、その人を深く知ることが恐ろしいと」
「うん」
「しかし、もしヒノエがきみのことを嫌っていたら――あるいは嫌いになる可能性があるとして、それをはっきりさせたくないと」
「うん……」
ゴールは鼻から小さく息を吐く。「我儘だな、きみは」
「うん……ごめんなさい」アリアがぽつりと言う。
「まず言っておきたいのは、ヒノエはきみを嫌ってなどいないし、きっと嫌いになりもしない。それはまあ……もちろんきみの行動次第だが、いままでちゃんとやって来れてはいるのだろう? 意見の食い違いや、些細な喧嘩をすることはあるかもしれないが、きみをがっかりさせるようなことは、きっとない」
アリアは黙って話の続きを待つ。しばしの静寂を波の音が埋める。
ゴールは続ける。「そうであれば、きみが旅の目的を達成したとしても、ヒノエがきみの元を離れる理由もない。すっぱりと縁を切るということもないだろう。もしかすると、どこかで結婚して、誰かと暮らし始めるかもしれないが、それなら度々会いに行けば良い。文通だってできる。死別にしたって、それは五十年も六十年も先の話だ。そのあいだ、きみはずっと苦しみ続けるのか?」
アリアは膝を抱え、腕と膝に顔を
「ヒノエだって苦しんでる。きみがほんとうのことを話してくれないと。きみが抱えた悩みを、ヒノエも同じように抱えている。きみたちは、ちゃんと話し合うべきだ」
「うん……そうね」アリアが小さな声で言う。
「あ……すまん。言い過ぎたかもしれん……」
「ううん、いいの……ほんとうは、分かってる。頭では分かってるのよ……でも、やっぱり恐ろしい」
「……なにかあったのか?」
アリアが空を見上げる。ゴールはアリアの横顔を見ていると、辺りが影に覆われる。アリアの視線の先を見ると、そこにはひらかれた巨大な竜の手――アリアの第三の腕があった。
アリアは言う。「ヒノエがこれを見たら、どう思うかしら」
「ヒノエは知らないのか?」
「うん。見せたことも、言ったこともない」
「どうして?」
「さっきも言ったけど、恐ろしいの。これを見たヒノエが、なにを思うのか」
「たしかにこれは異質なものではあるが、だからといってそれでヒノエが……」
「違うの」とアリアはゴールの言葉を遮って言う。「違うのよ、ゴール」
「いったい、なにが違うというのだ」
「……あなたにはこの腕、なんの腕に見える?」
「私には……竜の腕に見える」
「そう。これは、竜の腕。あなたと出会った時、あなたをひっくり返して拘束したのも、白銀の竜を最初によろめかせたのも、この腕」
「……きみはこれを、魔法ではないと言っていたな」
「うん」
「それはいったい、どういう意味だ?」
アリアは観念したように、震えながら長い息を吐いて言う。「これは、ある竜がわたしのなかに置いていった腕」
「……あり得るのか? そんなことが」
「おかしな話よね。でも、事実としてここに存在している」
「それはそうだが……」
「そしてこの腕は、ヒノエの母親を殺した竜の腕でもある」
ゴールはアリアの吐いた言葉の意味が理解できず、アリアを凝視する。
「ねえ、ゴール」とアリアはゴールの目を見て言う。「
「いや……分からない」
「二百年ほど前、ある国で拾われた忌み子が竜を産んだという話があるの。それが、竜齎の魔女」
「それが……どうかしたのか?」
「これは、約二百年前の、ジェラティオという国での話」アリアは立ち上がって言う。「厩舎に捨て置かれた忌み子を、アルケーという宮廷魔術師が見つけて、拾い上げた」
ゴールは立ち上がったアリアの顔を見上げながら、黙って話の続きを待つ。
アリアは続ける。「その忌み子は、アリアと名付けられ育った。やがてアリアは、竜を産んだ。片腕しかない竜を。そして、竜齎の魔女と呼ばれるようになった。そう……この腕は、その竜がわたしのなかに置いていったもの」
「いったい、なにを……なにを言っている?」
「見て」
アリアはそう言うと着ていたローブを腰の辺りまで脱いだ。そこにあったのは艷やかな白い肌などではなく、鎖骨から乳房の辺りまで赤黒く変色した皮膚だった。しかしもっと目を引いたのはその下、腹の辺りだった。アリアの
ゴールは言葉を失ってアリアの顔を見上げる。
アリアは寂しげな目でゴールを見下ろし、ローブを着直す。そしてふたたび座り込み、ゴールの目を見てこう言った。
「ねえ、ゴール。聞いて。いまから、わたしのすべてをあなたに話すわ」
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