15 「献身とか、自己犠牲みたいなもの」

 広場の方から自分を呼ぶ声がして、ヒノエの混濁した意識は一気に覚醒した。壁に手をついて、震える脚で立ち上がる。息を吸い込んで、出来る限り大きな声でアリアを呼ぶ。言葉といっしょに口から気力が出ていってしまったような錯覚をおぼえる。頭の奥が痛み、前に倒れそうになるが、ふくよかな騎士が身体を支えてくれた。


「無理しちゃだめだ」ふくよかな騎士が言う。「いまの声を聞いて、ふたりはすぐに来てくれるよ、きっと」


 はい、とヒノエは掠れた声で返事をする。そしてゆっくりとその場にへたり込む。

 情けない。立っていることもできないなんて、ほんとうに情けない。これじゃあ親の迎えを待つ子どもとまるで変わらない。これではだめなのだ。もっとちゃんと、自分の脚で立てるようにならないと――


 目に溜まった涙がこぼれそうになったとき、広場の方角から放物線を描くようになにかが近づいてくるのが見えた。滲んだ景色の向こうに、アリアとゴールの姿がある。急いで袖で涙を拭う。次に視界がひらけたときにはもう目の前に駆け寄ってくるアリアがいた。


「ヒノエ」とアリアは言い、ヒノエのことを抱きしめた。


 ヒノエはアリアの腕のなかで混乱していた。いったいどうすればいいのか、まるで分からなかった。こんなことはこの五年のあいだに一度たりともなかった。でも悪い気はまったくしなかった。おずおずと抱きしめ返すと、アリアはさらにきつく抱きしめてくる。心音が聞こえる方へ身体を預ける。この人の身体はあたたかい、とぼんやりする頭で思う。


 ふくよかな騎士が言う。「ゴール、それどうなってるの?」


「説明しづらいな」と宙に浮いたゴールは言う。「アリア、下ろしてくれないだろうか。私はだいじょうぶだ。さっきはその……すこし気が緩んだのだ」


 アリアはヒノエの背中を軽く二回叩き立ち上がる。背後で浮かんでいるゴールがゆっくりと地面に下ろされる。ありがとう、とゴールはアリアに言い、ふくよかな騎士と向き合う。


「ヒノエを助けてくれたのはきみだったか。ありがとう」

「第四師団以外の騎士に連れてかれるとまずいかもと思ってね」

「気がまわるな、ザーク」

「ゴールに鍛えられたからね」


 ゴールとふくよかな騎士――ザークは、向き合って小さく笑った。それからゴールはすこし視線を落とし、ヒノエに目を向ける。


「ヒノエ」とゴールは言う。「助けてくれてありがとう」


「あ……」

「見つけたのだな、自分自身を」


 ヒノエは頷く。「はい」


「そうか」とゴールは言い、小さく笑った。それ以上はなにも訊かず、またザークに向き直る。


「ねえゴール」とザークが言う。「戻って来る気はない?」


「ああ、ない」

「じゃあ僕ら、ここでお別れか」

「そうだな。皆にもよろしく言っといてくれ」

「自分で言いなよ」

「私はもう、騎士でもなんでもない。皆に合わせる顔などない」

「べつにゴールが騎士でなくたっていいんだ。ゴールがゴールでありさえすれば」

「良いことを言うものだな、ザーク」

「どこかのおじさん騎士の受け売りだよ」


 ゴールとザークは向き合ったまま、また小さく笑った。それを見届けたヒノエとアリアは顔を見合わせる。


「立てる?」とアリアが言う。


 ヒノエは立ち上がろうと脚に力を込めるが、身体は持ち上がらない。


「すみません……身体がうまく、動かなくて」


 アリアはヒノエを抱きかかえ立ち上がる。そして手を離す。しかしヒノエの身体は落下せず、見えないなにかに受け止められる。端から見れば浮いているように見えるだろうが、当の本人であるヒノエの感覚としては、抱えられている、という言葉がもっともしっくり来た。


 ここにいったいなにがあるのだろう、とヒノエは考える。目を凝らしても、なにも見えては来ない。でも、なにかがある。魔力や意思のようなかたちのないものではなく、かたちを持ったなにかがそこには存在している。


 ヒノエはどうしても気になって訊ねた。

「アリアさま……これは……わたしを支えているこの魔法は、いったい、どういう魔法なのでしょうか」


 アリアは一瞬だけ寂しげな色を目に浮かべたが、すぐ顔に微笑みを浮かべ、「秘密」と言った。


「それじゃあ、ザーク」ゴールは言う。「さよならだ」


「うん。じゃあね」


「ザーク」とアリアが言う。「ヒノエを守ってくれてありがとう」


「騎士として当然のことをしたまでです」とザークは言う。「ゴールのこと、頼みます」


「うん」


 アリアはその場でくるりと回り、一瞬考えてからヒノエに言う。

「ちょっと高く跳ぶけど、だいじょうぶ。落としたりしない」


「は、はい」


「急ぐとするか」とゴールは言う。


 アリアが地面を蹴って跳び上がる。放物線を描くような軌道で、東へ向かって進んでいく。ゴールも後ろからついてくる。


 ヒノエは見えないなにかに運ばれながら空を見上げる。満月が支配する空に、まばらな星が見える。宙に浮かんでいると、まるで自分がその一部になったみたいな気がしてくる。身体は動かないのに、いままで感じたことのない自由を皮膚の内側に感じた。






 東海岸の穴の空いた家には一時間もかからず着いた。二階に空いた穴から転がり込むようになかに入り、ゴールは床に倒れ、アリアは壁にもたれて座り込み、ヒノエはベッドに降ろされた。


 アリアが長い息を吐いて言う。「疲れた」


「ありがとう。助かった」ゴールが床に突っ伏したまま言う。


「うん……ヒノエは、だいじょうぶ?」


 返事はない。


「ヒノエ?」とアリアはもう一度呼びかける。


 今度は返事があった。「は、はい」


「だいじょうぶ?」

「あ……ええと……なんだか身体の力ぜんぶが出ていったみたいに、重くて……それと、右耳が……」

「右耳?」

「はい……耳元で赤い雷が閃いて、すごい音がして、それから音が聞こえにくくて……」


「鼓膜が破れてしまったのか」とゴールは言う。


 鼓膜が破れた際、難聴や、度合いによっては目眩なども引き起こす場合がある。完治していない風邪と合わさり、ヒノエの具合はぐっと悪くなったのだろう、とゴールは思う。


「ゴール、治せる?」アリアが訊ねてくる。「治癒魔法が使えるって聞いたけど」


「ああ。それくらいなら、たぶん」


「さ、先に自分の身体を治してからのほうが」ヒノエが言う。


「いいや。私の治癒魔法は、私には効果がない」


「え?」とアリアとヒノエが同時に声を上げた。


「言い忘れていたか、失敬。私はだいじょうぶだ、眠れば治る」


 ゴールは言い、ゆっくりと立ち上がる。しっかりとした足取りでベッドの脇まで歩み寄り、膝をついてヒノエの目の高さに視線を合わせる。そして手を伸ばし、右耳を覆うようヒノエに触れる。手に意識を集中し、頭のなかで祈りの言葉を囁き、強く念じる。


「どう?」とアリアはヒノエに訊ねる。


「分かりません……でも」ヒノエはそう言い、ゴールの手に自分の手を重ねる。「ゴールの手は大きくて……あったかい」


 アリアとゴールは目を見合わせ、小さく笑う。ヒノエの印象は、最初に会った頃とはずいぶん変わった。アリアもそう感じているのだろう、とゴールは思った。


 ヒノエの耳の治癒を終えると、どっと疲れが込み上げてきた。老体に鞭を打った結果だ。身体が休息を欲し始め、ゴールはそのままその場に倒れ込む。瞼が重い。身体が心地よい熱を帯びている。目を閉じた瞬間に眠ってしまいそうだ。


「だ、だいじょうぶですか」とヒノエの声がする。


「ああ……ちょっと疲れた。魔法を使うのは大変だ」


 アリアは言う。「今日明日はゆっくり休みなさい。街を出るのは、明後日よ」


「分かった……きみは……だいじょうぶなのか」

「人の心配してる場合?」

「そういう性分なもんでな……」


 はあ、とアリアは息を吐く。「あなたの治癒魔法が他人にしか効かない理由が分かった気がするわ」


「そうか……」


 瞼がだんだんと下りてくる。抗いがたい睡魔が、じわじわと目の周りを覆っていく。広がった微睡みの海に意識が沈んでいく。


「あなたの本質はたぶん、ヒノエの言うような博愛や慈悲じゃなくて……」


 ゴールの意識はそこで途切れた。






 次に目を覚ましたのは夕刻だった。壁から天井にかけて空いた穴から淡い光が差し込んでくる。身体を起こして部屋を見回すと、並んで壁にもたれて座るアリアとヒノエの姿が目に入る。


 アリアが言う。「おはよう。もう夕方よ」


「おはようございます」とヒノエ。


「ああ……おはよう」


 ゴールはベッドに背を預け座り込む。一度も目を覚まさずこんな時間まで眠ったにも関わらず、身体は完全には回復していなかった。あちこちの関節が鈍く痛み、身体全体に倦怠感が残っている。逆に眠りすぎたことによる身体への負担もあるだろうが、久しく味わっていなかったこのような感覚を甘んじて享受することにする。なにせこの場で治癒魔法を扱えるのはゴールだけで、尚且つその治癒魔法は本人には効かないのだから、そうするほかなかった。


「ふたりで……なにを話していたんだ?」ゴールは訊ねる。


 ふたりは顔を見合わせ、ゴールに向き直る。「秘密です」とヒノエが言う。


「そうか……体調はもうだいじょうぶなのか?」

「はい。ゴールのおかげで耳も治りました。ありがとうございます」

「ならよかった……アリアは?」

「わたしはべつに平気よ」

「そうか。若いな、きみたちは」

「どこか悪いの?」

「いや、疲れが抜けきっていないだけだ。もう一睡でもすれば良くなるだろう」


「わたし、水を持ってきますね」ヒノエはそう言って立ち上がり、部屋の外に出る。とんとんと小気味よく階段を下る音が聞こえる。軽い足取りを思わせるその音は、ヒノエの気分が良いことの表れのような響きがあった。


 アリアが言う。「ありがとう、ゴール」


「なにがだ?」

「ヒノエのこと。あの子が魔法を使えるようになったのも、ちょっと明るくなったのも、あなたのおかげよ」

「そんなことはない。あれはヒノエ本人の努力の賜物だ」

「うん……それはもちろんそうなんだけど、でも……わたしひとりじゃヒノエはああはならなかったと思う。現に五年いっしょにいても、わたしはヒノエの本心を知らない」

「それはヒノエも同じだ。あの子もきみの本心を知らない」

「そっか……そうよね」


 また階段の方から小気味よい音が聞こえてくる。ヒノエが戻ってきたようだ。


「ねえゴール」アリアが言う。「今夜、いっしょに海を見に行きましょう。そこで、話がしたい」


「……ヒノエには言えない話か?」

「うん」


「そうか、分かった」ゴールは言う。「しかし驚いた。きみからデートのお誘いとはな」


 アリアは黙っていた。

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