14 第三の腕

 ベルトラムは白銀の竜が吐き出す火炎を巨大な盾で防ぎきってから言う。

「やるんならさっさとやれ! この老いぼれが!」


「ベルトラム!」ゴールは言う。「助かった! ありがとう!」


「あぁ? なにがだ!」

「あの子を守ってくれたろう!」

「べつにおまえのためじゃない!」

「それでもいい、ありがとう!」


 竜が空へ向かって咆哮する。足元に転がった氷が、振動によって粉々に砕け散る。ふたたび自由になった竜は、ベルトラムの方へ尾を叩きつけながらゴールとアリアに向き直る。


 ゴールは言う。「アリア。気になることはいろいろあるだろうが、とにかくヒノエは無事だ」


「うん」アリアは長い息を吐き、杖を構え直す。「すぐ迎えに行きましょう」


 ヒノエが魔法を使った。つまりそれは、ヒノエが鏡像の本質を見つけたということをあらわしていた。

 アリアは気が気でないだろう。五年連れ添った少女が、きょう突然魔法に目覚めたのだ。いったいヒノエは、鏡のなかにどんな自身を見たのか。ちゃんと受け入れられただろうか。その過程には、苦悩や痛みが伴う場合があるのをゴールは知っている。当然、アリアも理解していることだろう。


 竜は手で地面を掻き、瓦礫をふたりの方へ飛ばす。ゴールとアリアはそれぞれ左右に跳んでそれを躱す。飛んできた瓦礫は民家の壁に激突し、新しい瓦礫を生む。


 あの竜に打撃が通るのは分かった。とはいえ人の操る棍棒や鎚で殴打する程度では駄目だ。もっと威力が、質量が要る。それはたとえば岩や氷でもいい。そしてそれだけの質量をある程度自由に動かせる必要がある。であれば魔法に頼るのがいちばんだろう。しかし岩や氷であれば竜の火炎や膂力に相殺されてしまう。

 ゴールとしては、動きを止めてから圧倒的な質量をぶつけるのが現状もっとも良い策に思えた。というより、ほかに何も思いつかない。四肢を封じ、口と尾も封じる。それからアリアが、もしくは騎士団の魔道士たちが氷塊や岩石をぶつければ良い。


 だが困ったことに、広場を囲うように立っていた魔道士たちは、竜の尾のひと薙ぎでほぼ壊滅してしまった。こうなった以上、竜を拘束するのはかなり厳しいように思える。あるいはアリアが個人で竜を縛ることができるのであれば話は別だが。無論、ゴールには不可能な話だ。


 竜はふたたび地面に手を突きたて、今度は身体ごと回転させる。広げた翼と尾で周囲の壁を抉りながら、巨木のような腕が迫ってくる。逃げるなら広場の外か上なのだが、広場の外では他人を巻き込んでしまう可能性があり、上では次に逃げる場所がない。回転を止めることもできない。


 今やゴールの頼りはアリアの魔法しかなかった。たしかにゴールは竜を斬ったことがある。ゆえに『竜斬り』であるのだが、人が良くも悪くも多様性を有するように、竜もまた多様な存在だった。ゴールが斬った竜は、いま広場で暴れている白銀の竜よりも体躯は小さく、鱗もそれほど硬くなかった。言ってしまえば、斬ることができる竜だった。眼前の竜は違う。しかしそれもまた竜であることに違いはない。アリアや周囲の人間はそのことを理解しているだろうか。


 ゴールはどうすることもできないまま広場の外周を走り続け、半周した辺りで壁を蹴りながら移動するアリアとすれ違う。アリアは迫る腕に対し氷塊を発生させてぶつける。竜の回転は減衰するが止まらない。アリアは飛び上がって腕を躱し、宙に瓦礫を浮遊させる。そのひとつに乗って杖を振ると、巨大な岩石が降ってくる。竜が回転を止め、両腕を勢いよく空に伸ばし岩石を砕く。バラバラになった岩は地面に落ちる前に燃え尽きて消える。


 ゴールは立ち止まり、その非現実的な光景を見上げる。右手に持った剣が重くなる。見ると剣身が氷で覆われていた。アリアの魔法によるものだ。アリアは宙に浮く瓦礫に立ったままゴールを見下ろす。焦りを帯びた冷たい視線が向けられている。アリアがなにを言いたいのかは分かるが、いったいどうすればいいのかが分からない。


 アリアは浮遊する瓦礫の上を移動しながら杖を振り、ふたたびどこからかあらわれた巨大な岩石を落とす。竜は吠え、拳で岩石を砕く。ゴールの剣はだんだん重くなっていく。鍔の先、剣身の部分が、もはや剣とは呼べないような歪な形状に変化していく。剣はとにかく大きく、とにかく重くなろうとしていた。


 氷によって周囲が冷え、頭も醒めていく。満月の光が視界を明瞭にしていく。吸い込んだ冷たい空気が肺を刺す。


 ゴールは一度剣を手放しその場で回る。一回転の後ふたたび剣を掴み、竜の足を見据える。腕が引き千切れないことを祈り、柄を強く握る。足に力を込め、思い切り地面を蹴り、勢いよく前に飛び出す。全身のあらゆる筋肉を連携させて歪な氷塊と化した剣を運び、振りかぶる。腕の筋や皮が裂けるような感覚を、強い意思で押さえつける。氷塊は竜の右足に命中し、鈍い音を立ててバラバラに砕け散る。跳ね返ってきた衝撃が手のひらから骨を伝って全身を走り回る。


 ゴールは痛みに歯を食いしばり呻き、竜は大きく顎をひらき吠えた。どうやら効いているようだった。竜は体勢を崩し傾く。空からはアリアの呼び寄せた巨大な岩石がまた降ってくる。岩石はよろけた竜の右腕に激突し炸裂する。竜がさらに吠える。右側にダメージが集中した竜は左側に倒れるが、すぐに身体を起こしアリアに向き直る。しかし尾だけは独立したように動き、まるで鞭みたいにゴールに向かって振られた。


 思わずゴールは飛び上がって回避する。竜は振り返り、首を長いしならせてゴールに喰いかかろうとする。アリアが浮遊する瓦礫の上を移動して、竜の首を。まるで巨大な腕で掴まれたように竜の首は推力を失い、空を食む。竜にもなにが起こっているのか分からないようだった。


「無闇に跳び上がらない!」とアリアが言う。


「すまん!」


 ゴールは言い、民家の屋根に着地する。逃げ場が少なく、アリアの魔法のおかげで移動が軽いものだから、思わず飛び上がってしまう。当然、宙では逃げ場がない。竜もそれを理解しているので、そこを狙ってくる。


 しかし、アリアの魔法の種類は幅が広く、まるでデタラメに思える。尾を引く氷塊や火球を放ち、瓦礫を浮遊させ、岩石を落とし、回転によって加速する。これらの魔法のいったいどこに共通点があり、その根幹にはどういった核が存在しているのか理解できなかった。この状況が落ち着いたら聞いてみたいところだが、それは失礼に値するらしいのでもう考えないことにする。


 竜はふたたび自由になるが、右腕の位置がさっきよりも低いところにあるように見える。上げることができないのだろうか。じっと観察していると、右腕が下がっているだけではなく、右足を庇うようにして立っているので、姿勢そのものが右に傾いているということが見て取れた。さっきのゴールの一撃と、アリアの落とした炸裂する岩石は、思いの外大きなダメージとして残っているようだった。竜の右手足は、もうほとんど使い物にならないと考えて良いだろう。


 だが竜は飛び立って逃げようとはしない。まるでなにか目的や使命があるかのようにこの場に留まっている。そうでなければ痛めつけられてまでこの場を動かない理由はないはずだ。そういう点ではゴールも竜も同じだった。お互いがお互いに退いてもらうしかないと考えているということになる。


 竜はアリアに向かって火炎を吐く。アリアは浮く瓦礫の上を素早く移動し火炎から逃げる。竜は首を曲げそれを追う。

 ゴールの方にはまた尻尾が迫ってくる。上に逃げるのは得策ではない。なので横に、広場を囲う民家の壁に向かって跳ぶ。壁に着地し、身体が落ちる前に一回転し、また壁を蹴って移動する。宙へは行かず、とにかく騎士たちから逃げたときと同じくらいか、それ以上に立体的な動きを意識する。


 アリアもそのような考えに至ったようだった。しばらく踊るように浮く瓦礫の上ばかりを移動していたが、竜の足元を縫うように地面を経由し素早く跳び回り始める。竜にしてみれば、二匹の羽虫が周囲を飛び回っているような状況だろう。


 懐に潜り込まれた竜はアリアを始末しようと、左腕で足元を薙ぎ払う。アリアは回転して跳び、ゴールと同じように広場を囲う民家の壁を足場にし、また回転して宙へ跳ぶ。そこへ竜が狙いを定め火炎を吐く。アリアは瓦礫を足場にさらに高く跳び上がる。火炎の回避はもうお手の物という感じだった。


 ゴールは半球状のドームのなかに勢いよく放り込まれたゴム玉みたいにあちこちを飛び回りながら考える。さっきは竜がアリアに集中していたおかげでダメージを与えられたが、竜はすぐに二方向へ対応するよう動きを変えてきた。顔と左腕でアリアを狙いながら、尻尾ではゴールを追う。器用なことだ。


 アリアが巨大な岩石をふたつ同時にでも落としてしまえば話は解決するように思える。竜の片腕はほぼ使い物にならなくなっているので、同時に対応できる岩石の数は、左腕と尻尾でふたつだろう。その隙を突いて、また氷塊を叩き込めばいいのではないか。しかしアリアがそうしないところを見るに、できない理由があるのかもしれない。アリアの魔法も万能ではないということなのだろう。


 アリアが広場に降りてくる。ゴールもその脇に着地する。竜は姿勢を落とし、ふたりを見据える。三者は向き合い、呼吸や精神を整える。先ほどまでの動的な空間は、一気に静的な空間に変質した。巻き上がる砂埃を押しのけるような風が吹く。その音がいやに大きく聞こえる。


「アリア」ゴールは言う。「一度にふたつの岩石を落とすことは可能だろうか」


 アリアはしばしの沈黙を挟んでから言う。「わたしが一度に扱える魔法は五つまで。五種類じゃなくて、五つ」


 ゴールは眼前の竜を見据えながら思考する。

 アリアが一度に扱える魔法は、五つ。


 ゴールとアリアにかけられた、回転後に加速する魔法。これはふたりでひとつというわけではなく、それぞれが独立してひとつというカウントになっているのだろう。アリアが「五種類じゃなくて五つ」とわざわざ言ったのは、おそらくそういうことだ。これで五つある魔法の使用枠のふたつが埋まることになる。あと発動している魔法というと、瓦礫を浮遊させている魔法くらいしか思い当たらない。これで三つ。

 ということは、まだふたつの魔法を使えることになる。


 ゴールは言う。「であれば、ふたつの岩石を落とせるのではないか?」


 アリアは沈黙する。なにか考えているようだった。その目からは迷いが感じられる。


「難しいだろうか」とゴールは訊く。


 魔法に関する理解が浅いこともあって、アリアがなにを迷っているのかが分からない。もしかすると、五つある魔法の使用枠を使い切るのはあまり良いことではないのかもしれない。あるいは、複数個の強大な魔法を扱うための出力が足りないとか、精度が落ちるとか、そういった制約が伴うのかもしれない。


 いずれにせよ、アリアに無理強いするつもりはなかった。無理なら無理で、また新しい策を講じるしかない。しかしあまり時間をかけてもいられない。逃げ回っているだけでも我々は体力を消耗している。持久戦は望むところではない。それに加え、ヒノエも気掛かりだ。


 アリアが長い息を吐いて沈黙を破る。そして言った。「岩石をふたつ落とせばいいのね?」


「可能であれば。頼めるだろうか」

「それで竜は倒せるの?」


 ゴールはアリアに考えを伝えた。


「つまり」とアリアは言う。「竜はふたつの岩石の対応に、まだ動かせる左腕と尻尾を使うことになるから、その隙にさっきと同じ要領であなたが竜を叩く、という理解でいいかしら」


「ああ。きみには負担をかけることになるが、どうだろう」

「分かった。いまから、魔法をひとつ解くわ」

「なに?」


 ゴールはアリアの顔を見る。いつになく険しい表情だ。しかし聞き間違いでなければアリアは、いまから魔法をひとつ解く、と言った。なぜそうする必要があるのか分からない。いま扱っている魔法は三つではないのか。なにか見落としていただろうか。


「いま操っている魔法は、四つ」とアリアは言う。「あなたには黙っていたけれど、あなたと出会った時からずっと解いていない魔法がある」


「なるほど……そういうことか」

「ほんとうは解きたくなかったけど、仕方ないわね」


 アリアが杖で地面を弱く叩き、魔法がひとつ解かれる。なにかが落ちたり消えたりはせず、代わりにアリアの背後に巨大ななにかが現れた。


 月光に晒されたそれは、まるで竜の腕のように見えた。


 鱗に覆われたその腕らしきものは、アリアの背中から伸びている。肘と手首らしき部位も確認できる。指は五本あり、そのそれぞれに鋭い爪が伸びている。形は人の手にも似ているが、大きさや質感は、完全に竜のものだった。


「魔法を解いたのではなかったのか」ゴールは思ったことをそのまま口に出した。いったいなにがどうなれば魔法を解いて竜の腕が現れるというのか。


「ええ、解いたわよ。を隠すための魔法を」

「つまり……その腕自体は、魔法ではないと?」

「そのとおり。これは元々わたしに備わった力。わば、わたしの第三の腕」

「しかしそれは……どう見ても竜の腕にしか見えない」

「でしょうね。だってこれ、竜の腕だもの」


 アリアは背後に姿を現した第三の腕を振り回す。眼前の竜が身構える。止まった時間がふたたび動き出したように、五感に情報の濁流が押し寄せてくる。ゴールの頭のなかにあった第三の腕についての疑問が流されていく。気になることは後で聞くこととする。いまは竜をどうにかしなければならない。


 アリアは回転して跳び上がり、浮遊する瓦礫に着地する。杖を掲げると、巨大な岩石が天からふたつ降ってくる。

 竜はすぐに順応してくるだろう。こちらから攻撃できる機会はそれほど多くない。であれば初撃で片付けるのが理想だ。

 アリアの魔法によって剣身が氷に覆われていく。そこでゴールは思い至る、これもまた魔法なのだと。当たり前のことだが、失念していた。


 いまアリアは、剣身に氷を付与するために、なにか魔法をひとつ解いたはずだ。


 見上げると、降ってくるふたつの岩石と、浮遊する瓦礫に立つアリアが視界に入る。手元には氷塊と化す剣。これを竜に叩きつけるために、ゴールは加速する必要がある。これでいま発動している魔法は五つになる。となると、アリアが解いたのはおそらく、自身にかけていた加速する魔法だ。いまアリアは素早く移動することができない。いや、いまだけでなく、先ほど竜の右足を叩いたときもそうだったのだ。でなければ計算が合わない。


 あるいはアリアが嘘を言っているかもしれない。ほんとうは、同時に使える魔法は五つまで、などというルールはないのではないか。ゴールは一瞬だけ疑ったが、すぐにその考えを振り払った。そうであればあの腕――アリアが言うところの、第三の腕――を見せる必要はなかったはずだ。ということはやはり嘘ではないのだろう。だとすればアリアはいま、襲われればひとたまりもないという状況下にある。そして先ほどもそうだったということだ。


 土壇場になって、ようやくアリアという人物像が明瞭な輪郭を持ち始めたような気がした。実際にアリアがどんな思いを抱いているのかは分からないが、彼女の行動や態度は、信頼を示しているように思えた。それを裏切りたくはない、とゴールは思う。


 アリアは聡明だ。考えなしにこんな賭けにでるような人間ではない。勝つつもりで賭けているのだ。


 剣身を覆う氷は、竜を殴り倒すのに充分な大きさまで肥大化した。竜は降ってくるふたつの岩石を砕こうと、左腕と尻尾を宙に伸ばす。アリアは浮遊する瓦礫の上で、竜の動きを微細に観察し、次の動きに備える。


 ゴールは一度剣を手放し、その場で一回転する。竜の頭の位置を確認し、ふたたび剣を持つ。

 狙うのは頭だ。足や腕を封じて詰めていくのも悪くないが、追い詰められた竜がどんな行動にでるのか分からない。であればなるべく早く仕留めてしまいたい。

 致命傷になり得るのは、頭部へ圧倒的破壊力をぶつけること。


 竜の左腕と尻尾が降ってきた岩石に触れる直前でゴールは地面を蹴り、竜の頭目掛けて真っ直ぐに突っ込んでいく。両手で引っ張った剣に腱を千切られそうになり、歯を食いしばる。景色が高速で背後に流れていく。竜の目の光が揺らぎ、ゴールを捉える。


 竜の反応は早かった。伸ばした左腕と尻尾が岩石を砕くと、まだ動く左脚を崩して体勢を少し低くした。ゴールは竜の頭上を通過する形になるが、通りすがりに氷塊を竜の頭に引っ掛けるようにぶつけることはできる。しかしそれは竜がそのままの体勢であればの話だ。


 しくじった、とゴールは内心で吐き捨てる。岩石の対応を終えた竜は首を曲げて氷塊を回避し、ゴールに喰らいつこうとする。が、飛んできたなにかが竜の頬に激突し、軌道が反れる。飛んできたなにか――大盾を持った騎士は、そのまま落下していく。


「ベルトラム!」とゴールが叫ぶ。


「どうした竜斬り! やるんならさっさとやれ!」


 ベルトラムはそう言うが、ゴールとしてはまた体勢を立て直す必要がある。竜の頭を目掛けて跳び上がったものだから周囲に足場はない。減衰してから一度落下するしかないのだが、その間は隙だらけだ。

 命はふたたび風前の灯火みたいな状況に置かれたが、すぐさま援護があった。跳び上がった勢いが減衰する前に、浮遊する瓦礫が目の前にあらわれたのだ。アリアが寄越してくれたのだろう。


 ゴールは浮遊する瓦礫に足を乗せる。その上で自分が軸となり、勢いの死にきっていない氷塊を振りまわしてその場に留まる。このまま竜の方へふたたび飛び出したいのだが、回転中では狙いが定まらない。かと言って回転を止めれば、今度は自身が氷塊に振り回されることになる。なので、地面を蹴って真上へ跳んだ。やがて回転は減衰し、跳躍と重力が釣り合い、一度宙に静止したような時間を挟み、落下が始まる。


 それと同時に、横に巨大な岩石がひとつあらわれる。アリアの魔法による援護だ。ひとつではあるが、この状況では結局ふたつあってもあまり意味はない。というのも、ゴールの振りまわす氷塊は火炎で対応可能だ。腕や尾に対応を迫ることができない。つまりこの状況は、ほとんどゴールは詰んでいるということに思えた。しかしアリアはそう判断を下していない。だから岩石を並べて落としている。


 ゴールは月光に背中を押されるように、地面に吸い寄せられるように、徐々に加速しながら落下していく。岩石はそれよりも少しはやく竜に向かって落ちていく。

 竜は左腕を構え、空を向いて大きく口をひらく。氷塊とゴールに火炎を、岩石に拳をぶつけるつもりなのだろう。いずれにせよゴールはもう後退できない。できることと言えば、アリアを信じて落ちることくらいのものだった。


 ゴールの氷塊より先に岩石が竜に迫る。竜は左腕を伸ばし、拳で砕こうとする。が、またしても飛んできたベルトラムが腕に激突し、繰り出した拳の軌道が反れる。岩石は竜の拳を掠め、左肩に激突した後に炸裂した。飛び散る破片の向こうで竜が咆哮する。

 ベルトラムとアリアの援護によって左腕も封じられた。とはいえまだ火炎と尾がある。目下の脅威は、火炎だ。これを喰らえば一巻の終わりだ。

 氷塊を持つ手に力を込める。竜が天を仰ぎ、火炎を吐き出そうとする。しかしまた横槍が入った。今度はベルトラムではなく、アリアだった。

 アリアは瓦礫を浮遊させていた魔法を解き、自身にふたたび加速する魔法をかけていた。そして天を仰ぐ竜の喉元へ跳び、第三の腕で首を掴み力の限り締め付けた。

 竜は大きく口をひらいてはいるものの、喉がきつく締められ声を出せず、火炎も吐き出せなくなった。アリアの第三の腕によってその場に固定され、動き回ることもできなくなっている。


 視界がひらけてくる。竜が倒れるヴィジョンが、明瞭にかたちを持ち始める。


 最後に立ちはだかるであろう尻尾をいなしさえすれば、この氷塊を竜の頭へ叩き込める。ゴールはそう警戒したものの、尻尾はこちらを攻撃してこない。見れば大きな二本の氷の手が、竜の尾と左脚を固定していた。調律騎士団の魔術師たちが再起して足止めをしてくれているのだ。


 ゴールは竜の目を見据え、腕に力を込めて、思い切り振るった。巨大な氷塊と化した剣身は、綺麗な尾を描き、竜の頭にくだされた。それは遠くから見れば、垂直に降る流星のように見えたかもしれない。氷塊は粉々に砕け散り、竜の頭は勢いよく地面に激突した。光のように降る氷といっしょに、ゴールも地面に打ち付けられる。


 竜は地面と同化するみたいに脱力して、体勢を崩していく。そして腹から四肢の末端まで、まるで凍りついたみたいに動かなくなる。街からあらゆる音が消えたような静寂がやってくる。


 ゴールは空に浮かぶ満月を見上げ、自身の呼吸の音を聞く。吐き出す息は白く、身体は熱い。腕も脚も痛むし、かなりくたびれたが、気分は悪くない。これもすべてアリアとヒノエ、そしてベルトラムや騎士団の魔術師たちのおかげだ。皆が街を、民を守ったのだ。これ以上望むことなどあろうものか。


 竜が動かなくなったのを確認すると、周囲で生き残っていた騎士たちは歓声をあげた。その歓声のなかで、ひときわ大きな声が街に響く。


「ヒノエ~~~!!」


 アリアの声――そうだ、ヒノエ。ヒノエはどこへ行ったのだろう。いっしょに逃げなければ――そうだ、逃げなければならない。私は、脱獄犯なのだ。


 ゴールは上半身を起こし立ち上がろうとするが、頭がくらっとしてその場に倒れそうになる。しかしすぐにアリアがやってきて、第三の腕でその身体を支える。そしてそのまま五本の長い指で包み込むようにゴールを掴み、持ち上げた。

 アリアの第三の手に掴まれながらゴールは思う。アリア本人も言っていたが、やはりこれは紛れもなく竜の手だ。

 まじまじと観察していると、第三の腕は景色に溶け込むみたいに見えなくなった。アリアが腕を隠す魔法をかけ直したのだろう。もうすこし見てみたかったが、アリアはあまり見られたくないようだった。それもそうだろう、と思う。なにせ普通ではない。明らかにおかしいのだから。


 アリアはふたたび大声でヒノエを呼ぶ。すると遠くから、アリアを呼ぶ声が返ってくる。返事がした方を向き、くるりとその場で回る。


「おい! 待て!」


 声をかけてきたのはベルトラムだった。アリアはベルトラムをじっと見つめた後、短く声をかけた。


「さっきはありがとう。それじゃあ」


 アリアはふたたび声のした方へ向き直る。背後でベルトラムがなにか言っているが、ゴールの頭には入ってこない。しかしアリアの声は鮮明に聞こえた。


 アリアは言う。「ゴール、目を閉じて」


 ゴールは言われたとおり目を閉じる。直後に、強烈な閃光が瞼の向こうで炸裂し、騎士たちがどよめく声が聞こえてくる。アリアが魔法で目眩ましでもしたのだろう。べつに私に目を瞑らせる必要はないのに、とゴールは思う。どうせ第三の腕によって掴まれているのだから、前が見えても見えなくても関係はない。しかしこの非合理性がきっとアリアの優しさなのだろうと、そう思うことにした。


 そしてアリアは、ヒノエの声がした方へ向かって跳んだ。

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