13 ダウンワード・スパイラル
城壁を登りきったリヒナーは火照った身体を落ち着けるため、冷たく暗い春の夜の底で息を吐き、街を見下ろした。広場ではいまも竜が暴れている。ゴールの姿も確認できる。それと、見知らぬ黒ローブの女。ゴールといっしょに戦っているようだ。何者だろう。
戦闘はほとんど膠着しているようだった。竜に目立ったダメージはなく、ゴールもまだ元気そうに見える。その調子でもうすこし続けてくれるとありがたいのだが、急ぐに越したことはない。
リヒナーは今一度周囲を見渡す。眼前には満月に向かって高く聳える塔が――この最上階に『月の泪』が――ある。見下ろす塔の入口に人影はなく、周囲に建ついくつかの塔にも見張りの騎士は見当たらない。竜の出現によって、みんな出払っているのかもしれない。であればまたとない機会だ。
結果として、ゴールを頼る必要はなかったと言える状況になった。詰めが甘く大雑把なものではあったが、計画は計画だった。しかし計画とは得てしてこんなものだ。大抵の場合、想定外の要因に狂わされる。今回は狂った結果、悪い方へは傾かなかっただけマシと言えるかもしれない。ハッキリと良い方向へ傾いたと言えるかは怪しいが。
登りきった石積の城壁を、今度は内に向かって
慎重に足場を選び、素早く飛び降りる。まだ悪事を働く前だというのに、まるで大口開けた真っ暗な地獄に踏み込んでいるみたいな気がしてくる。
だんだんと底が近づいてきた。あらためて周囲を確認するが人影はない。城壁の外からは依然として竜の立てる様々な音がするが、まるで竜から身を潜めているみたいに城の方は静かだ。果たしてこんなにうまくいくものだろうかと少々不安になってくるが、いまから策を講じるほどの時間や余裕はない。後戻りする気など毛頭ない。
足元の感触が乾いた石から湿った土に変わった。底に着いたのだ。足場を選んでいるうちに塔からは少し離れたところに降りてしまったが、誤差の範囲内だろう。
念の為足音を殺し、塔の入口まで歩いてゆく。扉の前に立ち塔を見上げる。ここまで近寄ると天辺を確認できない。あらためて塔の高さを思い知らされる。そしてこれを登らなければならないという事実が気を重くさせる。登って降りて、また登りだ。
強い風が吹いて、砂埃が巻き上がる。目の辺りを腕で覆うように隠す。この風が僕を頂上まで運んでくれないものだろうか、とリヒナーは思うが、すぐにそんな考えを振り払い、扉と向き合う。こんなことを考えている時間はない。
扉は仰々しく、三日月のレリーフが施された錠で封印されていた。鍵穴はひとつで、特別めずらしい構造をしているわけではないように見える。つまり、金のかかった普通の錠ということだ。これなら鍵がなくても簡単にあけられる。
懐から取り出した二本の針金で、ささっと解錠を済ませる。錠がごとりと鈍い音を立てて足元の湿った土に落ちる。この錠も盗んでしまおうかと一瞬思ったが、やめた。あくまで目的は『月の泪』で、他のものを盗む意味はない。こんなものを盗んだときにはもう僕は僕でいられない。リヒナーはそう思い、扉をあけて塔内に入り込む。
まず目に入ったのは円形の空間だった。真上から見た塔の形そのままの空間だ。端の方には、装飾が施された、実戦には不向きであろう剣や盾、鎧や外套などがいくつか見える。儀式で使用するためのものだろうか。しかしこれらにも興味はない。
周囲に目的のものがないことを確認し終えると、リヒナーは壁沿いに歩き、すぐ階段を見つけた。塔の内周沿いに伸びる螺旋階段だ。
一段目に足をかける。階段の先にある無限みたいな闇を見上げ、分け入っていく。暗闇の持つ圧力が身体を締め付けてくるような錯覚に陥るが、所々に空いた覗き窓のような穴から入ってくる月光がそれを和らげてくれる。
リヒナーは永遠に続くような闇と、微かに射し込む月光を交互に浴び、無限の螺旋のなかで少々疲労感を覚え始めていた。
この街に来てからけっこうな距離を移動した。本を読むのにも体力を使う。人と話すのだってそうだ。そのうえちゃんと眠れているとも言えない。
単純な動作の連続は、退屈を引き起こす。疲労は弱気を呼ぶ。ふたつが合わさると、思索を呼ぶ。古代の哲学者たちは、暇だったからこそ哲学に耽ることができたという話を思い出す。なるほどな、とリヒナーは疲労と退屈のなかで納得する。
外の景色がちゃんと見えないものだから、自分がいま塔のどの辺りにいるのかが分からない。どれくらい登って、あとどれくらいなのかが判別できない。壁に手をついて歩き続ける。手元からも足元からも冷たく硬い感触しか返ってこない。一本道のなかにいるのに迷子みたいな気分だった。
自分はいったいなぜ、こんなことをしているんだったか。そう、『月の泪』を盗むためだ。
なぜ?
なぜ『月の泪』を盗む必要がある?
なぜなら、落ち着いた場所で、『月の泪』を鑑賞したいから。このような美しい絵画が美術品として扱われず、権威の象徴のように虚飾されていることが気に食わない。僕には真に美術品の価値が分かる。知識もある。持つに相応しい資格を有している。あの絵画のためなのだ。だから、盗む。
嘘だ。
そんなものは建前でしかない。
ほんとうは自分のため。ゴールにも言ったとおりだ。この手は、いつからか僕の意思に反して物を盗むようになった。そしてそれによってすべてを失った。掴むための手が、必要な一切を拒んだ。だから、盗む。この手が、そしてこの手を持つ僕が生きていく道は、盗人であることでしか歩めない。
盗人であるためには、なにかを盗むしかないのだ。
自問自答の果てに外で竜の暴れる音も聞こえなくなり、足が痛みだした頃、リヒナーはようやく塔の天辺――典儀の間にたどり着いた。
典儀の間には大きな窓があり、この塔でもっとも明るい空間だった。月光が、足元に敷かれた絨毯と壁にかけられた絵画を神秘的に照らしている。
窓の向こうで輝く月を見上げ、今度は絵画のなかの青白い月を見据える。青白い月は、絵画の上半分を占めるほど大きく描かれていた。圧力を感じる。まるで月が降ってきているみたいな構図にも見える。
下方には泪を流す女性の姿をした月神、デミペリオが描かれていた。肌は白く澄んでいて、足元にある純黒の影との対比が映えている。この足元の影が、人を縛る枷だとか、暗い未来の暗喩だとか言われているようだが、リヒナーに言わせれば月神が人として描かれていることのほうが気になった。まるで人の傲慢さの象徴だ。神が人と同じ姿であると、どうして作者はそう解釈したのだろうか。
しかしこれこそが求めていた絵画、『月の泪』だった。あれこれ考えるのは、これを盗んで落ち着ける場所に移動してからだ。
リヒナーは絵画に手をかけ、壁から取り外す。外套で包みそれを背負い、窓を開け放つ。風が室内に吹き込んでくる。月光に照らされた埃が階段の方へ流れていく。
開いた窓の向こうを見下ろし、すぐ近くに城壁があることを確認する。ここから跳んで城壁の上に降り、外に向かってまた城壁を下る。そして一度西海岸へ戻る。そこまでやって終わりだ。ようやくその終わりが見えてきて少し安堵する。
窓枠に足をかけ、思いっきり蹴る。身体が宙に飛び出し、全身が冷たい空気に包まれる。月光が背中を押す。城壁の頂上が迫ってくる。着地の瞬間に膝を折り曲げ、衝撃を和らげる。和らげたとはいえある程度の衝撃は骨や筋肉に響く。歩き疲れた足にはなかなか効く。
時間をかけて膝を伸ばし立ち上がる。城壁の端に立ち、街の方へ目をやる。広場の真ん中に、竜が倒れているのが見える。まさかゴールがあれをやったのだろうか。だとしたらとんでもない化物ということになる。やはりもっと手を組むべきだったかもしれない。
注意深く街を観察するが、騒ぎももう殆ど収まっているような気配だ。急いだほうがいいだろう。
ゴールはどうなっただろう。逃げ切れただろうか。
しかしもうそれを知るすべはない。僕らが会うことはもう二度とないのだ。
深呼吸を置いて、ふたたび城壁のとび出た石を足場にして下っていく。『月の泪』を背負ってはいるものの、身体が軽く感じる。久しい感覚だった。認めたくないが、この感覚が忘れられず盗みを続けているという一側面がある。
城壁を半分ほど下ったタイミングで、なんの前触れもなく、街の方から異様な明るさの光が周囲に広がった。まるで太陽が生まれたかのように、街が昼以上にに明るくなる。
リヒナーはあまりの眩しさでその場に留まり目を瞑る。瞼の向こうの光が消え、周囲がふたたび闇に包まれてから目をひらく。別段、街に変わったところは見受けられない。爆発が起こったというわけではないようだ。異常なことが起きているのは確かだが、これによりなにがどうなったのかまったく視認できない。ただ光が生まれ、そして跡形もなく消えた。
いったい何だったのだろうか。リヒナーは考えながら、ふたたび城壁を下っていく。
いまの光の影響で騒ぎは起こっていない。自身の身体にも特に影響は感じられない。初めからなにもなかったと言われれば、そうかもしれないという気さえしてくる。あれは幻覚だったのだと納得できそうなほど、世界はそのままだ。
しばらく無心で下り続け、やがてまた底に着く。ここまで来ると、城壁で隔絶された空間から完全に街へ戻ってきたという感覚がある。しかしまだ終わりではない。これから西海岸の隠れ家へ向かうのだが、念の為真っ直ぐ西へ向かうのではなく、北の方へ一度迂回して、それから西へ行く。
まずは北だ。リヒナーは身体の向きを変え、走り出す。しかし、すぐ転んでしまった。
僕としたことが、疲労と安心で、足元が緩んでしまった。すぐに両手で上半身を起こし、足に力を込めて立ち上がろうとするが、できない。
なにかが変だ。まるで
腕の力だけで、一度その場に座るような体勢になり、足の方を見る。そこには、血溜まりがあった。鮮やかな鮮血が、敷かれた石の隙間を縫うように流れていく。
これは、いったいなんだ? まるで、僕の足から血が流れたような……
「どの時代のどんな場所にも、火事場泥棒は居るものだな」
声のした方――城壁の方へ目を向ける。そこには剣を抜いたひとりの騎士が立っていた。彫りの深い顔立ちに、浅黒い肌と白髪の対比が印象的な男だ。
騎士はこちらに向かってゆっくりと歩いてくる。剣の切っ先に付着した血が滴りながら、石畳に足跡をつけているみたいだった。
リヒナーはあらためて足元を見る。血の出どころは、まさにそこだった。右足の腱が斬られている。痛みがやってくる。思わず叫び声をあげ、その場で
斬られた。いったい、どのタイミングで? いや、城壁を下りて走り出す直前だろう。騎士は城壁前にいたのか? それとも、後をつけられていた?
気付けなかった。次はうまくやらなければならない。
次?
いや、次は、ない。もうここで終わりなのだ。
冷や汗が背筋を伝う。悪寒がする。呼吸が乱れる。
逃げなければ。
しかし、どうやって?
リヒナーは痛みに歯を食いしばり、腕の力で身体を引きずり進む。背後の騎士がゆっくりと迫ってくる。まるで獲物を追い詰めた猟犬のように、悠々と歩いてくる。
騎士は言う。「竜が出現する前、通りすがりのお嬢さんがウチのもんに声を掛けてくれたもんでな。『月の泪』を盗もうとしているやつがいる、と。まさかと思い念の為見張っていたのだが、そのまさかだった」
リヒナーは這いながら考える。
ヒノエか。迂闊だった。どうして想定できなかったんだろう。
騎士はすぐにリヒナーに追いつき、剣をまだ無傷の左足首に突き刺した。リヒナーはふたたび叫び声をあげる。
「じっとしていれば足の一本で済んだのに。なあ?」
両足に激痛が走る。痛みという原始的な信号が、脳内を埋めていく。
ああ、こんなことになるのなら、もっとちゃんと『月の泪』を見ておけばよかった。いいや、盗みなんて働かなければ。こんな人間として生まれてこなければ――
頭のなかで、自身の声が言う。
失敗するのは、いつだって油断したときか、自惚れたときだ。
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