12 ダンス・マカブル

 ヒノエは、アリアが放たれた矢のような勢いで広場へ入っていくのを、大通り脇の路地から見ていた。

 アリアは飛びながら杖先に、人の頭ほどの大きさの尾を引く氷の塊を生み出し、そのままの勢いで竜の顔に叩きつけた。竜は折れかかった巨木のようによろめくが倒れない。それを見たアリアは追撃を加える、かと思えばべつになにもしなかった。しかし竜の身体には衝撃が走ったようだった。今度は完全に体勢を崩し、竜は倒れた。


 ヒノエにはなにが起こっているのか、まるで理解できなかった。確かに魔法はイメージの力とアリアは言った。しかし失礼ながら、これを魔法と呼ぶにはすこし野蛮なふうにも見えた。が、これもまた大きい括りで言えば魔法であることに違いはなかった。アリアのことが、ますます分からなくなる。

 回転の後、加速する魔法。杖先に尾を引く氷塊を生む魔法。そしておそらく、見えないなにかによる攻撃の魔法。その鏡像の本質には、いったいなにがあるのだろう。


 知りたい、とヒノエは思い、広場の方を凝視する。ふわりと着地したアリアのそばに、ゴールの姿が見えた。こんな状況だというのに、その光景に安堵する。ふたりがなにを話しているのかは分からない。でも、自分を置いていったりはしない。そのことが嬉しく感じられた。


 しかしこの状況はもどかしくもあった。自分はあの場にはいけない。仕方のないことなのだが、やはり自分はこういった場においては足手まといなのだ。それはたとえ体調が万全であっても。


 ヒノエは揺れる瞳で広場を見ながら、ぶかぶかのローブの袖をきつく握った。

 わたしはここで、ただふたりが無事であってほしいと祈ることしかできない。






 アリアが杖を振ると、周囲に尾を引く小さな氷塊の群れと、明るく輝くいくつかの火球が現れた。それらはアリアを包むように回転した後、杖で地面を鳴らす合図と同時に竜へ向かって放たれた。

 竜の反応は早かった。しかしアリアの魔法のほうがさらに早かった。竜は火炎を吐き出そうと迎撃体制をとるも、氷塊と火球はそれぞれ青と黃の軌道を空中に残し、素早く竜の右腕に襲いかかる。


 竜が大きく口をひらき、空に向かって吠えた。痛みを感じたのか、それとも怒りを感じたのかは分からない。ゴールはアリアの魔法で傷ついたであろう腕を見るが、目立った外傷のようなものは見受けられない。立派な白銀の鱗がほとんど防いだのだろう。


「やっぱりダメね」とアリアは言う。


 ゴールは竜が動き出す前に駆け出し、アリアと同じように右腕に斬りかかる。全体重を乗せ、肉も骨も断つ気で剣を振ったが、まるで鉄でも叩いたかのような感触が手のひらに帰ってくる。思わず剣を手放してしまいそうになったが、歯を食いしばりなんとか堪える。


 竜が吠えるのを止め跳び上がる。翼でバランスをとり、横に回転しながら尾で周囲を薙ぎ払い、縦に回転してその尾を地面に叩きつけた。尾は広場をはみ出し、その先の民家二軒を粉々にする。地が揺れ、広場に敷かれた石が見上げるほどの高さまで跳び、そして殺人的な雨として降ってくる。


 ゴールは広場の民家沿いに転がっているテーブルを盾として使い、アリアは自身を覆う丸く透明な障壁を魔法で作り出し、石の雨を凌ぐ。あちこちで兵士の悲鳴がし、どこからか湿り気のある鉄の匂いが漂ってくる。


「これはとんでもないな」とゴールは言った。


 いつの間にか隣まで来ていたアリアが言う。「『竜斬り』も大したことないのね」


「私の手には負えないかもしれん」

「じゃあ、もう逃げる?」

「まさか」

「そう言うと思った」


 アリアが杖の先でゴールの足元を突く。


「なんだ」とゴールは言う。


「ダンスのコツを教えてあげたのよ、あなたの身体に」

「なに?」

「回って、地面を蹴る。それだけよ」


 そう言うとアリアはその場でくるりと一回転し、身を屈める。そして地面を蹴った瞬間、竜の頭目掛けて一直線に飛んでいく。杖の先に氷の刃を作り出し、目を抉ろうと試みるが、竜は咄嗟に身を屈めて回避した。アリアの勢いは減衰し、やがて地面に吸い寄せられていく。竜はアリアの着地点を予測し、腕を大きく振りかぶる。


 ゴールはアリアがやったようにその場で一回転し、身を屈め、地面を思いきり蹴った。すると同じように爆発的な初速が得られた。視界がせばまり、胃の中身が撹拌され、骨や内臓が皮を破いて飛び出してくるのではないかというような感覚に襲われる。しかしそうも言ってられない。竜はいまにもアリアを叩き潰そうとしている。


 ゴールが飛んだのは竜の方ではなく、アリアのいる方だ。一歩目でアリアを抱えるところまで行き、ふたたび回転し、二歩目でその場から離脱した。広場を横切り、竜の背後に回り込む。


 竜の長い腕が空を切る音の後、石畳が砕かれる轟音が響く。やはり異様な膂力りょりょくだ。その気になれば、広場の石という石を砕いてすべて粉に変えてしまうことだってできそうだ。


 アリアはゴールに抱えられながら言う。「なかなか上手ね」


「吐きそうだ」とゴールは言う。「きみはだいじょうぶなのか」


「わたしはだいじょうぶ。あと、吐くなら私を下ろしてからにして」


 ゴールはアリアをそっと下ろしてから、その場に胃の中身を吐いた。吐瀉物のえた匂いと、辺りの血の匂いが鼻の奥を刺激する。涙が出そうになるがこらえ、竜に向き直る。

 しかしいったいどうすればいいのか、見当もつかない。巨躯の生み出す破壊力に、鉄のように硬い白銀の鱗の防御力。それらを掻い潜り、竜を倒すとまではいかなくても追い払えればいいのだが、状況はそれすらも厳しいと言える。剣が通用しなければ、アリアの魔法もあまり効いていないようだった。他に頼れそうなものも見当たらない。


「わたしが適当に時間を稼ぐから、あなたは竜を斬りなさい」アリアが言う。


「しかし、どうやって」

「それを考えるのはあなたの役目。わたしはべつに逃げてもいいのよ」


 アリアはふたたび尾を引く氷塊と輝く火球をいくつか生み出し、竜の頭目掛けて射出した。衝突と同時に爆発を引き起こし、竜の顔は煙に覆われる。竜はすぐさま体勢を低く変え、煙を払ってアリアに向かって体当たりしようとする。アリアは一回転の後高く飛び上がり、横にいたゴールは地に転がって躱す。


 巨躯が民家に激突する。石積の家は紙が破れるみたいにバラバラになり、周囲の騎士たちに降り注ぐ。足元で響く悲鳴を気にもせず竜は空を見上げる。標的は飛び上がったアリアだった。竜からすると、ゴールは有象無象のひとつとしか思われていないようだった。

 それがチャンスであるとはゴールにも理解できる。しかし手立てがない。とはいえこのままだとアリアや周囲の人間に被害が拡大する。特にアリアを巻き込んだのは自分の意思だ。守れませんでしたでは話にならない。


 竜が大きく口をひらき、アリアに向かって首を伸ばす。ゴールは飛び上がってその顎に剣を叩きつけた。斬れないなら殴るしかない、そう思い膂力の限り腕を振るった。その衝撃で竜の口は閉じ、首の軌道もすこし逸れてアリアのすぐ脇を通る。

 アリアはすこし驚いてゴールを見るが、すぐに真横を通る竜の首に向かって、人の頭部ほどの氷塊を撃った。竜の首はぐにゃりと折れ曲がり、呻くような音が喉から聞こえてくる。

 そのまま追撃を加えたかったが、空中で推力を失ったゴールは為す術なく自由落下していく。なんとか体勢を整え受け身をとって地面にぶつかる。そんなゴールを横目にアリアは綿のようにふわりと降りてくる。


 アリアが言う。「けっこうな馬鹿力ね。ちょっとびっくりした」


「身体の丈夫さと、それだけが取り柄だ」ゴールは言いながら勢いよく立ち上がる。


 竜の首は折れたわけではないようだった。しかし攻撃は効いているように思える。竜は呻くような声を歯の隙間から漏らしながら二歩ほど後退し、首を下ろして体勢を立て直す。


 ゴールとアリアは、いまの一連の過程に活路を見出していた。小さな氷塊や火球を飛ばすような魔法は効かず、刃も通らないが、ある程度の質量の物体をある程度の速度でぶつけたり、アリアの言う馬鹿力による殴打は効き目がある。つまり速度と質量、あるいは腕力があれば、竜を消耗させることができる。


 竜が咆哮する。それを合図に三者三様に構えをとった瞬間、広場の周囲から大量の水が竜に襲いかかった。魔法によるものだ。ゴールとアリアも水をかぶってしまう。ふたりと竜は、状況を確認するため周囲を見渡す。民家の屋根の上に、広場を囲うように二十名ほどの魔術師が立っていた。


「動きを止めろ!」


 誰かが叫び、それをきっかけに広場の周囲四方向から氷の腕が伸びてくる。四本の氷の腕は、竜の鱗に付着した水と結合し、その身体を拘束する。息をする暇もなく、今度は広場の周囲から雷撃が放たれた。

 アリアは、ゴールと自身を丸く透明な障壁で覆う。障壁の外で、雷が意思を持った蛇のように暴れている。助かった。危うくこちらまで感電するところだ。どうせ我々は罪人で、街が緊急事態なのだからわざわざ気にかけていられないということなのだろうが。

 ゴールとアリアを危険に晒した一連の攻撃は、肝心の竜には、あまり効いていないようだった。雷撃による感電のような反応は見られない。しかし氷による拘束は、まだ竜を広場の中央に固定していた。


 これは好機だと察したゴールは、一度屋根まで跳び、さらに竜の頭の真上まで跳び上がる。


「アリア!」


 ゴールの声を聞いたアリアは、ゴールの持つ剣の切っ先に、先ほどぶつけた倍の大きさの氷塊を生成する。ゴールは落下する勢いに任せて、それを竜の頭に叩きつけようとする。が、頭及び首は拘束されていない。

 竜は上向きに大きく口をひらく。しかし一瞬の逡巡の後、ゴールの落下軌道から頭を逸らし、氷塊による攻撃を回避する選択肢をとった。アリアの魔法の障壁を警戒してのことだろう。

 空振りしたゴールは地面に向かって落ちてゆく。竜はその無防備な状態のゴールに喰らいつこうと首を伸ばす。アリアがそれを止めるため無数の氷塊をその顎に撃ち出す。命中はしたが、竜の顎は閉じず、勢いも衰えることなく、ゴールの方へ真っ直ぐ向かっていく。


 ゴールの眼前に、ひらかれた地獄の入口が迫る。無数の刃のような歯の先、喉の奥の暗黒が、ふたたび暗い未来を見せる。


 ゴールが生まれるより何百年も前、死を想えという思想が流行った時代があった。人はいつか死ぬ、そのことを忘れてはならないという思想は、戯曲や絵画などに強く影響を与え、またそれを見た民衆にもこの考えは伝播した。

 歴史としてでしか知らないこのような時代の話に、ゴールは感心したものだった。人のようが生と死の二元論で語られるのは気に入らないが、死を思うことで、せいがより大切なものである実感が湧くという考えは気に入った。そしてこの思想は、ゴールに根付くこととなった。


 故にゴールのなかには、死への恐怖よりも、生への執着があった。だから、死にたくなかった。

 しかしやはり人はいつか死ぬ。自分にとって、その日はきょうだったのだ。ゴールは竜の喉の奥に、明瞭な輪郭と質量を持った死を見る。

 そして次に見たのは、赤い閃光だった。


「ゴール!」


 誰かの叫び声がして、どこかから放たれた赤い雷撃が、竜の舌を焼いた。竜は顔と首を震わせ、空に咆哮する。空間が振動し、四本の氷の腕に亀裂が走っていく。尾が暴れ出し、氷の腕を一本ずつ破壊していく。少しずつ竜は自由を取り戻していった。


 ゴールはふたたび落下し、背中から地面に打ち付けられた。痛みはあるが骨も関節もなんともない。上半身を起こし、赤い稲妻の根本と思しき方向へ目を向ける。

 そこには、震える足で立つヒノエがいた。目の焦点が定まっておらず、ひどく狼狽している。まるでなにかに怯え、なにかを探しているようだった。


 ヒノエが、魔法を?

 ゴールは不思議に思ったが、逡巡する時間はなかった。


 竜は拘束から抜け出し自由となった。すぐに尾で広場を囲うように立っている魔術師たちを薙ぎ払い、姿勢を低く落とし、首を曲げ、稲妻の根本――ヒノエの立つ方へ頭を向ける。そして大きく息を吸い、火炎を吐き出した。


「ヒノエ!」とゴールが叫ぶ。






 ヒノエには自分の身になにが起こっているのか、うまく理解できなかった。まるで肉体と精神が乖離してしまったみたいに感じる。


 とにかく必死だった。自由落下するゴールに向かって喰らいつこうとする竜に対しアリアが氷塊を撃ったが、顎の軌道は変わらず勢いも衰えなかった。このままだとゴールが死んでしまう。そうは思っても、竜に抗うだけの力はヒノエにはなかった。そのときヒノエのなかに、無力感と、自分に対する激しい怒りが湧き上がった。


 肌が粟立ち、髪が逆立つのを感じた。不快な感覚が呼び起こされて、身体が邪魔に感じた。無力な自分を、憐れに感じた。目に映る景色が他人事みたいで、疎外感を覚えた。そのすべての感覚に、怒りが湧いた。


 鏡に、修羅が現れたみたいだった。意思のない肉塊は、鏡のなかで怒り狂っていた。そうしてヒノエは、鏡像に自分の本質を見た。


 わたしの本質は、『怒り』。

 わたしが生まれたことに対する悲憤。無力感に対する激情。いなくなった父への怨嗟。わたしを売った母への怨恨。わたしを買った男への憎悪。隻腕の竜に村を破壊されたときに湧いた義憤。それらすべてが積み重なった鬱憤。


 この燃え滾る心火しんかこそが、ヒノエの核だった。そのイメージは自然災害――ヒノエの故郷でいうところの、神の怒りと結びついた。落雷や洪水、嵐や地震のような、人には到底抗えない理不尽で強大な力が、無意識の底で魔法として解釈されていく。


 気付いたときには耳のそばで、赤光しゃっこうが閃いた。遅れて轟音が右耳の感覚を奪い、迸った赤い雷撃が竜を突いた。ゴールは死を免れ、石畳に打ち付けられる。


 ヒノエはそれを確認できなかった。足が震えてまともに立っているのがやっとだった。魔力が溢れ出して、自分の身体の操縦さえままならなくなっていく。

 目が無意識下でギョロギョロと動き回り、なにかを探していた。いまヒノエがすべきは、自分の本質を受け入れることだった。しかしヒノエの意思は、自身の本質が怒りであるということが到底受け入れられなかった。だから目は、自分自身を探していた。外側にあるはずの理想像を求めて、眼球は忙しなく震えるように動いていた。


「ヒノエ!」


 遠くからゴールの声がして、ヒノエは我に返った。目の焦点が合い、視界が回復する。しかしゴールは見えない。眼前にあるのは、迫ってくる火炎のみだった。


 なにが起こっているのか、ヒノエにはうまく飲み込めなかった。まだ頭がぼんやりする。

 自身の本質は怒り? 違う。ゴールは生きている? たぶん、そうだ。ああ、熱い。この炎は、なんだろう?


 本能は、迫る死に警笛を鳴らしている。しかし耐え難い熱を感じながらも、身体は動かなかった。蓋をして見ないようにしてきた記憶たちが、全身にまとわりついている。死んでいった記憶の底の村人たちが、自分をそこへ引きずり込もうとしているみたいだった。

 涙が蒸発する。

 ゴールを庇って死ぬのなら、それでいいのかもしれない。どうせわたしは、望まれなかった命なのだ。


 火炎が動かない身体を焼く直前、なにかがヒノエの前に降ってきた。そしてそのなにかが叫ぶ。


「早く逃げろ!」


 目の前に現れたのは、先ほどアリアに蹴飛ばされた男――第三師団長ベルトラムだった。

 ベルトラムはヒノエを庇うように巨大な盾を構え、火炎を防ぐ。目の前で人が呻きながら自分を守っているという状況が、ヒノエには非現実的に感じられた。言われたとおり逃げようとするが、身体が動かない。


「誰か彼女を! 動けないようだ!」


 ベルトラムが叫ぶとともに騎士のひとりがやってきて、ヒノエを抱えてその場から離脱した。すぐに脇の路地に滑り込み、ヒノエはそっと降ろされる。助けてくれたのは、ふくよかで人のよさそうな騎士だった。


 ヒノエは言う。「あ、ありがとうございます」


「いや、こちらこそ。ゴールを助けてくれてありがとうね」ふくよかな騎士は言った。


 まだ頭がぼんやりしているのかもしれない。ゴールは脱獄者で、騎士に追われているのではなかったか。ヒノエにはもうなにがなんだか分からなかった。


「ヒノエ!」と広場からゴールの声がする。「ありがとう!」


 微かではあったが、紛れもなくそれはゴールの声だった。ゴールはちゃんと生きていて、自分に感謝している。それはヒノエにとって、大きな救いとなった。


 ヒノエはふたたび己と向き合う。修羅を思わせる鏡像を、ヒノエは正面から見据える。

 否定された修羅は、涙を流して怒っていた。悲しみに歪むその姿は、まさに自分自身だった。決して美しいとは言えず、醜ささえ感じられる。でももう否定しない。蓋をした心の井戸の底に、この修羅がいたからこそ、ゴールを助けられたのだ。


 鏡に手をついてヒノエは言う。「ごめんなさい。あなたは、わたしだった。いままで蓋をして見ないようにしてきた、わたしの醜い姿だった。でもあなたがいたから、ゴールを助けることができた。ほんとうに、ありがとう」


 わたしは存在意義に飢えていたのだ、とヒノエは思った。生きている意味がないと、考えないようにはしていたがどこかでそう感じていた。生きていることに意味があると、誰かに証明してほしかった。この命に意味を与えてほしかった。そしていま、ヒノエはそれを見つけた。

 ゴールにたった一度感謝されただけで、壊れかけていた自我は、ある程度のかたちを取り戻した。まるで単純なおもちゃか、母のようだとヒノエは思った。自分のなかにも、母と同じそういった血が流れているのだ。後先考えず破滅的で、誰にでも靡き他責的な、醜悪な人間の血が。

 でも、それで構わない。この悲しみや怒りが力に変わり、誰かの命を救うこともあるのだと、自身が自身に証明してみせた。それには大きな意義があった。いまは、そういうことにしておけばいい。


 路地に座り込み思考を整理していると、だんだんと気持ちが落ち着いてきた。しかしもう一度魔法を扱える気はしなかった。それどころか立ち上がることさえできない。身体に力が入らない。


「だいじょうぶ?」とふくよかな騎士は心配そうに言う。


「すみません……身体が、動かなくて……」

「そっか。じゃあもうすこし離れたところで、おとなしくしてたほうがいいね」


 ふくよかな騎士はふたたびヒノエを抱き上げて歩き出した。それほど遠くない場所から、まだ竜の暴れる音が聞こえてくる。

 戦いは続いている。ゴールとアリアは、まだ広場にいる。ふたりが、遠ざかる。


「だいじょうぶだよ」ふくよかな騎士はヒノエの不安を感じ取り、やさしく言う。「べつにきみがゴールとどういう関係であれ、僕はきみをどうこうしたりしない。さっききみを庇ったベルトラムは分からないけど、少なくともゴールのいた第四師団の皆はゴールの肩を持つよ。僕もそのひとりだ。事態が落ち着いたら、きみをゴールのところへまた連れて行ってあげるよ。まあ、そこから先のことはなにも保証できないけどね」


「あ……」ヒノエはうまく言葉が紡げなかった。


「ゴールと離れるのが不安なんだよね? でも、もしきみがあの場に留まって竜に潰されでもしたら、きっとゴールが悲しんじゃうからさ。分かってほしい。それに、きみを置いて行ったなんてことがゴールにバレたら、僕も怒られちゃうかもしれないしね」


 ふくよかな騎士はそう言って笑った。


「はい……すみません」ヒノエは小さな声で言った。


「謝らなくていい。これが僕らの役割なんだよ。それにきみは、ゴールを助けてくれた。あらためてお礼を言うよ。ほんとうにありがとう」


 はい、とヒノエは言ったつもりだったが、声が出なかった。そんな簡単なこともできないほどに、胸がいっぱいになっていた。

 一日にふたりの人間に感謝された。たかがそれだけのことが、ヒノエに世界の変化を感じさせた。そんな日は生まれてこの方、一日たりともなかった。それが悲しくもあり、いまは嬉しかった。初めて世界に肯定されているような気がした。


 だから、涙が止まらなくなった。

 ヒノエは両手で顔を覆い、騎士に顔を見られないようにした。

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