11 不器用な男たち
「ゴールだ! 脱獄犯の、ゴールがいたぞ!」
騎士の叫び声を合図に、ゴールは振り返って駆け出した。同時に、周囲の人間がざわめき出す。その喧騒を切り裂くように、背後から「待て!」という声が迫ってくる。
まずはリヒナーが確認できる程度に騒ぎを大きくしなければならない。その猶予は五分。であればまず向かうのは、処刑などが行われるあの広場だ。あの場には多くの人がいる。短時間で混乱の渦を起こすにはちょうどいい場所だ。
ゴールはリヒナーと別れてから歩いた道を遡る。広い道から細い路地に入り、脇に置かれた樽を蹴り倒し後ろに転がす。背後から追手二人分の驚いた声がする。樽がどこかにぶつかった音が鈍く響く。追手の声はだんだんと遠ざかっていく。振り返らず、手足をまわす。一定の距離を保ったまま、ふたりの騎士は追ってくる。
細い路地を抜けると、広場に出た。酒を酌み交わす男たち、世間話に興じる婦人、走り回る子ども、それらには目もくれず走る。皆、なんだこの男はというような目でゴールを見る。まだなにが起こっているのか分からないようだった。広場の中心を過ぎた辺りで、追手の騎士たちも路地を抜けたようで、また大声をあげた。
「ゴールだ! 誰か捕まえてくれ!」
この声をきっかけに、広場にもまたどよめきが広がった。まだ足りない、とゴールは思い、空いているテーブルまで行き、それを掴んで騎士たちの方に放り投げる。周りにあった三つの椅子も、適当な場所に放り投げる。とはいえ騎士以外の人は狙わない。
転がったテーブルは騎士のうちのひとりに当たり、大きな音をたてながらさらに民家の壁に激突した。投げた椅子もそれぞれガラガラと音をたてて転がる。そこでようやく、広場にいた人々は異常事態を感知した。自分にも危害が及ぶかもしれないと悟ったのだ。談話していた婦人のひとりが金切り声のような悲鳴をあげ、それをきっかけに広場は混乱の渦の目となった。
それを確認したゴールは、広場を出て広い道を走った。とにかく目立ち、騎士の目をこちらに向けさせる。隠れたりするのはそのあとだ。
ちらりと振り返ると、追手の騎士はひとりだけになっていた。さっきテーブルを当てた騎士は来ていない。動けなくなったか、あるいは仲間を呼びに行ったのかもしれない。騒動を大きくするには、より多くの騎士を巻き込みたいところなのだが、騎士の詰所がある城の方へはリヒナーがいるので行けない。騎士による応援の要請か、市民からの通報、報告をしばらく待つしかない。
とはいえ、ひとまずリヒナーが確認できる程度の騒ぎは起こせただろう。約束の時間はもう過ぎた。彼が行動を起こすのはこれからだ。無事、城へ侵入できるだろうか。
城の側面の城壁を三割ほど登ったところで、リヒナーは街の方を観察していた。よく効く夜目で広場の方を見ると、ゴールが暴れているのが見える。思っていたより派手にやっているようで、思わず笑ってしまう。なかなか豪快なじいさんだ。
ふたたび城壁に向き直り、飛び出した岩を足場にして登っていく。視界に映り込む満月が、『月の泪』に近づいていることを実感させる。しかし実際には、城壁を登り切るにもまだけっこうな時間がかかる。できるだけゴールには頑張ってもらいたい。あの様子を見るに、あまり心配は要らなそうだが。
硬くゴツゴツとした岩に手をかけ、腕に力を込めて身体を持ち上げる。飛び出た岩で姿勢を低くして、呼吸を整え汗を拭う。
そこで思う。僕はいったい、なにをやっているのだろうか。なぜこうまでして、僕は『月の泪』を求めているのだろうか。なぜ僕は、盗人なんかをしているんだろうか。
昔はこうじゃなかった。義賊のようなことをしていたこともあったが、それ以前は、盗みなんてせず学校へ通い、友人と夢や政治について話し合ったものだった。家は裕福だったし、文化資本もあり、両親も僕にはよくしてくれていた。なのになぜ、僕はこんなところにいるのだろうか――
頭を振って、脳裏に這い寄る虚無を振り払う。ふたたび城壁の岩に手をかける。ざらりとした岩の触感が、思考を現実に連れ戻す。
すべては過ぎたことだ。そして僕が盗人になるのは、必然だった。なぜなら僕は、そういうものとして生まれてきたからだ。リヒナーは自分にそう言い聞かせる。
ふと、ゴールの言っていたことが頭に響く。『きみは、魔法が使えるか?』
あれは、いったいどういう意味だったのだろう。なぜあの時、急にあんなことを訊いたのだろう。
考えても、リヒナーには答えが出せなかった。もしお互いが無事で、ふたたび会うことができたなら、訊いてみてもいいのかもしれない。頭の片隅で、そんな楽観的なことを考えた。
広い道で顔と烙印を晒しながら、ゴールはひた走る。ひとりだった追手の騎士はいつの間にか三人に増えていた。近くにいたものが合流したのだろうか。この調子で、多くの騎士を巻き込みたいものだ。
しばらく無心で広い道を走っていると、前の路地から騎士がふたり飛び出してきた。すぐに逃げようと振り返るが、背後にも騎士が迫っていた。逃げ込める路地はない。
であれば仕方ない。ゴールは道の脇に置かれた木箱と樽に乗って跳び、民家の窓枠に足をかけ、そのまま屋根までよじ登った。屋根から屋根へ飛び、ふたつ隣の通りにまた降り、走る。周囲の人間が短い悲鳴をあげる。遠くから「追え!」と怒鳴る声がする。ゴールは声から遠ざかる方向へ、また細い路地に入る。
中心街で生まれ育ったゴールにとって、この辺りは庭のようなものだった。どんな騎士よりもここには詳しい自信がある。そんな空間を全力で走り回っていると、まるで自分が子どもに戻ったかのように錯覚してしまう。不謹慎だが、この状況を楽しんでいる自分がいる。
開放的な気分だった。実際、外に出るのは久しぶりでもある。こんなに運動をするのも久しぶりだ。春のすこし冷たい風が心地よい。いつまでだって逃げられそうな気さえする。
意識が幻想へ踏み込むのを遮ったのは、広場の方から聞こえた轟音だった。まるで巨大な岩石でも降ってきたみたいな地響きとともに、その音はもたらされた。どこかから「なんだ!」と言う騎士の大きな声が聞こえてくる。市民たちは不安げに広場の方角を見ている。
ゴールはふたたび屋根に登り、またべつの民家の屋根へと跳んで、広場の方へ近づいていく。広場からは土煙らしき煙が上がっている。それが確認できた次の瞬間には、老若男女さまざまな人々の悲鳴が聞こえた。
なにが起こっている? ゴールは一瞬立ち止まり逡巡する。その瞬間、下からこちらに向かって飛んでくる氷塊が視界に入ったので、咄嗟に下がって回避する。おそらく、調律騎士団第五師団の魔術師たちがやってきたのだ。
「我々がゴールを追うので、皆は広場へ!」
魔術師のひとりがそう叫び、ふたたび氷塊を飛ばしてくる。ゴールは転がってそれを避け、また走り出す。しばらくは氷塊しか飛んでこなかったが、やがて飛んでくる魔法の種類は増え、それもあちこちから飛んでくるようになった。
こうなると屋根の上にはいられない。また細い路地に降り、広場の方へ向かう。しかし騎士たちもこちらを追うものと広場へ向かうものがいて、どう移動してもぶつかってしまう。
広場でなにかが起こっているのは確かなのだが、なにが起こっているのがまるで分からない。
一度広場には繋がっていない細い路地に入り、身を隠す。耳をそばだて、なるべく情報を拾うよう努める。広場の方から悲鳴がまだ聞こえている。その悲鳴は広場を爆心地にしたみたいに周囲へ拡散していっているようだった。つまり広場でなにかが起こり、その影響はいまも続いているということだ。岩石が降ってきたというわけではないようだった。であれば悲鳴が拡散していくことに説明がつかない。
しばらくじっとしていると、また轟音が響いた。家屋が崩れたような地響きを伴う、凄まじい音だ。続いて、また質の異なる音が空を切るように響く。それはまるで魔物の――いや、二十年ほど前に相対した、竜の咆哮のように聞こえた。
竜?
ほんとうに広場に竜が現れたとなれば、悲鳴が拡散していってることにも説明がつく。先ほどの轟音も、竜が暴れた事によるものかもしれない。しかし、なぜ竜が? 今からだと三週間ほど前に、東海岸のとある家に竜が降ってきたとアリアたちが言っていたが、それとなにか関係あるのだろうか?
考えても結論の出ないことを、いま考えても仕方がない。
しかしゴールは居ても立ってもいられず、身を隠していた路地から飛び出し、とりあえず広場へ向かうために広い道へ出る。途端に、三人の騎士に補足されてしまう。「あ!」と騎士のひとりが言う。ゴールは咄嗟に騎士から離れるように走り出す。
「ゴール! 待ってくれ!」
これまでの騎士とは口調が違うな、と思いつつゴールは足を動かしながら、背後をちらりと見る。追ってくる三人の騎士の顔には見覚えがあった。魔物を退治しようと勝手に家を出てアリアに叱られたあの日、東海岸にいた騎士三人組、ザーク、サン、ラヴェルだ。ゴール率いる第四師団にいた者たちだった。
彼らとは確かに仲間だったが、いまはその関係も壊れてしまっている。面と向かって話す資格はない。ゴールは背を向け駆ける。三人は追ってくる。説得するように声をかけてくる。
「ゴール! おれたちはあんたを捕まえたいわけじゃない!」サンが言った。
「ならば追ってくるんじゃない!」とゴール。
「広場に竜が出たんだ!」ザークが叫ぶ。「ゴールの力が要るんだよ!」
ゴールは騎士たちの言葉に足を絡め取られたように、走るペースを落とす。三人の騎士たちも、同じようにペースを落とし、一定の距離を保ったままついてくる。
「話を聞いてください!」ラヴェルが言う。「一度落ち着きましょう」
ゴールはもはや歩くような速さで足を動かし、細い路地に入る。路地の先は行き止まりだった。もちろんゴールは承知のうえでこの道に入った。彼らの言葉を信じようと思ったからだ。
路地の突き当たりまで歩き、振り返る。ザーク、サン、ラヴェルは肩で息をし、ゴールの目を真っ直ぐ見つめる。
「広場にいるのは、竜なのか?」ゴールは訊く。
騎士たちは頷く。静寂に包まれた路地にも、遠くからの悲鳴が入り込んでくる。
「いったい私にどうしろというのだ。竜を斬って、それから捕まればいいのか?」
「ゴール、落ち着いてください」ラヴェルが言う。「我々はあなたのことを悪人とは思っていません」
「きみたちが思っていなくても、他の皆はそう思っている」
「少なくとも第四師団の者はそうは思っていません。確かに罪人ではあります。でも悪人ではない」
「だから表に出てこいと? 悪いが、それはできない。そんな理屈は通用しないぞ」
「嘘だ」とサンが言う。「騎士ゴールはそんな男じゃない。街の混乱をほうってどこかへ逃げるような、そんな男じゃあ断じてない!」
「調律騎士団にはベルトラムやギヨームのような熟練の騎士たちがいる。彼らにだって竜は斬れるだろう」
「そういう問題じゃあない! あんたはそれでいいのかって話なんだ」
「私はもう騎士じゃない。ほうっておいてくれ」
「見損なったぞ! ジジイ!」サンが吐き捨てるように言う。「『竜斬り』ゴールはどこに行っちまったんだよ!」
「私は竜を斬ろうと思って斬ったのではない。皆を守ろうとした結果、竜を斬ったに過ぎない」
「ならば、いまのあんたは皆を守ろうだなんて微塵も思っていないってのか?」
「それは……」ゴールは返事に窮した。
「おれの憧れた『竜斬り』ゴールは、そんな人間じゃあない」
「……好き勝手言ってくれるな、サン。ではさっきも訊いたが、仮に私が広場で竜を斬ったとして、その後どうするのだ。おとなしく捕まって処刑されろというのか」
「そんなことにはさせないよ」ザークが言う。「僕らが協力する。ゴールを逃がすか、第四師団に戻れるよう話をするよ」
「そんなことをすれば、きみたちもまとめて処刑されるかもしれないぞ」
「おれはそれでも構わない」サンが言う。「あんたと死ぬなら、それがおれの騎士道だったということだ」
「軽々しく死ぬなど言うものではないぞ、サン」
「あなたにそんなことを言う資格がありますか、ゴール」ラヴェルが言う。
「なにが言いたい」
「王の声に背くことがなにを意味するのか、知らなかったわけではないでしょう」
「当然だ」
「でも、あなたは背いた。なぜですか?」
ゴールは空を見上げ、長い息を吐いて言う。「私は、子どもは斬らない。きみたちにも斬らせない。たとえそれが、神の
「そんなことのために、あなたは死のうとしたのですよ。サンと変わらないじゃないですか」
「そんなことをすれば、私はもはや人ですらいられない。死ぬのと変わらないのだ」
「では、ゴールは死ぬしかなかったというんですか」
「そうだな……そういうことになってしまうな」
「認められるかそんなこと!」サンがまた大声を出す。
「サン」ゴールが言う。「さっきも言ったとおり、私はもう騎士ではない。しかし、まだ人ではある。なあ、私の言っていることの意味が分かるか」
「ああ、もちろん。おれもそう思っている。だから、失望しかけている」
「きみたちの役目はなんだ」
「住民を守ることだよ」ザークが言う。「僕らはそのためにここへ来た」
「きみたちは、きみたちの成すべきことを成すのだ。私は、私の成すべきことを成す」
「ゴール……」ラヴェルが険しい顔をこちらに向ける。
「さっさと住民の避難誘導をしろ」とゴールは言う。「私はいまから、サン、きみから剣と盾を力尽くで奪い取る」
「なるほどな」サンの口角が上がっていく。やがて歯を見せて笑い出す。そして剣と盾をその場に捨てて言う。「あいにく、剣と盾はどこかで落としたんだ。勝手に探してくれ」
「そうか、分かった」
「行くぞ。ザーク、ラヴェル。みんなを守るんだ」
サンは振り返って広い道へ歩き始める。ザークとラヴェルもそれに続く。
ゴールは、サンが落としたと思しき剣と盾を奪い取る。彼らを巻き込まないためには、そういうことにしておかなくてはならない。サンはすぐに意図を汲み取り、落とした剣と盾をゴールに奪われた、というストーリーを頭のなかで組み立てたようだった。決してゴールに協力したわけではありませんよと、
不器用な生き方しかできないやつばかりだ。ゴールはそんなことを思いながら、広場の方へ駆け出した。
リヒナーが城壁の七割を登りきった頃、爆音とともに、広場になにかが落ちた。落下地点からもうもうと立ち上る煙の向こうに、巨大な影が目視できる。その輪郭はまるで竜のようだった。
続いて、獣の咆哮のような音が街中に響いた。城壁を揺らすような異常な音だった。おそらく城のなかにも響いていることだろう。これにより、街の混乱はおそらくさらに加速する。
いったいなにが起こっているのか、リヒナーにはよく分からなかった。ただ想定外の事態が起きていることだけは確かだ。そしてそれは、自分にとって都合がよいことであると推察できる。まさかゴールが用意したサプライズというわけではあるまい。こんなことができるなら檻のなかにいる時からやっているはずだ。あれは間違いなく誰も想定していない異物だろう。
広場に登る煙が晴れていく。現れた異物の正体は、やはり竜だった。おそらく全長は十メートル前後。街の色になじまない白銀の鱗を纏い、長い首と長い尾を持っている。翼も前腕も細長く、全体的にスラリとしたフォルムだ。容姿に加え色も相まって、老いているような印象を受ける。実際のところどうなのかは分からないが。
ヒノエが言うには、竜という種族は温厚だという話だった。ところがこの街においてはその限りではないらしい。いまから三週間ほど前にも東海岸に竜が降ってきたとヒノエが言っていた。
適当に流してたということもあるが、いまになってリヒナーは思った。竜が降ってきたとは、いったいどういう状況だ?
飛行能力を失って落下したということなのだろうか。それともたとえば、べつの竜に叩き落されたとか、そういうことがあるのだろうか。あるいは自らの意思で街に突っ込んできたのか。そんな
なにも分からない。まあしかし考えても無駄なことは、考えないに限る。
リヒナーは城壁に向き直り、また『月の泪』を目指して手足を動かす。
竜の形をした黒い流星は、中心街――フォボス城のすこし前の辺りに落ちたようだった。呆然と立ち尽くすアリアとヒノエの全身に、その衝撃が伝わってくる。
アリアの目には、確かにそれは竜の形に見えた。竜の形をした岩石や星というものが存在するのであれば、いまのが正にそれなのだろうが、そんなものは見たことも聞いたこともない。であれば、あれは竜以外では有り得ない。もちろんそれはアリアの感覚が正常であれば、という大前提の上の話だが、もはや疑いの余地はなかった。あれは、竜だ。
しかし解せない。なぜこうも短期間でシエリには竜が現れるのだろうか。しかも、降りてくるわけではなく、降ってくるという異様な状況だ。長く竜について調べているが、そんな竜の習性は聞いたことがない。まさか月光の魔力に当てられて酔ったわけでもあるまい。シエリには満月に魔力があるという話が伝わっているが、そのような事実は一切ない。酔うのはそう思い込んでいる人間だけだ。
アリアには、シエリにおける竜の出現が、もっと悪いことが起こる前兆に思えてならなかった。具体的になにがというわけではなかったが、とにかく嫌な予感が胸中にあった。もしこの予感が的中し、仮にこのシエリに隻腕の竜が現れたとすれば、それは願ってもいない好機なのだが、いまのアリアのなかには隻腕の竜と向き合えるほどの心の余裕がなかった。いまは、弱ったヒノエと手綱を握りきれていないゴールを、わたしの事情に巻き込みたくない。そう思うばかりだった。
「アリアさま……」ヒノエが不安気に言う。
「だいじょうぶよ」アリアはヒノエに微笑みかける。「さっさとゴールを連れて戻りましょう」
竜が降ってきたところに土煙が立ち上っている。たくさんの悲鳴がこちらに近づいてくる。
アリアはひと呼吸置いて、騒ぎの爆心地へ向かって駆け出す。ゴールがいるならきっとそこだ。おそらくあのお人好しは、この状況では逃げ隠れすることができない。皆を守ろうと、竜と対峙する。ヒノエが懸念しているのは、ゴールのそういうところだろう。容易に推測できるからこそ、ヒノエは不安に感じている。そんな状況が悪い方へ転べば、もうゴールと会うことは叶わない可能性も大いに有り得る。
急げ。アリアは自分に言い聞かせながら足を回す。こんなふうに走るのは久しぶりだった。魔法で加速することはできるのだが、それでは速すぎる。抱えたヒノエを振り回すわけにはいかない。
人の気持ちとは、時と場合によっては枷となり得る。しかしアリアはその枷を外すつもりは毛頭なかった。ヒノエのゴールに対する思いと、自身がヒノエに抱く思いが、アリアを人のかたちに繋ぎ止めていた。ヒノエと、ヒノエの抱えた気持ちを、あの空っぽの家には置いていけなかった。この感情を捨てた時、自分は化け物に成り果ててしまう。そんな予感に背中を押されている。
そのまま進み、大通りに差し掛かる。悲鳴の隙間を縫い、たくさんの人の流れをかき分け進む。この道を抜ければ広場に出る。竜はそこで暴れている。目視はできないが、おそらくゴールもそこにいる。まだいなくても、いずれやってくる。竜は適当にやり過ごせばいい。
「止まれ!」
正面から大きな声がする。広場の入口には騎士が数人立っていて、声を発したのは中心に立っている騎士だった。さらりとして艶のある茶髪に、そばかすが印象的な若い男性だ。巨大な盾を背負っている。状況が状況だけに目は険しく、避難誘導のため喉を酷使しているのか、すこし声が掠れていた。
アリアは立ち止まり、ヒノエをそっと下ろす。小さな声で、「隠れてなさい」とヒノエに伝える。
ヒノエは無言で、大通りから路地に走っていく。路地で身を低くし、アリアとその向こうの広場を見る。
ふう、とアリアは息を吐き、そばかすの騎士に言う。「ええと、通してもらえないかしら」
「できません。この先は危険ですので、早く避難を」
「広場に用があるの。もう一度言うわ、通してもらえないかしら」
「ですから、できません。ご覧の通り、広場には竜がいるのです。いったいなにをしようというのですか、お嬢さん」
はあ、とアリアは溜息を吐く。「あなた、名前は?」
「名前?」そばかすの騎士は怪訝そうに顔を歪めるが、語気を荒げたりせず言う。「私はベルトラム。調律騎士団第三師団長です。ここは我々に任せて、早く避難を」
はぁああ、とアリアは長い溜息を吐いた。「ああ、偉い方なのね。ゴールとかとおんなじ」
ベルトラムは無言でさらに顔を歪める。なにか気に触ったようだった。しかしアリアにとって、そんなことはどうでもよかった。もう彼を退かして広場へ入るという気でいた。
騎士というのはこんなやつばかりなのか。融通の利かない、不器用な男たちだ。
「あなた達ほんとに、人を見る目がない」
アリアは杖で石畳を軽く突き、自身に魔術を付与する。
魔法とは、鏡像の本質と結びつくイメージの力。ヒノエにはそう言った。それも間違いではないのだが、実際には、歪んだイメージと自身の抱く本質をこじつける、妄想の力とも言える。ここに自身の納得が在れば、それは魔法になり得る。想像力の強さが、思い込みの強さが、魔法の力に変わる。
ヒノエは避難させた。この先にゴールがいる。けれど目の前の騎士が邪魔。だったら退かしてしまえばいい。簡単な話だ。後のことは後で考えればいい。ゴールとヒノエと、いっしょに考えればいい。
アリアはその場でくるりと一回転し、姿勢を低く落とす。ぐっと力を込め、右足で地面を蹴る。その一歩はアリアを爆発的に加速させる。一瞬でベルトラムの懐に潜り込み、彼の腹を左足で思い切り蹴った。ベルトラムは為す術なく吹き飛び、広場を突き抜け、向こうの民家の壁に激突した。
周囲の騎士がざわめきだす。しかしアリアにはなにも聞こえていなかった。広場のなかに、竜と対峙するゴールの姿を見たのだ。いまにも竜が、ゴールに喰いかかろうとしている。
アリアはふたたびくるりと回り、地面を強く蹴って加速する。竜の横顔を目指し、放たれた矢のように飛んだ。
ゴールに向かって飛んでくる魔法は、時間が経つに連れ苛烈になっていった。屋根を走っていなくても、魔術師の視界に入れば火球や氷塊、水流や雷撃が飛んでくる。シンプルな攻撃魔法に見えるが、これらも鏡像に結びついた力なのだと思うと、魔術師たちに対しても違った印象を抱く。
鏡像や本質といったヒノエの話を鑑みると、彼らは単に魔術の才能があっただけという話ではなく(実際、才能はすこし関わるのだろうが)、己のことをよく知っているということだ。自分を知ろうと努力をし、そしてちゃんと自分を見つけ出したということでもある。それが難題であるとは容易に想像できる。ただの頭でっかちなわけではないのだ。そこには正しい自己理解と、騎士としての矜持がある。当然、舐めてはかかれない。
若い頃は、魔術師には特に負けたくないと思ったものだった。ゴールは魔法を扱えなかったこともあり、第五師団の魔術師たちに対しては選民思想的な傲慢さを勝手に感じていた。しかしそう思っていた理由も、いまなら分かる。きっと皆、鏡像を見つけ出すのに苦しい思いをしたのだ。互いが互いの理解者でもあるから、結束も強かった。それが端から見ると、排他的に見えたのだ。魔術師たちの間には、鏡像を求めて彷徨う苦しみに対する相互理解と、顕現した魔法という共通言語が存在している。それが意思を深いところで繋げているのだ。他の者が入り込む余地はない。
しかし、だからといっておとなしくやられるわけにはいかなかった。魔術師たちに矜持があるように、ゴールにも矜持がある。ただし具体的な計画はなかった。ただ街の人間を守らなければならないという、騎士としての矜持がゴールを広場へ向かわせていた。
広場で竜を斬る、もしくは追い払う。考えているのはそこまでで、その後のことは考えていない。また頭のなかに、この自分の命が運良く拾ったものだという考えが湧いてくる。ならばその後のことは、もはや考えなくていいのではないか。
「捕らえろ!」と背後で声がする。まばゆい閃きを始点に、空間に亀裂を刻むように雷撃が飛んでくる。ゴールは咄嗟に振り返り、盾で空に向かってその一閃を弾いた。しばらく天に向かうよう残った雷の柱は、やがて最初からなにもなかったみたいに消えた。
魔術師たちは驚嘆の色を目に浮かべて、しばらく硬直していた。ゴールはふたたび駆け出す。背後から魔法はもう飛んでこなかった。とはいえ走っても走ってもべつの魔術師と遭遇し、その都度、魔法を盾などでやり過ごすことになった。ゴールの方からは反撃しないので、数も減らない。
進めば進むほど、悲鳴の渦のなかに入り込んでいってる感覚がある。一方向から聞こえていた阿鼻叫喚の声はやがてまばらに聞こえてくるようになり、空気も埃っぽく感じる。飛んでくる魔法は減り、代わりに騎士の声の数が増えた。
広い道の向こうに、広場で暴れる竜の姿が見て取れた。十メートル近い体長に、赤い眼と白銀の鱗が眩しく感じられる。身体の各パーツが細く長く、全体としてはやや貧弱な印象を受けるが、近寄るにつれ、腕も足も大木のような大きさであることがわかる。
竜は咆哮し、その場で回転する。長い尾が石積の民家の壁を抉り、石の礫を雨のように降らせた。それに男性の絶叫が続き、吹き飛ばされる幾人かの騎士も見えた。騎士以外の住民の姿はない。おそらく避難はもうほとんど済んでいるのだろう。
であれば、多少は暴れてもよい。
ゴールは思い切り地面を蹴り、道から広場へ飛び込んだ。ふたたび地面を強く蹴り、剣を構える騎士と倒れた騎士の間を通り抜ける。竜が気づき、ゴールへ鋭い眼光を向ける。その赤い眼の光のなかには明確な敵意が窺える。一瞬でお互いがお互いを相容れない存在であると判断を下す。
先に攻撃をしたのは竜のほうだった。白銀の鱗で覆われた尾の先をゴールに向け、槍のように繰り出す。巨大な丸太が真っ直ぐ飛んでくるような圧に慄き、ゴールは強く地面を蹴って大きく転がって避ける。尾が地面を突き、石畳に穴をあける。
ゴールは転がった先、膝でその場に立ち、ゆらゆらと動く細長い尻尾を見る。鞭のようにしなっているが、当然あのなかには骨と筋肉があり、石畳を貫くような爆発的な力を生み出している。運用法も様々だろう。いまのように突くこともできれば、掴むこともできる。厄介なものを持っている。
ゴールは立ち上がり、両手で剣を構える。もはやこの巨体の圧倒的な暴力の前では、盾も意味を成さない。竜が歯を見せ、低いうめき声とともに長い息を吐く。ゴールもその場で跳ね、春の澱んだ空気を吸い込み、空に向かって吐いた。お互いに精神統一を済ませ、ふたたび睨み合う。
ゴールの背後では騎士たちがざわざわしている。「ゴールだ」とか、「竜斬りがきてくれた」だとか、「捕らえなくていいのか」とか、様々な声が飛び交っているが、ゴールは無視して言う。
「残りたいものは残れ。そうでないなら去ってもよい」
騎士たちは黙り込む。しかしこの場を去る者はいなかった。背後でカチカチと音がなる。どうやら皆、剣や盾を構えているようだ。彼らもまた、やはり騎士であった。
竜に向かって突撃しようと剣を構え直したそのとき、ゴールと竜の間をなにかが素早く横切った。通り抜けたそれは民家の壁に激突し、微かにうめき声を上げる。なんだ? と思い目を向ける。竜は構わず嘶き、長い首を素早く伸ばしゴールを喰らおうとする。竜に向き直った時、竜の顎は目と鼻の先に迫っていた。喉の奥の暗黒が、ゴールに暗い未来を見せる。
が、またそこで横槍が入った。横切ったなにかが飛んできた方から、またべつのなにかが飛んできたのだ。今度のそれは竜の
竜の身体を倒したなにかは、ゴールの前にふわりと降りてきた。栗色の長い髪に、黒いローブ、そして背丈ほどある杖。ゴールは思わず声を上げる。
「アリア!」
雷のように現れ、雪のように降りてきたアリアは、顔をゆっくりと動かし、ゴールの方を睨みつける。その表情は、怒りに満ちていた。いまに吹雪や落雷さえ起こしてしまいそうな、そんな雰囲気を湛えている。
アリアはゴールにゆっくりと近づき、まず杖の先でゴールの頬を
やがてアリアが口をひらく。「ヒノエに免じて、今回はこれで許してあげる」
「すまん」とゴールは言った。打たれた頬が痛む。その痛みは胸の奥まで届く。
竜は体勢を整え、赤い眼でふたりの顔を捉える。大きく口をひらき、青い火炎を零しながら唸る。翼と四肢を拡げ、尾で地面を薙いで大きく音を鳴らす。それはまるで獣のような振る舞いだった。
「きみの探している竜ではないようだ」とゴールは言った。
アリアは言う。「わたしの騎士は斬る気でいるみたいだけど」
「なあアリア、手伝ってもらえないだろうか」
「あなた、わたしにお願いできる立場にあると思ってるの?」
「頼む」
「はあ」とアリアが溜息を吐く。「分かったわよ」
「恩に着る」
「じゃあわたしからもお願いなんだけど」
「なんだろうか」
「いまさっき、騎士の偉い人を蹴飛ばしちゃったのよ。竜をどうにかしたら、いっしょに逃げてくれないかしら」
「なに?」ゴールはアリアから目を離し、最初に自身と竜の間を横切って民家の壁に激突したなにかを見る。
そこには人がいた。背後にいた騎士たち数人はそちらに向かい、声をかけている。その姿には見覚えがある。若くして調律騎士団第三師団長に登り詰めた騎士、ベルトラムだった。どうやらアリアはベルトラムを広場の外から蹴飛ばし、民家の壁にぶち当てたらしい。なぜそんなことを、と思いはしたが、この際どうでもよかった。蹴飛ばした、という表現もよく分からない。魔法でやったのではないのか。
「なるほど」とゴールは言う。「きみも犯罪者というわけだ」
「返事は?」
「分かった、終わったらいっしょに逃げよう」
白銀の竜は長い腕を振りかぶり、ゴールとアリアに振り下ろす。ゴールは右に、アリアは左に跳びそれを躱す。石畳の砕ける音と、飛散する礫と砂煙がふたりを分断する。
「ゴール」と煙の向こうから声がする。「魔術師と踊ったことはあるかしら」
「いや、ない」
「あら、そう。じゃあ、わたしがリードしてあげる」
「ああ」ゴールは満月の元で輝く、竜の赤い眼を見上げて言う。「きみを信じよう」
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