10 長い夜の始まり

 ゴールはリヒナーから新たに外套を受け取り身に纏う。フードで顔を覆い、街の薄闇に身体を隠しながら、中心街へ向かう。すでに陽は沈んでいるが、きょうは人の数がやけに多い。その理由に、空を見上げて思い至る。きょうは満月なのだ。


 シエリにおける満月の夜は活気に満ちていた。夜の天上界に燦然と輝く月が、煌々と月下界を照らす。人は皆その恩恵にあずかろうと外に出る。月に祈り、いわば日光浴ならぬ月光浴をする。これは過去の風習なのだが、いまもその残滓を感じさせるほどに、人が街に多くいる。


 他方、満月の夜は月の持つ魔力が、有形の死骸を蘇らせ魔物にする、というおとぎ話のようなものもある。このことから、シエリでは遺体を火葬する文化があった。灰にしてしまえば、蘇る余地もない。しかしこの死者が蘇るという話は、夜に子どもを外へ出さないための方便から始まったという逸話もある。結局、実際のところはわからないのだった。


「なあ」とゴールはリヒナーの背中に声をかける。


「なに」とリヒナーは振り返らずに言う。


「結局、なにをすればいいのだ」

「簡単だよ。ゴールには中心街で騒ぎを起こしてもらう」

「どのように」

「いま中央の図書館の前には、騎士が立っている。そこで正体を明かせばいい」

「私にふたたび捕まれということか?」

「いいや、逃げてくれ。顔と烙印を晒しながら、なるべくたくさんの人と物を巻き込んで中心街を走ってくれるだけでいい。逃げ切れるかどうかは、ゴール次第だけどね」

「なるほど。そのあいだにきみは城へ盗みに入るわけか」

「そういうこと」

「では結果がどうあれ、一度別れてしまえば、我々が会うことはもうないということになるのか」

「そうだね。これで貸し借りはナシになるし」

「ありがとう、リヒナー」

「なにが?」

「いや、私を檻から出してくれたことに対してだ。感謝している」

「でもまた檻に戻ることになるかもしれないよ」


「いいや」ゴールは口元を曲げてすこし笑った。「逃げ切ってみせるさ」


 そのまま一時間ほど早足で歩いたが、まだ中心街へは辿り着かない。ヒノエは毎日こんな距離を歩いていたのかと、頭のなかでぼんやりと思う。


「そういえば」とゴールが口をひらく。「リヒナーは、ヒノエと知り合いだったのだな」


「ああ、まあそうだね」

「どうだ? あの子」

「『どうだ?』って、なに?」

「きみから見たあの子は、どんなふうに見えるのだ」

「どんなふう……そうだな……あんまり愛想がなくて、なにを考えてるのか分かりにくいかもね」

「そうなのか」

「あんまり納得いってなさそうだね」

「私と話してる時は、けっこう笑っている印象があったものでな」

「僕は警戒されてたのかもね。雨の日には怖い顔もされたし」


「雨の日」とゴールはつぶやく。そして思い至る。「あの日、家の前でヒノエと話していたのはきみか?」


「そうだよ。それであのとき、ゴールを見つけた」

「なるほど……そういうことか」

「ヒノエは僕にとっては幸運の女神だよ。『月の泪』の在り処も教えてくれたし、城についても教えてくれた。僕が興味あるって言ったら、調べてくれたみたいで」

「でもきみはそのヒノエの親切心を踏みにじったわけだ」

「だから別れ際に謝っただろ。悪いとは思ってるよ」

「あの雨の日、ヒノエはきみに強い言葉で当たってしまったと反省していた」


「そうなのか」僕はべつになんとも思ってないけど、と思いはしたが、リヒナーは言わなかった。


「少なくともヒノエは、きみのことをすこし親しい間柄だと思っていたようだぞ」

「じゃあ、盗人として怪しまれることもなく、うまく利用できたってことだね」


「なあ、リヒナー」ゴールは真剣な口調で言う。「きみはなぜ物を盗む?」


「『なぜ』って」リヒナーも真面目に答えた。「こうすることでしか僕は生きられないからだ」


「そんなことはないだろう。他に生きる道はいくらでもある。真面目に働けばいい」

「それができないって言ってるんだ。を、誰が許容するのさ?」

窃盗症クレプトマニアか」

「僕はこの手によってすべてを失った。家族も、友人も、信頼も、居場所もだ。でもまたこの手で、足りないなにかを拾い集めなきゃならない。僕にとって『月の泪』とは、そういうもののひとつだ。そして、これが僕だ。僕は生まれながらに盗人としての性質を持っていた。暗がりから生まれた、暗がりで生きる人間だ。ヒノエとは、最初から住む世界が違う。僕は奪う者で、彼女は奪われる者だった。ただそれだけの話だよ」

「そうか……きみは、魔法が使えるか?」

「いや、使えないけど……急になに?」

「だろうな」


 似た者同士なのだ、ヒノエも、リヒナーも。受け入れがたい本質を持った本当の自分から、ずっと目を逸らし続けているのだ。ゴールはそう思った。


 さらに一時間と少し歩き続けて、ふたりは中心街と呼ばれる区域に入った。

 中心街ではこれまでに見かけた以上の人が行き交っている。処刑などが行われる広場の端では、どこからか持ってきたと思しきテーブルとチェアが置かれ、酒を酌み交わしながら月見をする男たちがいて、立ち話をする婦人の集まりがあちこちにあった。子どもたちは普段出られない時間の街に興奮して走り回っている。


 満月の夜の中心街は、平和の象徴のような空間だった。ゴールは自分がこのなかにいないことを少し寂しく思う。しかし自分はこの場でいまから混乱を起こそうとしている。そのことにも胸が痛む。


 陽気な人々の脇をすり抜け、広場から細い路地に入ったところでリヒナーは立ち止まり、こちらを向いた。


「じゃあ、ゴール。ここでお別れだ」

「ああ、分かった」

「図書館の場所は分かるよね」

「当たり前だろう。あまり老人を舐めるもんじゃないぞ」

「いや、ごめんごめん。いちおう確認しただけだよ」

「分かっている。『変な気を起こすなよ』と、そう言いたいんだろう?」


「話が早くて助かるよ」リヒナーはニヤリと笑いながら言う。「いまから五分後、ゴールが図書館前から騒動を起こす。僕はそれまでに城前まで行く。十分経って騒動が確認できなかったら、僕はゴールが裏切ったと見做みなす。もしそうなった場合、僕にも考えがある。妙な気は起こさないことだ」


「ああ、この街史上最大の騒動を起こしてやる。きみも適当にやることだ、リヒナー」

「まあ、程々に期待してるよ。それじゃあ」

「さよならだ」


 ゴールとリヒナーはお互いに背を向け歩き始めた。リヒナーは広場の向こう、フォボス城のあるほうへ、ゴールは暗い路地を抜け、図書館のほうへ進む。


 このまますぐに東海岸のあの家に向かい、アリアとヒノエに合流すれば、もしかすると逃げられるかもしれない。そんな考えが脳裏をぎりはするが、ゴールの心はもう決まっていた。

 このまま図書館の前まで行き、リヒナーの言う通り騒動を起こす。逃げ切れるかどうかは分からないが、どうせ終わっていたこの命を拾い上げたのは彼なのだ。彼が盗人であっても、やはり売られた恩を仇では返せない。私が私である以上、他にもう選択肢は有り得ない。


 図書館まであと百メートルほどのところまで来た。一度立ち止まり、深呼吸して心臓を落ち着かせる。

 図書館の入口の脇には、リヒナーの言った通り、確かに騎士がふたり立っていた。見覚えのない若いふたりだった。街なかの警備ということもあり比較的軽装備だ。兜はかぶっておらず、鎖帷子くさりかたびらの上に調律騎士団のシンボルである紫の三日月が描かれた布の服を着込んでおり、皮の手甲と足甲を装備している。そして腰には剣を提げており、背中に盾を背負っていた。街の警備であればこの程度で充分ということなのだろう。実際、その通りではある。


 対してゴールは丸腰だった。布の服の上に外套をつけているだけだ。剣もなければ盾もない。武器と呼べるものはなにも有していない。おまけに目の前の騎士たちよりもひと回り、いやもしかするとふた回りも年上だ。こちらに有利に働いていることといえば、身軽であるという一点のみだった。

 であればこのアドバンテージを活かすほかない。とにかく速く、とにかく複雑に逃げ回るのだ。


 ゴールは図書館の入口へ歩を進める。もうすぐ約束の時間だ。大きく息を吸い、吐く。

 だいじょうぶだ。私なら逃げ切れる。いいや、最悪捕まっても構わないのだ。この命は拾ったものなのだから。しかしそうなると、今度はヒノエとアリアを裏切ってしまうことになる。彼女たちには匿ってもらった恩がある。であればやはり捕まるわけにはいかない。


 騎士の前に立つと、ふたりの騎士たちは怪訝な顔をこちらに向けてくる。フードと外套でなにもかもを覆い隠した何者かが、なにも発さず眼前に立っているのは、異様な光景と言って差し支えないであろう。思わずふたりに同情した。


「なにか御用でしょうか」と右側の騎士が言う。左側の騎士はこちらを見つめたまま、黙っていた。


 ゴールは深呼吸の後、覚悟を決めて外套を石畳の上に放り投げ、「やあ」と言った。いちおう笑顔で、手も振ってみた。


 騎士たちの顔には、みるみる間に驚愕の表情が浮かんでくる。しばらく沈黙が続いたが、やがて右側の騎士が叫ぶ。


「ゴールだ! 脱獄犯の、ゴールがいたぞ!」






 ヒノエはアリアとともに中心街へ向かっていた。とは言っても身体は満足に動かないので、アリアのなんらかの魔法によって宙に浮かべられ、運ばれているという状態だった。こんな有様なので、最初は家で待っていてと言われたが、断った。結果、このように運ばれている。申し訳なく思う気持ちをどうにかアリアに伝えようとしたが、まだうまく言葉が紡げなかった。

 アリアはヒノエのすこし前を走っている。アリアが進んだ分、ヒノエも進む。まるで見えない腕に掴まれているような感覚だった。


 陽が沈んでから一時間ほどが経った。最初は走っていたアリアも息を切らし、やがて歩き始める。

 ヒノエは、アリアが走ったり息を切らしている姿をこれまで見たことがなかった。肩で息をする小さな身体を見ていると、罪悪感が芽生えてくる。胸が針で刺されたように痛む。


「ごめんなさい、アリアさま」思わずヒノエは口から謝罪の言葉をこぼした。


「ヒノエは悪くないわ。悪いのはゴールよ」


 アリアはヒノエやリヒナーに対してではなく、ゴールに怒っていた。このような姿も見たことがなかったものだから、いちおうゴールをかばい、本人には戻って来る意思があるようだったと伝えたのだが、無駄だった。そんな言い分には納得できないと言い、アリアは飛び出してきたのだった。


 アリアの身体は運動と怒りによって火照る一方で、ヒノエは浮きながら春の夜風に吹かれているうちに、身体がすこし冷えてきた。しかし悪寒は感じない。代わりに、自分のなかに小さな炎のようなものが芽生えたのを感じていた。それは温かく、四肢の末端にまで徐々に活力を運んでくれている。ばらばらにほどけかけていた意思が、生きるための力に変わっていく。


「ヒノエは、この一週間でずいぶん変わったわね」アリアは振り返らずに言った。


「そ、そうでしょうか」

「うん。ゴールとは、たくさん話したの?」

「はい……うんとたくさん、話したと思います」

「ゴールは、どういう人だった?」


「ゴールは……」ヒノエはきょうまでの一週間を思い出しながら、ゴールとの会話のなかに散らばったきれいな欠片を拾い集めて、言葉にした。「アリアさまの言ったとおり、悪い人じゃありませんでした。ただ真面目で、騎士らしく、人らしく振る舞おうとした結果、投獄されたんだと思います。義理堅い、博愛主義者のような感じかと。リヒナーについて行ったのも、檻から出してもらった恩に報いるためで、戻って来ると言ったのも、アリアさまに恩を感じているからで、ええっと、その……」


「うん」とだけアリアは返事をして、言葉の続きを待った。


 ヒノエはアリアの背中に向かって続ける。「決して、裏切ったというわけではないと思うんです。ゴールはたぶん、そんな人じゃない……騎士たちとも仲が良かったみたいで、東西の海岸の、騎士たちをあまり良く思っていない漁師たちとも、良好な関係を築いていたようで。魔法の話もして……そう、ゴールは弱い治癒の魔法が使えると言っていました。本人に自覚はないようですが、ゴールの鏡像はきっと、博愛や慈悲の性質を持っているかと……ただ、魔法に関する理解が浅いようで」


「そうなの? もったいないわね」


「はい……鏡像や本質のことは、まるで知らないようでした。なので、ひと通り説明したんです。ゴールは理解を示してくれましたが、それが人のすべてじゃないとも言いました。人の心は多面的で、鏡像の本質が優しさから離れたところにあったとしても、それは優しい人でないということにはならないのだと、わたしにそう言ってくれました。わたしの本質を覆う多面体のいずれかの面には、優しさがあるのだと……治癒の魔法をまともに扱えない、わたしのなかにも……」


「……ヒノエは、ゴールのことをどう思っているの?」

「え? ええと、ですから、いま申し上げたとおりです」

「そうじゃなくて、うーんと……ヒノエは、ゴールのことが好き?」


「へ?」ヒノエは思ってもみないことを急に聞かれ、気の抜けた声をあげた。


「どう?」


「ええと……」ヒノエは返答に困ったが、正直に言う。「はい……そうですね……たぶん、好きなんだと思います。夜、眠る前に考えるんです……もしわたしにお父さんがいたとしたら、ゴールみたいな人だったらよかったのになと……そう思い、ます……」


「そっか」


 アリアは振り返らず小さく返事をして、また走り始めた。


 ヒノエにはアリアの質問の意図がよく分からなかった。ゴールの人となりを気にするのは分かるが、自分がゴールをどう思っているのかを気にする理由は見当たらなかった。やっぱりアリアのことは、五年いっしょにいても、まだよく分からない。


 アリアはまたしばらく走り、ようやく中心街と呼ばれる区域に差し掛かったところで立ち止まり、呼吸を整えた。春の夜の冷えた空気が肺を満たし、火照った身体に冷たさと酸素を供給する。ヒノエの話ではゴールとリヒナーとかいう盗人は、フォボス城に向かったという。目的地まではあとすこしだ。


「アリアさま」ヒノエが言う。「あれ……」


 アリアは振り向く。ヒノエが空を指差している。見上げると、夜空にはたくさんの星と、煌々と輝く満月――そして、中心街のほうへ降ってくる、黒い影があった。

 アリアにはその影が、竜のように見えた。

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