9 像の発見

「きょうはいつもより早く戻ると思う。ヒノエをよろしくね、ゴール」

 アリアはそう言い残しは、またきょうもどこかへ出かけていった。


 ゴールは二階の壁に空いた穴から遠ざかるアリアの背中を見送り、ヒノエの部屋の前まで行って、扉を軽く叩く。「どうぞ」という返事を聞いてから、そっと扉を開けてなかに入る。部屋は薄闇に覆われていて、閉じられた窓から射し込む陽光が舞う埃を際立たせていた。身体に悪そうな部屋だ、と思いながら窓をひらき、ヒノエの横たわるベッドのすこし離れたところに腰を下ろした。


 ヒノエは寝返りをうってこちらを見ながら言う。「扉、開けっ放しですよ」


「換気だ」


 微かに、明るい春風が部屋のなかを通り抜けた。浮かんで舞っている埃をさらい、花と潮の香りを床に落とす。陰気な部屋がすこし飾られると、途端にこの部屋に愛着に近い感情が湧いた。とはいえ、あともう数日でここを去るのだが。逆に、もうすぐここを二度と見られなくなるという気持ちが、そういった感情を想起させたのかもしれない、とゴールはぼんやり思った。


「調子はどうだ?」とゴールは訊ねる。


「昨日よりはよくなりましたよ。まだ頭痛と倦怠感が残ってはいますが」

「そうか。私の治癒の魔法が効けばよかったんだがな」

「だいじょうぶですよ。街を出るまでには治します」


「そういえば」ゴールはふと疑問に思い訊ねた。「アリアは、治癒の魔法は扱えないのか?」


「はい、おそらく。少なくともわたしは、アリアさまが治癒の魔法を扱っているのを見たことはありません」

「そうなのか、意外だな」

「意外ですか。どうして?」

「いや、なんというか……アリアはたぶんまだ若いと思うのだが、そのわりには落ち着いているように見えて、万能感のようなものを想起させる。魔法ならなんでも扱えるんじゃないかという、勝手なイメージがあった」

「なるほど。すこし分かります」

「ということは、アリアの鏡像の持つ本質は、治癒のイメージとは離れたところにあるのか」

「他人の鏡像を詮索するのは、あまりデリカシーのある行為とは言えませんよ」

「そうなのか。失礼した」


 ゴールの返事を端に、部屋はしんと静まり返る。その時間はしばらく続いた。


 ヒノエと話していると、こういう瞬間がよくあった。しかしこれは別にどちらかが気分を害したとか、気まずく思っているわけではなく、ただお互いが沈黙を許容していることに起因していた。話したくないなら話さず、ただそこにいてくれていい、という考えがふたりのなかにはあった。直接そう言われたわけではないのだが、この空間にはそういった共通認識が存在していた。


「しかし、アリアは毎日どこへ行っているのだろうか」ゴールは新しく浮かんだ疑問を投げかける。


「アリアさまは……」ヒノエはそこまで言ってから一瞬の逡巡を挟み、また口をひらいた。「ゴールが無事に街を出られるよう、なにかしているみたいです」


「そうなのか?」

「はい。アリアさまがゴールを連れて行くと決めた日の夜、そのためにやらなくちゃいけないことがいくつかあると、そう仰っていました」


 ゴールにとっては、これもまた意外なことだった。

 アリアとはあまりコミュニケーションをとっていないこともあって、まだ考えがよく分からなかったのだが、そうまでして私を連れて行こうとしているのか。『竜斬り』であることが、そんなに買われているのだろうか?


「なにがアリアをそうさせているのだろうか」ゴールはまた疑問を口にする。


「わたしにもよく分かりません。でも、ゴールのことを信頼しているみたいですよ。同じ夜に、あの人は悪い人じゃないとも言っていました。ただ国のルールと相容れなかっただけだ、って。アリアさまがそう言うので、わたしもゴールのことを信頼していますよ」

「そうか。だったら、アリアには感謝しないといけないな」


 ふたりは取り留めのない事柄について、何度も沈黙を挟んでぽつぽつと話し続けた。それは外界から隔絶されたような、穏やかで静謐な時間だった。自分がいま脱獄して捜索されているという状況を、すっかり忘れてしまう。


 そのまま午前が過ぎ、午後も同じような時間が流れていた。夕刻頃になると、階下から足音が聞こえた。おそらくアリアが戻ってきたのだ。きょうは早く戻ると言っていた。いつもアリアが戻るのは日がとっぷりと暮れてからだったから、すこし違和感を覚える。


 ゴールは立ち上がり、部屋を出る。階段を下っている途中で、一階の広間に人影が見えた。しかしそれはアリアの姿ではなかった。


「やあ、ゴール」とリヒナーはこちらに気付くなり、笑顔で言った。


「リヒナー」ゴールの口からも思わず相手の名前がこぼれる。「どうしてここに」


「助けに来たんだよ、ゴール」

「ああ……いや、私はこの通り、だいじょうぶだ。きみの助けも必要ない」

「ゴール、忘れちゃった?」

「……なにをだ」


 リヒナーは大げさに溜息を吐き、肩を落として見せた。「『月の泪』を盗むんだよ。僕たちで」


 忘れていたわけではなかった。ただ、もしかするとリヒナーの気が変わっているかもしれないという、釣り糸より細い一縷の望みにかけて聞いてみたのだが、その期待はしっかりと外れた。


「今になって、いったいどういうつもりだ」ゴールは訊く。


「僕は最初から今まで、ずっとそのつもりだよ。ゴールを檻から出したのも、またこうやって探し当てたのも、ぜんぶ『月の泪』を盗み出すためだ」

「やはり協力できない、と言ったら?」


「ゴールは恩を仇で返すような人じゃないとは思うんだけど、もしそう言うのであれば僕にも考えがある。べつに僕はそこらの騎士に、ここにゴールがいると教えてもいい。あるいは……」


 リヒナーはそこで言葉を区切り、視線をゴールから階段の奥、二階へ滑らせて言う。「ヒノエになにか、危害が及ぶかもね」


 身体に力が入り、思わず姿勢を低く構えてしまう。ヒノエと知り合いなのか、と思いはしたものの口には出さない。代わりにリヒナーの目をじっと睨みつけた。

 リヒナーの目に映る意思は硬く、絶対に遂行するという気迫さえ感じられた。そのために彼は手段を選ばない。ヒノエとはどういった間柄なのかは知らないが、その関係さえも利用してやろうと、そういうことらしい。初めて会ったときとは比べものにならないほど、彼は悪に染まっていた。いや、内に秘めていた悪心が、表まで滲み出てきているというべきか。

 しかし邪悪ささえ覚えるリヒナーの目の奥に、ゴールは切迫感のような薄暗い光を見た。


「なにを焦っている」とゴールは訊ねる。


 リヒナーは無視して言う。「だいじょうぶだよ。牢獄でも言ったけど、べつに、ゴールに盗めって言ってるわけじゃない。ゴールがうまくやりさえすれば、またここへ戻ってこられる。そしたら、どことでも逃げればいい。僕もそれを追いかけたりはしない。『月の泪』が手に入りさえすればね」


「……なにをしろというのだ」


「さあ、いま決めてよ」リヒナーはふたたびゴールの言うことを無視して言う。「僕に協力するのか、それともしないのか」


 重い沈黙が空間を支配した。リヒナーは笑顔で返答を待っている。おそらくゴールは断らないという、確信に近い手応えがあるのだろう。そしてそれは、ほとんど正解であると言える。


 リヒナーに恩があるのは事実だ。それを仇で返したくないという思いもある。しかし、悪事に手を貸すことには抵抗がある。心根は騎士なのだ。またしかし、ここで非協力的な態度をとれば、リヒナーは騎士に私の居場所をばらしてしまうだろう。その結果ここに騎士が来て、ヒノエやアリアも一緒に見つかってしまえば、ふたりも脱獄に関わっていると判断されてしまうかもしれない。そうなれば三人仲良く投獄だ。いや、そうするまでもなくリヒナーはこの場でヒノエに危害をくわえるかもしれない。それだけは避けなければならない。


 ならばいっそのこと、ここでリヒナーを葬ってしまうか。


 一瞬そんなことが頭をよぎったが、ゴールにとって、これはもっとも有り得ない選択肢だった。そんなことは騎士として、人として看過できない行いであると自身を叱責する。

 これは、私の身から出た錆なのだ。そのために人命を奪うなどあってはならない。たとえリヒナーが悪人であったとしてもだ。


 こんな時にアリアがここにいてくれたら、と思わずにはいられない。あの夜、私を捕らえたように、いまここでリヒナーのことを捕らえてしまえば、話はこれ以上複雑にはならないのに。


 しかし、アリアが戻る気配はない。屋外と繋がる壊れた扉からは静寂が入り込んでくるのみで、救いの手は影さえも見せない。

 アリアが戻るまで、なんとか時間を稼げないものか。こんな判断は希望的観測に過ぎないと分かってはいるが、時間と生命の板挟みにあるゴールには、そう望むしか残された手立てがなかった。


「ゴール?」


 背後から声がして振り返る。壁に手をついてよろけながら、ゆっくりとヒノエが階段を下ってくる。その表情は不安げだった。異常を察知したのか、部屋から出てきてしまったのだ。


「やあ、ヒノエ」とリヒナーが手をひらひらと振りながら笑顔で言う。


「……リヒナー?」


 ヒノエの表情が強張る。リヒナーの顔を見たあと、ふたたびゴールの顔に目を向けると、その表情はさらに固くなった。呼吸は浅く激しくなり、徐々に顔色も悪化していく。


 時間はもうないと思ってよいだろう。決断する時がきたのだ。


「ヒノエ」ゴールはヒノエの方を向いて言う。「アリアに謝っておいてくれ」


「どういうことですか……いったい、なにを……」

「私は彼と行かなくてはならない」

「わたしには、なにがなんだか……」

「私が脱獄できたのは、彼のおかげなんだ。私はその恩に報いなくてはならない」

「リヒナーが……? どうして……?」


「『月の泪』を盗むんだ」ゴールの代わりにリヒナーが答える。「ゴールにはその手伝いをしてもらうだけさ」


 ヒノエはまだうまく状況を飲み込めていないようだった。おそらくリヒナーが盗人だということも知らないのだろう。そして私は出ていくと言っている。情報の濁流に飲み込まれながら、ヒノエはその場で倒れまいと必死になっているようだった。


 ヒノエが不安げにこちらを見る。その目は潤んでいるように見えた。


 ゴールは優しく笑顔をたたえながら言う。「だいじょうぶだ、ヒノエ。すぐに戻る」


「というわけだ、ヒノエ」リヒナーが言う。「『月の泪』とフォボス城のこと、教えてくれてありがとう。それと、ごめん。じゃあな」


 ゴールはリヒナーに続いて、穴の空いた家を出た。振り返らずに、リヒナーのあとについていく。

 もうそろそろ陽が沈む。消えかかった太陽は最後の輝きを地に投げかけていた。街がきれいな赤に染まる。それはまるで世界の終わりみたいに見えた。






 ヒノエはがらんどうになった家の中にへたり込んで、考えていた。呼吸が浅くなり、視界は滲み、頭も痛み、吐き気もする。全身に力が入らず、まともに立ち上がることすらできない。


 いったい、なにが起こっているのか。


 ただ自分の目が見た確かだと言えることは、ゴールが連れていかれたという歴然たる事実だった。ヒノエはそれを一旦受け止め、今度は耳で聞いた言葉をゆっくりと咀嚼する。


 ゴールが脱獄できたのは、リヒナーの協力があったから。そしてそのリヒナーの目的は、『月の泪』を盗むことだという。ゴールは、そんなリヒナーの恩に報いるために、行ってしまった。


 わたしは、なんてことをしてしまったのだろう。


 良かれと思い、『月の泪』やフォボス城についてリヒナーに話したことが、このような結果として現れたのは、ヒノエにとって受け入れがたい事実だった。しかしこれは、間違いなく自分が招いた災害なのだ。そう理性で思いはしても、本能がそれを拒んだ。


 ゴールについてもそうだ。リヒナーがこの家の前に現れたあの雨の日、あのとき彼は、ゴールを探しにきていたのだ。そして、見つけたのだ。わたしはそうとも知らず、ただ強く当たったことを悔やんで、それをゴールに相談したのに、彼のことについて話さなかった。いくらでもこの状況を招かないように振る舞うことはできたはずだった。でも、できなかった。田舎から飛び出した世間知らずの蝶の羽ばたきが、この場に竜巻を起こしてしまったのだ。


 目の奥が熱くなってくる。頬を温かい雫が伝って、冷たい床に落ちた。


 わたしはいま、どうして泣いているのか。わたしは、アリアさまの期待を裏切ってしまったことが悲しい。リヒナーに裏切られたのが悔しい。ゴールにもう二度と会えないかもしれないのが、恐ろしい。そして、わたしがわたしであることが、どうしようもなく苦しい。


 わたしがわたしでなければ、ゴールは連れて行かれずに済んだかもしれない。魔法で応戦できれば、リヒナーにだって歯向かえた。ちょっといい顔をしようだなんて思わなければ、リヒナーに『月の泪』の話なんてしなかった。でも、そうはならなかった。実際のわたしは魔法のひとつもろくに扱えず、人とのコミュニケーションを疎かにし、歩くこともままならない、無力な子どもでしかない。


 ヒノエは座っていることもできずに、汚れた床にうずくまって、声を漏らして泣いた。

 頭が痛い。身体が重い。悪寒がする。胸が苦しい。心が痛い。吐き気がする。息が苦しい。

 様々な負の鎖がヒノエを縛り上げていた。しかしもっとも強くヒノエを打ちのめしたのは、無力感だった。


 わたしがわたしじゃなければ。おまえがおまえじゃなければ。ヒノエは自分のなかに薄っすらと存在していた"自分の思う自分"を、殺してしまいたい気持ちに苛まれた。ヒノエは"自分の思う自分"に馬乗りになり、何度もナイフを突き立てた。指のすべてを切り落とし、四肢を切りつけ、顔を滅多刺しにした。でも、自分が無力であるがゆえに、息の根を止めることができなかった。そのことがまた無力感を際立たせた。

 わたしはわたしを殺すことさえできない。それが、どうしようもなく悲しい。わたしはいったいなにをしているのだろう。わたしは、いったい何なのだろう?


『落ち着いて』と頭のなかでアリアの声が響く。『深呼吸』


 ヒノエは仰向けになり、しゃくり上げながら深呼吸をした。鼻水と涙でくしゃくしゃになった顔を、ローブの袖で拭う。それでも涙と鼻水は止まらない。また深呼吸をして、心を落ち着かせるよう努めた。


 目を閉じ、"自分の思う自分"を思い浮かべる。さっき半殺しにした"自分の思う自分"は、血溜まりのなかでかろうじて形を保っていた。ヒノエはその手を掴み、引き寄せ、抱きしめた。血はまだ温かく、からは脈動を感じた。しばらくそうしていると、は声を上げて泣き始めた。

 ゴールの言っていたことを思い出す。『いまのヒノエにとって大切なのは、たぶん、自分の思う自分という像を見つけ出すことだ。実像でも、虚像でも構わない。ヒノエのなかにいる彷徨さまようヒノエ自身をちゃんと捕まえて、対話するんだ』。


 ヒノエは血まみれになった"自分の思う自分"を、さらにきつく抱きしめた。それから、ごめんねと何度も謝った。


 そうしてヒノエは悟った。

 これが、わたしなんだ。この、無力で、愛嬌もなくて、ただ生きている、形のはっきりしない肉塊。これこそがわたしの"像"なのだ。


 "ヒノエ"とはこの程度の存在なんだと、痛いほどに理解した。それもまた、ヒノエにとっては悲しい事実だった。でも、このことをゴールに伝えたいという、小さな希望の光が心の底に射した。ゴールならきっと話を聞いてくれるという、甘い幻想が自らを奮い立たせる。


 細い腕で、重い身体を起こす。頭の位置が動き、鈍器で殴られたような痛みが頭蓋に響く。立ち上がって歩き出そうとしたが、足がもつれて転んでしまう。胃のなかが撹拌されて、昼に食べた原型のないパンを思わず吐き出してしまう。えた匂いから顔を遠ざけるようにふたたび立ち上がり、壊れた扉に向かって歩き出す。

 そのとき外から声がした。


「ヒノエ?」


 見るとそこには、驚いた様子のアリアが立っていた。

 ヒノエはその姿に安心して、ふっと身体の力が抜け体勢を崩したが、アリアが抱きかかえて受け止めた。


「どうしたの、だいじょうぶ?」アリアはヒノエを抱きしめながら言う。


「ゴールが……いなくなりました」

「ゴールが? 逃げたの?」


 ヒノエはアリアの腕のなかで、脳が撹拌されてぐちゃぐちゃになっていくような痛みを覚えながら、大きく首を振った。


「ゴール……連れて……いかれて」


 ヒノエはそう言うとまた涙を流し始めた。

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