8 満月の前日

 リヒナーは東海岸の適当な場所で雨をしのいで軽く睡眠を取り、翌朝早くからまた中央の図書館へ向かった。


 『月の泪』の場所は分かったし、ゴールの居場所も突き止めた。すべてヒノエのおかげだ。あとは城の構造さえ把握できればいい。どうやって入り、どうやって出るのかは構造次第で話が変わってくる。まずは全容を知らなければならない。きょうはその当てがある。これもまたヒノエのおかげだ。

 自分はあまりにもなにも知らなすぎたのだ。単純に人の目を気にしすぎていたというのもあるし、『月の泪』のことばかり考えていたのもある。あろうことか、あの城がフォボス城という名であることさえ知らずにいたのだ。仮に自分がこの街の人間であったとしたら、間違いなく愚民に分類されるだろう。


 図書館に着いたのは正午になるすこし前だった。きょうは扉がひらかれていて、中には利用者の姿も見えた。ただ、入口には騎士がふたり立っていた。これなら騒ぎなどが起こってもすぐに沈静化することだろう。


 リヒナーはふたりの騎士のあいだを通り抜け、図書館に入った。まだなにもしていないのだが、騎士の横を通るのは息が詰まる。机の前まで歩いてから大きく息を吐き、本棚の方へ向かう。きょうはフォボス城について書かれた本を探すだけでいい。そう思いながら探し始めると、五分もしないうちに二冊の関連書籍を見つけた。

 ひとつ語彙が増えるだけで、棚に封印された文字列はこうも見え方を変えるものだ、とリヒナーは思った。


 二冊の本を抱え、一階の机に広げる。椅子に腰掛け、頬杖をつき、項を捲る。

 最初にひらいたのは、フォボス城を例に各地の城の構造を比較する、という主題の本だった。オービターを含む西方四大国の城の構造は、大きく違いはないようだ。巨大な門を持ち、壁に囲まれ、いくつも塔があり(見張りや避難に使うらしい)、居館や礼拝堂が併設されている。フォボス城も概ねこのような構造であるらしいことが窺える。ただし特異なことに、フォボス城には宗教観から来る異質な高い塔がふたつある。典儀の間があるというこの街でもっとも高い塔と、もうひとつは太陽信仰が盛んだった頃の名残として残っているすこし背の低い塔。この本にはそれらの図画も添えられていた。真っ直ぐ伸びた塔の内部には螺旋状に階段が敷かれており、部屋は天辺にある典儀の間のみという構造だった。著者は、この宗教の産物が利便性を度外視して作られていることに注目していた。しかしリヒナーがもっとも気になったのは、この塔のある場所についてだった。


 フォボス城が建った頃は悪政の時代で、フランファルという太陽神が広く信仰されていたようだった。当時の王は城を建てる際、太陽に近い場所に典儀の間という部屋が必要だとして、フォボス城の一部として高い塔を建てた。それが背の低い方の塔らしかった。やがてその時代の王は打倒され、またその王が崇めていた太陽神を、次代の王と民は引きずり下ろした。次にやってきたのは、月の時代だった。新たな王は太陽神の信仰を超えるべく、また新しくさらに高い塔を建て、そこにも典儀の間と呼ばれる空間をつくり、民に月神の存在を知らしめた。こうしてフォボス城はいまの形になった。図画によれば、城壁の内部に城とはまた別の建造物として塔が建っている。

 つまり、典儀の間はふたつあり、リヒナーの目指すほうの塔は、孤立した空間であるということだ。城に入る必要はなく、城壁さえ超えられれば塔へたどり着ける。


 リヒナーは最初の本を閉じ、今度はもう一冊の本を開く。『フォボス城の歴史』と銘打たれたシンプルな本だった。歴史的な部分の内容は概ね先ほど読んだ本と変わらなかったが、書き口が固く、資料的な側面が強かった。しかし目を引く項があった。フォボス城へ侵入を試みた者たちのエピソードがまとめられているのを見つけたのだ。


 フォボス城の堅牢な城壁の一部には石積みの甘い部分があり、その気になればそこを登って侵入することが可能だという。実際に試みた男がいたのだが、その男は壁を登りきったところで城の見張り塔にいた騎士に弓で狙撃され、転落して死亡した。

 間抜けな話としてシエリでは有名らしく、真っ先に紹介されていたのがこのエピソードだった。しかしリヒナーにはただの間抜け話とは思えなかった。僕ならもっとうまくやれるのになと、真っ先にそんなことを思ったのだった。


 次に書かれていたのは、井戸の魔物、と題されたエピソードだった。城壁内の敷地には枯れた井戸があり、そこからうめき声が聞こえることがあったという。ある晴れた日、騎士がその枯れた井戸を縄梯子で下りてみると、そこには広い空間があった。どうやら、どこかから何者かがここまで穴を掘ってきた様子だった。しかし穴を掘った当人たちと思しき白骨死体が近くで発見され、穴の奥からは魔物のうめき声が響いていたという。後に魔物は討伐され、井戸の底の広い空間からその穴を遡ってみると、中心街にある一軒の民家と繋がっていることが分かった。つまり、なにを目的としていたかは分からないが、何者かが民家から穴を掘り始め、城の枯れた井戸の底までたどり着いたものの、どこから入り込んだのか分からない魔物に殺されてしまった、という話だった。

 この話は因果応報の例として、よく子どもに語られる話になっているようだった。


 こいつは運がなかったな、とリヒナーは思った。しかしこれもまた興味深い話ではある。仮にこの話が本当だったとしても、もうこの穴は塞がれているだろうが。


 まとめられた侵入者エピソードをひと通り読んでみたが、他に目を引かれる話は特になかった。本を閉じ、椅子の背もたれに体重を預け、天井に向かって息を吐く。この図書館の天井は高い。しかしフォボスの城壁はもっと高い。あれをよじ登るとなると骨が折れそうだ。仮に登りきったとしても見張り塔の騎士に射抜かれて、そこで終わりになる可能性もある。しかし、そこでなにか騒動があったとすればどうだろう。仮に仮を重ねて、都合よくそこで騎士に見つからず『月の泪』を盗めたとして、今度はどうやって出るのか。


 最初にひらいた本をもう一度ひらき、図画にまた目を通す。そこでリヒナーはあることに気づいた。図画なので実際にそうなっているのかは分からないが、実際の構造がこの本に描かれている通りなら脱出は容易かもしれない。

 リヒナーはひらいた本を置きっぱなしにして図書館を出た。これはもう実際に確認してみるしかない。幸い、フォボス城は目と鼻の先にある。


 フォボス城をちゃんと見るのは四日ぶりのことだった。四日前は城の名前も、城壁に欠陥があることも知らなかったが、あらためて城を前にすると、いくつもの隙があるように見えた。城壁の見張り塔に近い辺りは、石積みが甘く、ところどころ石が飛び出ていた。ここに手と足をかければ確かに上まで登りきれそうだ。しかしおそらくここは以前に人が登って騎士に狙撃されたというポイントだろう。できるだけ避けたい。

 城壁を舐めるように観察してみると、意外と石が飛び出て積まれている箇所は多かった。見張り塔から離れている壁面も、その気になれば登れそうだった。これは、案外どこからでも入れるかもしれない。問題は脱出だ。


 リヒナーはもっとも高い塔のほうを見る。図画にあった通りだ、とリヒナーは思わず笑ってしまう。適当な増築をした結果がこれだ。

 『月の泪』のある高い塔の建つ位置は、城壁にかなり近い。これなら塔の天辺にある典儀の間の窓から、城壁に飛び移ることができる。おそらく意図せず、入るのは難しいが出るのは簡単な構造になってしまっている。王や建築士は月ばかりに気を取られ、足元がまったく見えていなかったようだ。


 リヒナーは踵を返し、西海岸の隠れ家に向かう。盗みに入るのは、明日の夜だ。満月のもと、堅牢な城壁という幻想を破り、『月の泪』を盗み出す。ゴールを利用するため、ヒノエにもまた会うことになるだろう。最後に、謝っておいたほうがいいかもしれないな、とリヒナーはまだ明るい空を見上げながら思った。






「ヒノエ」アリアは優しい声で言う。「あの人、たぶん悪い人じゃないわ。最善世界律に背いた罪人ではあるみたいだけど、それはこの国においての話。国境を越えれば、あの人は罪人という括りには入らない。罪人の烙印は刻まれたままになるけれど……きっと、なにか悪いことをしたわけじゃない。あの人の判断は、意思は、この国のルールと相容れなかった、ただそれだけなんだと思う。ねえ、ヒノエ。わたしは数日後から、あの人がこの街を無事出られるように、やらなくちゃいけないことがいくつかある。ヒノエはそのあいだ、竜について調べるのはちょっとお休みして、あの人とできるだけお喋りしてみて。それからその話を、わたしに聞かせてほしいの。お願いできる?」


「はい」と夢の中のヒノエは答えた。






 ヒノエのなかに蓄積した疲労は、雨により風邪となって体調に現れた。午後になってしばらくになるが、ヒノエは朝早くに一度目覚めたきり、まだ眠っている。

 ゴールはヒノエの眠るベッドから離れた壁にもたれて、様子を見ていた。部屋は薄暗く、すこし埃っぽい。あまり身体によくはなさそうだが、穴の空いた部屋にいるわけにもいかない。


「ゴールは」ベッドの方から、ヒノエの小さな声がした。「魔法が使えますか」


 起きていたのか、とゴールは思いつつ、ヒノエの質問に答える。「すこしだけな」


「そうなん、ですか」

「ちょっとした傷や痛みに効果のある、弱い治癒の魔法だけだがな。不思議なことに、これ以外はまったく駄目なのだ」


「それでもすごいことですよ」とヒノエは言う。「わたしは……うまく魔法が使えないので」


「そうなのか?」

「はい……わたしには、鏡像が見えないんです」


「鏡像?」ゴールは聞き慣れない言葉を復唱する。


「魔法とは……鏡像の持つ本質と結びつくイメージの力だと、アリアさまは言っていました」


「アリアは難しいことを言うのだな」ゴールは頭を掻きながら言った。


 ヒノエは弱々しい声で続ける。「たとえば……ゴールは弱い治癒の魔法が使える。これは、ゴールのなかにある鏡に映るゴール自身が、治癒というイメージと結びつく本質を持っていることを意味します。だから、鏡像のゴールの根っこにある本質は、たぶん……博愛とか、慈悲とか、そういったものなのだと思います」


「そうなのか?」

「はい、おそらく。鏡像への理解を深めれば、ゴールの治癒の魔法はもっと洗練されていきますよ」

「つまり……逆に言えば、私が攻撃的な魔法を扱えないのは、博愛や慈悲という言葉の持つイメージが、攻撃性と乖離しているから、ということになるのか?」

「そういうことですね」

「なるほど。勉強になった」


「わたしは、治癒の魔法がうまく扱えません」ヒノエは虫の鳴くような小さな声で言う。「きっと、ゴールのように優しい人間ではないんでしょうね」


「私には魔法の深みまでは分からないが……ここで言う本質とは、あくまでその人を形作る基盤であって、その人そのものとは違うのではないか?」


 ヒノエは黙ってゴールの話の続きを待った。


 ゴールは続ける。「人の心というのは、裏表うらおもてだけで語れるほど単純でなく、もっと多面的なものだと私は思う。たくさんの表情を持った面が、心を形作っている。ここで言う本質というのはたぶん、心の核にあたるようなものなんだろう。確かに、その本質というのは不変なのかもしれないが、我々はその外側の面を変質させることはできるように思える。ヒノエにあるたくさんの面のなかには、優しさだってある。もしかすると、ヒノエには小さくて見えないだけなのかもしれない。でも、私には見える。そういうことだってあるものだ」


「そんなのは……気休めですよ。現にわたしは治癒の魔法が扱えないんですし」

「ヒノエの本質――心の核と、治癒の魔法は、相性が悪いというだけだろう。だから優しい人間じゃないなんてことは、断じてない」


 ヒノエは黙って天井を見つめ、なにか考えているようだった。どんな表情をしているのかはここからでは見えない。


「ゴールと話していると、たくさんのことが分からなくなっていきます」ヒノエは言う。「ほんとうはわたし、自由意志なんてないと思っていました。でもゴールはあると言います。わたしはわたしを、優しい人間ではないと思っていました。でもゴールは違うと言います。わたしにはもう、わたしがなんなのかがよく分かりません……他人の言葉ひとつで、自分が自分じゃなくなっていくような……そんな恐ろしさがあります。これだとまるでわたしは……空っぽの木偶でくみたいじゃないですか……」


「ヒノエ」とゴールは呼びかける。「鏡像の持つ本質というのは、確かに魔法においては大切なことだと思う。しかしいまのヒノエにとって大切なのは、たぶん、自分の思う自分という像を見つけ出すことだ。実像でも、虚像でも構わない。ヒノエのなかにいる彷徨さまようヒノエ自身をちゃんと捕まえて、対話するんだ。それから、鏡の前へ行こう。自分自身がないんじゃ、きっと鏡にはなにも映らない」


「はい」とヒノエが掠れた声で返事をする。


「私にできることがあれば、なんでも言ってくれて構わない。きみの力になろう」

「わたしは……ゴールの話が聞きたいです」

「私の話か? そうだな……たとえば、どんな話だろうか」

「なにか……楽しい話、とか」


「楽しい話か」ゴールは昔のことを思い出しながら話し始める。「昔、わたしがまだ三十代だった頃の話だ。東海岸の見回りをしている時に、酒場の前にいた酔っぱらいの男数人に声をかけられたのだ。まだ真っ昼間だったのだが、彼らはもう完全に出来上がっていて、いささか陽気そうだった。その時の私は、こんな時間から……と思ったのだが、後に彼らが漁師であることを知った。どうもその日は長い漁から帰ってきた次の日だったので、陸地を謳歌していたのだ。それで、通りかかった私にこう声をかけてきた。『腕相撲大会をやるから酒場に来い』と。最初、私は付き合ってられんと断ったのだが、男たちが私を『自信がないのか?』と煽るものだから、すこし……ほんのすこーしだけ、カチンと来てしまい、その誘いに乗ったのだ」


「ほんのすこーしだけ、ですか」とヒノエが言う。


「なにかな?」

「いえ、なんでもありませんよ」


 ゴールは続ける。「招かれて入った酒場のなかには酔っ払った漁師が二十人ほどいて、中央に置かれた小さな丸いテーブルでは、すでに腕相撲が始まっていた。酔っ払いたちは試合中のふたりをなんだかんだと囃し立て、酒場全体がお祭り状態だったが、決着の瞬間はその比にならないほどの盛り上がりを見せた。大の男たちが叫んで飛んだり跳ねたりして、このままこの酒場は壊れるんじゃないかと思って、ヒヤヒヤしたものだ……最初は」


「最初は」とヒノエが言う。


「そう。最初はそう思ったのだが、見ているうちに私もその渦のなかにすっかり入り込んでしまい、いつの間にか見知らぬ漁師とも肩を組んで、一緒にその空気感を楽しんでいた。その時点では酒の一滴も飲んでいなかったのだが、場の空気に酔ってしまって……今となってはいい思い出だが、騎士としては、あまり品性のある振る舞いとは言えないかもしれないな……。そのうち、私が試合をする番がまわってきた。漁師のなかには騎士を快く思っていない者もいれば、私だけにはよくしてくれる者もいた。それら全員が私を口汚い言葉や、応援の声で囃し立てるのだ。当の私といえば、もうすっかりその気になっていた。当然のように、優勝するぞという気持ちでいたのだ」


 ヒノエが小さく笑うのが聞こえた。


 ゴールはさらに続ける。「漁師たちは皆、腕っぷしに自信があったようだが、私だってそうだった。騎士として毎日鍛錬を積んでいたし、勝負事となれば負けん気だって出る。私は最初の相手に勝ち、その次の相手にも勝ち、またその次の相手にも勝った。そしたら、周りで見ていた連中が『おまえも酒を飲まないと不公平だ』と言うのだ。『そんなの勝って当たり前だ』と。だから私はそのへんにあったジョッキを適当に掴んで、中の酒を一気に飲んだ。このときもかなり盛り上がったな。それから私は決勝戦に臨み、そのまま優勝した……のだが、それを不服とする漁師がいて、喧嘩を売られたのだ。だから私はその喧嘩を買った。『喧嘩なら外でやれ』と酒場の店主に言われたので、会計を済ませてみんなで海岸まで大移動をして、それから砂浜の上で殴り合った」


「なんで……?」ヒノエの困惑した声が聞こえてくる。


「勝敗こそはっきりしなかったが、殴り合いの結果私たちはお互いの力を認めるに至り、最終的には意気投合した。それから肩を組んで帰路についたのだが、ちょうど雨が降り始めた。しかし私とその漁師は『この程度の雨でどうこう言うまいな』という暗黙の戦いを始めた。終いには大雨が降ったものの、肩を組んだままその漁師の家までゆっくりと歩き、私はそれから帰ったのだが、長時間雨に打たれたからなのか、次の日に体調を崩してしまったのだ。ちょうど、いまのヒノエみたいに」


「馬鹿みたい」とヒノエはまた小さく笑った。


 ゴールも笑いながら言う。「私なんて、こんなものだ。いまでもあの時とそう変わらない。ヒノエはこんな人間の本質が、博愛や慈悲だと言うのだぞ? 本質がすべてだと言うのであれば、それこそおかしな話ではないか」


「そうですね……自分で言っておいてなんですが、博愛や慈悲とは、すこし遠いように感じますね」

「だろう。でも、実際はこんなものだ。そして、これもまた私なのだ。きっとヒノエにも、らしくないことをしたと思う瞬間があることだろう。いまはなくても、今後はあるかもしれない。もしかすると数年後にきょうのことを思い出したとき、あの時はらしくないことを言ったと感じるかもしれない。でも、それもまたヒノエ自身なのだ。受け入れがたいことであっても、一度は認めるしかない。認めたうえで、変質させればよいのだ」


「はい」ヒノエはさっきよりもすこし明るい声で言う。「……結局、この話になっちゃいましたね」


「ああ、すまない。つい……」

「構いませんよ。たまには、こういう時間があってもいいのかもしれません。自分と向き合う、静かな時間が」

「そうだな。昔を思い出すのも悪くない……とはいえ私はもう、そこには戻れないのだが」

「……ゴールは、昔に戻りたいですか?」


 ゴールはすこし考えた後に言う。「いいや、そういうわけではない。ただ……慣れ親しんだこの地を去るのは、やはりすこし寂しい。やむを得ないのだがな」


「……わたしも、昔に戻りたいとは思っていませんよ。ゴールと同じです」

「そう、なのか」


 意外だった。村人や母親のいた頃の、竜がやってくる前の故郷の村に、戻りたくはないのだろうか。そういえば、村に竜がやってくる前のヒノエのことについては、なにも知らないままだ。なにか嫌な思い出でもあるのかもしれない。ゴールはいろいろと思いはしたが、わざわざ訊きはしなかった。誰にも踏み入ってはならない領域というのはあるものだ。


 沈黙が部屋に響く。ゴールは座りながら下を向き、ヒノエは横になりながら天井を見つめ、お互いが頭のなかでお互いの境界線を探し、また、そこを越えないような言葉を探していた。


「ゴール」と呼ぶ声がして、顔を上げた。ヒノエはこちらを見ながら、続けて言う。「わたし、もっとゴールの話が聞きたいです」


「そうか。そうだな……」ゴールは自分の大事な領域から思い出を掘り出して言った。

「じゃあ、私が騎士団に入ったばかりの頃、騎士たちと大食い対決をした時の話でもするとしよう」

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