7 桜流し

 自由意志について論じていた学徒たちから始まったちょっとした騒ぎは、図書館を一時封鎖する事態にまで発展したようだった。リヒナーが騒ぎの翌日に図書館へ赴いたところ、入口が閉じられており、ふたりの騎士がその前を見張っていた。この様子ではしばらく図書館を利用できそうにない。この国の美術史についてはヒノエのおかげである程度分かったが、まだ肝心の建築様式や城の構造については調べられていない。どうしたものか。


 見上げたきょうの空は、あまり機嫌が良くないようだった。午前中には晴れていたのだが、正午を過ぎると太陽は灰色の雲に隠れてしまった。すこし肌寒いが、雨を予感させる強い風は吹いていない。とはいえ雨が降らないという確信もない。こういう日こそ図書館を利用したかったのだが仕方ない。


「どこに行くんですか」と背後から声がする。


 振り向くと、すこし離れたところにヒノエが立っていた。どうしていつも視界の外から話しかけてくるのだろうか、とリヒナーはぼんやり考えたが、どうでもいいという結論に至った。


「城でも見に行こうかと思ってさ」リヒナーはいま思いついたことを口に出した。


「『月のなみだ』が、そんなに気になるんですか」


 リヒナーはぎょっとしてヒノエの顔を見る。相変わらず顔に張り付いた感情は希薄で、なにを意図した言葉なのかが分からない。どうして『月の泪』のことを?


「なにをそんなに驚いているんですか」ヒノエは不思議そうに言った。「昨日、本に書かれた『月の泪』の項を熱心に読んでいたじゃないですか」


 そういうことか、とリヒナーは安堵の息をもらした。そういえばあのときヒノエは机にへばりつきながらこちらを覗き込んでいた。顔色をうかがいながら、本の内容もチェックしていたのか。


「いや、見てみたいなと思って」


「『月の泪』は、フォボス城の典儀てんぎの間にあるから見られませんよ」ヒノエはなんでもないみたいに言った。


「いま、なんて?」リヒナーは思わず聞き返す。


 ヒノエは小さくため息を吐いてから言う。「『月の泪』は、フォボス城の典儀の間にあるから、一般人であるわたし達では、見られませんよ、って言ったんです」


 リヒナーは平静を装い、聞き慣れない言葉について質問した。「典儀の間って?」


「たとえば王位の継承とか、そういった儀式などを執り行うための部屋です。フォボス城の典儀の間は、塔のいちばん高いところにあるらしいですね。そこがこの街でもっとも月に近い場所だとか、そういう理由で」

「月に近いことが重要なのか」

「そうですね。謂わば、月はこの国の象徴のようなものです。シエリの守護神も、デミペリオという月神ですし。月に近いというのは、それだけで権威や神との結びつきを想起させます。そこで儀式を執り行うことによって、任命や継承を、人や神――つまり月に対して示す。そのため、典儀の間は塔の最上にあるということのようです」

「なるほどね」


 思いも寄らない情報が、思いも寄らない人の口からこぼれてきた。リヒナーは返事もそこそこに頭を回す。


 『月の泪』は、シエリの中央にある城――フォボス城という名前らしい――の、塔の最上にある典儀の間にあるという。場所が分かったというのは、かなり大きい収穫だ。儀式などを執り行う部屋ということは、それほど人の出入りもなさそうだ。それに塔の最上であれば、騎士の詰所や居館、礼拝堂などの、人が多そうなところからはおそらく離れたところにある。しかし、塔の入口が人の目に近い場所にある可能性も存在する。であれば、そのタイミングでひと騒ぎ起これば、典儀の間からは人の目を逸らせそうだ。これには、ゴールを利用する。あとは、侵入手段とルートの確認だ。しかしそればかりはヒノエには聞けない。仕方がないので一旦後回しにすることとする。


「リヒナーって」ヒノエが言う。「なんだかこの街のひとじゃないみたいですね」


 リヒナーは、ぎくりとしながらも飄々と言う。「なんでそう思った?」


「いえ、自分の住む街の文化のことを、あまり知らないように思えて」

「僕らみたいな一般市民には、文化や政治なんかよりも、食料パン娯楽サーカスが大事なのさ。皆、生きるのに必死なワケ。その日を摘め、なんてふうにも言うしさ」

「愚民と言わざるを得ません」

「こんなことに興味を持つことができるのは、金銭的か精神的に裕福な人間の一部だけだよ。知識で腹は膨らまない。世界のほとんどは貧しく、飢えている。ヒノエは、食うに困ったことはないのか?」

「……ないかもしれないですね」

「ヒノエはそういう意味では恵まれている。腹を満たして、それから初めていろんなことを考えることができる。世界には、ヒノエの思うスタートラインにすら立てないやつがたくさんいる。彼らに対して愚民というのは、どうかと思うな」


「……ごめんなさい」ヒノエは頭を下げた。「軽率な発言でした。考えを改めます」


「あ、いや」リヒナーは勢いでぺらぺら喋ってしまったことをすこし後悔しながら言う。「べつに責めたいわけじゃなかったんだ。つい、昔の友人のことを思い出して……」


「昔の友人、ですか」


 リヒナーは黙り込んだ。きょうはおかしな日だ。言わなくてもいいことをべらべらと喋ってしまう。


 ヒノエが言う。「あまり聞かれたくないのでしたら詮索はしません」


「ごめん」とリヒナーは言った。






 お互い、図書館を目当てに中央まで来たものの、この有り様ではここにいる意味もないということで、きょうは自然と解散という流れになった(べつに集まろうと思っていたわけでもないのだが)。

 ヒノエは北の方へ歩いていき、すぐに東へ曲がって路地に消えた。リヒナーは南へ行き、すぐにヒノエと同じように東へ曲がって路地に入った。


 東海岸へ向かってみよう、とリヒナーは考えていた。いま必要な情報、それは城への侵入方法と、ゴールの居場所。とにかく、盗みの最中さいちゅうは人の視線が散らばるほうがいい。特にこんな大仕事であればなおさらだ。それには自分の知る限り、ゴールほどの適任はいない。

 しかしゴールは依然として行方をくらませたままだ。そのうえ目撃情報もなにもない。まるで初めから存在しなかったかのように、痕跡のひとつも見つかっていない。


 あの"真っ直ぐおじさん"がこんなに要領よく隠れられるのだろうか。実はあれは演技で、協力者がいたのか? いや、まるでそんな老獪ろうかいな人間には見えなかった。であればもう街を出たのか、あるいは死んだか。ならばその痕跡もあるはずだが、そんな話は聞こえてこない。


 ゴールについてリヒナーが持つ唯一の手がかりは、自分自身が東海岸のにゴールを置いてきたという事実だ。それ以外にはなにもない。ならばそこから探し始めるしかない。リヒナーはゴールの人柄から、とりそうな行動を推察しながら、東海岸の方へ歩を進めた。






 ヒノエが東海岸の穴の空いた家に着く頃には、もう辺りは暗くなっていた。これでもいつもより早い帰りではあった。南北にすこし細長い街ではあるのだが、さすがにオービター最大の街でもあるので、ここから中央までの距離はやはりそれなりにある。

 きょうはとんだ無駄足だった。学徒たちの起こした騒動のせいで図書館は封鎖されており、息抜きのための情報の収集さえままならなかった。でもリヒナーに会えたのはよかった。完全に無駄足だったというわけではないのかもしれない。ヒノエはそう思うことにした。


 がらくたの山の脇を通り抜け、崩れた家屋が並ぶ道に入る。この辺りにはほとんど人が寄り付かない。住民たちは、またこの辺りに竜がやってくるんじゃないかと怯えているようだった。しかし竜についてもっとよく知っていれば、そんな心配は杞憂でしかない。竜は温厚で、姿を見せるのは稀なのだ。そう何度も竜がやってきたりはしない。


 ゆっくりと足を労るように歩き、家の前の路地に入る。穴の空いた家は、この路地の突き当りにある。当然、人の気配はない――はずだった。


 家の前に誰かが立っている。


 ヒノエは立ち止まり、薄目で暗闇に立つ何者かを睨みつける。雨を予感させる強い風が砂や埃を巻き上げ、唸るように空を切りながら路地を通り抜けた。何者かの髪の癖っ毛が揺れる。ぽつぽつと、雨が降りはじめた。何者かは振り返ってこちらを見た。ヒノエは思わず声を出す。


「リヒナー?」






 ゴールが二階から空模様を観察していると、階下から声がした。ヒノエが戻ってきたのだろうと思い、壁の穴から顔を覗かせて外を窺い見る。暗いので定かではないが、ヒノエと思しき背格好の人影が家からすこし離れたところに立っている。そして、手前には見知らぬ人影があった。こっちは明らかにヒノエでもなければアリアでもない。ゴールはすぐに身を隠し、耳をそばだてた。しかし雨が降りはじめた。アリアの施した魔法かなにかの効果で、壁から天井にかけての穴から雨は入ってこないが、雨音で声は聞こえなくなる。これでは状況が確認できないので、恐る恐る穴から顔をのぞかせて目視する。


 いったいあれは誰で、ヒノエとなにを話している?






 穴の空いた家に着いてすぐに雨が降りはじめたので、リヒナーは一度踵を返そうとしたが、振り返ると視界の真ん中にヒノエが入り込んできた。夜目が効くので、はっきりとヒノエの驚いた顔が見えた。


「リヒナー?」とヒノエは驚いた様子で言う。


「ヒノエ?」リヒナーも同じように声を上げる。どうしてヒノエがこんなところに?


「なにをしてるんですか。こんなところで」

「それはこっちの台詞だけど」

「質問に答えてください」


 ヒノエの口調は強く、敵意が感じられるほどだった。なにか気に触ったのだろうか。もしかすると、ストーカーかなにかと思われているのか。


「いや、違うんだヒノエ」リヒナーは笑顔で言う。「僕も竜について興味が湧いてね」


と訊いているんです」


 ヒノエは雨音のなかでも一言一句聞き取れるような明瞭さで言い放った。語気には警戒と敵意、そして怒りが込められていた。表情も固く険しい。こんな顔ができたのか、とリヒナーは冷たい春雨のなかで思った。

 ヒノエの真意は分からないが、どうであれ歓迎されていないことだけは確かだった。ここは穏便に話を終わらせ、後日来てみることにしよう。


「ヒノエに話したいことがあってさ」リヒナーはふたたび、薄闇のなかで笑顔を浮かべて言った。


「……それで、後をつけてきたんですか」

「悪い。こんなに怒るとは思わなくて」

「いますぐここから離れてください」

「なあヒノエ。ヒノエはここでなにをしてたんだ?」

「わたしは、ここで竜について調べようと……」

「だったら、一緒に調べてみてもいいんじゃないか?」


 ヒノエは黙り込んだ。なにか都合が悪いらしい。


 リヒナーは質問する。「なにか都合が悪いことでもあるのか?」


 ヒノエは口をもごもごさせながら答えた。「わたしはいま、ここで生活しているもので……」


「ここって……」リヒナーは家に空いた穴の方を見て、指さしながら言う。「?」


「はい」とヒノエは雨音に消え入りそうな小さな声で言った。


 雨脚が強まってきた。だんだんとお互いの声が聞き取りづらくなる。ヒノエはなにか言ってから、脇を通り過ぎて穴の空いた家へ入っていった。リヒナーは路地の真ん中で、ただ雨に打たれて立ち竦んでいた。ヒノエには嫌われたかもしれないな、と頭の片隅で思う。しかしそんなことはどうでもよくなるほどに、リヒナーはヒノエに感謝していた。


 リヒナーは興奮気味に、雨の降る暗い街へ駆け出した。さっきあの家に空いた穴の方を見たときだ。あのとき、確かにあの家のなかに見たのだ、ゴールの姿を。この目で、はっきりと。


 ゴールはあの日からずっと、ここに隠れていたのだ。そしておそらく、それにはヒノエも一枚噛んでいる。ヒノエがあんなに警戒していたのは、あの家に近寄らせないため。つまり、ゴールを隠すためだ。

 自分の目的は気取られていない。ゴールに気づいた素振りも見せていない。ヒノエはゴールに僕のことを喋るだろうか? あるいはすでに喋っているだろうか? いいや、おそらく喋らないし、まだ喋ってもいない。ヒノエはそういう人間だと、直感がそう告げている。後ろめたいなにかをすべて隠そうとする、そういう人間だ。


 リヒナーは雨に濡れながら、思わず声をもらして笑う。ヒノエがすべてを持ってきてくれた。あの子は僕にとって幸運の女神なのかもしれない。たったいま嫌われてしまったかもしれないが、べつに構わない。どうせこの後、ヒノエからゴールを引き剥がすことになるのだから。






 雨に濡れて帰ってきたヒノエは、顔色が悪いように見えた。


「だいじょうぶか。顔色がすぐれないようだが」ゴールは訊ねた。


 ヒノエは答える。「いえ……だいじょうぶです」


「そうか。春の雨とはいえ、やはり身体は冷える。きょうは温かくしたほうがいいぞ」

「はい、そうします」


 道で誰かと話していたことについて、ゴールは訊くか迷った後、結局訊いてみることにした。

「ヒノエ。さっき、誰かと話していたが、あれは?」


「あれは……」ヒノエは慎重に言葉を選ぶように、静かにゆっくりと言う。「あれは……この辺りで知り合った男の子で……竜について興味があるということで……ここまでついてきたみたいで。わたしは、ここまで人を連れてきてしまったことに動揺して……ゴールが見つかってしまうかもしれないと思い、突き放すような物言いをしてしまって……」


「そうか。ヒノエには悪いことをしたな。すまない」

「いえ、ゴールのせいでは……わたしの招いたことなので」

「その男の子とは仲がよかったのか?」

「たぶん……すこし……」

「そうか。ならば次に会ったとき、謝れるといいな」


 ヒノエは消え入りそうな声で、「はい」と言った。

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