6 竜齎の魔女
図書館でヒノエに会った翌日、リヒナーはまた図書館にきていた。きょうはそのまま中に入って、昨日と同じように本を探したが気分は悪くならなかったので、棚から一冊取り出して一階に持っていった。机に本を置き、椅子に腰掛け、頬杖をついて項を捲る。目を落とした紙面には、世界各地にある竜についての民話や伝承が記されている。
中でもひときわ目を引いたのは、『
記されているのはこれくらいのことだった。魔女がどのような余生を送ったのか、産まれた竜はどうなったのかは分からない。ただ、人が竜を産んだという話にはなにか啓示めいたものを感じた。それと、約二百年前という時代にまで言及されているのはめずらしい。比較的近い時代の話でもあるので、ことさら目を引く。いわば真実性のようなものが垣間見える。そんなことあるはずもないのに。
各地に伝わる竜の伝承はそれほど多くはないようで、手に取った本はすぐに読み終えてしまった。入口の方を見ると、まだ強めの外光が図書館内に入り込んできている。軽く辺りを見渡してみたが、ヒノエは見当たらない。からかわれたのだろうか。まあ来ないならそれでいい。きょうはちゃんと、城と『月の
閉じた本を小脇に抱え、本棚まで持っていく。元あった場所に戻してから今度は二階の本棚へ向かう。二階は人の数こそ少ないが空気がすこし熱っぽい。ぬるい空気を吸って体温に近い熱さの息を吐き出し、本棚に沿って歩く。すこし進んだところで、棚の上の方を睨んでいるヒノエを見つけた。
「いたんだ」とリヒナーは言った。
「ああ」ヒノエは本棚からこちらに目を向けて言う。「こっちの台詞ですが」
「なにを見てたの」リヒナーはヒノエの言うことを無視して訊く。
「ちょうどよかった。リヒナー」ヒノエは本棚の上の方を指さして言う。「あの本を取ってください」
「そこに梯子もあるんだから、自分で取ればいいだろ」
「そんなの時間の無駄です、リヒナーが取ったほうが早い」
「そうかい」
結局リヒナーは指差された本を取ってやることにした。本はヒノエにはギリギリ届かない高さにあるが、リヒナーならちょっと背伸びすれば届く。たしかに梯子を持ってくるよりこのほうが早い。このタイミングで僕が通らなかったらどうしてたんだろう、と思いながらリヒナーは本を取った。表紙を見るに、この国の美術史について書かれたもののようだった。本を手にしたままヒノエの方を見る。
「なんですか」とヒノエは言う。
「それはこっちの台詞なんだけど」
リヒナーは言いながら本を差し出すが、ヒノエは受け取らない。
「読みたいんじゃなかったの」とリヒナーは訊く。
「それはこっちの台詞ですが」
「どういうこと?」
「美術史について調べるんじゃなかったんですか」
「まあ、そうだけど」
「わたしはもう読んだのでだいじょうぶです」
「じゃあなんで取らせた?」
「リヒナーが読みたいかと思って」
ヒノエは遠回しにこの本がおすすめだと言っているようだった。一度読んだようだが、なんであんな高いところにあったのだろう。ヒノエ以外が手に取るような本には到底見えない。元々あの場所にあって、またあの場所に戻したのだろうか、わざわざ梯子を使って。律儀な子だ。とはいえ探す手間は省けた。助かったのは確かだ。
「ありがとう」とリヒナーが言うと、「読むなら下ですよ」とヒノエは適当な返事をした。
本を持ってまた一階へ降りる。ヒノエが後ろからついてくる。空いた椅子に座る。ヒノエも隣に座る。一階の隅の方では昨日も見た学徒たちが、また自由意志について議論を交わしている。
ヒノエのことは一旦置いておいて、本をひらき目次を眺める。オービターの美術史はおもに三つの時代に区切られており、それぞれ
揶揄の時代は文化が開花した時代でもあるが、画法や画材がどうというよりも、当時の王の悪政もあって風刺画が大流行した。その結果、画家は思想家とともに危険視され、絵画の価値が危ぶまれた。
啓蒙の時代には絵画の価値を見直す潮流が世間に流れた。哲人画家と呼ばれた女性が、いわゆる『常識』にふたたび光を当てて再考するという思想を元に、輪郭の淡い光を水彩でキャンバスに落とし込んだ美しい絵画を多く生み出した。少なくない者がこういった絵に価値を見出し、またそれに追従する画家も現れたことによって、絵画の印象は回復の方向へ向かった。再生の時代、光の時代とも言われる。
月影の時代は、啓蒙の時代の光が落とした影の時代とも言える。時代の進行により、サーカスや書物が一般市民にも普及した。結果として娯楽は多様化し、絵画を楽しむひとの数は減った。絵画鑑賞は、ややアンダーグラウンドな娯楽、趣味となったが、画家が減ったわけではなかった。啓蒙の時代に描かれた淡い光の世界と対をなすように、濃い影が強調された暗黒の世界の絵画が同じくらい描かれた。それは世相を反映していた。啓蒙の時代には平和だったこの国も、時代が下るとまた荒れつつあった。ひとの心象風景が荒廃し、それがキャンバスの上に顕れた。そういう時代だった。
目次に書かれた各時代の区分の横には、その時代に描かれた主要な絵画の名が並べられていた。『月の泪』の名があったのは、啓蒙の時代の終わりのところだった。項をめくり、『月の泪』について読んでみる。ヒノエはべたっと机に突っ伏してこちらを覗き込んでくるが、まだ無視しておくことにする。
『月の泪』は、ちょうど啓蒙と月影の境界で生まれた絵画だった。啓蒙思想がすこし流行を見せ、神の啓示から人の理性を重んじる時代が来ると思われたが、結局はこの国の根本にある最善世界律が、神をこの時代の頂点にふたたび押し上げた。この絵画はその状況の表れとも言われている。啓蒙の時代――過去に過ぎ去った美しい世界の淡い月光が、人の姿をした神デミペリオに
また、違う見方もあるようだった。月という絶対の秩序に縛られたデミペリオが、己の運命を嘆き泪を流しているのだという解釈もあるようだった。足元の濃い影は、足枷の暗喩なのだという。その姿はまるで人のようだと、そう言われているようだった。秩序と時間という牢獄に囚われた、哀れな人の姿のようだと。この絵を分岐点として、世界は絵画に影を落とし、また絵画が世界に影を落とすこととなった。
本に書かれていたのは、主に『月の泪』の歴史的価値や、世間に与えた影響や印象のことだった。不思議なことに、作者についての言及がない。作者不明ということなのだろうか。そして当然、いまどこにあるのかも書かれていない。知見は深まったが、べつに役には立たない。知識とは得てしてそういうものかもしれない、とリヒナーは思い、本を閉じた。
「もういいんですか」とヒノエは机に突っ伏したまま言う。
「うん。知りたいことはたぶん書かれてない」リヒナーは正直に言った。
「そうでしたか。ちょうどいい本だと思ったのですが」
「いや、いい本だったよ、ありがとう。知見は深まった」
「よかった」ヒノエはそう言うとぬらりと立ち上がって、ゆっくりと図書館の入口へ歩き始めた。
「もう行くのか」
「そうですね。きょうはゆっくりします」
「ヒノエ」とリヒナーは呼び止める。
ヒノエは振り返る。「なんですか」
「『
「はい、知っていますよ。約二百年前、竜を産んだという魔女の話ですよね」
「なんだ、知ってたのか」
「もちろん。他の竜の伝承とは毛色が違って、特に印象に残っています」
「あれ、どう思う?」
「どう思う、とは」
「僕にはなんというか、あの話からは真実性が感じられた。約二百年前っていうわりかし具体的な数字が提示されていて、なおかつ長い歴史から見ると、二百年って年月は比較的最近だ。うまく言えないけど、あの魔女の存在は、ものすごく自分と近いものに思える。僕と似てるとかそういう話じゃなくて、物理的な距離が近いってこと。それが実在性を肥大化させているのかもしれないけど、あれはほんとうにあった話なんじゃないかと思って」
「ええ、分かりますよ」ヒノエは言う。「他の伝承には、土地の風習や、あるいは教訓などを思わせるなにかがあったりするものですが、『竜齎の魔女』はあまりにも突飛で暗喩めいているように感じます。なんというか、事実からたくさんのなにかが削ぎ落とされた形の話に見えます。それに……」
ヒノエはそこで一度言葉を区切った。リヒナーは黙ってヒノエの言葉が紡がれるのを待った。
すこしの間を置いてから、意を決したようにヒノエは言う。
「わたしは、『竜齎の魔女』から産まれた竜を見たことがあるかもしれないので」
「それは、どういう……」リヒナーは言葉に窮した。いったいこの子は、なにを言っているんだろうか。
「産まれた竜は凶暴で、ある街を滅ぼしたという話もあります」ヒノエはこちらに引き返してきて、また隣に腰を下ろした。「本来、竜というのは比較的温厚な種族で、人とのあいだには平和条約のような関係が結ばれている。かつて言葉を介して意思の疎通が可能だった頃の名残という話です」
「それも伝承だろう」
「そうですね。でもいまのわたしはこれを信じています」
「人と比べて圧倒的な力を持つ竜が、人に有利な平和条約みたいな提案を飲むもんなのかな」
「竜が温厚な種族であるのなら、その提案は竜にとってもきっと有益です。野蛮な人間は欲に目が眩み、竜に手を出すことがあります。竜とのあいだに契約がなければ、その復讐によって我々は滅ぶことになっているかもしれませんよ。まあ竜たちが契約をおぼえていても、我々はおぼえていないのですが」
「突飛な話に聞こえるな。確かに部分的には同意できるし、反証もないけど、仮定が多すぎてあまり論理的には思えない」
ヒノエは続ける。「竜の目撃例が少ないのは、その契約によってお互いに不干渉を貫いているからなんだと思います。人の方からもあまり干渉がないのは、畏れと、無意識下に残る契約の記憶がそうさせているというところがあります。しかし、人の側に干渉者――さっき言った野蛮な者が現れるように、竜の世界にも理外に生きるものがいます。彼らの世界の
「あの竜」とリヒナーは反復する。「それがさっきヒノエが見たかもしれないって言ってた、『竜齎の魔女』から産まれた竜ってこと?」
「はい」とヒノエは返事をして、一度深呼吸を挟んでから続けた。「パグジーヌという国をご存知でしょうか。ここからだと東の果てにある、小さな国なのですが」
「いや、知らない」
「言ってなかったと思うんですが、わたしの出身はそのパグジーヌなんです」
「そうなのか」リヒナーは内心ですこし驚いた。ヒノエはこの国の人間じゃなかったのか。
「はい。いまから五年ほど前まで、わたしはパグジーヌの小さな村に住んでいました。その村に、わたしが十歳のときに竜が現れたんです。片腕のない、巨大な竜でした。その竜は雷が落ちるように急に現れ、嵐のように暴れ、ゴミを転がすみたいに人を殺していきました。畑は荒れ、木はなぎ倒され、家屋は崩壊して、いよいよもうわたしも死ぬんだと思ったとき、竜はどこかへ去っていきました。村民の半分は死にました。わたしの母親もです」
あまりにも凄惨な話が淡々と語られたもので、リヒナーは唖然としてしまい、口を挟めないでいた。
ヒノエは無表情で話を続ける。「このとき村に現れたその片腕の竜が、『竜齎の魔女』が産んだ竜なんじゃないかと、わたしは思っています。あれは常軌を逸した残虐性でした。ある街を滅ぼしたという話も、大いに有り得ると感じられるほどの圧倒的な力です。温厚な種族である竜の異端、それは竜の世界の外から
「……なるほど。まあ、筋は通っているか」
リヒナーはなるべく平静を装いながら返事をしたが、ヒノエはふたりを取り巻く重苦しい空気を感じ取ったのか、椅子から勢いよく立ち上がる。
「ど、どうした」
「あ、いや……すみません。ヘンな話をしてしまって……」ヒノエはばつが悪そうに言った。
「いや、いいんだ。こっちこそごめん、悪かった」
「リヒナーが謝ることなんてないです。わたしが勝手に喋っただけなので」
沈黙。
図書館の隅で学徒たちが興じていた自由意志についての議論は白熱し、先ほどよりも声量が大きくなっていた。入口から差し込む陽の光は、図書館の深くまで入ってきている。ヒノエは机に手をついて立ったまま、その場に固まっていた。さまよえる無垢な魂は、どうすればいいのか迷っているようだった。
「ヒノエ」リヒナーは呼びかける。「まだ時間があるんだったら、もうすこし話そう」
ヒノエは逡巡した後、無言で椅子に座り直した。
リヒナーは言う。「話したくないなら話さなくてもいいんだけど、その竜が出たあと、ヒノエはすぐに村をでたのか?」
「そうですね」とヒノエは答える。表情はさっきよりすこし暗く見える。「竜が現れて三日後くらいに、魔術師が村を訪れたんです。その魔術師はひとりで旅をしながら、隻腕の竜を探していると言いました。だからわたしは、その方に連れて行ってくれって頼み込んだんです。ほとんど半狂乱で、復讐がしたいなんて言って。その方はわたしの扱いに困っているようでした。頼み込むたびに、『ごめんね』と謝られました。気がどうにかなってしまいそうでした」
「でも、ちゃんと連れて行ってもらえたわけだ」
「連れて行ってもらったと言うより、勝手について行ったというのが正しいかもしれません。身勝手な行動をとりましたが、結局その方はわたしの面倒を見てくれるようになりました。そのときのわたしはまだ十歳で、ひとりで生き抜く
「そうか。いい人なんだな」
「はい」
凄惨な光景を目に焼きつけられ、絶望に身を
あらためて自分の歩んだ道を振り返ると、そこには木漏れ日のような微かな光があるように見えた。いままで見えなかったまばらな光の粒はすべて可能性のひとつで、自分はその光がもたらす恩恵を享受できたはずだったのに、それらに気付くことができず不可逆の道を歩み、ここまで来てしまった。そんなことを考えた。
「すべては外からの入力に対する出力でしかない! 針にふれた指先を引っ込めるのと同じだ! 自由意志は存在しない! おまえは最善世界律が間違っているとでもいうつもりか!」
「最善世界律と自由意志は反発しない! 神から与えられる選択肢のどれを選ぶかは結局、人の意思に委ねられている! これが自由意志でないなら、おれたちの存在はなんだっていうんだ!」
図書館の隅でおこなわれていた議論の白熱は留まるところを知らず、周りの人をも巻き込んでちょっとした騒ぎになっていた。いまにも殴り合いが始まりそうな、狂気的な熱を感じる。厄介事に巻き込まれないうちに離れたほうがよさそうだ。
「行こう」とリヒナーは立ち上がって言った。
ヒノエも立ち上がり、なにも言わずについてくる。外に出る直前で騎士とすれ違った。その騎士は中に踏み込むや否や、大きな声でなにか言った。図書館内の空気はしんと静まり返る。冷たささえ感じられる静寂を背にして、まだ明るい屋外へ出る。人の往来が激しい。昨日は本に酔ったが、きょうは人に酔いそうだ。まただんだんと気分が悪くなってきた。まだ動けるうちに、ふらつく足で人を避けながら日陰の方へ移動する。壁にもたれて、その場に座り込む。敷かれた石畳は生ぬるく、感触も硬い。ヒノエも隣に腰を下ろし、顔を覗き込んでくる。
「家で寝てたほうがいいんじゃないんですか」ヒノエが言う。
「そうかも」とリヒナーは言った。人混みに
はあ、とヒノエが横でため息を吐く。それから肩に触れてくる。なにかと思ってヒノエの方を見ると、目を閉じてなにかぶつぶつと呟いている。なにをしているんだと訝しんでいるうちに、だんだんと腹のなかに湧き上がっていた不快感のかたまりのようななにかが、ふっと消えていくのを感じた。気分もすこしマシになってきた。弱い治癒の魔法の効果だった。
「魔法が使えたのか」とリヒナーは言った。
ふうー、とヒノエは長い息を吐いた。額には汗が浮かんでいる。いちおう魔法を扱うことはできるが、それにはまだ尋常ではない集中力と複雑な魔力の操作を伴うようだった。あまり得意という感じには見えない。つまり、ヒノエはまだ魔法使いの卵のようなものらしい。
ヒノエは苦しそうにしながら深呼吸を繰り返していたが、しばらくすると落ち着きを取り戻した。ローブの袖で汗を拭い、今度はどこか中空を見つめはじめた。
「ヒノエ?」とリヒナーは呼びかける。
ヒノエは中空を見たまま答える。「なんですか」
「だいぶ良くなった。ありがとう」
「寝るんだったら家のほうがいいですよ」
「そうする」リヒナーは立ち上がる。
ヒノエは座ったまま言う。「わたしはもうすこし休んでから帰ります」
「分かった。あと、最後にひとつだけいいか」
「どうぞ」
「ヒノエは、自由意志についてどう思う?」
すこしのあいだを設けて、ヒノエは言った。「あったらいいなとは思います。でも、そんなものはないと思っています」
「そうか」リヒナーは言う。「僕もそう思う」
「ゴールは、自由意志についてどう思いますか」
壁の穴から真円に近づきつつある月を眺めていると、ヒノエが訊いてきた。
「自由意志? どうしてまたそんなことを」
「きょう、中央の図書館で学徒たちが口論をしていたんです。自由意志の有無について」
「なるほど。自由意志か……」
自由意志と言われて、ゴールが最初に思い当たるのは、最善世界律のことだった。
神が産み落としたこの世界は完全なものであるはずだが、なぜ悪なるものが存在しているのか。それは神にとって必要だったからだ。個の悪が、最善の世界には必要なのだという。全体の幸福のためには、個の不幸があって然るべきなのだと、この国では思われている。そしてその不幸というのは、神によって与えられた選択肢の中に存在しており、我々はその中から自らの意思でそれを選び取らなければならないことがある。ここには自由意志の介在が許されているように思えるが、この不幸は神からの贈り物であるという主観が、各々の思考に圧力を与える。これが真に自由意志と言えるのかは分からない。しかしオービターの民はこれを少なくとも悲観的には見ていない。
不幸を乗り越えた先に幸福があり、逆説的に、幸福になるには不幸を超えなければならない。いま起こっている不幸も、いずれ過ぎてやがて幸せが訪れる。いま幸せなのはあのときの不幸があったからだと、多くのオービターの民は考えている。
そしてこういった考えの中に介在する神の代弁者が、シエリにいるダイモス王である。つまり、王の声は神の声なのだ。
このような思想、規律が、オービターという国の根底にある『最善世界律』だった。しかしゴールは王の声、要するに神の意思に反した行動をとった。思想犯として投獄されたのはそのためだった。
王の声、神の意思に反したあのとき、自由意志は確かに自分のなかにあったように思える。自由意志とはつまり、外的環境に左右されず、なにかを成そうとする意思という力を持つことだと理解している。であればあのとき、自由意志は存在していたと言えるのではないか。
しかしそう単純な話ではないらしいというのをゴールは聞いたことがあった。人に生じている意思というのは幻想で、あくまでそれは外からの入力に対する脳内の微かな魔力の反応でしかないだとか、物理的な視点からは原因と結果の関係によって人の行動は予測できる、あるいはもう決定されているだとか、そういう話だ。
それでもゴールの中には、無から生じた意思や感情が輪郭を持って存在しているように思えた。決して幻想などではなく、幾度もこれが自らの人生を切り開いてきたのだという確信に近いものがあった。
「私は、自由意志はあると思っている」
「それは、どうしてですか」
「自由意志がないのなら、私はきっと投獄されていないはずだ」
「じゃあその投獄が、最善世界律のいう甘受すべき不幸だったとしたら、どうですか」
「私はその甘受すべき不幸を蹴って外に出た。いや、出ることを選んだ」
「そうですか」ヒノエは隣で月を見上げながら呟いた。淡い月光に照らされる横顔には、焦りや迷いが張り付いているように見えた。
ゴールは訊ねる。「ヒノエ自身は、自由意志についてどう思っている?」
「わたしには……分かりません」
ヒノエは視線を落とし、膝を抱えてそう言った。
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