5 潮騒
ゴールの脱獄から四日が経った。相変わらず中心街ではゴールの居場所についての噂が囁かれており、なにか行動を起こすのではないかと恐れられているようだった。騎士たちもまだ忙しなく捜索を続けている。もうすこしこの慌ただしさが持続するといいのだが。
リヒナーは中心街にある図書館に来ていた。さすがに城には劣るが、優麗な外観を持った、格のある建築物だった。いわばここは街の知恵を司る蔵なので、立派であって然るべきなのだろうが、それにしても大きい。中に入ってみると、壁面にはぎっちりと本が詰まった棚があり、あちこちに梯子がかけられていた。中央は吹き抜けになっており、長い机と無数の椅子が置かれている。そしてその半分くらいには人が座っている。端には二階へ上がる階段があり、二階は建物の内側を縁取るような通路があるのみだった。つまり二階は完全に本を置くか取るための空間で、読むのは下で、という構造になっている。
リヒナーが探しているのはこの街の建築について書かれた書物、そして歴史と美術史についての書物だった。もともと本を読むのは嫌いではなかった。故郷にいた頃は勉強もできたほうだった。しかしこの蔵書の量には頭がくらくらしてくる。どこから探せばいいものか。司書に聞くのがいちばんだが、どうも警戒してしまう。
とりあえず一階の棚を見てみることにした。入口から左手の壁沿いに歩いていく。めぼしいものは見当たらない。奥の方では、数人の学徒と思しき人物たちが、自由意志について議論していた。その横を通り過ぎ、ふたたび本棚に目を向ける。背丈以上の高さに仕舞われている書物を見上げていると、圧迫感をおぼえてくる。やはり頭がくらくらする。とてもじゃないが目当てのものを探し当てるのは厳しい。しばらく歩くと一周して入口に戻ってきた。一旦外に出て、春の涼しい空気を肺に入れた。
「だいじょうぶですか」
横から抑揚のない声がした。そちらに目を向けると、昨日見た黒髪の少女が立っていた。
「ああ」リヒナーは壁にもたれ、深呼吸してから言う。「だいじょうぶ」
「あまり顔色がよくないようですが」
「いや、ちょっとくらっとしただけだよ」
「そうですか。ここでなにをされていたんですか」
「ちょっと探しもの」
「図書ですか?」
「そう」
「へえ。図書なんか読まれるんですね」
黒髪の少女は半分驚き、半分馬鹿にするように言った。前に会ったときの捨て台詞を気にしているのか、その仕返しのような嫌味が含まれているのを感じる。
「そっちはなんでまたこんなところに?」とリヒナーは訊ねる。
「ヒノエ」と黒髪の少女は言う。「わたしの名前はヒノエです」
「ああ」思わず力の抜けた声が溢れる。この街では、ゴールといいこの子といい、やたらとちゃんと名前で呼ばれたがるやつばかりに会う。いったいなんなんだ。
「ヒノエは、なんでここに?」リヒナーはあらためて訊ねた。
「探しものです」とヒノエは答える。
「竜についての図書?」
「いえ。きょうはこの土地の文化とか、風俗について調べようかと」
「ふうん。竜についてはもういいんだ」
「それについては一旦休憩です」
「そうか」
日陰のなか建物にもたれてヒノエと話しているうちに、いくらか気分が良くなってきた。ただ、もうきょうは図書館のなかに入る気にはなれなかった。また気分を悪くしたくもないし、ヒノエもいるとなるとなんとなく居心地が悪い。どうしたものか。
「名前は」とヒノエが抑揚のない声で言う。
「名前?」とリヒナーは反復する。
「あなたの名前」
「ああ」また力の抜けた声が口から漏れてしまう。質問されていたのか。抑揚が少なくて分からなかった。「僕はリヒナー」
「リヒナーは何についての図書を探しにきたんですか」
「建築とか、美術とかかな」
「なんだか似合いませんね」
「こう見えても文化資本のそこそこある家に生まれたもんでね」
「西海岸のほうにお住まいと聞きましたが」
「あのへんはたしかに貧困層が多いけれど、それはちょっと差別的な発言かもね」
「そうかもしれません。失礼しました」ヒノエは頭を下げた。顔を上げると、また口をひらく。「建築や美術について、具体的にどんなことについて知りたいんですか」
怪しまれているのだろうか、とリヒナーは思う。徐々にヒノエがこちらに踏み込んできているような気がする。適当に言うと、それはそれでヒノエはまた勘繰ってきそうだ。言っていいものか、城のこと、『月の泪』のことが知りたいと。
「そうだな」リヒナーは思索しながら言う。「建築だと、この街全体の構造とか、様式について。美術は、おもに歴史かな」
「なるほど、分かりました。わたしもあまり知らない分野なので、すこし興味があります」
「はあ」
「ちょっと調べてみます」
「土地の文化と風俗について調べるんじゃなかったの?」
「そのつもりできたんですが、わたしも興味が湧いたので」
「そうかい。じゃあまた今度教えてよ」
「明日もここにいるので、ほんとうにそう思うならきてください。それでは」
ヒノエはそう言って図書館に入っていった。読めない子だ、調子が狂う。
たまには息抜きするといいとゴールは言ったのだが、ヒノエはきょうも午前中にどこかへ出かけていった。それを追うように、アリアもまたどこかへ出かけていった。
ゴールは空っぽの民家の床に寝そべり、天井の穴から晴空を眺めていた。気持ちのよい快晴だ。鮮やかな顔料できれいに塗られたような青の上を、連なる白雲がゆっくりと流れている。緩慢な時の経過を感じた。時間帯としては太陽がそろそろ中天から下り始める頃だ。つまり午後に差し掛かったということになる。
家のなかでじっとしていては身体が鈍ってしまうので、午前中は屋内の狭い空間でもできる限りの運動をし、昼食にパンをひとつ、真水をコップ一杯摂り、午後からは身体を休めるか瞑想することにしていた。アリアは自分になにかしらの期待をしているのだ、とゴールには分かっていた。おそらく、私が隻腕の竜を殺すことになるのだろうと(実際に可能かどうかはべつとして)。いまはなにもできないが、いずれ必要になるであろう体力を作っておかなければならない。
アリアたちが街を出るのはまだ一週間ほど先のことになる。それまでにアリアとヒノエのことをもっと知っておきたかった。ヒノエはすこし懐いてくれているように感じるが、まだなにか言えないでいるようにも見える。アリアに関してはまるでなにも知らないと言ってもいい。それも仕方のないことだ。我々が出会ってからまだ四日ほどしか経過していない。そう思えばヒノエはよく喋る方なのかもしれない。話し相手に飢えていたのもあるだろうし、精神的、肉体的な疲労がそうさせているという面もおそらくある。甘える相手を探しているようにも見える。
アリアがすこしでも心の内を見せてくれればこの状況は一気に変わるのだろうが、その閉じられた胸中はヒノエにすらひらかれていない。ましてやこちらにひらかれる筈もない。なにか暗く冷たい、思い出したくないような過去があるのか、それともヒノエや私に知られては都合の悪いなにかがあるのか、その判別すらつかない。こうなってはこちらも彼女を信用しきれないというものだ。
ここに来てから、牢獄にいたときより考える時間が増えた。最善世界律に付随する自由意志――つまるところ自分の犯した罪について、あれはほんとうに間違っていたのだろうかと考えた。脱獄させてくれた盗人、リヒナーについて思い返した。あいつは私を見捨てたが、やはり外に出してくれたことに恩義は感じている。それに報いることができるなら、そうすべきだと思っている。このままだとその機会は訪れないかもしれないが。
ヒノエの行く末を案じたこともある。アリアの考えについて思索もした。しかし分からないものは分からない。そのようなことがこの世には多くある。もちろん自分が何者で何を成しどこへ向かうのか、そんなこと分かるはずもなかった。この街から無事に出られるのかどうかすら分かっていないというのに。
午後になってからしばらくのあいだ、ゴールは思考の海に潜り、これまでにここで語られた言葉や無意識の断片を拾い集め、それらを繋げた。出来上がったそのなにかは輪郭を持っていたが、意味を持たなかった。確認してからそれをバラバラにして、またべつの欠片と繋ぎ合わせようと試みる。まっさらなパズルを解いているようだった。繋がりはするのに、なにも浮かび上がってこない。
ゴールの意識をその海から引き上げたのは、外から聞こえた悲鳴だった。続いてどよめきと、また悲鳴。
ゴールは身体を起こし立ち上がる。壁の穴から街の方を見ると、人の群れが一方向へ流れていた。人々の顔には恐怖と焦燥感が浮かんでいる。まるでなにかから逃げているみたいだった。
「海岸に魔物がでた! はやく逃げろ!」
ざわめきの中から、ひときわ大きな声が街の細い通路にも染み込むように響く。どうやらそういうことのようだ。魔物退治は調律騎士団の役割のひとつだが、ここは中央からはすこし遠いうえ、騎士たちには避けられているフシがある。いまから助けを求めにいっても、騎士が来るのは三時間も四時間もあとになるだろう。しかしここの住民はそのことを承知している。なので、自警団が組織されている。まもなく自警団が事態の沈静化に乗り出すことだろう。私の出番はない。
ゴールは必死に自分に言い聞かせるが、皮膚の表面がざわざわと粟立つような感覚に襲われていた。このままこの状況を、黙って見ていろというのか。たしかに私はもう罪人で、騎士でもない。しかし悪党になったわけではない。騎士としてではなく人として、ゴールという人間は他人の受難に首を突っ込まずにはいられなかった。
脱獄した日にがらくたの山から持ってきたナイフを掴み、外套を纏う。罪人の烙印を隠すためのグローブも着ける。そして二階に空いた穴から路地に向かって飛び降りた。受け身を取り、そのままの勢いで海岸へ駆け出す。
だいじょうぶ。バレなければよいのだ。住民にも、アリアにも。ゴールは自分にそう言い聞かせた。
海岸にいたのは三匹の魔物だった。体長は一メートルほどだろうか。海からやってきたと思しき魚類に似た魔物は、魚類には似つかわしくない厚い鱗に覆われた強靭な足で砂浜を歩いていた。発達したヒレは不格好なほど大きく、いまにも羽ばたいて飛んでいきそうだ。鰐のような顎を持ち、半開きの口からは鋭い牙が覗いていて、その隙間からは涎が垂れている。腹が減って陸地に上がってきたのかもしれない。
どうであれ、ゴールには関係なかった。このまま放っておけば住民に危害が加わるかもしれない。問題はそれだけだった。幸い避難はほとんど済んでいるようで、海岸にはひと気がなく閑散としている。自警団もまだ到着していないようだ。
誰にも見られず、電光石火で終わらせるのが理想だ。
ゴールは腰からナイフを引き抜き、三匹の魔物に正面から向かっていった。魔物たちはすぐにゴールに気づき咆哮した。三匹それぞれがヒレをひらき、身体を大きく見せる。一匹は二本の強靭な足で砂を蹴り上げながら、まっすぐこちらに突っ込んできた。すれ違いざまに身を低くして魔物の突進を躱し、ナイフでヒレの付け根を切り上げる。絶叫とともに、ヒレは砂浜に落ちた。すかさずその切断面に蹴りを入れる。
魔物は痛みに呻くようふたたび咆哮しながら、体勢を崩して倒れる。起き上がろうと足をバタバタさせているが、ゴールはそれを躱し、目を踏みつけ、喉笛を切り裂いた。吹き出した血で砂浜が赤く染まる。口に入った返り血を吐き出し、濡れた顔を拭う。まずは一匹。あと二匹だ。
水の塊はゴールの手前に落ち、砂を巻き上げた。ゴールは外套を翻して砂をはらい、また魔物に向き直る。魔物は大きく口とヒレをひらいて高く飛び上がり、また突っ込んでくる。
ゴールは身を低くして魔物の腹の下に潜り込む。そしてナイフで腹を一突きにした。さっきよりも近くで魔物が絶叫する。脳が揺れる。頭が割れそうなほどの音量だった。ゴールと魔物はすれ違うかたちでお互い砂浜に転がった。魔物はのたうち回っているが、ゴールはすぐに立ち上がる。魔物の動きからはだんだんと生気が失われている。こうなると近づくのは容易だった。ゴールは弱った魔物の首を羽交い締めにするように掴み、そのままへし折る。最後の抵抗をするようにピクピクと動いていた足も、やがて動かなくなった。
何度も大きく息を吸って、吐いた。海岸の静寂に、波音だけが響く。逃げ出した魔物は戻ってきていない。賢明な魔物だ、きっと長生きするだろう。
魔物の腹からナイフを引き抜き、外套で拭ってから腰に差した。海水で顔と手を洗い、また外套で拭う。ずいぶん汚れてしまった。住民に見られず手早く終わらせられたのはいいのだが、これではアリアになにか言われてしまうかもしれない。
仕方ない、バレたらバレたときだ。なにか言い訳を考えておこう。
砂浜から石畳へ上がり、穴の空いた家へ向かってすこし進み始めたとき、通りの向こうの方から声がした。
「海岸に魔物がでたようです! このあたりは危ないので避難してください!」
声の方向に目を向けると、三人の騎士がいた。おおらかそうなふくよかな男に、動作の優麗な細身の男、そして神経質そうな背の低い男。思わず息を飲む。知った顔だった。外套のフードのおかげで気づかれてはいないようだ。騎士たちは声だけかけると、海岸の方へ向かって走っていった。
なぜこんなにも早く調律騎士団がここに? しかもあれは第四師団の者――つまり私の元に就いていた騎士たちだ。ふくよかな男は肉屋の息子のザーク、細身の男は騎士一家の三男であるサン、背の低い男は時計職人でもあるラヴェルだ。彼らはよく三人一組で動いていたのを記憶している。私がいなくなってからもそれは続いているようだった。
思わぬ遭遇に冷や汗をかきながら、ゴールは家路を走り抜けた。穴の空いた家に着いた頃には、もう陽が沈みかけていた。中に入り二階へ上がる。壊れた扉をすり抜け部屋に転がり込む。まだ誰も戻ってきていないようだった。穴から消えかかった陽の光を見ながら、大きく深呼吸をして気を鎮めた。それから言い訳を考え始めた。
辺りがすっかり暗くなってから、まずヒノエが家に戻ってきた。
「すみません、戻るのが遅くなりました。なんだか海岸のほうが騒々しくて、つい覗きに行ってしまって」
「海岸?」ゴールはとぼけて言う。
「はい。なんでも今日午後未明に魔物がでたそうです。しかしたまたま近くにいた調律騎士団の騎士が住民の避難誘導をしてから海岸に向かったところ、すでに魔物は討伐されていたとか」
「自警団がやったのだろうか」
「自警団も避難誘導をしていたようなので、どうやらそういうわけではないみたいなんです」
「ではいったい誰が」
「……騎士の話によると、海岸へ向かう直前、フードを被って外套を纏ったひとが海岸の方から歩いてきたそうなんです。状況から見るに、その何者かがおそらく魔物を退治したようですよ」
「ほう。いったい何者なんだろうな」
ヒノエは黙ってゴールの顔をじっと見ていた。
ヒノエが戻ってきた一時間後にアリアは戻ってきた。辺りには完全に夜の帳が下りており、満月に近づきつつある月が空を支配していた。
部屋に入ってくるなり、アリアはゴールの横に立ち、低声で言う。
「ゴール。あなたきょう外に出たわね」
「な」ゴールは思わず
「血の匂いがするわよ、ゴール。海岸で魔物を斬ったのはあなたなんでしょ」
ゴールは黙っていた。
アリアは続けて言う。「それに、顔に血がついてる」
「え?」ゴールは思わず顔を手で拭う。仮にほんとうに血がついているとしたら、いま拭ったところで取れるわけもないのだが。
「ウソよ」
「え?」
「ちゃんと拭えてる。血なんかついてない」
「そ、そうか」
「ゴール」アリアは低声であらためて言う。
「はい」とゴールは背筋を伸ばしながら言う。
「わたしの言ったこと忘れた?」
「す、すまん」
「街を出るまでおとなしくしててって、わたし言ったわよね?」
「しかし……」
「なに?」
「いや、なんでもない……すまなかった」
部屋の隅でヒノエが小さく、「ふふっ」と笑った。ゴールはこのとき、ヒノエが笑ったところを初めて見た。
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