4 白昼の盗人、夕闇に見る過去
ゴールの脱獄から三日が経ったシエリの中心街では、未だゴールの居場所について、多くの噂が蔓延っていた。南の門でも北の港でも検問があり、東西の海には魔物が生息しているものだから、ゴールはまだこの街から出ていないと多くの者は考えているようだった。調律騎士団の騎士たちも、ゴールを探して街を奔走しているようだが、さすがにオービター最大の都市ということもあって、状況の進展はほとんどないと窺える。聞こえてくるのも噂や憶測ばかりで、目撃情報はひとつもない。ただ『ゴールが脱獄した』という事実だけが情報として存在していた。
まさかそこまで名のある騎士だったとは、とリヒナーは噂の
脱獄後、リヒナーは東海岸で廃墟と思しき民家を見つけてゴールを入らせてみたが、二階から大きな物音が聞こえたものだから、これはだめだと思い、そこでゴールを見捨て、中心街の方へ引き返していた。その後、西海岸と呼ばれる地域で廃屋を発見し、そこを根城にしていた。今日はそれ以来の中心街になるのだが、日中はやはり人が多く、とても人の目を盗んで城には近づけそうにない。
シエリのほぼ中心にある王城は小高い土地の上に建っており、城の中でもかなり規模の大きいものと窺えた。城を覆う壁もそれに負けじと高く、守りの堅牢さを窺わせる。壁の向こうにはいくつかの塔が建っているのが見える。なかでもひときわ高く聳える大きな塔がふたつある。そしてここには当然、調律騎士団がいる。おそらく詰所や居館なども城内にはあるだろう。仮に夜であってもここへ忍び込むのは容易ではない。
しかしいまの状況だとどうだろう。ゴールの捜索にある程度の人員を割いているだろうから、いつもより城内の騎士の数は少なく、警備も手薄になっているかもしれない。夜であればなおさらだ。
忍び込むなら夜だ。リヒナーは考えを巡らせる。あとはどう入り込むか。それを考えなければならない。そして城内のどこに『月の
実際に王城を下見することでなにか思いつくことに期待したが、なにも思い浮かびはしなかった。まあいい、時間はある。いつまでに行動を起こさなきゃならないという制約もべつにない。しかし、ゴールが捕まってしまう前に実行するのが望ましい。となるとなるべく早いほうがいい。
当初の考えでは、ゴールには囮になってもらうつもりだった。脱獄者が発見されたとなれば、それなりの騒動が起こるはず。その隙に城内に入り込んで、ことを終わらせてしまおうという算段だったのだが、肝心のゴールがいまはいない。探しに行くべきだろうか。ゴールには利用価値がある。
「すみません、ちょっとよろしいでしょうか」
思索していると、後ろから声をかけられた。リヒナーは驚いたが、そのような素振りは見せず笑顔をつくり、ゆっくり振り返る。
目の前には黒髪の少女が立っていた。袖が長く、丈は短いローブを着ている。背はそれほど高くなく、年齢もおそらく十代と窺える。同い年くらいか、この子のほうが少し年下だろう。どうやら害のある者ではないようだ。
「なにか?」とリヒナーは笑顔で言う。
「ええと、わたし、この辺りで調べものをしておりまして」
黒髪の少女が言う。言葉遣いこそ丁寧だが、愛想がいいという感じではなかった。顔立ちは整っているほうだと思うが、表情がすこし暗く、愛嬌は感じない。不思議な子だな、とリヒナーは言葉の続きを待つ。この沈黙を肯定的に受け取った黒髪の少女は、ふたたび口をひらく。
「二週間とすこし前、東海岸で出た竜についてなのですが、なにかご存知ありませんか?」
二週間とすこし前というと、リヒナーがこの街に入るよりも前のことだった。当然そんな話は知らないが、素直に知らないと答えていいものだろうか。いや、知っていると言って根掘り葉掘り聞かれてはボロが出るかもしれない。ここはおとなしく、正直に言ってみるとしよう。
「知らないな」
「そうですか」黒髪の少女は言う。「もしかして、この街の方ではないのでしょうか」
リヒナーは咄嗟に言う。「いや、西海岸のほうに住んでいるもんだからさ」
「ああ、そうなんですね。失礼しました」
納得してもらえたようだ。リヒナーは心内で胸を撫で下ろす。どうもゴールの脱獄前までは、東海岸で竜が出たというのがもっぱらの話題だったようだ。今や見る影もないが。
「それにしても、そんなことがあったんだね」とリヒナーは言う。
「はい。東海岸のある一角に、竜が降ってきたという話です。民家のひとつには巨大な穴が空き、竜の吐く火炎であちこちが焼けたそうです。完全に崩壊した家屋もありますが、運良く、死傷者はいません。しばらくすると竜はどこかへ飛び去っていったようなのですが……」
「そっか。まあ怪我人がいなくてなによりだね」
「ええ、そうですね、ほんとうに」
すこしの沈黙を挟んだあと、黒髪の少女は言う。「すみません、お時間ありがとうございました」それから会釈をした。
「どうも」リヒナーも会釈をする。どうやら話は終わったらしい。彼女は礼儀もあり言葉遣いも丁寧だが、終始目も口も笑っていなかった。まるで義務感に駆られているようだった。
少女はリヒナーに背を向け歩き出した。だんだんと小さくなっていく背中を、リヒナーはその場でただ見ていた。
「もうすこし笑えばいいのに」リヒナーは遠ざかる少女の小さな背中に、小さな声でそう投げかけた。
黒髪の少女は振り返り、「余計なお世話です」と言った。そしてまたリヒナーに背を向け歩き出した。
おそろしい地獄耳だ、とリヒナーは思った。あと、あの子はたぶん怒らせちゃいけない、とも。
「わたしってそんなに愛想がないでしょうか」
夕刻に戻ってくるなり開口一番、ヒノエはそう言った。なにかあったのだろうかと思いつつ、ゴールは正直に答える。
「そうだな。もうすこし笑うといいかもしれないな」
「はあ……」ヒノエはため息を吐く。どうやら欲しかった言葉ではなかったようだ。
アリアに捕まってからの三日間、ゴールはこの穴の空いた家から出ていなかった。食事はヒノエが買ってきてくれたものを摂り、睡眠は一階か階段で摂るようにしている。拘束も解かれていて、今のところ不自由はない。ただ、この街にいるあいだはなにもできず与えられるのみで、申し訳無さが湧いてくる。
これは、街から出る手助けをしてもらう代わりに、アリアとヒノエの旅についていくという取引を飲んだ結果だった。とはいえあの状況では、飲まないという選択肢は実質無いに等しかった。断ればまた牢獄送りだったはずだ。それに、他に頼りにできる者はいない。リヒナーにはおそらくあの夜の時点で見限られている。あの盗人め。
「アリアさまは」ヒノエは辺りを見回しながら訊いてくる。
「さあ。午前中に出かけたきり戻っていない」
きょうはめずらしくアリアが部屋にいなかった。いつもはヒノエがいないあいだ見張られているのだが。
「それならきっと図書を見に行ったんですね」とヒノエは言う。
そういえばアリアは安楽椅子に腰掛けながら、いつも本を読んでいる。いまあるものは読み終えて、また新しいものを買いに行ったということだろうか。ヒノエとは違う方法で、彼女は彼女でまた竜について調べているのかもしれない。
「それで、きょうはどうだった」ゴールは訊ねる。
ヒノエは無言で首を振った。
二週間とすこし前、東海岸の民家に竜が降ってきた、とアリアは言っていた。その民家というのがまさにここで、二階の壁から天井にかけての穴は、降ってきた竜が激突してできたものらしかった。扉が煤けていたり、あちこち黒ずんでいるのは、竜の吐く火炎のせいとのことだ。
降ってきた竜はしばらく暴れていたが、すぐにまた空に登っていったという。幸い、死傷者はいない。牢獄にいるあいだにそんなことが起こっていたとは、まるでゴールは思っていなかった。
アリアとヒノエはこの話を聞きつけ、竜の情報を求めて街の外からやってきた。つまりここはアリアとヒノエの家ではないということだ。とはいえ勝手に入っているわけではなく、所有者に借りているとのことだった。損傷が激しい建物なのでいつ崩れても知らない、と言われたがここを選んだらしい。確かにここには竜の痕跡が残っているかもしれないから、調査にはうってつけの場所だが、実際はそのほうが宿代が浮くという現実的な理由があった。
「新しい情報はもう出てこないかもしれませんね」ヒノエは肩を竦めて言う。
ヒノエは午前中に出かけ、夕刻になると帰ってくる。そのあいだ、ほとんど降ってきた竜について話を聞いて回っているらしかった。しかし数日経つと、新しい情報は出てこなくなった。そのうえゴールという脱獄者がでたこともあって、竜についての皆の記憶はもう薄れつつあった。
「いつ街を出る予定なんだ?」ゴールは訊ねる。
「予定では次の満月のすこしあと……だいたい今から一週間後というところですね。それまではおとなしくしててください」
「ああ、分かってる」
ぽっかり空いた穴から見える夕闇を、ふたりは無言で眺めた。遠くから波音がする。もうすぐ夜が来て、ここには月が現れる。竜や罪人のことなどつゆ知らず、天は廻っていた。
「いやな時間ですね」とヒノエは言った。「思い出したくないことを思い出します」
「そうか」とゴールは空を見ながら言う。
取引が成立したあの日、結局アリアがなぜ隻腕の竜を探しているのかは教えてくれなかった。ヒノエに訊いても知らないという。なぜ一緒にいるのかと訊くと、ヒノエはまたアリアとはべつの理由で隻腕の竜を探しているとのことだった。簡単に言えばその理由は、復讐のためだと、そういうことらしかった。
ヒノエの住んでいた村に現れた隻腕の竜は次々に村人を襲い、終いにはヒノエの母親を手に掛けた。夏の夕刻、そのときヒノエは十歳だった。
隻腕の竜は殺戮の限りを尽くし、満足したのかその場から飛び去っていった。あとに残されたのは血に塗れた肉塊と赤い水たまり、そして絶望だけだった。それから数日後、アリアが村を訪ねてきたという。アリアが隻腕の竜を探しているというと、自分も連れて行ってくれとヒノエはせがんだ。何度断られてもヒノエはアリアに頭を下げた。竜に母を殺された怒りと悲しみで、ヒノエは気が狂いそうだった。それを見たアリアはヒノエに「ごめんね」と何度も言った。それはまるでなにか責任を感じているようにも見えたと、ヒノエは教えてくれた。アリアさまは悪くないのに、と。
結局、アリアは折れたらしかった。現にヒノエはこうしてアリアと旅をしている。しかしアリアは隻腕の竜を探す理由を頑なに明かさない。それはヒノエと出会って五年が経っても秘密のままだった。
「アリアはなぜ隻腕の竜を探しているのだろう」ゴールは穴の向こうの空の薄闇に、ぽつりと言う。
「さあ」
「知りたくないのか」
長い沈黙を置いてから、ヒノエは薄闇に消え入りそうな弱々しい声で言った。
「ほんとうは、知りたいです。わたしはアリアさまのことを信用しています。腕は立つし、わたしにも良くしてくれます。でも、わたしに心を開いてくれているわけではない。というよりも、誰にも心を開かないひとに見えます。きっと、あの竜絡みで過去になにかあったんでしょうが、わたしはそれを知るのが怖いんです。知ってしまうと、わたしの目の前からいなくなりそうで。でも、知りたい」
きっとヒノエは疲れているのだろう、とゴールは思った。心中を吐露する相手もいないという心労と、毎日ここから街の
「きみは立派だ」ゴールは言う。「そして考えすぎかもしれない」
「考えることが生きるということだと、わたしは思っています」ヒノエの声はだんだん小さくなっていく。「そうしていないと、わたしはわたしを失ってしまいます」
ゴールにはヒノエの言うところの真の意味は理解できなかったが、考えることでなにかから遠ざかろうとしているという旨を汲み取った。おとなしそうに見えるが、胸中では激情と混迷が渦を巻いていて、それを表に出さまいと必死に押さえているのだろう。あまり笑わないのもそのためなのだろうと、ゴールは推察した。
「アリアに相談してみてはどうか」
ゴールは訊ねたが、返事はなかった。目を向けると、ヒノエはすうすうと寝息をたてて眠っていた。きょうは余程疲れていたのだろう。
ヒノエを抱え、ゴールは二階のもうひとつの部屋へ向かった。ヒノエの使っている部屋だ。こっちは扉が壊れていないし、壁に穴も空いていない。
身体で扉を押し、中へ入る。この部屋には入ったことがなかった。中には小さなベッドと小さな箪笥、机があり、その上には
復讐心がヒノエを駆り立てている。ヒノエは自身のキャパシティを超えるほど考え、動いている。そしてそれは心身を蝕み始めている。
ヒノエをベッドに下ろす。閉じた目の下、頬には涙の跡が見えた。いったい彼女は、最後にはどこへたどり着くのだろう、とゴールは考えた。まだ若いというのに、もうこの復讐という螺旋から抜け出せないでいるように見える。復讐を果たした先、ヒノエが握りしめた手の中に、なにが残っているのだろう?
夜遅くになってアリアは戻ってきた。部屋の穴からは丸みを帯び始めた月が、煌々と輝いているのが見える。
「ヒノエは」アリアが安楽椅子に腰掛けながら訊いてくる。
「夕刻からずっと眠っている。相当疲れているようだ」
「そっか」
「なあ、アリア」ゴールは単刀直入に訊いた。「きみはなぜ隻腕の竜を探している」
「言えない」とアリアは腰掛けたまま、目も合わせず言う。「わたしはまだあなたのことを信用しきれていない。だから、言えない」
「ヒノエにもそう言うのか」
「……ヒノエからなにを聞いたの?」
「きみが隻腕の竜を追う理由を知らないと言っていた。知りたいが、知るのが怖いと。踏み込むと、きみは離れていくんじゃないかと、そう思っているみたいだった」
アリアは黙り込んだ。
「どうして言えないんだ」ゴールは追撃するように言う。
「それも、言えない」
「そうか」ゴールは振り返り、部屋の外へ歩き出す。このまま話していても埒が明かない。
「時が来たら話すわ。あなたにも、ヒノエにも」
壊れた扉の向こうから、アリアの震える声が聞こえた。
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