3 竜斬り
太陽が中天に差し掛かる頃になって、ゴールはようやく意識を取り戻した。
ゆっくりひらいたまぶたの隙間から、陽光が入り込んでくる。昨夜の月とは比べものにならないほど眩しく、目が痛む。
昨夜の月?
ゴールは夜のことを思い出し起き上がろうとしたが、身体が思うように動かなかった。目を見開き、頭だけを動かして辺りを観察する。開きっぱなしの扉、小綺麗なベッド、小さな箪笥、魔物の毛皮の絨毯、壁から天井にかけて空いた大きな穴、安楽椅子に腰掛け本を読む女性――
「おはよう。もう昼よ」
安楽椅子に腰掛け本を読むその女性は体勢を変えず、こちらに目を向けることなく言った。ゆったりとした黒いローブを着ていて、栗色の長い髪が床についてしまいそうなほど長い。歳は二十代くらいに見える。
「昨晩はすまなかった」ゴールは
「そう」
黒ローブの女は本を閉じて立ち上がり、立てかけてあった杖を手に取り寄ってくる。それから杖の先をゴールの手の甲に向けた。
「これ、罪人の烙印よね」
「そうだ」ゴールは正直に答えた。
「わたしがあなたの言うことを信用すると思う?」
「思えないな」ゴールは正直に答えた。
「あなた、今どういう状況にいるのか分かってる?」
「相当まずい状況だな」ゴールは正直に答えた。脱獄して
黒ローブの女はため息を吐き、ゴールの横に座り込んだ。紫色の
ゴールはその紫の光を見つめる。目が合った瞬間、黒ローブの女の瞳が揺らいだ。そこには畏怖と郷愁の感情を思わせる揺らぎがあった。実際になにを思っているのかは分からないが、なにか思うことがあるのは明らかだった。実は忘れているだけで、我々は会ったことでもあるのだろうか。
「どうかしたか」
思わずゴールはそう訊いたがすぐに、「いいや」と否定の返事がきた。それから数秒の沈黙を置いて、黒ローブの女は「なんでもない」と付け足した。それから続けざまに、「ちょっと訊きたいことがあるんだけど、いいかしら」と言った。
「かまわない。なんだろうか」
「あなた、竜を見たことはある?」
「ある」
「それはいつ?」
「二十年ほど前だろうか」
「どんな竜だった?」
「『どんな竜だった』とは、難しい質問だな」
「たとえば鱗や瞳の色とか、そういう身体的特徴をおぼえてないかしら」
ゴールは目を閉じ、そのときのことを思い返す。想起される景色は輪郭が曖昧で、色味も薄い。
まず最初に蘇ってきたのは、自分が竜を斬ったときの手のひらの感触だった。あのときは必死だった。
二十一年前の秋、夕刻のことだ。シエリの街に突然飛来した竜は、我が物顔で西海岸を練り歩き始めた。なにも発さず、なにか目的があるのかも我々には分からなかったが、事実として眼前に竜は存在していた。まるで最初からここが自分の街であるかのような態度に見えた。
ゴールはちょうどそのとき、調律騎士団の者として西海岸にひとりで来ていた。竜に挑むのが騎士としての誉れであると、ある神話では語られるが、突如現れた竜に対してそのような感情は湧いてこなかった。ただ破壊と災害の権化が目の前に顕現したという恐怖が、ゴールを飲み込んだ。そしてその恐怖は一瞬で波及した。
竜を前に立ち竦むゴールを避け、水が流れるように大勢の住民は東へ逃げていった。死への恐怖と生への執着が、人々の足を動かす。そこには大人も子どもも、女も男もなかった。ただ嵐を前にした布きれのように、皆が恐怖という竜巻に吹き飛ばされるみたいに散っていった。
川底にある大きな石のように、流れの中でその場に留まっていたゴールは、時間の経過につれ、頭を冷やしていった。自分がいまできることはなにか。自分がいまやるべきことはなにか。
彼らを守らなければならない。
濁った黄色の大きな眼から、射殺すような視線を感じる。巨大な
ゴールは腰に携えた剣を抜き、背負っていた盾と一緒に構えた。竜はそれまで四足で歩いていたが、ゴールが臨戦態勢に入るのを見て、後ろの二本足で立ち上がり、両翼を大きく広げて身体を大きく見せた。竜とはいえ、このあたりは魔物や獣と変わらない。ゴールは全身に力を込める。竜が
「アリアさま。今よろしいでしょうか」
ゴールは目をひらいて、声のした方へ目を向けた。開け放たれたままの扉の前に、黒髪の少女が立っている。
「うん、大丈夫」
黒ローブの女――名前をアリアというらしい――は優しい声音で言い、黒髪の少女を部屋の中へ招き入れた。彼女もまたローブを纏っていたが、袖がぶかぶかで、丈がすこし短かった。逆にアリアのものは袖がすこし短く、丈は長かった。
「どうだった? ヒノエ」とアリアは訊ねる。
「はい」ヒノエと呼ばれた少女は咳払いを二度挟んでから、話し始めた。
「まず、竜に関する新しい情報は特に得られませんでした。あれから竜も現れていないようです。それと、あまり竜とは関係のない話なのかもしれないのですが……」
ヒノエはそこで言葉を区切り、ちらりとゴールの方を見て、またアリアに向き直って話を続けた。
「今日未明、東海岸と呼ばれる地域の近辺にある地下牢から、脱獄者が出たみたいです。そしてその脱獄者というのは、
ゴールは頭を抱えたかったが、腕が動かなかった。
脱獄にはもう気付かれていて、その話は広まりつつある。そしておそらくこのヒノエという少女は、私がそのゴールだということにもう感付いている。肝が冷えてくる。思わず長いため息がこぼれた。
「
ヒノエの話をひと通り聞いたアリアは、ゴールの方を見ながらそう呟いた。どうやらアリアにも察しがついているようだった。
「いったいなにをしたのかしら。ねえ、ゴール?」
「名乗った覚えはないのだが」
「口の利き方には気をつけたほうがいいわよ」
アリアが言うと、ゴールは胸の辺りに圧迫感を覚え始めた。まるで見えない手に押さえられているような、物理的な重みを強く感じる。どうやら本当に口の利き方には気をつけたほうがいいのかもしれない。
「謀反だ」ゴールは声を絞り出す。「
「ああ」アリアは納得したようにも、呆れたようにも聞こえる声で言った。「そんなことか」
胸の辺りにあった圧迫感が消えた。空気がどっと肺に流れ込み、思わず咳き込む。同時に、腕に力が戻ってくる。上半身を起こすが、立ち上がることはまだできない。どうやら身体の支配権は、なんらかの力によってアリアの
「この国においては仕方のないことですね」とヒノエは言う。「そういう
「そうだな」
ゴールの返事のあと、沈黙が場を支配した。各々がなにかに考えを巡らせているようだった。
「あの」最初に口をひらいたのはヒノエだった。「さっきわたしがこの部屋に入ってくる前、なにを話していたんですか?」
「ああ、そうだ」とアリアは言う。「あなたが見たのはどんな竜だったの、ゴール」
まだ名乗っていないのだが、と思いはしたが口には出さず、ゴールは言う。「たしか、鱗は青く、目は濁った黄色をしていた。体躯は見上げるほど大きく、四本の手足で歩き、大きな翼を持っていた」
「その竜は、あなたが斬ったの?」
「そうだ」
「そっか」アリアは小さな声で言った。なにか考え事をしているようだった。「わかった、ありがとう」
ふたたび下りた沈黙の帳のなかで、ゴールは考える。どうやらアリアは竜に執着しているようだが、いったいなんなのだろうか。それにヒノエもアリアも(自分で言うのもなんだが)、私――ゴールについて、まったく知らない様子だった。この街の人間であれば(自分で言うのもなんだが)、すこしは知っていると思うのだが。もしかすると彼女らは、この街の人間ではないのか? ならばいったいここでなにをしているのだろう? なぜこんなところにいる?
「『竜斬り』ゴールは、ほんとうにひとりで竜を倒したんですか?」ヒノエが訊ねてくる。目の光から、期待と困惑、そして怒りの感情が見て取れる。
「そうだ」ゴールはヒノエの目を真っ直ぐに見ながら答えた。
「わたし達、ある竜を探しているの」とアリア。
「それは、どんな?」
「隻腕の竜」
「なぜその竜を?」
「あなたにはまだ言えない」
「そうか」
「でも」アリアは座り込むゴールの正面に立ち、その目を真っ直ぐに見る。アリアの目の奥には、決意から灯った炎の、鋭い輝きが見えたような気がした。「あなたの返答次第で、わたしはそれについて話さなければならなくなる」
「私の返答次第?」
ゴールにはアリアの言うことが理解できなかった。いったいこの話の主軸にはなにがあるというのか。アリアにとって竜がなんなのか。ヒノエにとって竜がなんなのか。私が見て、そして斬った竜がなんだというのか。
頭の中に入ってきた無数の情報は、いまだ星空のように点々とそこで光るのみで、一本の線に繋がらない。彼女はなにを考えている? 私はこれからどうなる?
「取引よ」アリアが膝をついて、ゴールと目線の高さを合わせて言う。「あなたがこの街から無事に出られるよう、手助けをしてあげる」
数秒の沈黙を挟んで、ゴールは訊く。「対価は?」
「わたし達の旅についてきなさい」とアリアは言った。
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