2 迫る月
半月が浮かぶ深い
「ゴール。これ」
振り向くと、リヒナーと名乗った盗人の男が、大きな布をこちらに差し出しているのが見えた。
リヒナーの顔立ちは幼く、ダークブラウンのくせ毛が印象的だった。
ゴールは月明かりに照らされる自分の姿をあらためて見てみる。右手の甲には罪人の烙印、両手のひらには
リヒナーの差し出した布を受け取る。フードの付いた外套だった。とりあえずこれで姿を隠せということらしい。気の利く盗人だ。
「助かる。ありがとう」ゴールは言った。「それで、まずどうするんだ?」
「それをゴールに考えてもらおうと思ってたんだけど、無理だよね」
「なにを言うかと思えば……当たり前だろう」
「こんなはずじゃなかったんだけどね」リヒナーは言う。「僕の考えはこうだった。どんな罪人も、罪人として投獄されるまでは、街のどこかで生活を送っていたはず。もちろん捕まらずに。じゃあ、罪人はどのように罪を犯してから捕まるまで街の中に潜んでいられたのか」
「隠れ家か」ゴールはつぶやく。
「そうだね、隠れ家。廃屋なんかが多いかな。あと、協力者がいるとか。コミュニティに属している場合なんかもある」
「そういったものをあてにしていたが、獄中に唯一いたのは元騎士の頑固ジジイだったというわけだ」
「ほんとうにツイてないよ」
リヒナーは言葉とは裏腹に笑っていた。まるでこの状況を楽しんでいるようだった。
ゴールは皮肉を吐いたものの、じわじわと焦燥感が腹の底から湧き上がってくるの感じていた。日の出までおそらくあと三時間ほど。それまでにどこかへ身を隠すのが望ましい。しかし行くあてはないときた。
お互いがお互いをあてにして、もうどうにもならなくなっているというのが現状だった。脱獄した以上、行動するしかない。しかし、どのように? ゴールは目を閉じ、長く住んだこの街について考えを巡らせた。
この街の名前はシエリという。西方四大国のひとつ、オービターの首都である。北向きに細長い三角形のような地形をしており、南には強固な高い壁が築かれている。北側、西側、東側は海に面していて、豊富な海洋資源を有し、交易路の
城の近くには貴族や成り上がった商人、また聖職者などが多く住んでおり、南の壁や東西の海に近づくほど、貧困層が増えていく。北側には港があり、バザールなどが開かれていて、人通りも多く賑わっている。この辺りには貧困層は少なく、商人が多い。
特に貧困層が多いのは東西の海沿いの辺りだった。それぞれ西海岸、東海岸と呼ばれる地域は治安もあまり良くなく、ゴールは調律騎士団の者として、
調律騎士団とは、いわばシエリが有する軍事力である。外を向いて戦争をすることもあれば、壁の内側で治安の維持に務めることもある。
多くの騎士たちは東西の貧困街の巡回を嫌がったが、ゴールは意に介さずよくその辺りに
たしかに治安は良くないが、悪くない場所だった、とゴールは思う。貧困街になら姿を隠せる廃屋なんかがあるかもしれない。距離もそれほど遠くない。雑多な空間で、治安も衛生環境もお世辞にも良いとは言えないが、いまはそんなことを気にかけている場合ではない。
ゴールはゆっくりと目をひらいた。半月から降る光がまぶしい。
「なにか思いついた?」リヒナーが訊いてくる。
「東海岸だ。いわゆる貧民街だがここから近く、騎士もあまり寄り付かないエリアだ。そこになら身を隠せる廃屋なんかがあるかもしれん」
「貧民街か。治安も良くないだろうし、罪人が身を隠すにはピッタリかもね」
リヒナーの言うことには一理あったが、ゴールはそれを快く思わなかった。
治安は確かに悪い。しかし、悪いだけの場所ではないのだ。
外套に身を包み、フードを深くかぶり、ふたりは夜闇に紛れ、東に向かって細い路地の隙間を縫うように歩いていった。人影は全くなかったが、なるべく息をひそめ、足音を消して足を動かすようにした。時々、背丈の数倍の高さまで積まれた石の民家の窓から、灯りが漏れているのを目にした。その度ゴールの足には力が入った。リヒナーはこういう状況に慣れているのか、ただ黙々と足音を響かせず一定の速度で進んだ。
進むほど民家の材質がだんだんと石から木になり、潮の香りが強まってきた。遠くから複数人の男の騒ぐ声が微かに聞こえる。酒場で遅くまで馬鹿騒ぎしている休日前の漁師たちの声に違いない。ゴールは少し懐かしい気持ちになったが、すぐに身を引き締めた。きょうは彼らに会いに行くのではなく、彼らからも身を隠さなければならない。
もう少し進めば道にがらくたが増えてくる。雑多な東海岸が姿を見せるだろう。
東海岸といってもそういう名前の地区があるわけではない。明確にここからがそうだという決まりもない。シエリの中心地から東にまっすぐ向かっていくと、だんだんと道にがらくたが増えてくる。その辺りから東の海までの地区を、シエリの者は東海岸と呼んでいる。
一時間ほど歩いたところで、すこしひらけた場所にある
「こりゃすごい」リヒナーはがらくたの山を見上げてつぶやいた。
「ちょうどいい」
ゴールは言ってから、がらくたの山の中からいくつかの古びた衣類と、乾いた血のついたナイフを拾い上げた。着ているボロ布でナイフの血を拭い、サッシュにしていた布で刃の部分を包んだ。ボロ布の上から拾い上げた衣類を着け、新しくサッシュを巻き、そこにナイフを差し、また外套を羽織った。
「衛生観念とかないわけ?」リヒナーはげんなりした顔で言った。
「戦地でも牢獄でも平気なもんでな」
「信じられない……それで、この辺りがさっき言ってた貧民街?」
「ああ、東海岸だ」
先ほどまで聞こえていた酒場で騒いでいると思しき声は、いつの間にか聞こえなくなっていた。おそらく皆、帰路についたのだろう。
深い夜の底で街は眠っていて、浅い呼吸をするように波の音が聞こえてくる。潮風が、人のいない少路を流れるように通り抜ける。東海岸にもこのような時間があるのだ、とゴールは思った。いつもの騒々しい東海岸とは印象が違う。この姿も、自分が脱獄しなければ一生見ることはなかったのかもしれない。そう思うと妙な
ふたりはがらくたの山からさらに東に向かい、海の見える街の端にたどり着いた。この辺りにも外敵の侵入を防ぐ石壁が建てられているが、南の壁に比べればかなり低い。時間をかければよじ登れる程度の高さだ。
しばらく海沿いを歩いていると、かなり奥まった場所に、崩壊している一角を見つけた。近づいてみると、並んだ数軒の民家の天井には穴が空いていたり、煤けていたりした。中には完全に原型を留めていない家屋もあった。
火事か、あるいは魔物の襲撃によるものだろう、とゴールは推察した。きっと私が牢獄にいるあいだ、騎士たちは誰もこのあたりに来ていないことだろう。私がいれば、こんなことにはならなかったかもしれないのに。いや、傲慢な考えか。いったい私は東海岸のなんだというのだ。
「あれ、ちょうどいいんじゃない?」
リヒナーが指を差した先は行き止まりで、そこには半壊した二階建ての民家があった。二階の壁から天井にかけて、大きな穴が空いている。巨大な鉄球でも降ってきたのかと思うほど、きれいで大きな穴だった。灯りもなく、見たところ人の気配も感じない。
「入ってみようよ」
リヒナーがまた指を差して言う。だが動こうとはしない。先に様子を見てこい、ということらしい。
ゴールは覚悟を決め、半壊した民家の戸の前に立った。木製の扉は半分くらいは壊れていて、ところどころ煤けている。軽く押してみたが動かない。今度は力を込めて押す。扉は少し動いたが、ぎいいぃい、という異音が、深い静寂の中に響いた。それと同じくらいゴールには自分の心音が大きく聞こえていた。
冷や汗を拭い、大きく息を吐き、ふたたび扉を押す。扉はそのまま外れ、家の中に倒れ込んだ。がらがらと音を立てて扉はばらばらになり、中に入れるようにはなったが、半壊の民家はさらに壊れることとなった。
「加減ってものを知らないね」リヒナーは少し離れたところで言った。
長方形に空いた入口から中を覗き見る。動いているものは視認できない。物音もない。
意を決してゴールは半壊した民家に足を踏み入れた。入ってすぐのところは広めの空間になっていて、大きな机と四つの椅子があった。椅子のひとつはひっくり返っていて、机は足が一本折れて傾いている。奥には炊事場が見え、開いたままの戸棚は空っぽだった。暖炉もあったが、温かみはまるでない。空気は外よりも冷たいように思える。時間を凍らせるほどの寒気をゴールは感じた。
すり足で左手の壁沿いに歩いていくと、二階へ続く階段があった。そっと一段目に足をかけると、木の軋む音がどこかで小さく鳴った。扉を破壊した後なのでゴールにはこれくらいの音はもう気にならなかった。
そのまま二階へ上がり、短い廊下に出た。二階には部屋がふたつあるようで、片方への扉は閉じられ、もう片方への扉は開いていた――というよりも、閉まらなくなっていた。
口を空けたままの部屋を覗き見る。そこには絨毯とベッドと小さな
違和感のある部屋だった。一階の広間に比べると、多少の生活感を感じる。しかし人の姿はない。それが違和感を加速させた。
そっと部屋に入ってみる。大きな穴が空いているにも関わらず、風は入ってこない。空気も冷たくない。
揺れている安楽椅子に近づき、さわって動きを止めた。まだ温かい。まるで先ほどまで人が座っていたような……
「動くな」
背後から女性の声がした。ゴールは咄嗟に大きく空いた穴の方に向かって走り出した。が、すぐに足首をなにかに掴まれ、転んでしまった。いや、なにかにひっくり返された。
ゴールは床に後頭部を打ち、脳が揺れるのを感じた。空が廻って見える。視界の中心に現れた半月は、穴の向こうで自分を冷笑しているように思えた。
「動くなって言ったでしょ」
頭がくらくらする。気分が悪い。足首はまだなにかに掴まれている。腕と肘を使い上半身を起こし、声の主を仰ぎ見る。
先ほど通り抜けた開きっぱなしの扉の前に、女性が立っていた。黒いローブを身にまとい、右手に持った杖をこちらに向け、月のように冷たい目でこちらを見下ろしていた。杖の先からは洗練された鋭い魔力と、空間の歪みのようなものを感じた。じっと見ていると、気分がさらに悪くなってくる。
「べつに殺したりはしないわ。あなたが何もしなければね」
意識が混濁している。歪んだ空間の向こうで、紫色のふたつの月がこちらを見ている。空にはまた別の月が浮かんでいる。三つの月が、だんだんと近づいてくる――
ゴールの意識はそこで途切れた。
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