老騎士と望まれなかった命たち

黄猫

第一幕 月食の春

1 老騎士と盗人

 水の滴る音が牢獄内に響き、ゴールは目を覚ました。

 湿り気のある空気が、手の甲の火傷を撫でる。


 重い身体を起こし檻の外に目をやると、目の前の長い通路を徘徊するふたつの火の球が見えた。魔術によるものだろう。牢獄内にある光源はそれだけで、かなり薄暗い。


「なあ」とゴールはしゃがれた声で言った。が、しばらくしても誰からの返事もなかった。


 怪訝に思い、通路を挟んで向かい側の檻を見る。誰もいない。昨日は蜥蜴トカゲ顔の男が入っていたのだが。

 どこへ行ったのかと少し考えて、思い至った。おそらくきょう、あのトカゲくんの刑が執行されるのだろう。そのため連れていかれたのだ。檻越しではあるがそれなりに仲良くなったつもりだったものだから、ゴールの陰鬱な気持ちは、薄闇の中へさらに落ち込んだ。とはいえここは牢獄で、その中にいたということは、あの男もなんらかの悪事を働いたことは確かだ。そしてそれはゴールにも言えることだった。


 まさか私がここに入ることになるとは。


 ふたたび横になって、石張りの天井を見上げながら考える。しかしそれを許すまいと、手の甲の火傷の痛みに思考を途絶される。


 手の甲には、くっきりと罪人の烙印が浮かび上がっている。

 何もかも終わったのだ、と薄れていく意識のなかで思った。






 いつの間にか途切れた意識を覚醒させたのは、通路で鳴る小さな足音だった。おそらくひとり。落ち着きがなく、なにか後ろめたいことでもあるかのような、不規則な歩調だった。

 足音はゆっくりと近づいてくる。しかしこれは明らかに巡回の刑務官のものではない。彼らはもっと威圧的に、傲慢ささえ感じる足音を響かせる。


 ゴールは上半身を起こし、通路に目を向けた。徘徊するふたつの火の球が落とす影が、通路上にまっすぐ伸びている。小さかった足音は段々と大きくなり、ゴールの収容されている檻の前で止んだ。


「ねえ」という声が、檻の隙間から入ってくる。少し高いが、おそらく男性のものだ。


 床に座ったまま、檻越しに声の主を見上げる。薄暗いうえに逆光で顔はよく見えないが、背丈はそれほど高くない。


「子どもか?」ゴールは言った。「こんなところに来てはならん」


 男はゴールの言うことを無視して言う。「おじさん、あんまり罪人っぽくないね」


 おじさん、という言葉の響きは少なからずゴールにショックを与えた。

 何を言うべきか迷っていると、男は続けた。


「まあいいや。ちょっと訊きたいことがあるんだけど、おじさんはこの都市のひと?」

「ゴール」

「なに?」

「私の名前はゴール」


「ああ」男は苦笑いした。「ゴールは、この都市のひと?」


「そうだが……きみは何者だ? いったいここへ、なにをしに来た?」


 男はゴールの質問には答えず、「『月のなみだ』っていう絵のこと、なにか知ってる?」と訊く。


 ゴールは思い返す。昔、たしか城のなかで見た絵画の題名がそのようなものだったはずだ。調律騎士として王城に仕えていたときに見たことがある。


 『月の泪』は、デミペリオという麗しい月の女神が涙を流している絵画だった。いつ誰が描いたのかさえ知られていないが、数代前の国王が『月の泪』を溺愛していたという有名な話があり、国民にはよく知られている。美術品に対する審美眼にはそれほど自信のないゴールだが、それでも称えられるにふさわしい美しさを帯びた絵画であることはわかる。おそらくいまもまだ王城に安置されているはずだ。

 しかし、なぜそんなことを訊くのだろう。皆知っているであろうことを。


「どこから来た? ここの者ではないな」


「そうだけど」男は飄々と言う。「で、知ってる? 『月の泪』」


 ゴールは大きく息を吐いて言った。「ああ、知っている」


 この男は、自分にとって興味のない事柄についてはまるで関心を示さないたちらしい。檻を隔てていることもあって、私のことを脅威ともなんとも思っていない。

 この男は自由で、私は刑の執行を待つだけの罪人。その非対称性が、心に小さな穴を空けた。その穴に自暴自棄な思いが流れ込み、深くで渦を巻いた。


 どうせ私にはもう何もないのだ。少し話すくらいいいだろう。


「どこにあるか分かる?」

「おそらくまだ王城にあるだろうな」


「おじ……」と言いかけて、男は言いなおした。「ゴールはその絵を見たことがあるんだ」


「ああ、あるとも」

「へえ。誰でも見られるってワケだ」


「いいや」ゴールは頭を振る。「基本的に市民は王城へは入れん」


「じゃあ、ゴールはどうやって」


「私は、調律騎士団に所属していた頃……」ゴールは言いかけて口をつぐんだ。


「調律騎士団?」男は怪訝そうに言った。表情は読み取れないが、おそらく眉をひそめていることだろう。「ゴールは騎士なの? それがなんでこんなところに」


 沈黙。


「べつに言いたくないならいいんだけどさ」男は言う。「じゃあ王城に入るのは難しいんだ」


「そうだな」


 ゴールが冷たく言い放つと、男は腕を組み、うーんとうなりながらその場で身体を揺らしはじめた。どうやらなにか考え事をするときの癖のようで、ゴールは揺れる影に少しの子どもらしさを見た。

 しかしなぜ彼は牢獄こんなところに『月の泪』の話を聞きにきたのだろう。そんなことは街に出ればいくらでも聞けるというのに。先ほど、この国の者ではないと言っていたが、それにしたってまずここへ来る意味がわからなかった。


「よし、決めた」男は揺れながら言う。「ゴールに手伝ってもらう」


「何をだ」


「『月の泪』を盗むんだよ。僕たちで」


 ゴールは呆れた表情を浮かべながらも、なるほど、と思った。こいつ、盗人か。確かに街で『月の泪』のことを訊ねようものなら、それだけで外から来た怪しい者であると思われるかもしれない。あるいはすでに訝しまれたからこそ、ここへ来たのか。


「目立つことを嫌ってわざわざこんな薄汚い空間まで忍び込んできたというわけだ。この盗人が」ゴールは吐き捨てるよう言った。


「確かに僕は盗人だけど、あんたもおんなじ悪党なわけでしょ」


 ゴールには何も言えなかった。


「檻を隔てた外に盗人がいて、中には騎士がいる。なんだかおもしろい状況だね」男は言う。「ゴールはどうしてここに入ってるの? いったい何をやったわけ?」


「私は」ゴールは天井を見上げながら言った。「思想犯だ」


「思想犯? 国の思想に楯突たてついたってこと?」

「そういうことになるな」


「いいね。最高」男は笑った。


 ゴールにとっては何も笑いごとではなかったが、男が笑うのを見ると口元が緩んだ。


「私にはもう、何が正しくて何が間違いなのかが分からない。王の声は神の声であり、それは絶対なのだという。私は確かに……」


「あー、その話長くなる?」男がゴールの話を遮る。そして頭を掻いて続けた。

「だったら、外に出て確かめてみればいいじゃん。何が正しくて、何が間違いなのか」


「確かにそうだが、いったいどうやって……」


 男は懐から鍵束を取り出す。ジャラジャラと鍵と鍵のぶつかる音が牢獄に響く。ゴールの耳にはそれが救いの手を差し伸べる神の声のように聞こえ、またあるいは魔的で不快なメロディーにも聞こえた。


 ゴールは呆れを通り越して感心さえしてしまった。こいつ、牢獄の鍵をすでに盗んでいたのだ。リスクとリターンの計算ができない無鉄砲なのか、あるいは盗むこと自体に悦楽を見出している窃盗症クレプトマニアか。とにかく、ただの口だけの子どもというわけではないらしい。


「どうする? これで出られるけど」


 ゴールは逡巡する。この街では私は思想犯で、もと騎士ということになる。手の甲には烙印が押され、罪人であることは一目瞭然。そのうえ困ったことに、ゴールの名と顔はこの街においては多少知られている。実際に脱獄したところで、たちまちそのニュースは広まり、すぐに捜査網が敷かれることだろう。見つかるのも時間の問題だと推測できる。見つかってしまったなら、そのときが本当の最期だ。


 現実的でない、とゴールは思った。檻の外へ出たところで、次は街の外に出なければならない。あるいは顔を隠して街に潜伏し続けるか。


 可能なのか? そんなことが。


「考えてるね」男は鍵束を揺らしながら言う。「考え続けようよ、いろんなことを」


「いったい、なにを企んでいるんだ」

「だから、手伝ってもらいたいんだって。さっきも言ったでしょ、『月の泪』」


 ふたたびゴールの思考は深い沼に踏み入れた。

 交換条件というわけだ。私は檻の外に出られるが、街の外に出る前に、この盗人に手を貸さなければならない。当然、この途中で捕らえられてしまう可能性もある。そうなれば今度は思想犯ではなく盗人として投獄、あるいは刑に処されてしまうことだろう。


 思考の沼の底で足を掴んでいるのは、騎士としての矜持きょうじだった。すでに思想犯として投獄されてはいるが、少なくともゴール自身はゴールという男のことをまだ騎士だと思っていた。


 騎士として、この街で盗人がのさばっているのを見過ごすことはできない。あまつさえ、自身がその盗人に手を貸すなどあってはならないことだ。そのはずだったが、ゴールはいま、確かに迷っていた。完全な自由を前にした子どものように、どうしようもなく自身を小さく弱い存在だと感じていた。


「いったい私にどうしろというのだ」ゴールは目の前の男と、自分自身に向けてつぶやいた。


「いや、なにも実際にゴールに盗んでもらおうってわけじゃないんだ。ただ協力者がほしいってだけだよ。言ってしまえば、それはべつにゴールじゃなくてもいいってことでもある。ただ……」男はそこで言葉を区切り、辺りを見回してから言った。「幸か不幸か、ここにはゴールしかいなかったってワケ」


「運がないな」

「昔からそうなんだよ。まさか唯一牢にいるのが頑固なおじさん騎士だとはね」

「私の名前は、ゴールだ」


 ゴールはあらためて名乗り、足に力を込めて立ち上がった。ここでくたばってたまるかという意思と、未だ揺らぎ続ける騎士としての信念と、もうどうにでもなれという諦観と、この運の悪い男への少しの興味が、四肢に活力を取り戻させた。


「リヒナー」と男も名乗った。「よろしく」

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