【SF恋愛短編小説】ディストピアラバーズ ―希望の檻からのプロトコルー(約6,200字)

藍埜佑(あいのたすく)

【SF恋愛短編小説】ディストピアラバーズ ―希望の檻からのプロトコルー(約6,200字)

◆第一章:灰色の世界


 灰色の空が、いつものように街を覆っていた。エアラは窓から外を眺め、深いため息をついた。彼女の目に映る風景は、どこまでも続く無機質な建物の連なりと、その間を行き交う無表情な人々の姿だった。


「エアラ、何を見ているの?」


 背後から聞こえた母の声に、エアラは我に返った。


「ええと……何でもないわ、お母さん」


 エアラは振り返り、微笑みを浮かべた。しかし、その笑顔はどこか空虚だった。


「そう……」


 母は何か言いかけたが、結局何も言わずに立ち去った。エアラは再び窓の外に目を向けた。


 この世界は、かつて「希望」と呼ばれるものが存在した時代があったという。しかし、今やそれは昔話でしかない。現在の社会は、完全な管理下に置かれている。人々は生まれた時から、自分の役割を与えられ、それに従って生きていく。感情を表すことは必要最小限に抑えられ、個性を持つことさえ許されない。


 エアラは18歳。

 明日、彼女は「適性判定」を受ける。そこで彼女の一生の仕事が決まるのだ。


「明日か……」


 エアラは小さくつぶやいた。彼女の胸の中で、何かが疼いた。それは恐怖だろうか、それとも期待だろうか。彼女にはわからなかった。


◆第二章:運命の日


 朝日が昇る前、エアラは目を覚ました。今日こそ、彼女の人生を決める日だった。


「エアラ、準備はいい?」


 父の声が聞こえた。エアラは深呼吸をして、返事をした。


「はい、お父さん」


 エアラは制服を着て、髪をきちんと結んだ。鏡に映る自分の姿は、他の誰とも変わらない。そう、これが正しいのだ。個性を持つことは許されない。それが、この社会の掟なのだから。


 家族と共に朝食を取り、エアラは判定センターへと向かった。街路には、彼女と同じように判定を受けに行く若者たちの姿があった。皆、同じ表情で、同じ歩調で歩いている。


 判定センターは、街の中心にそびえ立つ巨大な建物だった。エアラは両親に見送られ、センターの中に入った。


「次の方、どうぞ」


 機械的な声に導かれ、エアラは小さな部屋に入った。そこには、一台の機械があるだけだった。


「手をここに置いてください」


 エアラは言われるがままに、機械に手を置いた。すると、機械が光り始め、何かを計測しているようだった。


 数分後、機械が停止した。エアラは息を呑んだ。これで、彼女の運命が決まるのだ。


「エアラ・J・ブルーム、あなたの適性は……」


 機械の声が響き渡った。エアラは目を閉じた。


「研究職。専門分野:社会工学」


 エアラは目を開いた。研究職……それは、この社会の中でも比較的自由度の高い職業だった。しかし、それでも彼女の心の奥底で何かが引っかかっていた。


◆第三章:灰色の日々


 判定から3年が過ぎた。エアラは研究所で働いていた。彼女の仕事は、社会の安定を維持するための新しい方法を研究することだった。


「エアラ、この数値をチェックしてくれないか」


 同僚のマイクが声をかけてきた。エアラはうなずき、彼のデータを確認した。


「ありがとう。君は本当に優秀だね」


 マイクは微笑んだ。エアラは何も言わず、自分の仕事に戻った。しかし、彼女の心の中で、またあの違和感が湧き上がってきた。


 その夜、エアラは久しぶりに夢を見た。

 夢を見ることは禁じられてはいなかったが、稀なことだった。


 薄暗い天井を見つめながら眠りに落ちた瞬間、彼女の意識は光に包まれた。目を開けると、そこには信じられないほど鮮やかな世界が広がっていた。


 エアラは色とりどりの花畑の中に立っていた。足元には柔らかな草が生え、その間から無数の花が顔を覗かせている。赤、青、黄、紫……彼女が知らなかった色彩が、目の前で踊るように咲き誇っていた。


 微風が吹き抜けると、花々が優しく揺れた。その動きに合わせ、甘い香りが漂ってきた。エアラは深く息を吸い込んだ。彼女の肺いっぱいに広がる香りは、これまで感じたことのない豊かさと生命力に満ちていた。


 陽の光が暖かく彼女の肌を包む。エアラは両手を広げ、顔を上げた。閉じた瞼に陽光が差し、オレンジ色の光が瞼の裏側で踊る。彼女は、自分の体が地面から浮き上がるような不思議な感覚に包まれた。


 そのとき、遠くから誰かが彼女を呼ぶ声が聞こえてきた。


「エアラ……エアラ……」


 かすかだが、確かに彼女の名前を呼んでいる。その声は優しく、温かく、どこか懐かしい。エアラは思わずその方向に一歩踏み出した。


「誰……?」


 彼女は小さくつぶやいた。声の主は見えない。しかし、その呼びかけは彼女の心の奥深くに響いてくる。それは、彼女が長い間忘れていた何かを呼び覚ますような声だった。


 エアラは歩き始めた。花畑を抜け、丘を登り、谷を越える。風が強くなり、花びらが舞い上がる。それはまるで、彼女を導くかのようだった。


 そして、丘の頂上に辿り着いたとき??


 エアラは目を覚ました。


 灰色の天井が、いつものように彼女を見下ろしていた。しかし、エアラの目には涙が溢れていた。頬を伝う一筋の涙は、温かく、そして塩辛かった。


 彼女は、自分が泣いていることにさえ気づかなかった。ただ、胸の奥で何かが疼いているのを感じていた。それは痛みではなく、むしろ心地よい高鳴り。長い間彼女が忘れていた、あるいは知らなかった感覚だった。


「あれは……なんだったの?」


 エアラは小さくつぶやいた。窓の外は、相変わらず灰色の世界が広がっている。しかし、彼女の心の中に、小さな色彩が芽生え始めていた。


 それが何を意味するのか、エアラにはまだわからなかった。ただ、確かに何かが変わり始めている。そう、彼女は感じていた。


 目が覚めると、エアラは涙を流していた。なぜだろう? 彼女にはわからなかった。


◆第四章:禁断の本


 ある日、エアラは研究所の地下室で古い本を見つけた。それは「愛」という題名の本だった。好奇心に駆られ、エアラはその本を開いた。


 そこには、彼女がこれまで見たこともない言葉が書かれていた。「情熱」「自由」「個性」……これらの言葉は、現在の社会では葬り去られた言葉だった。


 エアラは夢中になって読み進めた。そして、彼女の中で何かが目覚め始めた。それは、長い間眠っていた感情だった。


「これが……愛?」


 エアラは小さくつぶやいた。彼女の心臓が高鳴り、頬が熱くなった。


 その時、背後で物音がした。エアラは慌てて振り返った。そこには、マイクが立っていた。


「エアラ、君は何を……」


 マイクの目が、エアラが持っている本に釘付けになった。彼の表情が変わった。


「まさか、それは……」


 エアラは本を隠そうとしたが、もう遅かった。マイクは彼女の手から本を奪い取った。


「エアラ、それは違法だ。君は知っているはずだ」


 マイクの声は冷たかった。エアラは言葉が出なかった。


「私は、これを報告しなければならない」


 マイクはそう言って立ち去ろうとした。エアラは咄嗟に彼の腕をつかんだ。


「待って! マイク、お願い。これは……これは大切なものなの」


 エアラの目に涙が浮かんでいた。マイクは困惑した表情を浮かべた。


「エアラ、君は……一体何を……」


 マイクの声が震えた。エアラはうなずいた。


「私……私たちは間違っているのかもしれない。この社会は、何かを失っているんだわ」


 エアラは必死に言った。マイクは黙ったまま、彼女を見つめていた。


◆第五章:反逆の炎


 灰色の空が低く垂れ込める夕暮れ時、エアラは人気のない路地を急ぐように歩いていた。彼女の心臓は、まるで罪を犯しているかのように激しく鼓動していた。


 路地の突き当たり、廃墟と化した古い図書館。そこが、エアラとマイクの密会の場所だった。


「エアラ」


 薄暗い建物の中から、マイクの声が聞こえた。エアラは周囲を確認してから、慎重に中に入った。


「マイク……」


 エアラは小声で返事をした。薄暗がりの中、マイクの姿が浮かび上がる。彼の目は、いつもより輝いているように見えた。


「今日は何を持ってきたの?」


 エアラが尋ねると、マイクは袖の中から一冊の本を取り出した。


「これは『ロミオとジュリエット』という物語だ。かつての人々が、『愛』について書いたものらしい」


 二人は窓際に腰を下ろし、マイクが本を開いた。外からわずかに差し込む光を頼りに、彼らは交代で音読を始めた。


「『二つの家の同じような品位ある家柄……』」


 マイクの声が、静かに響く。エアラは息を呑んで聞き入った。物語が進むにつれ、彼女の胸の中で何かが膨らみ始めるのを感じた。


「『ジュリエット、なぜお前はジュリエットなのか……』」


 エアラが読む番になった時、彼女の声が僅かに震えた。マイクは、そっとエアラの手に触れた。


「大丈夫か?」


 エアラは顔を上げ、マイクと目が合った。月明かりに照らされた彼の瞳に、自分の姿が映っているのが見えた。


「ええ、大丈夫……ただ、この物語が、私たちにそっくりだと思って」


 エアラはそう言って、小さく笑った。マイクも微笑んだ。


「そうだな。禁じられた愛……」


 マイクの言葉に、二人の間に沈黙が訪れた。しかし、それは重苦しいものではなく、むしろ心地よいものだった。


 エアラは、自分の中に芽生えた感情を理解し始めていた。それは、社会が禁じているもの。けれども、こんなにも温かく、こんなにも心を揺さぶるものだった。


「マイク、私たち、間違っているのかしら?」


 エアラが囁くように言った。マイクは首を横に振った。


「いいや、間違っているのは、この社会の方だ」


 マイクはエアラの手をそっと握った。その温もりが、エアラの全身に広がっていく。


「エアラ、私は……君を愛している」


 マイクの言葉に、エアラの心臓が大きく跳ねた。彼女は、自分の感情を押し殺すことができなくなっていた。


「私も……あなたを愛しているわ、マイク」


 二人の唇が、そっと重なった。それは、儚く、しかし深い愛情に満ちたキスだった。


 窓の外では、久しぶりに星が瞬いていた。まるで、二人の禁断の愛を祝福するかのように。


 その日以来、エアラとマイクは定期的に会うようになった。彼らは古い本を読み、失われた文化や芸術について語り合った。そして何より、お互いの存在そのものを愛おしむようになっていった。


 社会の目を避けながら、二人の愛は静かに、しかし確実に深まっていった。それは、灰色の世界に咲いた、鮮やかな一輪の花のようだった。


 やがて、エアラとマイクは単なる恋人同士ではなく、この社会を変えようとする同志となっていった。彼らの愛は、新しい世界への希望となったのだ。


「エアラ、私たちはこのままではいけない」


 ある日、マイクがエアラに囁いた。


「でも、どうすればいいの?」


「反乱だ。この社会を変えるんだ」


 エアラは驚いた。しかし、彼女の心の中で何かが燃え上がるのを感じた。それは、希望だった。


 二人は密かに仲間を集め始めた。感情を持つ者たち、この社会に疑問を持つ者たち。彼らは少しずつ、しかし着実に増えていった。


 そして、ついにその日が来た。彼らは、社会の中枢にあるコントロールセンターに侵入することを決めたのだ。


「準備はいいか?」


 マイクがエアラに尋ねた。エアラはうなずいた。


「ええ、覚悟はできてるわ」


 二人は手を取り合い、暗闇の中へと踏み出した。


◆第六章:真実の光


 コントロールセンターへの潜入は、予想以上に順調に進んだ。エアラたちは、中枢のコンピューターにたどり着いた。


「さあ、ここだ」


 マイクが言った。エアラはコンピューターに向かい、キーボードを叩き始めた。彼女は、社会を管理するシステムを解除しようとしていた。


 しかし、その時だった。


「よくここまで来たな」


 突然、声が響いた。エアラとマイクは驚いて振り返った。そこには、一人の老人が立っていた。


「あなたは……」


 エアラは言葉を失った。その老人は、社会の最高指導者だった。


「私は、君たちが来るのを待っていたんだよ」


 老人は穏やかな口調で言った。


「どういうことですか?」


 マイクが尋ねた。老人は微笑んだ。


「これは、すべてテストだったんだ」


 エアラとマイクは唖然とした。


「テスト?」


「そうだ。我々は、人類に感情を取り戻させるための実験を行っていたんだ」


 老人は説明を続けた。


「かつて、人類は感情のために争い、世界を破壊寸前まで追い込んだ。そこで我々は、一時的に感情を抑制し、社会を再建することにしたのだ。しかし、それは永遠に続けるべきものではない。我々は、真の意味で成熟した人類が再び感情を持つことを望んでいた」


 エアラは息を呑んだ。


「そして、君たちこそが、その証明なんだ。君たちは、感情を持ちながらも、それを正しく扱うことができる。君たちのような存在が増えてきたことで、我々は人類が再び感情を取り戻す準備ができたと判断したんだ」


 老人はコンピューターに近づき、一つのボタンを押した。


「さあ、新しい時代の幕開けだ」


 突如として、建物全体が激しく揺れ始めた。エアラとマイクは反射的にお互いに抱き合った。床が波打つように揺れ、壁からは細かな塵が降り注ぐ。そのカオスの中で、老人だけが微動だにせず立っていた。


「何が……?」


 エアラが困惑した声を上げたその時だった。


 ゴゴゴゴゴ……。


 轟音とともに、天井が真ん中から裂け始めた。最初は細い亀裂に過ぎなかったものが、みるみるうちに大きく開いていく。エアラとマイクは、目を見開いて上を見上げた。


 そこには……。


「あ……」


 エアラの口から、小さな驚嘆の声が漏れた。


 灰色の天井が左右に割れ、その隙間から、まぶしいほどの光が差し込んできたのだ。それは彼らが見慣れた人工的な照明とは全く異なる、温かみのある自然な輝きだった。


 そして、天井が完全に開ききったその瞬間、エアラたちの目の前に広がったのは……。


 果てしなく広がる、深い青色の空だった。


「これが……本当の空?」


 エアラは、震える声で呟いた。彼女の瞳に、大粒の涙が浮かんでいた。その透明な雫が頬を伝い落ちる様子は、まるで長い間閉ざされていた感情の堰が一気に決壊したかのようだった。


 青空には、薄い雲が幾筋も浮かんでいた。そよ風が吹き込み、エアラの髪を優しく撫でる。彼女は両手を広げ、その風を全身で感じ取った。


「信じられない……こんなに……美しいなんて」


 エアラの声は感動で震えていた。彼女の目に映る世界は、これまで見てきた無機質な灰色の世界とは全く異なっていた。それは生命力に満ち、色彩豊かで、そして何よりも自由だった。


 マイクは、呆然と立ち尽くすエアラの横に立った。彼もまた、この光景に圧倒されていた。しかし、彼の目に浮かんでいたのは涙ではなく、決意の色だった。


 マイクは、ゆっくりとエアラの手を握った。その手のひらには、わずかな汗と、そして期待で震える小さな震えが感じられた。


「新しい世界の始まりだ」


 マイクの声は、静かでありながら力強かった。エアラは彼を見上げ、微笑んだ。二人の目が合い、そこには言葉では表現できない深い絆が宿っていた。


 周りを見渡すと、他の人々も徐々に目覚め始めているようだった。彼らの顔には、驚きと戸惑い、そして喜びが入り混じっていた。長い間抑圧されていた感情が、一気に解放されたかのようだった。


 エアラは深呼吸をした。新鮮な空気が肺いっぱいに広がる。それは、自由の味がした。

 二人は微笑み合った。エアラは深呼吸をした。彼女の胸に、新たな希望が芽生えていた。これから始まる未知の世界に、彼女は恐れを感じなかった。なぜなら、彼女には愛があり、そして自由があったから。


 空は青く、風は爽やかだった。

 新しい時代の幕開けを告げるかのように、遠くで鳥のさえずりが聞こえ始めた。


(了)

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