11月17日13時32分:求職者①
『この列車は現在お客様対応中のため、10分ほど遅れております。発車までもうしばらくお待ちください』
夏が終わり、秋も深まった11月の半ば、大阪駅に停車中の大阪環状線の車内には、県道沿いの某紳士服チェーンで購入した安物のスーツに身を包んだ川瀬健人の姿があった。
三ヶ月前に比べ、目元のクマは薄くなり、肌の色も健康的な水準に戻っている。が、その表情から漂う悲壮感は健在である。あの事件以降、川瀬は思い切って大阪に身を移し、数週間のネカフェと日雇いバイトを行ったり来たりする生活を経て、二か月ほど前からは倒壊寸前(のように見える)賃貸アパート住みコンビニバイト生活を続けている。現在はさらなる生活水準の向上に向けて、目下転職活動中……なのだが、現時点で11社からお祈りメールを頂戴している。
今日もまた、14時からの面接に向けて列車で移動しようとしていたところに、このトラブルである。発車までにあと5分かかるとギリギリ間に合うかどうか、10分かかればまず間違いなくアウトである。今日面接を予定している企業は既に理想よりかなりランクを落としたところだというのに、そこの面接すら満足に受けられるか怪しいとは、学生時代の自分が見たらどう思うだろうか。
「はぁ……」と、思わずクソデカため息が漏れてしまうわけである。
今の状況を運命論的に位置づけるなら、3ヶ月前のあの日に川瀬が迷惑をかけまくった土讃線窪川行きの乗客と同じ憂き目に、今度は自分が遭っているということになる。
これを「迷惑かけた報いが来た」的に解釈するなら、その軽さに感謝するべきであろう。
別に今日の面接に間に合わなかったところで次を探せばいいだけであるし、そもそもこうして今日の面接に間に合うかヤキモキできるのも、あの日に無事に組織の計画を頓挫させて復讐を果たし、人生を前に進めることができたおかげだ。
あの日、目的を達成した川瀬は、一転して警察の調査に協力的な態度を見せ、結局あの権田とかいう関西弁の警官にきつく叱られただけで解放されたのだった。一緒になって暴れていた中年男は、気付いたときには消えていた。
結局、あの異常中年男性は何者だったのだろう。
突然現れて突然消えたことも、なぜか川瀬の意図を察して協力してくれたことも、川瀬が吸っていたのと同じ銘柄のタバコの臭いがしたことも、すべてが謎である。無難な結論を導くなら、あの中年男の存在は川瀬が見た幻覚といったところだろうか。確かにあのときはいろいろ限界だったし、ありえなくはない。が、周囲の乗客や警官も彼のことを認識していたし、中年男の存在抜きであれだけ長い間電車を足止めできたとは思えない。
でもそれならアイツは何者なんだ?神様や妖精の類にしては、少々薄汚すぎるし……。思考はグルグルと巡り、結局納得できる結論には未だ至っていない。
まあ……いいか!生きてりゃそういうこともあるだろ!
幸いなことに、組織にも追われていない。そりゃそうだ。計画の失敗により資金が底をつき、アジトを追われ、頭の吉永が刈られた状態では、大した動きはできないだろう。米国本部の連中にも今のところ見つかっていないようだ。念のため四国を離れ、この大阪で第二の人生を送らんとしているが、わざわざ引っ越す必要もなかったかもしれない。
バイトやら転職活動やらで忙しい毎日の中で新たな記憶が脳に入荷される度、組織に関する記憶は次第に川瀬の脳みその端に追いやられていった。かつてあんなにも自分を苦しめた組織なのに、ひとたび復讐を果たしてしまえば、こんなにもどうでもよくなるもんなのか、と、自分の心の移ろいやすさには驚く。組織に関する記憶は、このまま洋服箪笥の奥に埋もれた靴下のように忘れられていくのだろう。ふとした拍子に他の洋服に引っかかって出てくることはあっても、またすぐ雑に箪笥の中に戻される。
むしろ気がかりだったのは、川瀬のあの日の迷惑行為が晒されて炎上し、川瀬の身元が特定されるリスクについてだった。つまり、「あの日やりすぎちゃったんじゃないかなあ」という心配である。
実際にあの後、川瀬とあの謎の中年男が列車内で暴れまわる様子を収めた動画がSNS上に拡散された。いや、されかけた。川瀬らの迷惑行為がSNS上の小さな火種から本格的な炎上に拡大する前に、別の事件が話題をさらっていったからだ。
『高知県の男子高校生が失踪 誘拐か 』
8月26日の夕方に報じられたニュースを皮切りに、SNSはその話題で持ちきりになった。
ほとんどの人は被害者の少年、塩野夏樹君(17)の身を案じたわけではない。塩野君とその誘拐犯とみられる女を捉えた複数の防犯カメラ映像が公開されると、誘拐犯のその美貌に衆目が集まり、「こんなきれいなお姉さんに誘拐されてる男子生徒がうらやましすぎる」といったある種不謹慎なコメントが殺到したのだ。男子生徒の生死すら不明なのに、暢気なものだ。でもまあ、男の子ならだれでも、自分を外の世界に連れ出してくれる妖艶なダウナー系お姉さんが、つまりメーテ〇が、目の前に現れるのを常に待っているものだ、気持ちはわかる。
「それっぽい男女2人組を舞浜で見かけた気がしたけどなんか楽しそうにしてたので通報はまぁいいか」という真偽不明の投稿や、一人息子が誘拐されたにしてはあまりにのほほんとしている男子高校生の両親の様子など、詳細が明らかになるほどに憶測が憶測を呼び、センセーショナルな男子学生誘拐事件に世論の関心はそっくり移動した。
知らないおっさん二人が田舎の列車で騒いでたなんていう果てしなく地味な話題は、人知れずインターネットの汚泥の底に消えていったのであった。マスクでうまく顔を隠していたおかげで、川瀬が特定されることもなかった。
川瀬の一世一代の大勝負は、川瀬が「狂気」だと思っていたものは、川瀬にとっての大事件は、こうして列車の中でスマホの画面とにらめっこしている名もなき人々にとっては、車の窓にカラスのフンが落ちてたとか、道端のガムを踏んずけたとか、そんななんのことはない日常の風景の一部でしかなかったのだ。災難に見舞われたその日一日は覚えているだろう。夕方家に帰って「今日こんなことがあってさ~最悪だわ」とか家族に愚痴をこぼすこともあるかもしれない。翌日にはまだふとした拍子に一瞬脳裏をかすめることもあるだろう。その翌日には?脳の中には残っていても、思い出す必要がなければ、やがては薄れて消えていく。
『現代人は、忙しい。』エナジードリンクの宙づり広告がふと川瀬の目に入る。丁度川瀬と同い年の元アイドルの女優が、スーツを着ながら電話を取りながらタイピングをしながらエナドリを飲んでいる写真が目を引く。
この広告を見たことも、面接会場へ向かって走っているであろう15分後の自分の頭の中からはきれいさっぱり消えているだろう。
「離せって!!!」
乗客が一斉に声のした方へ顔を向けた。つられて川瀬もホームの方を見やると、老齢の男が駅員二人に取り押さえられて必死にもがいている。
おそらく遅延の原因であろうあの老人も、3ヶ月前の川瀬のように、何かを為すための大勝負の最中なのかもしれない。ただ、川瀬にとってはどうでもいいことだ。
『大変お待たせいたしました。まもなく発車します。ドア閉まります』
よかった。面接にはなんとか間に合いそうだ。
川瀬はカバンからペットボトルを取り出すと、緊張で乾いた口をお茶で湿らせた。
1両目から8両目まで、ひしめく乗客の日常を乗せて、列車が動き出した。
復讐と鰹と変なおじさん さぁいとう @Lets_Ito
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