8月28日10時40分:実行犯④
ぬかった。いてもたっても居られなくなった吉永が駅までやってくる可能性など考えればわかったはずなのに、油断して、あろうことか男の顔を思い浮かべてニコニコしてしまっていた!
「なんで笑ってた?なんで?なんで?なんでッッ!?」
「ひっ、た、大変失礼いたしまし──」
「なんで?なんでなんでなんで?」
「し、支部長……?」
あ、これ私に言ってるんじゃない。
この状況に「なんで」らしい。文字通り命がけの計画が、電車の遅延とかいうアホみたいな理由で頓挫しかかり、命が消えかかっているこの状況に、「なんで」なんだ。
コンクリートの上にうずくまり、ぶつぶつと何やらつぶやき続ける支部長の姿が、小さく、哀れに見えてきた。
仮に計画がうまくいったとして、こんな奴に、私は一生ついていくのか?
八木の手許から、ピピピピ……と小さな音がする。二人同時に息をのむ。
「これは、新薬の失効を知らせる警報……」
「ああ…あああ…終わった、終わってしまった……もうだめだ、死ぬんだああ……」
こいつ、素になるとカタカナ語でないのかよ、いやそんなことはどうでもいいんですが。
吉永がはっと顔を上げた。遠くからガタゴトと音がする。線路の先、緑の濃淡だけが織りなす景色の中に、突如巨大な無機物が出現した。電車だ。予土線窪川行き、オズワルドが、塩野が乗っている、これから凄惨なテロが敢行されるはずだった電車だ。定刻から40分遅れての到着ということになる。
「どうして…どうして今なんだ……せめてあと1分早ければ……」
土下座をするような形で地面に這いつくばる吉永のすすり泣きが響く。
それを黙って見ている八木には少しも目をくれない。
前面に表示された「窪川」の文字が八木からもはっきりと見えるほど電車が近づいてきた。同時に、八木と吉永、二人の通信機器がけたたましい音を立て始めた。今頃アジトの方も阿鼻叫喚の地獄絵図になっていることだろう。
吉永の泣き声、重たい電車の車輪が線路の継ぎ目を押しつぶす音、鳴り響く通信機器の呼び出し音。それらすべてを八木は黙って聞いていた。
ラストチャンスを逃した吉永は用済みとなる。体内のICチップが作動する前に本部に出頭すれば、死に方くらいは選べるだろうか。
これから私はどうすればいいのだろう。米国本部直属の部下である吉永と違って、私の体にicチップは埋め込まれていない。いくら米国本部といえど、部下の部下、下請けの日本支部の構成員一人ひとりを抹殺するとは思えない。だが、顔やら名前やら吉永が知っていることは本部も知っているだろうし、このまま堂々と日の当たる場所で生きていくわけにもいくまい。
彼は、塩野夏樹はどうなるのだろうか。今のところ何も知らない、陰謀に巻き込まれた哀れなオズワルドであるわけだからこのままめでたく逃げ切りか、それとも組織と接点ができてしまった時点で私と同じように米国本部に目を付けられるだろうか。
いずれにせよ、
私は傍にいない方がいい。
このまま私が消えてしまった方が、彼は幸せになるだろう。
ピロン、と音が鳴る。小刻みに震えた右ポケットに入っているのは、塩野夏樹との連絡用のスマホ。
『香織さあああん!やっっと会えるよお!』
あと1分もせずに会えるだろうに、何ならそっちの窓から私の姿は見えているだろうに、わざわざメッセージをくれるその愛おしさに、思わず口元が綻んでしまう。
会いたいな。
吉永は力なく口をパクパクさせて何かをつぶやいているらしいが、電車がホームに滑り込む音にかき消されて、八木には聞き取れなかった。ぶつぶつとつぶやかれるその内容に特段興味も湧かなかった。
ぷしゅう、と音を立ててドアが開くやいなや、懐かしい顔が目に飛び込んでくる。
「香織さん!!会いたかったよおお!」
2か月ぶりかな?はじけるような笑顔と周囲をはばかるように小さく手を振る姿がアンバランスで、自然と顔がほころぶ。しかし、この少年は私がさっきまで殺そうとしていた男である。
「久しぶり。のところ悪いんだけど、別れましょう。」
「えッ!?ちょ…遅刻したのはごめんなさい、でも電車が…」
「違うの、それは関係なくて、ちょっと個人的な部分でいろいろあって、夏樹君は全く悪くないんだけど」
「じゃあとりあえず向かいながら電車で話そう!そうしよう!」
乗るのか乗らんのか、とでも言いたげな顔で運転士がこちらを睨んでいる。すでに前の駅で40分も遅れているのだから、そりゃ苛つく。むしろ怒鳴ってこないないだけ運転士は寛大であるとさえいえる。
「デートの計画立ててるときもなんかずっと浮かない顔だったよね、そわそわしてて。なんかヤバい陰謀に巻き込まれてるとか?」彼はなおも畳みかけてくる。
「えっ…い、いやそんなんじゃ…」めちゃくちゃ狼狽してしまった。目が泳ぎまくる。
「図星なんすか…じゃあなおさらこんなところいちゃダメでしょ。一緒に逃げるぞ!」
「いや、でも、親御さんも心配するだろうし……」
親御さんが心配する、か。さっきまで殺そうとしていた相手に自分は何を言っているのだろうか。
『発車しまーす』
しびれを切らしたらしい運転士の、怒気の混じったアナウンスが聞こえると同時に両手を強く引かれ、バランスを崩した八木は車内に、塩野の胸の中に倒れこんだ。華奢な外見から想像していたものとは違う、筋肉質な質感に少しドキッとした。そういえば部活のトレーニングが死ぬほどきついって言ってたな。
「うちの両親、割とヤバめな宗教の信者なんですけど、」
「…?」
そのことは知ってるが、というかその宗教団体に罪を擦り付けるために塩野はオズワルドに選ばれたわけだが、何が言いたいんですか?
「その教義に『愛は総てに優先される』っていうのがあって、意味わかんないっすよね!俺もです!えっと、何が言いたいかっていうと、うちの両親なら駆け落ちの一つや二つ許してくれると思います!ってことです!」
「ええ…そう……そうなんだ?」そういう問題ではないと思うが!
八木の背後でぷしゅう、とドアが閉まってしまった。もったりと熱を持った夏の空気は締め出されて、車内には冷房由来の冷たい空気が満ちていく。定刻より42分遅れて、予土線窪川行きの列車が土佐大正駅を出発した。
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