復活の呪文

第1話:蝉


 井上彩綾は蝉のような女だった。アブラゼミの羽のような、くすんだ茶色の少し傷んだ髪に、大きな黒い瞳。くつくつと、些細なことでも特徴的な声をあげて嘲笑し、笑う度に、目尻に皺が寄る。止まっていた樹から離れると、新たな木を求めて飛び回る蝉のように、必死こいて男を漁り続ける女だった。


 だから、殺してやった。


 壁掛け時計に目をやる。1988年8月11日、午前1時という無機質な電子文字。ゆっくりと暗い室内を見下ろす。窓から漏れ出た月光に照らされ、彩綾から流れ出た赤黒い液体に、光が灯っている。


 俺はふと、手に持ったトロフィーで、四肢を伸ばし、情けなく倒れ伏している彩綾の頭を突いた。道路に仰向けで横たわった蝉が急に動き出すように、彩綾もびくりと再起動するかと思ったが、固い骨の感触が伝うだけだった。


「お父さん、何、してるの……?」


 弱々しい声に振り返る。廊下につながる扉に、息子の修斗が立っていた。俺は、ト

ロフィーを置いて、修斗の方へと歩み寄る。


「……夜空を見ていたんだ」


「そうなんだぁ……」


 修斗は半分夢の中にいるようで、大きなあくびをしている。


「……もう、夜遅いぞ。明日も早いんだから早く寝なさい」

「じゃあ、お部屋まで連れてって……」


 寝言を唱える修斗を抱えると、俺は半ば投げ込むように、ベッドへと寝かしつけた。そのまま自室に戻ると、ミンクオイルを取り出し、スパイクの手入れを行なった。


 一つの穴を埋めるたびに、自分に欠落している何かが埋まっていくような感覚を覚えつつ、今後の方針を考える。ふと、以前読んだ小説の内容を思い出した。


 ————殺人罪には公訴時効が存在しており、15年を超過すると、罪の免責が消える。


 スパイクを置き、煙草に火をつけた。15年。その歳月、彼女の存在が判明しなければ、俺は罪を逃れるばかりか、またサッカー選手として、復帰できるかもしれない。


 タバコを押し消し、居間へ向かう。物置から取り出した雨合羽を身につけると、そのまま彩綾の死骸を肩にかけた。そのまま庭へと向かい、熱帯夜の芝の上に、彼女を投げつける。


 どさりと音を立てて倒れた肉塊に、虫が這い寄る音を聞きながら、俺は、ひたすらにスコップで穴を掘った。

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復活の呪文 @hukkatsunojumon

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