言えない言葉の遺しかた
佐倉遼
言えない言葉の遺しかた
父が死んだ。
末期のがんだったらしい。医者に宣告されていたことも、ひかりは後になって知った。父からは一言も聞いていなかった。父の死を告げられたときも、どこか他人事のように感じた。その感覚は、今も変わらない。涙は出なかった。
「実感、ないな……」ひかりは心の中でつぶやいた。
実家に戻っても、その感覚はさらに強まるだけだった。父との関係は、良いとも悪いとも言えない。ただ、そこに時間が流れていただけ。無口で、何を考えているのか、まったくわからない人だった。ひかりが小さい頃、父はよく爬虫類のようなぎょろぎょろした冷たい目でじっと見つめてきた。それが不気味で、ひかりは父を避けることが多かった。
「そういえば、母さんが亡くなったときも……」
ひかりはぼんやりと思い返す。ひかりが四歳のとき、母が亡くなった。父はそのときも表情ひとつ変えず、淡々と喪主を務めたと親戚から聞かされている。
「冷たい人だったんだな、やっぱり……」
それでも、父がいなくなると、どこかぽっかりとした空白が広がっている気がした。
玄関の扉を開けると、ひんやりとした空気がひかりを包んだ。誰もいない実家は、以前よりも広く、そして重く感じられる。靴を脱ぎ、無言のまま廊下を進むと、自然と父の書斎の前で立ち止まっていた。
「……いつも、ここにいたなぁ」
父はいつもこの部屋にこもっていた。何をしているのか知らなかった。聞こうと思ったこともなかった。ただ、机に向かい黙々と何かを書いているその背中が、妙に不気味だった記憶だけが残っている。
ドアノブをゆっくり回す。書斎の中は、生前のままだ。机の上には、書きかけの紙や散らばった物が無造作に放置されている。父が生きていたころから変わらない、無秩序な空間だ。
「これ……何を書いてたんだろうね」ひかりは誰に聞かせるでもなく、ぽつりとつぶやいた。
机に目をやり、ふと、一冊のノートが目に留まった。机の端に無造作に置かれているそのノートは、埃をかぶっているが、父が使っていたものだとすぐにわかる。手に取ると、ひかりは表紙を無意識に撫でた。
表紙には何も書かれていない。ただ、少し重たい手つきでページをめくると、文字が視界に飛び込んできた。
「父さん……短歌なんて、書いてたんだ……」
ぎこちなくて無骨な文字。それでも、そのひとつひとつが、いつも無言だった父の言葉のように感じられた。最初のページに綴られた短歌を読む。
『君の名を名づけるよりも昔から君は僕らの光なんだよ』
「……え?」
思わず声が漏れた。「僕らの光」──自分の名前が、ここに書かれている。父がこんなふうに自分のことを語るのは、これまで一度もなかった。ひかりの心は、戸惑いで揺れた。
「こんなこと……父さんが……?」
あの冷たい目、無言の背中。そうした父の姿と、この柔らかな言葉がどうしても結びつかない。
両親が長い不妊期間を経て、自分を授かったという話を思い出す。そんなことを考えると、この言葉の重みが心にじんわりと染みてきた。知らなかった、父の思いがここに詰まっているのかもしれない。
「こんな風に……思ってたんだ」
ひかりは小さく息をつき、ページをめくる手を再び動かす。次に目に入ったのは、また別の短歌だった。
『かあさんを失う君の空白をどうして僕が埋められようか』
ひかりは静かに目を閉じた。母が亡くなった日のことをぼんやりと思い出す。四歳だったため、記憶は曖昧だが、父が何も言わず、淡々と葬儀を進めていた姿だけは覚えている。まるで感情が欠けているかのように思えた。
けれど、ここにある短歌は違う。伝えられなかっただけで、父も母を失った喪失感を抱えていたのだ。「どうして僕が埋められようか」という言葉に、父がひかりの悲しみを癒せないという無力感が滲んでいた。そして、おそらく「自分の空白も埋められない」という苦しみも抱えていたのだろう。
「……ずっと、何も感じていなかったわけじゃないんだ」
ひかりはつぶやいた。父は無口だったが、何も感じていなかったわけではない。無力さや孤独を、自分なりに抱え込んでいたのだ。
ページをめくるたびに、父の言葉が次々と現れる。それは決して流暢ではなく、どこかぎこちないものばかりだった。お世辞にも上手とは言えない短歌。それでも、不器用ながらも彼なりの感情が、確かにそこに込められていた。
さらにページを進めると、ふと目に留まった一首があった。
『この世から君を守るためなんだチワワみたいに睨まないでよ』
「……何これ、変なの」
ひかりは思わずくすっと笑ってしまった。確かに、ひかりが父を不気味に思い、反抗的な視線を投げかけたこともあった。そんなひかりの態度を、父は「チワワ」に例えていたのだろうか。
「父さん……こんなこと思ってたんだね」
不思議なことに、これまで感じていた父への重苦しい感情が、少しだけ軽くなった気がした。ひかりは次のページをめくる。父の言葉が、少しずつ彼女の心に響いていくのを感じていた。
「……もっと、早く知りたかったな」
後悔が、胸の中でふっとよぎる。それでも読み進める。次の一首に目が留まった。
「アドバルーン、見上げる君の後頭部こっそり支える重さがうれしい」
幼い頃、父と一緒に出かけた日の記憶がぼんやりと蘇る。言葉少なだった父と一緒にアドバルーンを見上げていた自分。ひかりの頭をそっと支えていた父の手が、今になって思い出される。
「一緒に見たなぁ……すんごい高くて倒れそうになった」
くすりと微笑む。少しずつ、ひかりは父の本当の姿を知っていく。父の無口な背中の向こうに隠されていた感情。それは、ひかりが思っていたよりも、ずっと豊かなものだったのかもしれない。
『成長が早いどころか秒速だ僕より先にオババになりそう』
「……ふふっ、なにこれ失礼な」
思わず声が漏れた。これって短歌って言っていいの?成長する自分と老いていく父親を、少し自嘲気味に、しかも下手な字余りで表現している。父らしいぎこちなく不器用な表現に、思わずくすっと笑ってしまう。言葉選びも率直に言って変だ。
「父さん、こうやって私の成長を見てたんだね……」
自分が大人になっていくスピードに、父がどう感じていたのかなんて、考えたこともなかった。彼はちゃんと自分を見守ってくれていたのだ。
ページをめくる手が自然と止まり、目に飛び込んできた。
「延長が終わるとわかれば人生は再び君に会う旅支度」
ひかりは静かに息を飲んだ。この短歌の「君」は、おそらく母のことだろう。父がこの言葉を詠んだとき、どんな思いでいたのかが、ひかりにもはっきりと伝わってくる。がんを知らされた後の父。彼はその終わりを静かに受け入れ、覚悟していたのだ。
「……父さん……」
父は、天国で母にもう一度会える日を心から待ち望んでいたのだろう。それを「人生の旅支度」として表現していることに、父の思いの深さが伝わってくる。
目頭が熱くなり、ふと次の短歌に目を移す。
『溶けるからはんぶんパパにあげるねとくれるパピコがいちばん好きだ』
その瞬間、ひかりの心に幼い日の記憶が鮮明に蘇った。夏の暑い日、まだ小学生だったひかりは、父と二人で近所の公園にいた。無口な父と並んで座りながら、ひかりはパピコを取り出し、何の気なしに「半分あげるね」と手渡した。
「これ、パパにあげるね」
父は特に何も言わず、ただ頷いた。その時の父の表情は、なぜか覚えていない。ただ、二人で一緒にパピコを食べた静かな時間の温かさが、胸にしっかりと刻まれている。
「でも……あれって、十数年前のことだよね……」
不思議だった。あの記憶はもう十年以上も前の出来事だ。けれど、この短歌は、時系列的にここ一年で書かれたものに違いない。父は、自分の死期を悟りながら、あの日のことをふと思い返し、その思いを短歌に込めたのだろう。無口で何も言わなかったけれど、あの小さな瞬間が、父にとっては特別な思い出だったのだ。
「父さん……」
ひかりの目から涙が一粒、頬を伝い落ちた。静かにノートの最後のページをめくると、そこには一つだけ短歌が書かれていた。
『僕たちを照らしたひかりのゆくさきがどうか光であふれるように』
父が最後に願ったのは、ひかりのことだった。ひかりが幸せであれと、そう願っていた。無口なまま、ずっと見守り続けてくれていた父。その愛情と言葉が、今はっきりとひかりを包み込んでいくのを感じた。
気がつけば父が亡くなったことで、ひかりの心にはぽっかりと空白ができていた。実感が湧かなかった。それでも、いまやその空白は、父の短歌によって少しずつ埋められていった。
「……できんじゃん。おとうさん」
自然とつぶやきが漏れた。無骨で、不器用で、何も言わなかった父。でも、言葉を通して、ちゃんと自分に届いている。父の想いは、今この瞬間、確かにひかりの心の中に根付いていた。
ひかりはノートをそっと閉じた。胸の奥が温かく満たされていくのを感じながら、深く息をつく。父が残してくれた短歌は、ひかりにとってかけがえのないものとなった。父が、こんなにも自分のことを想っていたという事実が、今さらながら胸を熱くさせた。
「……このノート、見つけられて本当によかった」
呟きながら、ひかりは立ち上がり、書斎のドアに手をかける。背後にある机を一瞥し、懐かしい気持ちに包まれた。振り返れば、いつものように父がそこに座り、無言で机に向かって短歌を考えている姿が浮かぶような気がした。
「おとうさん……ありがとう」
小さくつぶやいて、ひかりは静かに書斎を後にした。父の背中はもう見えなくなってしまったけれど、彼の言葉はこれからもひかりを支えてくれるだろう。
言えない言葉の遺しかた 佐倉遼 @ryokzk_0821
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