セミと夏

@manolya

第1話

 長く長く土の中にいたセミは、ようやく外に出る年になった。土の中では、そこここにセミの仲間がいて、

「外に出るのが楽しみだな」

「僕が一番に鳴き出すんだ」

「じゃあ、僕は一番うまく鳴く」

「それなら、僕は一番大きな声で鳴く」

と、口々に言い合った。

 その様子を、一匹だけ何も言わずにじっと、仲間が話すのを聞いていた。


 やがて夏が来て、セミたちは次々に土の外へと出て行った。まだ暗い夜明け前、土から顔を出し、木に登り、じっとしていると、背中が割れて、羽のある大人のセミになった。じっとしていると、羽が伸びて乾き、飛べるようになった。飛べるようになったセミは、気のもっと高いところに飛んでいって、太陽が高くなってから、勢いよく鳴き始めた。

「僕が一番に鳴き出した」

「僕が一番大きい声だ」

「僕が一番うまく鳴ける」

セミたちはそれぞれ、高らかに鳴いた。


 土の中で、唯一、何もしゃべらずにじっと他のセミの言うことを聞いてたセミは、まだ土の中にいた。他のセミがそれぞれ鳴くのを聞きながら、

「僕は何も一番になれないのかな」

とつぶやいた。

「一番に鳴く出すことも、一番大きい声で鳴くことも、一番うまく鳴くことも。僕じゃない」

土の中のセミは、外に出る自信がなくなった。

  すると、近くにいた別の虫が、

「そんなことないじゃないか。今日は今日だけのことさ。明日はまた、一番があるよ」

と言った。

「そういうものかな」

土の中のセミは考えた。


 けれど、次の日も、また次の日も、土の中のセミは外に出られなかった。

 今日は先を越されたから。

 今日は雨だから。

 今日は真上でカラスがうるさいから。

 今日は特別大きい声で鳴いているセミが、先にいたから。

 今日は…


 そうして一日一日を見送っていると、セミは、ある日ふと気がついた。

「僕は、一番遅いセミなのかな?」

近くにいた別の虫が言った。

「そうかもね」

別の虫はこうも言った。

「そろそろ夏も終わりだ。君は土の中で終わるのかい?」

それを聞いて、土の中のセミはハッとした。


 土の中のセミは、明日こそ外へ出ようと決めた。


 次の日、他のセミと同じように、夜明け前、土をどけて地面に顔を出した。冷たい空気が、セミの顔をなでた。モソモソ、ゴソゴソと、意外とうるさい土の中に比べ、夜明け前の地面はしんとしていた。セミは、自分のためだけに用意された、特別な朝のステージのように思えた。

 木に登り、じっとして、背中が割れるのを待つ。ひび割れたのを感じて、セミは殻を脱いだ。寒かった。

 セミは不安になって、あたりをうかがう。虫の声はしない。鳥の声もしない。誰もまだ起きない、そんなに早い時間に土から出てきたのだろうか。そしてこの寒さは。木の葉はみずみずしさを失って、落ちていく準備を始めていた。

 セミには分かった。もう夏は過ぎて、季節は秋に向かい始めているのだった。他のセミはとっくに歌い終わり、命をつないで、自分たちの役目を終えていた。それに気がついて、セミは突然焦り始めた。夜がジリジリと明けてくる。羽が乾いたが、寒くて別の場所へ飛ぶことができない。鳥が来たら、猫が来たら…セミは必死で、足で木の上へ上へとよじ登った。

木の真ん中くらいまで来ると、太陽が昇り、セミを照らして温め始めた。

「ああ、助かった。太陽は秋もあるんだな」

夏だけを目指してきたはずのセミは、もう太陽がなくなったと思ったのだった。


 体が熱くなり、セミは歌い出した。一番遅いセミが、夏を送る歌だった。セミはひとりぼっちで、誰も鳴き声に応えてはくれず、葉は力強さを失い、木は寒さに向けて体を固くし始めていた。鳥も、もうセミはお腹いっぱいと、見向きもしなかった。だからセミは一人、ただ鳴いた。朝から晩まで鳴いた。夜は寒くて疲れて歌えなくなり、眠ってまた次の日、太陽が昇ってから鳴いた。

 早く外に出て、何も一番じゃなくても歌えばよかったのかもしれない。でも、もうそんな時期は過ぎてしまった。それでも、遅くても、ひとりぼっちでも、自分はセミだから、歌うしかない。セミは一人で、一生懸命鳴いた。


 数日経って、セミの木の下を男の子とそのお母さんが通りかかった。

「お母さん。まだセミが鳴いてる」

男の子がまだ青いどんぐりを手にいくつか持って、お母さんを見た。

「そうだね。ちょっと遅かったけど、頑張って鳴いているね」

「頑張っているセミ?」

「そうだね」

男の子とお母さんはしばらく木を見上げて、セミの声を聞いていた。

「がんばれ」

男の子はそうセミに呼びかけて、お母さんと手をつないで、向こうへ歩いて行った。

セミはとても疲れていたけど、誰かが歌を聞いてくれたのが嬉しくて、休まずに鳴き続けた。

そのうち、木も、夜に鳴く準備をしていた秋の虫も、鳥も、地面も、まだ土の中で数年眠るセミの子どもも、空も、風も、太陽も、雲も、みんなセミの歌を聞いた。


セミはひとりぼっちだったけれど、一生懸命鳴いて、とても満足して、自分の季節を終えた。


 地面に落ちたセミを、早くも落ちた木の葉がそっと包んだ。

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