第3話
「はやくこいよっ」
北瀬はほとんど息だけの声で小さく怒鳴った。カツ、カツ、カツという音は明らかに上ってきている。明らかに北瀬へと向かっている。ようやくエレベーターが到着し、扉が開いた瞬間に体を横にして中に滑り込ませた。一階を押し、再びボタンを連打した。閉まる速度が遅く感じる。無限にも思えた時間だったが完全に閉まった。だがエレベーターは下降しない。それどころか扉はなぜか開き始めた。横から腰までの黒い髪に茶色いワンピースを着た女が姿を現した。途端、強烈な悪臭がエレベーター内に立ち込めた。北瀬はエレベーターから降りようと試みるが、女が扉の真ん前におり、塞ぐようにして出られなかった。そのまま扉は完全に閉まり、重力が下に落ちた。
北瀬は息を止めた。それが続かないときはくしゃみをする真似をしながら服で鼻を塞ぎながら呼吸した。それでも悪臭は体内に入ってきた。悪臭のなかに腐った鉄の臭いを感じた。真横に立つ女を眼球を滑らせて一瞥する。ワンピースはよく見れば茶色い染みが大量に付着していた。それに錆びた鉄の臭い。北瀬はそれが血であると気づいた。それに腰まである長い髪。間違いない。この女が面談室の前を何度も往復していた女だ。
亡霊に違いない。もうとっくに閉院している病院で患者でもない人間がエレベーターに乗っているはずがない。永遠にも感じたエレベーターの中だったが、無事に一階にたどり着いた。扉が開くと、先に女が出て行った。しばらく間を置いて北瀬は外に出たが、女の姿はどこにもなかった。
「やばいもの見たぞ……」
北瀬は早歩きで院内の奥に向かっていった。駐車券を北口の防災センターで切ってもらう必要があり、暗い廊下を息切れしながら早歩きで向かった。
「もうちょっともうちょっともうちょっとだ……」
北瀬はいつの間にか走り出していた。あの化け物に襲われるより、防災センターの窓口で暇そうに座る中年の男に「走っちゃダメでしょうが」と怒られる方が良かった。
窓口の前に立つと男は北瀬に気づいて窓を開けた。
「駐車券、お願いします」
「わかりました」
男は北瀬を見ることなく、駐車券を受け取り、機器に通した。
「遅くまでご苦労様です」
男は言って駐車券を差し戻してきた。
「どうも」
病院を出るころには日を跨いでいた。病院前の歩道まで出てきて振り返る。ここにはいてはならないものがいる。無事に出てこられたのは奇跡だ。ただ妻や子どもがいる。妻は刑かが良ければ一週間ほどで出てこられるが、子どもは一週間後に手術を控えており、さらにそこから無期限の入院生活が待っている。
「早く元気になってくれ」
それは心から子どもの回復を願うものだったが、もう二度とあの女に遭遇したくないという恐怖の現れであった。
そのとき、隣でべちゃりという音がした。横を向くと、地面に頭部がぱっくり割れた女が倒れていた。ワンピースには茶色い染みが大量についており、大量の血は北瀬の靴にまで及んでいた。何より黄色く濁った眼球はずっと北瀬を捉え続けている。
北瀬は腰の力が抜け、その場にへたり込んだ。女の目はわずかに細くなった。
マドノムコウ 佐々井 サイジ @sasaisaiji
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