第2話

 物音がしないようにドアを閉め、ソファーに座った。またしても髪の長い女が窓の外を行ったり来たりしている。

 ふと非現実的なことを考え出して、口角が緩んだ。いや、無理やり口の端を持ち上げた。しかし、往来する女の頭部を見ると、頬はたるんでいく。もしかして俺はとんでもないものを見ているのではないだろうか。

 扉をノックする音が面談室に響き、「うわあ」と情けない声が洩れた。

「北瀬さん、失礼しますね」

 入ってきたのは赤縁眼鏡の看護師だった。速くなった鼓動はしばらくおさまりが効かないが粟立った肌が平らになっていく。

「今、処置が終わったそうで、もうしばらくすると先生がお見えになるらしいです。お子さん、無事ですよ。遅くなって申し訳ないですが、先生のお話があるので、もう少々こちらでお待ちいただけますか? お話のあとはお子様と面会できますので『がんばったね』と言ってあげてください」

 看護師の柔和な笑みを見て、身体中の空気が抜けたのではないかと思うほど大きなため息が漏れていく。看護師が退室したあと、またあの頭部が出てくるかもしれないと思っていたがドアの窓には何も映らなかった。

「お待たせして申し訳ありません」

 医師が青い白衣を着て面談室に入ってきた。

「新生児なのでまだまだ血管が細くてなかなか入りきらなかったのと、先ほどお話ししていた風船が……」

 医師は時間が遅くなった原因を話してくれたが、疲労で話が入ってこなかった。歩き回った疲労というより、もし命の危機だとしたらと、十時間も心配していたことによる先進的な疲労だった。

「いったん、カテーテル処置は完了したので一週間後に問題なければジャテン手術を実施します。その手術の説明は後日しますので、今日はいったん終了です。このあとは面会ですよね。看護師に伝えてくるのでお待ちください」

 医師が退室してドアが閉まったとき、窓に女の顔がへばりついていた。すりガラスのせいであやふやな輪郭だが、目線は確実に北瀬を捉えていた。北瀬は絶叫し、後ずさりしたときにパイプ椅子が倒れ、机に体が強くぶつかった。

 足音が聞こえる。女が中に入ってくると確信した。もうだめだ。呪い殺される。一体何の恨みがあるんだ。

「北瀬さん? 北瀬さん大丈夫ですか?」

 看護師の声だった。両手で覆った指の間からドアを見れば張り付いた顔などなかった。返事する前に看護師はドアを開けた。自分の情けない姿を見られて、恐怖はすぐにどこか飛んでいき、恥ずかしさが支配した。

「大きな音がしたんで、慌ててきたんですけど、大丈夫ですか? 何かありましたか?」

「いや、すみません。ころんじゃって……」

 看護師は「良かった」と言ったが、表情はわずかに軽蔑を孕んだように見えた。忙しいのにわずらわしいことをするなよ、と言いたげだった。

「ちょうど、面会の準備ができましたんで、中にお入りください」

 PICUの中に入り、案内されたところはベッドの周りを大量の器具が囲っていた。前方には心電図のようなものが稼働していた。わが子は新生児用のベッドで手首から肩にかけ、胸部、脚に数多の管がつながれている。すべてはこの小さなわが子の生命を維持する装置なのかと思うと足元に異常に気を払うようになった。「触ってもらっても大丈夫ですよ」と看護師に言われるが、触るのに躊躇してしまう。確かに入口で手首まで念入りにハンドソープで洗って殺菌、消毒したが、カテーテル処置したてで、しかも新生児である子どもにもしウイルスを感染させてしまったらと思うと、とても触る勇気がない。腰をかがめて顔を覗き込んだ。鼻には酸素チューブがつけられていて、それが少し引っ張られて豚鼻のようになっている。癖になってこのまま豚鼻になってしまわないだろうか。妻の腹から出た当日でまだ肌はふやけているようで、全体的に腫れぼったく感じる。とはいえ、身体の奥底がじんと温かくなる感覚を抱いた。できるなら今すぐ抱きしめてやりたい。

 面会を終えると、手を洗ってすぐに退室した。先ほどまでずっと滞在していた面談室を通り過ぎる時にあの女の顔が記憶によみがえり、面談室から離れて歩いた。

 エレベーターは一階で止まっていて、下のボタンを押すと、ゴウンゴウンと小さく聞こえてきた。エレベーターホールのすぐ横には階段がある。すでに夜の十一時を過ぎており、会談で降りようとした矢先、階段の下からカツ、カツ、カツ、と尖った音が響いてきた。そのゆったりとした歩調は面談室のすりガラス窓越しに見た流れる頭部と同じだった。北瀬は下のボタンを何度も連打する。当然、エレベーターの速度は変わらず、じらすように動いてくる。思わずボタンを殴りつけてしまった。

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