マドノムコウ
佐々井 サイジ
第1話
北瀬はPICUに最も近い面談室の中を歩き回っていた。わが子のカテーテル処置が始まってからすでに九時間が経過していた。想定時間を五時間も超えている。ソファーでゆったりとしていられるわけがない。
わが子が生まれて間もなく、担当の医師からカテーテル処置の説明をされ、曖昧な理解のまま署名した。ピンクがかったわが子じゃ生まれて数時間後にはカテーテル処置のため眠らされていた。処置室へと運ばれるあいだ、横で「頑張れよ」としか言えない自分が情けなかった。妻は腹を痛めて産んでくれたというのに。
「感染防止対策をしておりますので、こちらの面談室でお待ちください」
北瀬の胸元までしかない身長の看護師に面談室を案内されてから、初めの方は持ってきた小説を何度か手にしたが、どうも集中できずに二ページしか読めていない。その二ページの内容も頭に入っていないので、結局読み直さなければならない。
北瀬は県を跨いだ大学附属病院に早朝から赴いた。まだ山間から太陽が出ておらず、夜の闇がわずかに捌け出した頃だった。昨日から妻が入院し、午後に出産を控えていたためである。
五ヶ月前に地元の産婦人科へ初めて付き添った際、胎児の心臓に疾患が見つかった。完全大血管転位症と医師から告げられたとき、北瀬はどういうものか全くわからなかったが手のひらが急激に汗ばみ始めた。体へと流れる大動脈と肺動脈が逆になってしまっている症状で、放置すれば正常に酸素が体に運ばれることができずにチアノーゼ、いわゆる酸欠状態となり、自力での生命活動が不可能だった。出産後すぐに手術が必要な状況であり、それができるのは一番近くて隣県の大学附属病院しかなかった。
もう何周部屋を歩いたかわからない。脚はじんじんと痺れるような疲労を抱えているが、それを十分に脳は認識していない。わが子の処置が無事なのかどうかという心配に支配されていた。北瀬はドアノブを捻り、面談室を抜けてPICUのインターフォンを押した。今行きますと言われてから来るまでが異様に長く思える。自分が過剰に神経質になっていることを自覚した。意識しなければ声色に出てしまいそうだった。
扉から出てきたのは、先ほど面談室を案内してくれた小柄な女性の看護師だった。いつの間にか赤い縁の眼鏡をしていた。
「あの、まだ処置は続いてるんでしょうか。ひょっとして、危険な状況なんですか? その、予定より五時間も長引いてるので……」
看護師は目じりを深めた。マスクをしているが、おそらく口の端が持ち上がっているのだろう。
「手術の時間が長くなることは珍しくないことです。もし緊急の事態になったら手術室からご両親に知らせるように連絡が来ます。でもそう言ったことは今ありませんのでご安心ください。と言っても安心は難しいと思いますけどね」
ひとまず命にかかわる状況ではないことがわかったが、医師からの事前説明で言われた内容が脳裏に浮かぶ。
「成功率九十パーセントといえど、心臓のことなのでかなり難しいことに変わりありません。それは何が起こるかわからないということです」
医者というのは最悪手術が失敗したとしても親族からの怒りや訴訟を逸らすために、脅しに近いことを言うんだな、とその時は思った。そんなことを考えていた自分が余裕だったことを知った。
面談室に戻り、パイプ椅子に座ると軋む音がした。ドアのすりガラス窓を漫然と見ていると、さっきまで活発だった人の往来がないことに気づいた。スマートフォンで時刻を確認すると、もう二十二時を過ぎていた。
うつむいていると足音がしてすりガラス窓を眺めた。髪の長そうな頭がゆっくりと右から左へ移動していった。立ち上がって服の裾を直した。看護師が処置の終わりを知らせに来たのかもしれない。だがドアが開く気配はない。ドアを開けようとすればすりガラス窓に人の姿が映るはずだった。もしかしたら他にも保護者が待機しているのかもしれない。
面談室にいても神経質になるだけだった。北瀬はドアを開けて真向いの面談室、はす向かい、左隣と順番に見たが、どの部屋も明かりはついていなかった。そこである答えが浮き出てきた。下の階は出産直前や直後の母親が入院しているところがある。妻もそこでわが子の処置を待機していた。そこから入院中の母親がPICUにいる子どもに面会に来たのかもしれない。
すぐに面談室に戻ってパイプ椅子に座った。机に手を組んで右手と左手の親指を交互に上にしていると視界に何か移ったような気がして頭を上げた。また髪の長そうな頭が今度は左から右へとゆっくりと流れるように移動していった。
気味が悪いな。北瀬は正直そう思った。そうだ、さっきの自分のようにあの人は右往左往してとにかく歩き回っている。やはり面会ではなく手術か処置のために待機しているのかもしれなかった。
いや、それはおかしい――
出産前日のとき、医師との話を思い出した。
「次の時間はまた別のオペの予定があるので、時間はずらせませんのでご注意ください。同時にやることもできませんしね。遠方でご負担おかけしますが必ず時間通りにお越しいただきますようお願いいたします」
手術や処置は同時並行でやることはない、と言っていた。ではあの窓に映るおそらく女性はやはり看護師だろうか。
足音を立てずにもう一度扉を開けた。廊下は薄暗くなっており、PICUのドアの奥だけが煌々と光っている。廊下に歩いている人はいない。他の面談室もやはり暗くて人がいる気配はなかった。
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