赤い瞳

柊木ふゆき

赤い瞳

 アナトゥワが目を覚ました時、聖堂の中は真っ暗だった。倒れた拍子に打ったのか、後頭部が痛い。アナトゥワは長い式典用のドレスの裾に躓きそうになりながら、なんとか立ち上がる。まったくの暗闇で、何も見えなかった。

 うるさく付き纏う耳鳴りのような喧騒はすっかりなりをひそめ、聖堂の中はおろか、その外も静寂に包まれているようだった。アナトゥワが灯した蝋燭はとっくに消えてしまって、どこにあるのかも分からない。手探りで、長椅子の背もたれを頼りにしつつ、アナトゥワは扉に向かって歩き始めた。胸騒ぎがする。一体、いつのまに宴は終わってしまったのだろう? 

 アナトゥワは聖堂の上部の窓へ目をやる。いつもなら月光がどこかの窓から差し込んでいるのに、その姿は見えない。新月はまだ先のはずだ。それに、星一つ見えないなんて……。

 背もたれをつたって扉にたどり着く。鈍い色をしたドアノブに触れる。姫の手はひんやりと冷たい金属の感触を感じないほど冷えていた。

 アナトゥワは扉を開けようとした手を止め、木の板でできた扉に耳を貼り付けた。扉には木の枝を模した鉄の装飾が上下二箇所に、二枚の扉を境にシンメトリーになるように施されている。その枝の先の部分が、アナトゥワの頬にぴったりとつく。目を閉じると、本当に真っ暗だ。少し目が慣れてきて朧げに形を表し始めた聖堂の椅子や装飾が闇の中に消えていく。

 アナトゥワの耳に届く音はない。

 再び目を開く。ちょうど視線の先にあった鍵穴が目に入り、アナトゥワは意を決してそれを覗き込んだ。

 そこは、やはり暗闇だった。月光も、星の光も、篝火もない。すべて闇の中に溶けて、何も見ない。

 アナトゥワは、足元に目をやった。聖堂の白い床が、闇の中でぼんやりと浮かんでいる。もう一度鍵穴を覗き込むと、その向こうは暗く沈んでいる。

 何も見えないのではない、アナトゥワははたと気がついた。そうではなく、何もないのだ。城の広場から聖堂に続く清らかな石畳も、その向こうにある宴のための広場も、アナトゥワの帰るべき城も、何もない。アナトゥワは閉じた扉の前、聖堂と外の境界で、身が竦むのを感じた。

 茫然と外の世界を眺めているうちに、アナトゥワはあることに気がついた。暗闇の世界の中で、大きな岩のような、あるいは茂みのような影が、ポツンと転がっている。あれはなんだろう。何かの残骸だろうか、それとも死体の山? お兄様は、戦で村人も仲間も敵も一緒になって積み重なった死体の山を何度も見たと言っていた。もちろんアナトゥワはそんなもの見たことはない。

 アナトゥワがその塊を凝視していると、それはもぞり、と、まるで一つの大きな生き物かのような動きを見せた。蹲った犬が、体勢を変えるために動くような、そんな動きだった。しかし、それは犬よりも、馬よりも、はるかに大きい。アナトゥワは思わず閉じたままの扉に縋り付いた。

 黒い塊のなかから輝く何かが現れた。宝石のような輝きは、闇の中で一際目立った。それは、大きな赤い瞳だった。

 魔物だ。

 アナトゥワは魔物を見たことがない。アナトゥワは城から出たことがないからだ。城の背面は深い谷川を挟んで森と接している。その向こうは隣国になる。国境を兼ねたその森には魔物がいると、アナトゥワの国の人々は幼い頃から教えられる。魔物の森は国を守る城壁であり、隣国への侵略を妨げる脅威である。森に入れるのは免許を持った少数の狩人と、国王から勅許を得た者だけだ。谷間を渡る跳ね橋が下されることはほとんどない。「跳ね橋の番」というとこの国では、「手間がかからないのに報酬のいい仕事」という意味になる。それが昨夜、三十年ぶりに降ろされた。魔物狩りのためだ。

 大きな赤い瞳は瞬きもせずこちらを見つめている。それは、遠目で見ると、露出した赤い鉱石と見間違えてしまうかもしれない。あの瞳でひとびとを惑わすのだろうか。

 谷川に身を投げる人が出始めたのは今年の春先のことだった。最初に身を投げたのは戦で恋人と弟を失った若い宿屋の娘で、気の毒に思えど不審に思う者はまだ誰一人いなかった。それからほどなくして、次はその娘の母親が身投げをした。みな、後追いだろうと考えた。娘がそこで命を落としてから母親はいつも谷川のあたりを亡者のように歩き回っていた。視界に入る場所にいる限りは跳ね橋番の男はその母親を気にかけていた。哀れに思ったのもあるが、あまりにその仕事が退屈だったからだ。しかし、番の男が目を離したすきに、母親は谷川の底へ落ちていった。

 次に命を落としたのは、その跳ね橋番の男だった。夕方になり、夜の番の者が跳ね橋の手前にある番人のための小屋を訪れると、そこは間抜けのからだった。誠実な男ではなく、ついに逃げ出したのだと誰もが思った。谷は深く、ほとんど垂直で、岩や木々の出張ったそれを降るのは難しい上、川の流れも強いため、落ちた人間を見つけるのは困難を極める。男の遺体が見つかったのはただのまぐれだった。下流の方まで遺体が流されてくることはそうそうない。

 男の遺体が見つかると人々はついに一連の投身自殺を訝しく思うようになり、市井ではこんな噂が流れ始めた。彼らは向こう岸の魔物に魅入られたのだ、と。魔物があちらから危害を加えているのだとしたら、早急に新しい跳ね橋の番が必要だ。だが、今では誰も名乗りを上げるものはいない。結局、国が雇っている民間の兵団の一部隊が二人一組の交代制で番を務めることとなった。しかし、それ以降も被害が絶えることはなく、貴族の娘が犠牲となると、事はすぐに大きくなった。やがて兄たちも動かざるを得なくなり、そして魔物狩りが決行されることとなった。

 

 アナトゥワは、この暗闇は一体どこまで続いているのだろうか、と思った。私たちの国を飲み込んだこの魔物の邪気は、一体どこまで? 空はどこへ行ったのだろう。見渡す限り空と大地の区別はつかない。この闇は、この国を超えて世界の果てまでも続いているのだろうか。そうだとしたら、他国へ嫁いだ姉はどうなってしまったのだろう。アナトゥワはそれが恐ろしかった。

 アナトゥワには兄と姉がひとりずついる。姉はアナトゥワより八つ上で、アナトゥワだけ母親が違う。兄と姉を産んだ最初の妃は、姉を産んだ後に死んでしまった。それから父は新しい妻を迎えたが、子ができず、やがて床に伏せてそのまま亡くなった。その後に嫁いできたのがアナトゥワの母親だ。その母親も、アナトゥワが三歳の時に馬車の事故で死んでしまった。一番上の兄にもう妻子があったので、父はそれ以上妻を娶ることはなかった。

 アナトゥワは色が白く、ほっそりとした首をしており、顔立ちは記憶の中の面影のようにぼんやりとしていた。品があり神秘的といえば聞こえはいいが、特別美しい娘ではない。実際ぼんやりとした性格で、あまり言葉を発さず、笑い声を上げることもないので、父や兄からは目をかけてもらえない。しかし、姉だけはアナトゥワを可愛がってくれた。

 アナトゥワは母親の顔を覚えていない。母親のことを考えようとすると、なぜか姉の顔が浮かぶ。姉は信心深く美しかった。いつも落ち着いた色のドレスを着ていたが、そういった地味なドレスを着ていても、彼女は華やかだった。まるで慎ましく咲く百合の花のような人だった。アナトゥワも似たようなドレスを着ているが、アナトゥワが着るとまるで修道女のようになる。上品だが威厳はない。姉はよく、聖堂に籠もってなにか熱心に祈りを捧げていた。アナトゥワはそれに付き添った。姉は人に祈る姿を見られるのを嫌い、聖堂に入る時は人払いをしたが、アナトゥワだけは別だった。

姉は随分前に嫁いでしまい、何年も顔を合わせていない。手紙が来ることもなかった。それでもアナトゥワは姉を愛している。姉の優しい腕を失ってから、アナトゥワを守るのは聖堂だけとなった。

アナトゥワは幼い頃からよくこんな夢想をした。姉と手を取り合って修道院に入り、一生を静かに共に暮らすのだ。姉は好きなだけ祈っていられるし、アナトゥワは好きなだけ祈る姉を見ていられる。俗世から切り離された箱庭の中に邪魔をするものは誰もいない。父も兄もいない。日の出とともに目覚め、降り注ぐ神の優しい眼差しのような朝陽のなかで祈る姉の横顔を見ていたい。姉の白く美しい手が土と棘に汚れるのを見ていたい。姉の美しい翡翠色の瞳が慈愛を込めてアナトゥワを見つめる瞬間瞬間を味わいたい。

でも姉は行ってしまったのだ。そして今はもう、生きているのかもわからない。

 アナトゥワがぼんやりと赤い光を眺めていると、黒い影が突然もぞもぞと動き始めた。アナトゥワは身がすくむのを感じる。思わず鍵穴から目を離し、穴を両手で塞いだ。金属の冷たさが両手に突き刺さり、手のひらの柔らかい部分を外に晒しているようでそれも恐ろしかったが、ほかにしようがない。外では魔物と思われる大きな化物が蠢いているはずなのに、音は何もしなかった。

 宴から逃げ出したアナトゥワは、魔物の姿を見ていない。書物で見たことはあるが、獰猛な獣という感じで、禍々しさのようなものは感じられなかった。しかし、外にいるのはどうだろう。その巨大さと得体の知れなさに、アナトゥワは怖気付いてしまった。姿がよく見えないからこそ、かえって恐ろしい。

 アナトゥワは聖堂の長椅子を動かして、鍵穴を隠してしまおうと思った。奥の小部屋にある本棚を持ってきてもいいかも知れない。本さえ抜き出せばアナトゥワでも動かせるだろう。そうすればバリケードにもなる。聖堂に魔物が入られるとは思わないが、用心に越したことはあるまい。

 アナトゥワはさっそく行動に移す前にいま一度、魔物の様子を見ておこうと思った。こちらに気付いているのか、もといた場所から少しでも動いているのか、確認しておいたほうが安心ができる。もし立ち去るような素振りがあれば、いつか出られるかもしれない。

 アナトゥワは鍵穴を塞いだ手をそっと退けて、再びしゃがみ込み、鍵穴を覗いた。

 アナトゥワは外にいるものをはっきりと見た。全身が凍りつき、心臓まで凍った手で鷲掴みにされたような衝撃を彼女は感じた。アナトゥワは鍵穴から目を話すことができず、震える手で扉に縋りつきながら、顔を押し付けた。

 姉がいる。嫁いでしまった姉がそこにいる。

暗闇の中にポツンと、彼女はたっていた。彼女自身が光を放っているかのように、はっきりと浮かびがっている。それは禍々しいというよりも、神々しい。夕暮れの麦の穂のような美しい髪を両肩に垂らし、彼女は微笑んでこちらを見ていた。

 気付いている。あれは完全にアナトゥワを認識している。彼女は思った。それが姉でないとすぐにわかった。それの目は柘榴のような赤い色をしていた。美しい姉の姿の中で、血のようなその瞳の色だけが異質だ。いやらしく赤くぎらつくそれは、姉の清らかさには不釣り合いだった。恐れはもはや感じず、アナトゥワは怒りに身を震わせた。

アナトゥワは立ち上がり、奥の部屋へ駆け出した。途中で柱や長椅子にぶつかり、転がり、打ちのめされても気にはならなかった。ただ、打った場所が燃えるように熱い。アナトゥワは走る火の玉だった。アナトゥワの心は憎しみに支配され、ただあの穴を塞ぐことしか考えられなかった。

書庫へたどり着くと、アナトゥワは本棚の本を両手で掻き集めては床に投げ捨てた。投げ捨てた本は四方へ飛び散り、ときおりアナトゥワのドレスに包まれた足を強打した。それらは彼女の足元になだらかだがゴツゴツと切り立った丘を作ってゆく。

空になった本棚を動かそうとすると、投げ捨てられた本たちが邪魔をして動かない。アナトゥワは獣のような怒りの唸り声をあげ、それらの本を部屋の奥へと押しのけた。木でできた本棚は重く、アナトゥワは足を踏みしめて全身で押しやった。本棚が石の床を擦って這う音が響く。走ってきたときと同じように柱や長椅子に今度は本棚をぶつけながら、アナトゥワは進む。進行が妨げられるたびに彼女は怒りの唸りをあげたが、しかしその妨害は少しずつ彼女の猛った心を沈め、やがて唸りは次第になくなり、アナトゥワは本棚を運ぶことに無心になるようになった。もう彼女の頭のなかに魔物も姉もなく、ただ機械的にあてどなく同じところを彷徨う亡霊のように、しかし全身にみなぎる力を込めて、彼女は本棚を運んだ。

 やっとのことで扉を塞いだころには、アナトゥワは汗でびっしょりだった。奇妙な清々しさと達成感を感じる。こんなに重いものをひとりで運んだのは初めてだった。彼女は手近な長椅子に座り、暗闇のなかで灰色に浮かぶ壁の聖画やアーチ状の天井の装飾を眺めた。聖画に描かれた人の表情は黒く霞んで見えない。汗がかわくと、アナトゥワは疲労からくる心地よい眠りに誘われ、長椅子に横たわって目を閉じた。


夢の中で、アナトゥワは延々と刺繍をしていた。それは、姉の婚礼衣装だった。赤い糸で赤い花を布の上に咲かせ続ける。長い布の向こう側で、兄の妻が同じように俯いて針を刺しながら、喋り続けている。声は靄がかかったように曇っていて何を言っているのかはわからない。それは実際にアナトゥワの記憶にある光景だった。婚礼衣装に花嫁の女親族が刺繍を施すのは、姉の嫁ぎ先の風習だ。アナトゥワは無心で動かしていた手をふと止める。義姉がつられて訝しげな表情で顔を上げる。彼女はすぐにまたうつむいて言った。

「私だってあなたの姉なんですからね」

 ついいましがた縫い終えた花びらの赤が、ぞっとするほどあの赤い瞳に似ている。


 目を覚ましたとき、アナトゥワはどこにいるのか理解できなかった。姉はもうすぐ嫁いでしまうのだと思い憂鬱になり、次の瞬間に姉はもう嫁いでしまったのだと思い出す。やがて徐々に世界が再構築され、自分は聖堂の長椅子に横になっているのだということを思い出した。固い板の上で寝たためか、慣れないことをしたからか、全身が痛い。

 達成感はもうない。ただひたすら疲労を感じる。扉を棚で塞いだところでなんになるのだろう。どっちにしろ、自分は死ぬほかないのだ。飢え死にするか、魔物に食われるかの違いしかない。

 扉の向こうにいる姉の姿をした魔物のことを思い出すと、またふつふつと怒りが湧いてくる。アナトゥワは目を閉じて、ほんとうの姉の姿を思い浮かべようとした。

「アニ」とアナトゥワを愛称で呼ぶときの歯を見せてぎこちなく笑うような口もと。穏やかな湖畔のような瞳が、秘密とともに瞼のヴェールの下に包まれる瞬間。侍女に黄金色の髪を結わせながら、退屈そうに頬を叩く指。それらは浮かび上がっては泡のように瞬く間に消えてしまう。アナトゥワの部屋にある、薄く唇を開いてこちらを冷ややかに眺める姉の肖像画が惜しい。あれは歳の近い若手の画家がこっそりアナトゥワのために描いてくれたものだった。その引換に、アナトゥワは彼の頬にキスをしてやった。どうしてか彼はアナトゥワのことを崇拝していたのだ。

 肖像のことを考えると、瞼の裏に浮かぶ朧気な姉の像たちがひどく心もとなく感じられた。あの肖像画さえ手元にあれば、姉の像をはっきり結ぶことができる。だが、おそらくあれはもうこの世にはないだろう。

 アナトゥワは目をゆっくりと開いた。身を起こす拍子に、長いブルネットの髪が肩を滑り落ちていく。彼女はしばらく座り込んで茫然としていたが、徐に立ち上がり、夢遊病者のように、棚で塞いだ扉の前まで歩いて行った。彼女はしばし、そこに佇み、じっと空っぽの本棚を凝視する。暗闇が支配する世界で、時の流れは停滞している。

 やがて、アナトゥワは棚の側面へ回り、扉がすっかり見えるようになるまでそれを押し進めた。

 再び姿を現した扉は、ふさがれていたことなどなかったかのように自然にそこにあった。鈍い色をした鍵にぽっかりとあいた奈落へ繋がる穴。吸い込まれそうな漆黒の穴に、彼女は操られているかのように座り込み、目を押し付けた。

 姉の姿をした魔物は変わらずそこに立っていた。微笑んで、微動だにしない。柔らかく膨らんだ白い腕は身体の横に力なくぶら下がっている。彼女は手招きもせず、アナトゥワを誘っている。私は絶対そっちへは行かない。アナトゥワは強く思った。私は絶対そっちへは行かない。あれは姉ではない。私は絶対そっちへは行かない。しかし、あれは画家の描いた絵よりも姉によく似ている。

 アナトゥワはじっとそれを見つめている。

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