青いお化け

淡青海月

青いお化け

 小さい頃は、空が落っこちてくるんじゃないかってよく泣いていました。


「それ、ほんとの意味で杞憂じゃん」

 唐突なわたしの告白に、友人ハルはからからと笑いました。笑うと笑窪が素敵なハル。わたしも笑いました。そう、もう今年で十四歳になったので杞憂の意味くらい知っていました。

「ふふ。でもこれはわたしのおばあちゃんが悪いんですよ。空には青いおばけがいて、悪いことをしたら空から襲ってくるんだって言ったから」

 ぶはっとハルは豪快に笑いました。

「随分とかわいい子供時代を送ってるじゃん。まあ子供は何でも信じるもんね。夜寝ないと狼さんが来るとか、雷が落ちたらおへそがとられるとか。でも青いお化けは初めて聞いたかも。大体そういうのって教訓めいてるはずなんだけど、青いお化けにどういう意味があるの?」

「さあ、それはおばあちゃんが教えてくれなかったから、わからずじまいです」

「それは困ったねえ」

「ええ。でも当時のわたしは空を、青いお化けを本当に怖がったみたいですよ。泣いて泣いて、本当に大変だったみたい。そのお詫びにこのワンピースをおばあちゃんがつくってくれたんです」

 くるりとハルの前で一回転。空色のワンピースがひるがえって、またすとんと大人しくなりました。いちばんのお気に入りの服です。おばあちゃんは毎年わたしの背丈にあわせて空色のワンピースをつくってくれました。

 そんなおばあちゃんの口癖は、「空の、青いお化けには気を付けて」。その頃にはまた認知症が進んでいたのでしょうか、おばあちゃんはわたしに会ったときにはいつもその言葉を繰り返しました。それから、「このワンピースを着れば、青いお化けに気付かれないで済むからね」と。たしかに空色のワンピースは、不思議なことにどんな空にも溶け込むような色をしていました。

 語尾が過去形なのは、おばあちゃんが去年の春に亡くなってしまったからです。だからもう新しいワンピースはもらえなくなりました。青いお化けの話も聞けなくなりました。でもこの空色のワンピースを着ると、おばあちゃんを思い出してすこし懐かしい気持ちになります。


「そのワンピース、ほんとうにきれいな色だね。ソラに良く似合ってるよ」

 ハルの言ったソラというのはわたしの名前です。文字通り、空が好きなこどもに成長しました。

「まあ、嬉しい。わたし、今でも空っておそろしくて大好きなんです」

 待って待って、とハルは珍しくわたしの言葉を遮りました。「空がおそろしい?」

「ええ、とても……」


 そう、わたしは空の青色がおそろしくて大好きでした。空色とひとくくりにするには勿体ない、素敵な青色。ずっと見ていると吸い込まれそう。

 ずっと昔、母に「どうして空は青いの」と訊ねたら「レイリー散乱よ」なんてまったく面白くない答えが返ってきて、口をとがらせた記憶があります。我ながら面倒な子供だったと思います。それは今もかもしれませんね。

 でもそれはどうでも良かったんです。空が青ければ、それで。ああ、もちろん茜色の空も好きです。怒っているような、でも泣いているようなしんみりとした色も好きです。でもどんな夕焼けも青い空には勝てません。だって青いお化けがいるから。だからこわくて大好き。


「空のどのへんが怖いの?」

 ハルが心底不思議そうに問い返してきました。ひとの意見を頭ごなしに否定しないところが彼女のいいとろであり、わたしの好きなところです。

「えーと……空はおおきくて、見ていると吸い込まれそうになるから、でしょうか」

 言って、後悔しました。こんな言葉じゃあ言いたいことがほんのすこしも伝わらない。わたしが空に対していだいているおおきな感情を言語化するには、とてもじゃないけれど語彙が足りませんでした。足りなかったので、ハルと空に会いにいくことにしました。

「ハル、いきましょう」

「行くってどこに」

「いちばん空がきれいに見えるところです」

「具体的には?」

「屋上です」

 あまりに唐突なわたしの言葉にハルは一瞬ぽかんとしました。ぽかんとして、すぐに首を振りました。

「だめだよ、屋上は」

 ハルはだめなことはだめだと言える、まっすぐなひとでした。わたしはハルのそういう部分が好きでした。だからわたしも首を振りました。

「いいえ、時間がないから。ほら、いきましょう」

 言葉とともに手を引くと、あっさりハルはついてきました。ハルはいつでも優しい。だからついてきてくれたんです。それは単にわたしへの同情ではなくて、これならいいかというハルのモラルの範囲内だったからでしょう。ハルはそういうひとです。きちんと自分のものさしを持っています。だからわたしは彼女をとびきりお気に入りの場所へ案内しようと思ったんです。


 ふわっ。


 屋上への扉を開けると、爽やかな風が舞い込んできました。その風がなるべく廊下に流れ込まないように、わたしたちは素早く身体をすべらせて外へ出ました。

「わあ、ものすごい快晴」

 快晴にすごいも何もないと思いますが、今日の空を一言で表すとたしかに「ものすごい快晴」でした。

 雲一つない晴天。いつもより濃い真っ青な空。どこか空が遠く感じます。そこにやわらかく吹く風。わたしの空色のワンピースがはためきまきます。洗濯のしすぎで少し色褪せてきたワンピースは、今日は空に染まりませんでした。それくらい深い青色が視界いっぱいに広がっていました。


 死ぬなら、こんな雲一つない青空の日がいい。

 そう思うくらい、この空はほんとうにきれいでした。


 じっと空を見上げていると、本当に吸い込まれそうな心地さえします。青いお化けがこぼれ落ちてきそうな空。こんなに果てしない空にいる青いお化けは、いったいどれほど大きいのでしょう。そんなに大きなお化けなら、逃げられないんじゃないかと思いました。

 だからおばあちゃんは闘う術ではなく、隠れる術をわたしに教えてくれたのかもしれません。「青いお化けと同じ色のワンピースを着て隠れれば大丈夫」、「空が見たかったら、代わりにこのワンピースを着たらいいよ」なんておばあちゃんは何度も言っていました。それから逃げるが勝ち、とおばあちゃんは良く言っていました。生きていれば何とかなるからね、と。

 ああ、おばあちゃんにもういちど逢いたい。空が怖いと泣いた夜に撫でてくれたあたたかい手を、まだ鮮明に憶えています。


「……ソラ、いかないでよ」

 ハルがそっとわたしの手を取ったので、わたしは微笑んで返しました。

「ええ、どこにもいきませんよ」

 この穏やかな時間が何よりも好きでした。時がこのまま止まってしまえばいいと思うくらいには。

 そうしてふたりでじっと空を眺めていました。



 くしゅんと隣でハルがくしゃみを零したのでわたしはようやく我に返りました。そろそろ街が赤やら黄に色づくような季節でした。この屋上から見るその景色はえも言われぬほどきれいでしょう。けれどあいにくここはそう簡単に来れる場所ではないので、わたしはすこし残念に思いました。

「すみません、長居しすぎましたね」

「いーの、いーの。わたしも空、好きだから」

 気が付くと、真上にあったはずの太陽はもう視線の高さまで降りてきていて、青いお化けは赤いお化けになっていました。空色のワンピースは魔法のワンピースではないので、もう空には染まってくれませんでした。

「……青いお化けは見れた?」

 遠慮がちにおずおずと訊ねるハルは、やっぱり優しいと思いました。

「いいえ。でも、ハルなら見つけられるかもしれませんね」

「どうして」

「ハルは目がいいから」

 言うと、ぶはっとハルは笑いました。

「じゃあ視力を落とさないように気をつけなくっちゃね」

 ふたりで顔を見合わせて、くすくすと笑いました。しずくが垂れて、雨が降ってきたなと思いました。

 そろそろ帰りましょうか、と言おうとしたら、わたしより先にハルが口を開きました。

「じゃあさ、今度は海を見に行こうよ。海と空の境界線。ぜったいきれいだって」

 海。まだ見たことがありません。空と同じように、真っ青だって聞いたけれど。

「まあ、素敵。海にも青いお化けっているんでしょうか」

「いや知らないけど、まあいるんじゃない? 青いお化けも空ばっかりだと退屈だろうし」

「ふふ、ずいぶんと茶目っ気のあるお化けですね」

 くすくすとまたふたりで笑いました。視界の端ではためく空色のワンピース。空にでもなれそうな色をしていて、わたしはなんだかうれしい気持ちになりました。


 でもぽつりぽつりと雨はどんどんしずくを垂らしていきます。あんなに晴れていたのに、やっぱり空は不思議でした。そこがおそろしくて大好きなところでもあるのだけれど。

「風邪を引かないうちに帰りましょうか」

「そうだね」

 名残惜しそうにハルは立ち上がりました。そしてわたしに手を差し出しました。

「ほら、つかまって」

 ハルのこういうところが好きでした。かくれんぼをした時には、ぜったいにハルは見つけてくれました。どんな隠れ場を見つけても、ハルはいつもわたしに手を差し伸べてくれました。

「ええ」

 ハルのあたたかい手を掴み、半ば抱えられるようにして立ち上がりました。体温がここちよくて、名残惜しいなと思ってしまいました。


 ♢


 あれからずいぶんと長い時間が流れました。ハルはもう大人になり、わたしたちは会うことがなくなりました。人生とはそういうものです。たまたま道が交わった人と出会っては別れてゆく。だから哀しいことはひとつもないはずなんです。

 でもあの日、ハルと屋上で過ごした時間はどうしても忘れることができませんでした。

忘れることができなかったので、気が向いた時はあの屋上へと足を運んでいました。我ながらすこし未練がましいかもしれませんね。


 そんなある日、あの屋上に青いお化けが出るとの噂を耳にしました。『悪いことをすれば青いお化けぎ空から襲ってくる』。もしかすると、なにか悪いことをした人がいたのかもしれません。屋上に入ることがそもそも悪いことなので、だから青いお化けは現れたのでしょうか。あの日わたしたちは会えなかったというのに。

 別に会いたいわけではなかったけれど、怖いもの見たさってあるでしょう?


その日も暇だったので、あの屋上に行きました。青いお化けがいないかと期待して。


 いつもどおり音もなく屋上に出ると、珍しく先客がいました。

 もちろん青いお化けではなく、ちゃんと人間です。母親と思しき大人の女性と、小さな男の子。ベンチも何もない殺風景な屋上で、一体何をしているんでしょう。女性はこちらから背を向けて、地べたに座ってまだ小さい男の子を抱いていました。不思議に思って近づきます。


 ふわっ。


 あの日と同じ風が吹いて、たまらなく懐かしい気持ちになりました。そう、今日はあの日と同じ「ものすごい快晴」でした。あの日と同じ空色のワンピースを着ていてよかったなと思います。はためいて、はためいて、ワンピースも嬉しそうです。

 二人の時間を邪魔しては悪いと思いましたが、好奇心には抗えませんでした。なので足音を消して近づくと、だんだんと声が聞こえてきます。

「――ママ、ここどこ」

男の子の舌足らずな声。かわいらしいと思わず口角が緩んでしまいます。いけない、これでは完全に不審者ですね。

 なんて思っていると、女性が静かに言葉をこぼしました。

「ここはね、いちばん空がきれいに見えるところだよ」

 その声。どこかざっくばらんにも聞こえる、けれど世界でいちばんやさしい声。たくさんの記憶が脳裏を駆け巡り、わたしは歓喜に震えました。

 屋上、空色のワンピース、かくれんぼ、ぬくもり。

 たとえもうハルが憶えていなくても、その思い出はわたしの大切な宝物です。


「ねえ、ママ、あのあおいひとだれ?」


 わたしは息を呑みました。子供がハルの肩越しにはっきりとわたしを見ていたからです。ハルそっくりの黒い双眸はわたしを間違いなく捉えていました。予期せぬ展開にどうしよう、とわたしは立ち尽くすことしかできません。そんなこと、ありえないはずなのに。


 子供の声を受けて、ゆっくりとハルが振り返りました。風が吹いて、止む頃に目がぱちりと合いました。ああ、その瞳。

 昔と変わらぬハルの双眸がわたしを優しくつつみこみます。顔は年月とともに変わっても、ハルの真っすぐな瞳は変わりませんでした。それがわたしは何よりも嬉しかったのです。ああ、ハルに言いたかった言葉をいくつも考えていたのに、ひとつも出てきません。


 ゆるりとハルは微笑みました。あの、かくれんぼでわたしを見つけた時と同じ笑みで。その口がゆっくりと言葉を紡ぎました。

「海、見れた?」

 そう言って泣き笑いのような表情をわたしに向けました。あの日、屋上で笑い合った時と同じ笑みです。

 一瞬、時が止まったような錯覚に襲われました。あの日も時が止まればいいと思ったけれど、それは今も同じでした。

 けれど時は止まらないし、現にあの日からずいぶんと月日が流れました。止まらないから、止まればいいと願ってしまうんです。時は待ってはくれない。待ってくれないからこの一瞬がいとおしい。


 だからわたしも何かを言おうとしました。逢えなくなってから、ハルと話したいことがたくさんできたんです。でも今がその時だというのに、肝心の言葉がでてきませんでした。にこにこと微笑むのでせいいっぱい。


 ああ、過去には戻れないんだなと、わたしは思いました。同時にあの日の雨が蘇りました。だって、あの時と同じようにまた視界が歪んでしまったのだから。もったいない。また雨が降るなんて、わたしは雨女なのかも。真っ青な快晴が好きなのに。でも歪んだ視界で空は真っ青でした。あの日と同じで。


 でも、ハルが幸せそうでよかった。それでわたしは満足でした。


「――ママ?」

 子供の声に、時間がまたゆるやかに流れ出しました。ハルの視線はもう男の子に戻っていました。

「どうしたの、セイ。何か見えた?」

 あのね、と男の子はたどたどしく喋りだしました。 

「あおいろが、いたの」

「どんな青色?」

「きれいないろ。おそらみたいな」

「そっか。怖かった?」

 ハルは男の子の頭を撫でながら言いました。

「ううん、こわくないよ」

「そう。セイは強いね」

「ママはあのあおいろ、しってるの?」 

「……うん、知ってるよ」

 ふわりと風が親子を撫でました。なによりもきれいで、やさしいかたちをしていて、わたしはとても幸せな気持ちになりました。もう思い残すことはないくらいに。

「……あのあおいろはね、青いお化けだよ」

「おばけ?」

 ハルはゆるりと微笑みました。慈愛に満ちた、母親の笑みです。

「そう。なによりもきれいで、やさしいお化け」

 その笑みがわたしにも向いているような気がして、どうしようもなく泣きそうになりました。かなしいのではなく、でもうれしいのでもなく、よくわからない感情が込み上げて。

 ふと、わたしは幸せだったんだなあと思いました。


「あれ、いなくなっちゃった」

 わたしがいたところを子供が指さしました。突然消えてみせたというのにハルはまったく焦りませんでした。なので、わたしは不思議と嬉しくなってしまいました。ふつう逆でしょうけれど。

「大丈夫よ、青いお化けは悪いことをしたら空から襲ってくるんだから」

 ぎゅうとハルは男の子を抱きかかえて、そのままごろんと屋上に寝そべりました。ああ、そんなことをしたらせっかくのきれいな青色の服が汚れてしまいます。それからあの頃よりずいぶんと短くなった、でもあの頃と変わらぬきれいな黒髪も。

「あー、今日は胡坐かきながら肘ついてご飯食べようっと。セイは真似しちゃだめだよ」


 思わず、空から落っこちたいなと願ってしまいました。

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