秋に鳴らす鍵盤

フィステリアタナカ

秋に鳴らす鍵盤

 鈴虫の鳴く音が聞こえる夜。僕はイヤホンを耳につける。聞こえてくる彼女が弾く旋律。涙が自然と目尻から溢れた。


 幼馴染である月子はいつもピアノを練習していた。僕はそんな彼女を見て「何故そこまで練習できるんだろ。すごいな」と、小学生の頃からそんな思いを抱いていた。


「月子、お前今日ピアノの日だろ。委員会の仕事は僕がやるから先帰っていいよ」

「ごめん。拓斗、ありがとう」

「おう」


 四月。僕と月子は同じ高校に入学した。一年生から同じクラスになり「ラッキーだな」彼女の近くでその姿を見ることができる。それが嬉しかった。


 ピアノの発表会はいつも観に行った。彼女の手から生み出される旋律がとても綺麗で僕は好きだ。中でもドビュッシーの「月の光」が彼女を体現している曲に思えて、その曲を聴くと小学生の頃を自然と思い出す。このまま彼女の奏でるピアノの音がずっと聞けるものだと、そう信じて疑わなかった。


 高校一年生の九月。クラスで彼女はどこか寂し気な顔をしていた。よく見ると彼女の周りに女子がいない。「ああ、一人なのか」僕は気づき思わず声をかけた。


「月子どうした? 浮かない顔して。何かあったの?」


 彼女は僕の目を見た後、また視線を机の天板に移す。


「あたし。ピアノ辞める」


 言葉が出なかった。あんなに練習していたのに、まさか辞めるなんて思いもよらなかったからだ。


「そうなのか」

「うん」


 できれば辞めてほしくない。次の発表会も楽しみにしていたから、彼女が奏でる旋律を聞けなくなると思ったら、とても寂しかった。あんなに頑張っていたのに。


「拓斗。今日の委員会、あたしがやるから先帰っていいよ」

「ん? 何で? 僕、今日大丈夫だよ」


 あっ。もしかして月子は一人でいたいのか。でも僕はそんな彼女が心配だった。


「二人でやろうよ」


 無言の時間。何も言わずにただ傍にいるだけ。僕が黙っていれば、彼女は何か言ってくれる。そんなことを期待した。


「拓斗、帰ろ」


 委員会の仕事が終わり、月子から出てきた言葉はそれだった。もし僕が彼女の彼氏だったら、彼女の気持ちを聞けたのかもしれない。

 中学の時は男子は男子、女子は女子と、僕と月子の間には距離ができていた。後ろの席から彼女の姿を眺める。クラスの中では彼女と必要最小限の会話しかしなかった。彼女とまた話すようになったのは受験のとき。僕は苦手な国語を彼女に教えてもらい、代わりに彼女が苦手としている数学を僕は教えた。心の中でどこかソワソワした気持ちがあって、彼女と過ごす時間がとても嬉しかった。ああ、ずっと好きだったんだ。


 彼氏になりたい。でもフラれたらどうしよう。関係がこじれずに幼馴染のままでいることが、僕にとって大切なことだった。


「もう弾かないの?」

「うん。もういい」


 月子が辞めると言った二週間後。たまたま下校時に一緒になり、そんなことを聞いた。


「拓斗は聴きたいの?」

「うん。もちろん」


 彼女の問いかけに僕はそう答えた。しばらく沈黙が続く。


「あのね」

「うん」

「女子ってグループがあるでしょ? ピアノで時間を取られたから、みんなと居れず仲間から外されたんだ」

「はあ? 何それ?」


 彼女は地面を見つめている。


「そんなの本当の友達じゃないよ。何でピアノ辞めるの? あんなに練習していたじゃん」


 彼女は顔を上げ、僕を睨む。


「馬鹿!」


 そう言って月子は走り、先へ行ってしまった。「しまった」僕は自分が月子のピアノが聴きたいからと、彼女の気持ちも考えず無理矢理自分の気持ちを押し付けてしまった。

 時を巻き戻したい。彼女にそう言ったこともそうだが、もし過去に戻れば一人にならない方法もあったかもしれない。


 翌日からクラスで注意深く彼女の様子を見る。周りに女子はいない。ピアノを辞めても彼女は一人きりだ。暗い表情のままの彼女を僕は何とかしたかった。


「ごめんください。月子います?」

「あら、久しぶり拓斗君。今、呼んでくるから上がってちょうだい」

「いえ、玄関で待ちます」


 月子が玄関に現れる。


「何?」

「気分転換に買い物行かない? 洋服を見てほしいんだ」

「そうなんだ。好きな人でもできたの?」


 どうしよう。僕は首を傾げ誤魔化した。


「うーん。どうだろ」


 そう言うと彼女は少し微笑んで、


「いいよ」

「ホント?」

「あたしも化粧品見たかったし、いつにする?」

「土曜か日曜がいいんだけど」

「じゃあ土曜で」

「わかった」


 無事に彼女を誘えた。「少しでも元気になってくれればな」と思うのと同時に「これデートじゃん。どうしよう。何をしたらいいんだ」帰ってからすぐにスマホでデートのことを調べた。


「おはようございます、拓斗です。月子いますか?」


 「洋服を褒める、洋服を褒める」月子が出てきたらすぐに褒めようと、僕は緊張で固くなっていた。


「拓斗お待たせ」

「洋服すごくいいよ」


 月子は笑った。


「そんなすぐ褒める? あたしの恰好ちゃんと見た?」

「見たよ。いつものイメージと違って綺麗だよ」

「何それ? いつもあたしは綺麗じゃないって言いたいの?」

「それは――」

「ふふふ、大丈夫。ちょっと意地悪しちゃった」


 ショッピングモールへ行く。月子はリラックスした様子で「あの俳優好きなんだ」「あのチャンネル面白いよね」など、最近家であったことを話してくれた。


「どこから行く?」

「うーん。拓斗の洋服を買うのは最後かな?」

「じゃあ、先に洋服見よう。それでいいのがあったら最後に買う」

「うん、わかった」


 ショッピングモールの地図を二人で見る。店に行く順番を相談し、始めに僕の洋服を見て回った。


「ちょっと来て。これ拓斗に似合いそう」


 買う洋服の候補を決め、次の店へ。


「拓斗、あたしも見ていい?」

「うん、いいよ」


 二人でショッピングモールを歩く。お昼はフードコートへ行き、はじめに席を確保。


「今日は僕が奢るから好きな物選んでいいよ」

「ホント? でも何か裏がありそう」

「僕の買い物に付き合ってもらっているから、そのくらいさせてよ」


 僕は月子といる時間が好きだ。でもそれは彼女の時間を奪っていることでもある。もし仮に、月子がまたピアノを弾いてくれるなら、僕は月子といることができなくても我慢ができる。


「ごちそうさまでした」


 食事が終わり、どんな店があるかショッピングモールをふらつく。吹き抜けの場所にはグランドピアノが見えた。これからピアノ演奏が始まるみたいだ。


「月子」

「ん?」

「一階にピアノがあるんだ。プロの演奏かもしれないから聴きにいっていい?」

「ホント、拓斗はピアノ好きだよね。いいよ」


 正直断られると思っていた。今、ピアノの存在は月子にとって大きな重しになっているかもしれないから。


「始まるね」


 一階へ行き、しばらく待つとピアノの演奏が始まった。最近の曲や映画音楽。ピアノの発表会で聴く演奏よりもプロの演奏は何より凄かった。


「月子、この曲は?」

「シチリアーノ」


 演奏が進み、人が集まってくる。何曲目だろう、僕が良く知っている曲が奏でられた。


「月の光」


 透明な湖。空にある雲は流れ、満月が優しく微笑みかける。僕は目を閉じ、ピアノの音に集中した。


「いい」


 そう呟き月子を見ると、彼女の頬には涙が。


「月子」


 彼女は俯く。


「ティッシュあるよ。はい」


 彼女にティッシュを渡す。彼女はそれを受け取り涙を拭った。


「月の光、聴けてよかった」


 ああ、月子の心の琴線に触れたんだ。今までピアノに打ち込んだ時間。辛いことも悲しいことも、そして嬉しいことも。いろいろな感情が交錯し、思いが溢れているのだろう。


「プロはすごいね」

「うん、聴けて良かった。ありがとう拓斗」


 この後は僕の洋服を買って、帰ることに。月子は元気を取り戻したように、僕には見える。月子を誘ってよかった。


「いい買い物ができたよ。月子ありがとう」

「ううん。こっちも欲しかったやつ買えたから、大丈夫」

「じゃあ、またね」

「うん。バイバイ拓斗」


 翌日の日曜日の夜。自室で勉強をしていると親に呼ばれる。


「拓斗。月子ちゃん来てるわよ」


 何だろう。買い物のお礼じゃないよな。お礼を言うなら僕の方だし。


「わかった」


 玄関に着くと、月子は僕の顔を見て言う。


「拓斗、これあたしが演奏したの。プロじゃないけど聴いてくれる? 感想が欲しいの」


 どうやら月子はピアノの音源を持って来たようだ。


「そんな。スマホで送ってくれればいいのに」

「音が圧縮されてピアノの奥深い音が消えちゃうでしょ。だからハイ」


 正直、月子が言う音の違いはわからない。けれど彼女が曲を手渡ししてくれたことが嬉しかった。


「じゃあね。感想は四百字でよろしく」

「そんなに書けないよ」


 月子が帰り、部屋に戻る。音源を取り出し、曲を聴く準備をした。


 鈴虫の鳴く音が聞こえる夜。僕はイヤホンを耳につける。聞こえてくる彼女が弾くピアノの旋律。僕は「ああ、僕の為に弾いてくれたのか」自然と涙が溢れた。


 今度の月子のピアノの発表会には花を買っていこう。大切な人へのささやかな思い。演奏が終わり、月子に花を渡したら、僕は彼女に告白をする。彼女の奏でる旋律を聴きながら、僕はそう決めた。

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