秋に鳴らす鍵盤

新巻へもん

1916年秋 フランス北部

 ドドン、ドドンと味方の砲兵が砲撃を開始する。

 塹壕に蹲っているマークは大気を震わせる音にさらに身を小さくした。

 すぐ近くの地上に敵の反撃の砲弾が落下し炸裂する。

 耳をつんざく轟音、大地を揺らす震動と共にざあっと土くれが塹壕に流れ込んできた。

 水分を含んだ土砂がカーキ色の軍服をまだらに彩る。

「くそったれ」

 マークは文句を心の中で叫んだ。

 実際に叫ぶと口の中まで土が入ってくるのでこうするほかない。

 双方の砲撃は1時間ほど続いた。

 よほど運が悪くなければ砲撃が命中して死ぬことはない。

 そのための塹壕である。

 塹壕は数メートルの深さがあり、水はけか悪くいつもぬかるんでいて衛生的には最悪だった。

 火薬とマスタードのような刺激臭、血と膿と死の臭いも満ちている。

 それでもマークたちの命を、来たるべき死まで長らえる役割を果たしていた。

 砲撃がやんでも頭の中では先ほどまでの残響が続いている。

 そこに歓迎せざるホイッスルの音が高く鳴り響いた。

 兵士たちが死神の呼び子と名付けた音に従って兵士たちは起き上がると梯子に向かう。

 同じ姿勢をとり続けて強ばった手足を動かして数メートルをよじ登った。

 目の前の光景は記憶にあるものから一変し、ほんの1時間前にはなかった穴がいくつも開いている。

 まるで巨人がめちゃくちゃに耕したようになっていた。

 この戦いが始まる前は緑豊かな平原だったことを思い出すよすがはまるでない。

 ほじくり返された地面と鉄条網、トーチカだけが存在していた。

 小銃を抱え直し30キロもある背嚢を背負ってマークたちイギリス海外遠征軍は倒すべき敵に向かって突撃を開始する。

 彼我の距離は200メートルであった。

 平坦な道であれば1分もかからずに走ることができる距離である。

 しかし、この場所においてはワイヤーカッターで鉄条網を切断し、わきによけて進路を確保しなければ前に進むこともままならなかった。

 砲撃の効果があったのか敵陣は沈黙をしている。

 この間に敵陣に突っ込んで制圧しなければならない。

 でこぼこした地面を兵士たちはよたよたと走る。

 ドン。

 マークから少し離れたところを走っていた兵士が吹き飛んだ。

 これだけの砲撃を生き延びた地雷を踏んでしまったようである。

 周囲の兵士たちは降り注いだ赤いものを気にせずにひたすら前進をした。

 あと少し。

 相手側の鉄条網の手前は少し窪みがある。

 あそこまでたどり着けば……。

 タン、タタタタ。

 複数のシュパンダウ機関銃が火を噴き、カーキ色の軍服をなぎ倒し始めた。

 分速500発もの速度で吐き出される弾丸から身を守ろうとマークたちは地面に臥せる。

 少しでも遮蔽しようと砲撃で開いた穴に体を押し付けた。

 僅かな時間で大隊が半壊している。

 辛うじて即死を免れた兵士たちも身動きが取れなくなった。

「肉屋の野郎め!」

 マークは自分たちの指揮官への悪態を叫ぶ。

 第1次、第2次の攻撃と同様の惨状が繰り広げられては文句を言わずにはいられない。

 あまりに戦場に死体が転がることから指揮官のヘイグ将軍につけられた不名誉なあだ名だった。

 ガソリンエンジンの音がして振り返ったマークの目に大きな鉄の箱が目に入る。

 人類が初めて戦場に投入したマーク1戦車だった。

 ひし形の不格好でのろくさとしたものは両側のベルトを動かして進む。

 そんな鉄の塊は砲弾の作った穴に落ちたり、金属製のベルトが破損したりして次々と行動を停止した。

 それでも5両のマーク1戦車は鉄条網を乗り越えて前進する。

 ドイツ軍のシュパンダウ機関銃の銃撃が戦車に集中するがカンカンカンと耳障りな音を立ててはじき返した。

 お返しとばかりに側面のから突き出した6ポンド砲が火を噴く。

 幅が10キロにも及ぶ広い戦場でたった5両の戦車は数が少なすぎて効果は限定的だった。

 それでも、今までは相手を一掃していた機関銃が効かないということで、その矢面に立たされたドイツ軍にパニックが起こる。

 再びホイッスルが吹き鳴らされて、マークたちは突撃を再開した。

 ドイツ軍の塹壕から兵士が後退する。

 射撃しつつ前進し、その日はドイツ軍の防衛線を突破することに成功した。

 しかし、すぐにドイツ軍も少し後退した場所に陣地を構築し、再び睨み合いが始まる。

 そして秋の長雨が降り始めて、両方の陣地を泥沼に変えた。

 気の滅入る対陣に飽き飽きとしているマークのもとに戦友が面白いものが見つかったとやってくる。

「敵さんの置き土産の中から見つかったんだとよ。マーク、お前さんこれ弾けるんだろ」

 ダイアトニック式のアコーディオンを差し出した。

 わらわらと同じ壕の兵士がやってくる。

 明日をも知れぬ命で娯楽に飢えていた。

 マークは苦笑をする。

「期待しているような景気のいい曲はできないぜ」

「何でもいいから」

 マークは蛇腹を動かして調子を確かめるとボタンを押して静かに曲を奏で始める。

 しとしとと雨の降る中に哀愁を帯びた旋律が流れた。

 自然と合唱が巻き起こる。

「オー、ダニーボーイ、……」

 それは既に鬼籍に入った友やこれから亡くなる誰かへの鎮魂の祈りだった。

 アコーディオンの音色に乗って歌声は塹壕を越えて静かに響く。

 両軍合わせて100万人を超える死傷者を出したソンムの戦いが一応の終結を迎えるまで、まだ1月以上を残していた。

 

 

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