第7話
又庭は悩んでいた。自分の保護者であるところの篠木目が、寝覚めが悪い。
元来低血圧な篠木目は、秋に差し掛かると寝覚めが悪くなる。瘦せ型の体は、冬に向って一気に寝覚め力がダウンして行くのである。
ホカホカのパンで釣っても、温かい味噌汁を用意しても、篠木目はなかなか目覚めない。まるで眠り姫のような篠木目に、「キスでもしたら起きますかー?」とふざけて聞いたら、「いいよ」とか言っている。完全に寝ぼけている。重症だぞこれは、と、又庭は思う。
悩んだ挙句、又庭は、敢えて冷たいものを用意した。
バニラ・アイスクリーム。
二世紀ぐらい前まで、一部の特権階級しか食べることを許されていなかったそれは、今やコンビニなどでも手軽に買えるのである。
そこへ、蜂蜜を掛ける。一度毒見のため試食してみたが、これは美味しい。元来、アイスクリームの起源は、モンゴル大帝国を築いたチンギス・ハーンの子孫が、氷を削った物に蜂蜜を掛けたものであるとかないとか聞いて、又庭は激しく頷いた。これは約束された勝利なのだ。美味しくないはずがない。しかも、舌触りがいい。蜂蜜の滑らかさと、バニラ・アイスの口の中でとろける感覚は、もはや、官能的ですらあった
あまり大量に食べさせると篠木目のことだからカロリーがどうとか、ぶうたれそうなので、カップの四分の一ほどのものを枕元に持って行って食べさせる。ついでに、温かいコーヒーも飲ませる。豆から挽いたやつである。
効果は抜群だった。
元々頭を使いすぎるぐらい使う性質(たち)である篠木目と、糖分の塊である蜂蜜との相性は良く、篠木目はぱっちりと覚ました。眠り姫のお目覚めである。コーヒーの覚醒効果で、実にぱっちりと、篠木目は目を覚ました。アイスで冷えた体が、コーヒーによって温まる。いくら低血圧の篠木目といえども、糖分と温度のタッグの前では、簡単に目覚めてしまう。官能的なバニラアイスとコーヒーとの組み合わせも、良い。元来、コーヒーとはコーヒーハウスで密かに楽しむ、麻薬に近いものとの認識だったらしい。この二つの組み合わせは、限りなく贅沢だ。かくして又庭の努力によって、篠木目の悩みは改善され、篠木目は毎朝、王侯貴族のようにリラックスした状態で、目覚めることが出来るようになった。
それを見て又庭は、自分の幼少期を思い出している。
又庭は、愛されない子供だった。ひどく愛情に飢えていたせいか、甘いものばかりが好きで、苦いものがだめだった。気持ちが、身体に影響を及ぼすほどに、それほどまでに愛情に飢えていた。
篠木目は、そんな又庭が親戚中たらい回しにされた末流れ着いた、遠い親戚で、彼を丁寧に扱ってくれた唯一の人間だった。篠木目は、人参やピーマンを食べられない又庭を叱らなかった。代わりに、人参を甘く煮たり、ピーマンを細かく刻んでハンバーグに入れたりした。暫くして又庭が落ち着くと、美味しい料理の作り方を教えてくれた。
又庭は、できるだけその恩を返したいと思っている。そうして、篠木目が自分にしてくれたように、将来は、恵まれない子供たちを料理を通して支える仕事に就きたいと思っている。
だから、篠木目の生活が自分のアイデアで改善されると嬉しいのだった。たまに食べさせ過ぎてしまうが、基本的には今の篠木目でいてくれることに喜びを感じていた。
ただ一つ、困ったことがあった。
「知ってるか、チンギス・ハーンはシルクロードを全制覇したんだ。陸路の全制覇だな。それによって、ユーラシア大陸は繋がった。」
「はあ…」又庭は世界史に興味が無いので、何が何だかさっぱりである。
「…ヨーロッパがインドをはじめとする東洋に憧れを持ったのはここからだから、事実上、大航海時代を作ったのは偉大なるモンゴル帝国だったわけだ!」
篠木目は元気になると、自分の本職である「講義」を始めてしまうのだった。
黒板もテキストもなしに繰り広げられる壮大でハイテンションな「世界史」に、又庭は朝っぱらから付き合わされた。
そうして思う。もしかして、自分が起こしてしまったのは眠り姫ではなく眠れる獅子だったのであって、これは、目を覚ますべきではなかったのではないかと。
台所歳時記 裏 鬼十郎 @uotokaitesakana
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