第18話 またしても文化祭二日目一
またしても文化祭二日目
(文化祭二日目。カウンターの一つを一人で担当する七海)
(孤独な老人が七海のカウンターにやってくる)
七海(渋めなマスター風に)
いらっしゃいませ。お飲み物は何にしますか?
孤独な老人
豆乳、ロックで頼む。
七海
かしこまりました。
(小さめの紙コップで豆乳を出す)
孤独な老人(きついお酒を飲むように豆乳を飲む)
深みがある。年代物じゃな?
七海(紙コップを拭きながら)
いいえ。今朝近くのスーパーで買ってきたやつです。
孤独な老人
なら、おぬしの注ぎ方が上手かったんじゃろう。
七海
ありがたいお言葉です。
孤独な老人
いつからここで働いておる?
七海
昨日からです。
孤独な老人
いつまで働くつもりじゃ?
七海
あと二、三時間後までです。
孤独な老人
そうか。それがよかろう。今の時代、一つ所に身を置いていても、何も良いことはない。
七海
昔はそうではなかったのですか?
孤独な老人
そうじゃ。昔はな、主人が居場所を守り、従者がその恩に尽くし、生涯その身を捧げるという関係が普通じゃった。それが今の時代は何じゃ。主人は従者を使い捨てにするわ、従者は主人を利用することしか考えておらん。
七海
どうしてそうなったのでしょうか。
孤独な老人
情報化が進んだことによって世界の時間の流れが加速したからじゃ。そして、昔の生活形態のまま経済だけがその時間の流れに追いつこうとした。
要するに、基礎体力を上げないまま走る速度だけを上げ続けた結果、息切れしてしまったというわけじゃな。
七海
なるほど。では、この世界はどうすれば再び息を吹き返すことができるのでしょうか。
孤独な老人
捨てたつもりになっている荷物を、もう一度取り戻すことじゃな。
七海(まだ拭き続ける)
と、いいますと?
孤独な老人
今の社会は、色々なものを見て見ぬ振りしてやり過ごしてきた。その中に、大事なものが沢山あったんじゃよ。
七海
大事なものですか?
孤独な老人
人間には到底理解し得ないものじゃな。「心」や魂、精神、真理、神、法。様々な名で呼ばれておる、目に見えぬ存在。
七海(紙コップがへこみ始める)
目に見えない存在……。
孤独な老人
今の人間にはもっと敬虔さが必要だということじゃ。
もう一杯もらえるか?
七海
かしこまりました。
(孤独な老人のコップに豆乳を注ぐ)
孤独な老人(半分ぐらい飲んでから)
今度はワシの悩みを聞いてくれるか?
七海
私のお力になれることであれば。
孤独な老人
助かるよ。
ワシはこの人生の大半を、目に見えるものだけに使ってきた。そこに自分が生きた不滅の痕跡を残せると思っていた。じゃが、目に見えるものの世界には変わらぬものなどなかった。
ワシはもはや、竜宮城から帰ってきた浦島太郎のような状態なんじゃ。ワシの知っているものは、記憶の中だけにしかいない。ワシのことを知っているものも。
七海(紙コップを復元し始める)
そうでしたか。
孤独な老人
ワシはこの一人だけの世界で、どうやって生きていけばいい。
七海(紙コップを置いて両手を机に置いて)
私は、私の知っているものも、私のことを知っているものも、この世界にあります。ですが、それでも孤独を感じずにはいられません。
おそらくですが、この世界は、孤独なものだけでできているのでしょう。
(三秒空けて)あなたはさっき、目に見えない存在について話されました。
目に見えない存在は、その存在を変えることはない。
孤独な老人
ほほう。確かにそうじゃ。
七海
過去、目に見えない存在の正しさ、美しさを証明するために生きた人間たちが大勢いました。その多くは名を残していません。また偉大な詩人たちでさえ今の若者のほとんどがその名を知らない始末です。
ですが、その目に見えない存在の正しさや美しさの証明のために生きようとするこの私は彼らのことを知っている。偉大な詩人たちの名を、この欲望の灰が降り積もった世界の中で掘り起こし、見つけた。名もなき英雄たちのことは、たとえその名を知らずとも、その「心」は、この胸の中に全て抱きかかえている。
それは、目に見えない存在が変わることのない存在だからであり、それゆえ、そのための行為の動機となる「心」も、変わることがないからです。
私のような人間は、現在にもまだいるでしょうし、これからたくさん生まれることでしょう。
私はその彼らの「心」も抱きかかえている。そして、彼らも私の「心」を抱きかかえている。時間や変化なんて関係ありません。過去に生きたものたちも、私の、まだ見ぬ彼らの「心」を抱きかかえていた。
だから、あなたはそのまま、「心」を大切にして生きればいいのではないでしょうか。「心」は場所も時間も超えて繋がっています。だから一人じゃありません。
孤独な老人
ほう……。
そうか……。
(残りの豆乳を少しだけ大袈裟な素振りで飲む)
感謝するぞ、若人よ。
(立ち上がる)
おぬしの言う通りじゃ。ワシも、まだまだ諦めずに生きるとしよう。
(教室を出ようとする)
七海(孤独な老人の方を向いて)
またいらっしゃってください。
孤独な老人(微笑みながら)
もうすぐ辞めるんじゃろ?
(孤独な老人が教室を出ていく)
(疲れた中年男性が七海のカウンターにやってくる)
七海
いらっしゃいませ。お飲み物は何になさいますか?
疲れた中年男性(ゆっくり椅子に座る)
そうだな~、じゃあ、メロンソーダにしようかな~。
七海
かしこまりました。
(疲れた中年男性の前にジュースを置く)
疲れた中年男性(ジュースを少し飲む)
ありがと~。
七海(しわのある紙コップを拭きながら)
随分お疲れのようで。
疲れた中年男性
そうだね~。僕は疲れたんだね~。
七海
可能なら、お伺いしても?
疲れた中年男性
いいよ~。具体的な内容は話せないけどね~。
七海
ぜひお願いします。
疲れた中年男性
端的に言えば、何かの振りをすることに疲れたんだと思うよ~。上司のことを尊敬している部下の振り、同期と仲良い振り、部下に慕われる上司の振り、頼りになる父親の振り、魅力的な旦那の振り、健康的な息子の振り、楽しい振り、嬉しい振り。結局全部中途半端だったんだけどね。
七海
それは大変だったでしょう。
疲れた中年男性
そうだね~。自分に嘘をつくのはエネルギーのいることだから~。でもその場限りだけど気持ちが楽になるのも事実なんだ~。何かしないといけない自分にとって大事なことを、先送りにしているだけなんだろうけどね~。
七海
つまり、楽になりながら楽をしている、と。
疲れた中年男性
そうそうそんな感じ~。マスターもない? そういうこと。
七海
私ですか。私の場合、楽をしても楽にならなかったです。この社会の一員として生きるには、何者かでいなければいけません。なので、何者でもないのに何かの振りだけはし続けなければいけませんでした。
疲れた中年男性
そうだったんだ~。でも、全部過去形で話してるってことは、今はそうじゃないってこと?
七海
ええ。何者かの振りをし続けた結果、ある日心が壊れたんです。そうなってからはもう、同じことはほとんどできなくなりました。
疲れた中年男性
そうだったんだ~。マスターも大変だったね~。
七海
そうですね。ですが、何者かの振りができないということは、逆に言えば、「本心」に従っていられるということですから、自分に鞭を打って何かを演じる苦しさは弱くなりました。
疲れた中年男性
なるほど~。でも本心って怖くない? 僕の体感としては、いつもその場の雰囲気とは違うことを思っているような感じがするんだけど~。それかあれだね~、何もしなくなるかだね~。
七海
それは「本心」が、未来にある行くべき場所に向かって進んでいるからでしょう。「本心」が、叶えられれば幸福になるものである以上、常に、幸福になるための道を歩いている必要があります。
ということは、自分自身もその道を歩んでいなければ、何か違う感じ、その場の雰囲気にそぐわない感覚を与えることになります。
疲れた中年男性(ゆっくり少しだけ仰け反らせた後)
なるほどね~。じゃあ「本心」ではいつも幸せになるためのことを考えていたってことか~。
七海
そうですね。
そして、「本心」というものは、最終的には全宇宙のリズムと調和することになるので、それまでも全宇宙のリズムに近づきながら動いています。
大きなものは少しずつしか進みません。大陸のプレートは一年で数センチメートルしか進みません。地球は太陽の周りを周るのに、三百六十五日かかります。
それを全宇宙の規模で考えたら、とてつもなくゆっくり進んでいることになります。
とてつもなくゆっくり進んでいるものを想像してみてください。止まっているように感じませんか?
疲れた中年男性
確かにそうだね~。動いているかわからないな~。
あ、じゃあ「本心」に従ったとしても、何もしなくなるってわけじゃないってことか~。
七海
そうです。止まったように感じてしまいますが、ほんの少しずつ動いているんです。
また、その速度で見れば、私たちの活動する速度と同じになっているので、別にとてつもなくゆっくり体を動かさなければならないというわけではありません。
疲れた中年男性
プレートの動きも、地球の動きも、僕たちの生活に大きな変化を与えるわけじゃないもんね~。
七海
ええ。まあ全員がとてつもなくゆっくり動く世界というのも、それはそれで面白いですが。
疲れた中年男性(笑顔になって)
全人類だるまさんがころんだだね~。
(ジュースを飲んで)
なんだかちょっと心が軽くなったかも~。
七海
それは良かったです。
疲れた中年男性(ゆっくり立ち上がって)
ありがとうマスタ~。また頑張れる気がするよ~。
それで、ちょっとずつ「本心」と向き合うようにしていこうかな~。
七海(優しく笑って)
微力ながら応援しております。
疲れた中年男性(扉の方に向かってゆっくり歩きながら)
ありがとう~。マスターも頑張ってね~。
七海(軽く頭を下げる)
『いつの日か、何かの振りをしなくてもいい日が来ますように』
(疲れた中年男性が教室を出る)
(将来に絶望した小学生がカウンターにやってくる)
七海(新しく犠牲となる紙コップを拭き始める)
いらっしゃいませ。お飲み物はいかがなさいますか。
将来に絶望した小学生
ほうじ茶でお願いします。
七海
かしこまりました。
(将来に絶望した小学生にほうじ茶を出す)
将来に絶望した小学生(度数の高いお酒を飲んだような反応をしてから)
マスター、僕の悩みを聞いてくれますか?
七海
もちろんです。遠慮なく話してください。
将来に絶望した小学生
ありがとうございます。
僕は小学生なんですが、それでももう未来に希望がありません。
七海
どうしてですか?
将来に絶望した小学生
それは、社会全体としても、個人としても、明るい未来が見えないからです。
経済は停滞するだけでなく後退しており、政治は明らかな人材不足で、でも高齢化社会だから若い人は少ない。
各個人の単位で見ても、人間関係は少しでもマシな生活をするための道具に成り下がり、その辺の人と薄っぺらい繋がりで仮初の友情を築き、寂しくない振りをしなければならない。あらゆるシステムも、その場限りの享楽を生み出すためにしか活動していない。そしてそのささやかな快楽も、どんどん持続時間が薄くなってきている。
こんな状態で、(机に向かって叫ぶような素振りで)どうやって希望を持てというんですか!
七海
まあまあお客さん、落ち着いてください。
将来に絶望した小学生
それに、大人たちはもう自分たちは関係ないと思っているのか知りませんけど、夢を捨てさせ、もはやなんの保証もない普通の人生とやらを押し付けてくる。
周りのみんなは特に反抗するでもなくそれに従い、諦めムードを節々から漂わせながら楽しそうに生きている。
それなのに、こんな異常な世界に対して異常を感じるものは精神異常者扱いだ。
(机に向かって叫ぶような素振りで)どうして私がおかしいというのですか!
七海(水を渡して)
お客さん、これでも飲んで一旦落ち着いてください。
将来に絶望した小学生(水を飲んで)
ありがとうございます……。
マスター。あなたもまだ未成年ですよね? だったらまだまだ人生は長い。
おかしいと思いませんか? こんな世界。
七海
おかしいと思います。
将来に絶望した小学生
そうでしょ? なのにどうして平常心を保っていられるんですか?
七海
それは、一人立つ決心をしたからですよ。
将来に絶望した小学生
一人立つ決心? もう少し詳しく教えてください。
七海
わかりました。
(三秒空けて)この世界は、いつも一人の人間の立ち上がる決心によって切り開かれてきたんです。
将来に絶望した小学生
一人って、一人の人間の力なんてほんの些細なものですよ。それに何ができる。
七海
確かに、一人の人間の力だけでは、世界は変えられません。たくさんの人間の力が集まらないと世界を動かすことはできません。
ですが、そのたくさんの人間をどうやって動かすのか。それは、一人の人間の決心です。
「人生意気に感ず」という言葉を知っていますか。人は、最終的には人の志によって動かされるということです。
それに、この宇宙も生命です。大きな「心」と言っていい。だから実は、本当に「心の底」から決心すれば、一人の人間が世界を変えることもできるんですよ。
将来に絶望した小学生(言い返す言葉がすぐには見つからない様子)
……。
じゃ、じゃあ、どうすればそんな「心の底」から決心できるというんですか。
七海
それは、「心の底」まで行って、その願いを知ればいいんです。
「心の底」は、時々「心の穴」と呼ばれるような深淵です。無限の虚ろが広がっている。だから普段は、その「穴」を塞ぐように何重にも蓋をしているんです。そのままでは「心の底」の声は聞こえない。
だから、まずはその蓋を開け、次にその「穴」に入るように意識をそこに向けます。それを続けていけば、いつかは「心の底」にたどり着きます。
将来に絶望した小学生(まだちょっとやけくそさが残っている感じで)
本当に、一人の人間に変えられるんですか?
七海
私はそう信じています。
将来に絶望した小学生
信じるって。証拠がないと信じられませんよ。証拠とかないんですか?
七海
証拠なんてものはただの気休めでしかありませんよ。ほとんどの理論にはそれが覆される余地がある。そして、覆る可能性がない完全な理論は、証明されることなく正しいものとして使われている。
だから、証拠があっても自分がその反例とならないとは限りません。
将来に絶望した小学生(酔いが覚める)
僕にもできるでしょうか。
七海
ええ。そう信じられるように、まずは自分を変えてみてください。
将来に絶望した小学生(そ~っと立ち上がる)
じゃあ、そうしてみます……。
七海
苦悩はいずれ、原動力となりますので、楽しみにしておいてください。
将来に絶望した小学生(扉に向かってとぼとぼ歩きながら)
はい……。
七海
勝利の報告をお待ちしております。
(将来に絶望した小学生が教室を出ていく)
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