22. 紫
青木が消えてから一年が経った。古賀さんに聞いてもあれから戻っていないの一点張りだった。最近はまた前の生活に戻りつつあり、古賀さんとも連絡は取っていない。
青木が消えてから何度もあのマンションに足を運んだが、あいつが消えたニ週間後にはもう知らない女性が応答した。もちろん青木の事なんて知らないようだった。女の声の向こうで赤ん坊の鳴き声とあやす男の声が聞こえた。男の声ももちろん青木じゃない。
俺の知らないところで幸せに結婚して子供でも作ってりゃぁ、それはそれで笑えるが、そんな面白い展開にはなっておらず、青木はあれからぱったりと消えたままだった。
相馬組との戦争でうちはかなりダメージを受けたが、結局は青木が用意した情報が組織内に出回り、相馬組長は絶縁、その後、船木組長は亡くなった。親父は船木組長の指示通り、本家若頭就任後、直ぐに本家船木組組長へ、そして本家若頭には野上組長が座った。新体制となるが戦争のせいで戦力はかなり削られ、船木組の存続が危ぶまれた時期もあった。しかしなんだかんだで、まだ、生きている。俺はというと葉山組のトップとして、日々を淡々と過ごしていた。
「お疲れ様です!」
「おう」
ジメジメとした路地裏。永井に呼び出されLucyに立ち寄ろうとした俺の足をピタリと止める既視感。永井の下っ端は俺に頭を下げて俺はふと視線を下す。ゴミ箱に寄りかかる派手な面をした男がいた。目は腫れ上がり、鼻血を流し、口の端を切って血を流していた。
「……何、永井のタバコ間違えた?」
首を傾げる俺に、その若衆は一瞬眉を寄せてからすぐに首を横に振った。何故、タバコだと思ったのだろうか、そう顔に書いてある。
「い、いえ、このチンピラ、誰とも知らず補佐に絡んできたんスよ」
「あ、そう」
ちょっとした既視感に過剰反応しちまったらしい。馬鹿だよなぁ。あいつがこんな所にいるわけねぇのに。そう思いながら、へばっている男の前を通り過ぎて若衆にひらひらと手を振った。
「あんまヤりすぎんなよ。永井の怒りも収まってるだろうし」
「は、はい!」
若衆に頭を下げられ、俺はLucyの中へ入る。永井はいつものようにカウンター席にいて、酒をちびちびと飲んでいた。
「よーう、兄弟!」
「機嫌良いな?」
「おう。当たり前だろ! よーやく戻れンだ、嬉しくてよ」
永井は来月付けで葉山組へ戻る事になっていた。
「遅くなって悪かったな」
「いんや、一年前は本当に色々あったし、お前にアレを押し付けた責任ってのも感じてたし、俺の異動の期間に関して文句はどうしたって言えねぇよ。こうして戻れたンだ、文句はねぇ」
「そうか」
「で、親分になった気分はどーよ!」
「変わらねぇよ。親父は未だに組の事に口を出してくるしよ」
「アハハハ、おやっさんらしい」
「まぁな」
「で、斉藤は相変わらず? ちゃんとカシラやれてンの?」
「やってるよ。お前が補佐に戻るってなって、一番喜んでたな」
「そうか! いやぁー、嬉しいなぁ。昔は一緒に補佐やってたからなぁ。今じゃ座布団上か」
「斉藤から伝言でな、俺に敬語は死んでも使わないで下さい、との事だ」
「ふふ、そりゃ気が楽で良いや。でも、ちゃーんと線引きはするぜ? 俺はあいつの補佐役なんだ」
「そうか、お前らしいな。でもあまり堅っ苦しくしないでやってくれよ。お前とは古い付き合いだろうし、友達みたいなもんだろ」
そう言うと、永井は分かってるよと頷いた。
「そういやぁ、蘭戸の叔父貴、泣きそうだったよなぁ。お前に若頭させて、そんで組を継いでもらおうと思ってたって言うじゃねぇか」
そう永井と同じウィスキーを飲む。永井は少し沈黙を生んだ後、頭を掻きながら口を開いた。
「薄々はそう思ってくれてンだろうなーとは思ってたけどよ。でも俺はお前の兄弟だしよ、同じ組で手柄を立てたかったから」
「あぁ。きっと、それを叔父貴は理解してるから、何も言わずにお前を戻したンだろうな」
「だな。あの人は漢だよ。優しさもあって、情も深くてよ。だから下はきちんと躾けたし、カシラも頭キレるし、俺がいなくても大丈夫なようにはしたつもりだ」
カランと氷が溶けて心地の良い音を鳴らす。少しの沈黙の後、永井は少し感傷に浸り、一口だけウィスキーを飲むとふっと笑った。
「……外、騒がしかったろ」
「若いチンピラがゴミ箱に寄りかかってへばってたな」
「デジャヴみたいだなーって、思わなかったか?」
「え……?」
ドキリとした。何をそう過剰に反応してんだと笑ってしまうが、つい身構えてしまう。
「青木の時と同じだから。あのチンピラを殴ってて思った。あ、この場所あの時と同じだ、しかも兄弟、来るんだ、って。…なぁ、あいつ、青木。結局、消えたままなのかよ」
「あぁ…」
「そうか。まっさかなぁ、アレが松葉若頭を脅してたとは。恐ろしいよなぁ」
「そうだな…」
永井は詳細を知らない。だから青木はただの裏切り者で逃げた男にすぎなかった。青木を探す為に部下には生きて連れ戻せと命令を出していたが、時間はえらく経ち、組は忙しくなり、誰も青木の事なんて今更気にも溜めない。俺だけが今日もまだ、あいつの残り香を追っているのだ。
「悪ぃ! そんな辛気臭い話は辞めてよ、今日は飲もうぜ!」
「別にいいよ。けど、そうだな。改めて、おかえり、兄弟」
「おう! ありがとよ、兄弟!」
永井と飲み明かし、気付いた頃には外はもう明るかった。涼司に送られて家に着く。静かな部屋にもだいぶ慣れた。…ように思っているが、やはり寂しさはひとりになると付き纏うようだった。シャワーを浴び、冷蔵庫から水を取り出して飲んでいると、リビングに置いてある携帯が騒がしく鳴った。水を片手に携帯を取り、表示される名前を確認して通話ボタンを押す。
「お久しぶりです」
相手は松葉だった。
「お久しぶりです」
「今、大丈夫ですか?」
「えぇ。何かありましたか」
「まだ青木を探しているかと思いましたので」
途端に緊張した。淡い期待に心臓が落ち着きを失くす。耳元でドッドッと鼓動の音が太鼓のように響いている。
「……何か、情報が?」
「青木に関する直接的な情報ではありません。ある情報屋の連絡先です。本当は一年前に教える事ができれば良かったのですが、その人、ある組のお抱えで、辞めるタイミングと重なってしまって音信不通だったんです。けどつい先程、その彼がまだ情報屋をやってると耳にしたので連絡先を手に入れました。青木の事で連絡をしてみたらどうかと思いまして。余計なお世話でしたか?」
「いえ。…ただ、俺も個人的に何人もの情報屋を使ってあいつの居場所を調べましたが、誰ひとりと有力な情報は掴めませんでした。だから正直、今回も不発に終わるんじゃないかと…」
「怖いでしょうがものは試しです。その情報屋、腕は確かですよ。所謂ハッカーで、欲しい情報はあっという間に手に入るとか」
「そう、ですか」
とは言いつつ何度も期待しては裏切られているのだから期待はしていない。きっとまた時間と金を無駄にするのだろう。
「俺はね、青木には生きててもらわないと困るンです。言ったでしょう。やってもらわなきゃならない事がありますから」
「えぇ。そうですよね」
「とはいえ、Xとかいう組織から接触も脅しもありません。勝己もすっかり落ち着きました。青木が警戒しろと、この街を出ろと、そう言ったわりには何も起きてません。この一年、何も起きていないのだから、もう起きないような気がするんです。そして何もないのなら、誰かが交渉したからだと思います。そうならその誰かは青木しかいませんよね。彼は今も何処かで生きている。それなら約束は果たしてもらわないと、ね?…ま、あくまで俺の希望的観測ですが」
「生きていれば何かしらの痕跡は掴めると思ったんですけど…。この一年、必死にあいつの事を探りましたが、何ひとつ掴めませんでした。だから…正直、」
「諦めました?」
「いえ、まだ諦めてはいませんが、何というか…」
諦められるわけがない。でも、どんなに探しても何の手掛かりもない。もう一年も経ったと言うのに、一歩も近付けない。それが辛くて苦しくて仕方がないのだ。また今回もどうせ、そう思うと怖かった。怖気付く俺に、松葉は呆れたように溜息をついた。
「君の時間は一年前から止まったままですね。もういい加減、吹っ切れてほしいものです。辛気臭くて仕方がない。だから赤澤。良い加減、ケリ、つけて下さい。もう一年が経ちますし、俺はこの情報屋以上の情報屋は知りませんので、どうです、今回で見つからなければ、もう青木の事を忘れて次へ進むというのは」
「……そ、れは」
「その代わり、今回は死ぬ気で探すんです」
あぁ、そうだなと、俺は深呼吸をして。ゆっくりと一歩を踏み出し、ソファに腰を下ろす。
「……その腕の良い情報屋の連絡先、送って下さい」
今度こそケリをつけられるだろうか。いや、つけよう。つけなければ、ならないのだ。
「きっと彼なら君の力になるはずです。ただ、ひとつ難点が。その彼、ヤクザからの仕事は一切受けません。だから注意して依頼して下さい」
「素性を隠せという事ですね」
「はい。どうやら組関係で一悶着あったようで、ヤクザからの仕事は受け付けないと」
「分かりました。連絡を取ってみます」
「えぇ。そんで、さっさと吹っ切れて下さい。待ってます」
「………松葉、」
「はい」
「あなたに礼は言いたくありません。が、今は言うべでしょうね。ありがとうございます」
そう電話越しで礼を伝えると、松葉はふっと笑う。
「まだ青木を見つけたわけじゃないでしょう」
「いや、…こうして未だにあいつの行方を追って、気に掛けてくれている事に対して、です」
本音だ。でも松葉は「君に礼など言われたくありませんよ」と言うと、少しの間を置いて言葉を続ける。
「これは俺の詫びも入ってるんです。礼を言われる事じゃない。赤澤、何があっても死なないで下さい。生きて下さい。それでは、また」
何があっても死なないで、その言葉に俺は一瞬言葉を失くした。数秒の沈黙を開け、「また」と返して電話を切る。俺は考えていた。そうだよな、生きなきゃならねぇよな。淡い期待を抱いた。今回こそは。また裏切られるかもしれないが、踏み出さなければ始まらない。
松葉から送られてきたメッセージには、そのヤクザ嫌いな情報屋のメールアドレスが記載されていた。俺はソファに座りながら、早速その情報屋に連絡を取る事にした。内容は端的に、青木 玲という男の所在を知りたいと、生年月日も記載して連絡を待つと伝える。自分の名前は伏せ、匿名で連絡を送る。あとは返事を待つだけ。その日、返事はなかった。翌朝、その情報屋から連絡が入る。
『青木 玲、調べました。その情報を渡すにあたって条件があります。あなたが反社会組織に関わっていない事を証明して下さい』
無理難題を突きつけてくるなと俺は顎を撫でる。けれどここでバレてしまえば、俺はもう二度と青木には近付けない。一年、自力で探って何も掴めなかったのだ。このチャンスを逃せばあいつの所在はもう分からないままなのだろう。けれど相手は情報屋。松葉が信頼するほどなのだから腕は確かだろう。さて、嘘をつくのは得策か、否か。俺は深い溜息を吐いて返信をする。
『関東船木組直系葉山組組長、赤澤邦仁。反社会組織ではない証明は生憎出来ない。君が反社会組織の依頼は受けないと知ってはいたが、青木に関して一年間、どんなに探っても行方知れずで有益な情報は手に入らなかった。だから君の連絡先を知り、これは最後だろうと思いながら依頼をさせてもらった。無理を言ってる事は分かっている。だが、青木が生きているか否かだけでも、教えてもらえないか』
返信はすぐに返ってきた。
『電話、できますか。もし可能であれば、こちらに電話を下さい』
そこに記載されている番号に掛けると、しばらくコール音が響いた後、相手は応答した。
「こんにちは」
相手が男か女かも分からない。ボイスチェンジャーではなく、きっと何かを打ち込み、それを機械が読み上げているのだろう声質だった。なんとも無機質な声なのだ。
「赤澤さんですね」
「はい」
「ご依頼内容に関して理解しました。生死だけでもという事ですが、この青木という人とはどのような関係でしょうか」
関係、か。それはどれほど考えても分からない。答えがないのだから答えようがなかった。
「…名前のつくような関係ではありません」
これで相手が納得するとは思えなかったが、相手は「そうですか」と間髪入れずに返事を返す。
「葉山組は昨年激動だったかと思います。船木組長が亡くなられ、相馬組長は絶縁。そしてあなたの父親がトップに立った。僕は組関係の事は二度と引き受けません。でも僕が電話で話したいと言った理由は、この件が組に関する事ではないと思ったからです。青木さんは元々あなたの組に短期間ですが所属し、あなたはその組の現組長さんです。でも僕はあなたが組を抜けた一組員を探している、つまり、ケジメを取ろうとして動いている、とは思えません。なので正直に話して下さい。青木さんを何故、見つけたいのでしょう」
何故。そう理由を改めて問われると、どう答えるべきか言葉に詰まってしまう。思った事をそのまま口に出すべきなのか、いや、どうだろうか。どう言えば…。
「赤澤さん?」
「明確な答えがはっきりとあるわけではありません。ただあいつを、見つけなければならないと思ったから、でしょうか。あいつはきっとひとりで抱えて、ひとりで苦しんで、それで良いと思ってます。だから見つけ出して、そうじゃないと言ってやる必要がある。そう伝えて今度こそ手離したくない、…それだけです」
一度話してしまうとベラベラと言葉が次から次へと雪崩れてくる。この人がどう感じ取ったかは分からないが、情報屋相手に嘘などついても無駄だろうと思った。
「青木さんはあなたにとって大切な人ですか?」
電話の向こうにいる相手の感情は読み取れない。だが少なくともその質問からネガティブな感情は感じなかった。
「えぇ」
だから俺は肯定した。もう否定をする必要などないし、この人には何もかもを吐き出した方が良いと判断したからだ。
「もしまた彼に会えるとしたら、あなたはどのようような対価を払いますか」
「何でもすると思います」
「何でも、ですか」
「はい」
「そうですか。分かりました」
相手はそう言うと続けて提案をする。
「では、ヤクザから足を洗って下さい」
いとも簡単な提案かのように、相手は俺に条件を突き付けた。俺に足を洗わせる事に何の利益がこの人にあると言うのだろう。分からないが、何にせよ俺に拒否権はなかった。ここで足は洗えないと言ってしまえば、俺はきっと、二度とあいつには会えない。
「足を洗えば青木の居場所を教えると?」
「はい」
悩むべきなのだろう、と思った。組員を残して組長が足を洗うなんて前代未聞だ。それもこの組織トップの息子である俺が突然組を辞めるなんて、反発が起こる事は容易に想像できる。けれど足を洗えばあいつに会えるのなら、俺は何をしたって足を洗うのだろう。情報屋の質問に対するその答えはひとつしかなかった。
「分かりました。あいつに会う事ができるなら、この世界から足を洗います」
「即答ですか」
「ただ俺が組を抜けるなんて解散かもしくは次期組長を決め、準備が整い次第になる。だから時間が、」
「いえ、それは必要ありません」
「どういう事ですか」
戸惑う俺に相手は淡々と言葉を続ける。
「足を洗う事ができるのなら、ひとつお伝えしましょう」
「はい」
「青木さんの生死ですが彼は生きています」
この言葉を聞いた瞬間、どっと安堵が全身を包んだ。あれから消息の分からなかった男だ。もう死んでいてもおかしくはない。死んだと思う事はあまりにも酷く、俺は延々と否定をし続けたが、もうこの世にはいないのではないかと何度も思った事があった。だが今、あいつが生きていると断言される。証拠は何もない。けれど感極まり、心が弛び頬がゆるりと緩んだ。
しかし俺が安堵したのも束の間、「しかし、」と相手は続ける。
「彼に命がある限り、彼は追われ続けます。逃げ続け、組織があなたに目を向けないよう、彼はあなたに接触しないよう隠れ続けています。彼にとって重要なのはあなたが生きている事。彼があなたの側にいる事であなたに危害が加わる事を何よりも恐れています。この状況の中、もしあなたが彼と再会出来たとしても、彼はまたすぐにあなたの前から姿を消す事が予想されます。そこで確認したい事があります。何をしてでも、どんな結果になろうとも、彼を追手から永久に逃がしたいですか?」
何をしてでも、どんな結果になろうとも、とは怖い言葉だ。そこに含まれる意図が分からないが、追手から逃してやれるのならと俺は頷いた。
「もちろん、あいつをあの組織から逃がせるのなら逃がして自由にしたい。…俺に何か出来る事があると、そういう事ですか」
相手は数秒の沈黙を作ると、ひとつ提案をする。それはまた恐ろしい内容にも関わらず、いとも簡単な事かのように。
「一緒に死を選ぶというのはどうですか」
何の躊躇いもなく言われた提案に、俺は眉間に皺を寄せた。
「………簡単に言ってくれるな」
「はい。それが最善です。青木さんの居場所だけが知りたいのならそれでも構いません。でもあなたに居場所を突き止められたと知った途端、また青木さんは消えてしまいます。次、潜ってしまえば、僕でも居場所は特定できないかもしれません。ですので接触できた時は一緒に命を絶つのです。そうすれば、あなたはずっと青木さんの側にいる事ができます。ただ、組に関わる事は金輪際出来ません。……さて、最終決定はあなた自身で。死を選ぶのか、諦めて、今まで通りヤクザの組長として生きるのか」
「つまり、あいつを自由にしたいのなら、あいつと心中しろと」
「えぇ」
相手は即答する。俺の眉間の皺は深くなる。
「それは出来ない。死にたくないやつを巻き添えに死ぬ事は出来ない。……俺ひとりでできる事なら何でもするが、あいつを殺す事はできない」
「もし、それが青木さんの望みであっても?」
どういう事なのかと、更に訳が分からなくなっていく。何故、あいつは俺との死を選ぶと? そして何故、こいつがそれを知っているのだろうか。
「あいつの望み、ですか…」
「あなたと死に、自由になる。それが彼の望みであったとしても叶えられませんか」
「説明を…」
「青木さんの望みなら、死ねますか」
そう圧を掛けるような言葉だった。だが俺自身、あいつになら殺される事も覚悟していた。あいつが望むのなら俺はきっと死ねるのだろうなと、俺は自分自身に呆れている。本当に傲慢だ。組を束ねる存在が、こうも簡単に誰かの為に死ぬ事を考えてしまうのだから。けれど、もう俺の答えは揺らぎようがなかった。あの日、あいつに好きだと正面切って伝えた時点で、何があってもあいつの側にいたいと思ってしまったのだから。深呼吸をして、質問に答えた。
「それがあいつの望みなら答えは、はい、になります。あいつが死を望むなら、俺はきっと死ぬ事も厭わないでしょう。……とはいえ、あいつが共に死ぬ事を望むとは到底思えませんが」
まぁあいつは図太い。死を望むか望まないかで言えば、自殺は考えられないほど図太い男だ。相手は俺の返事を聞いて淡々と答えた。
「そうですか。分かりました。では住所を送ります。手順に沿ってふたりで死んで下さい。あと送金先の記載もありますので、死ぬ前にきっちりと送金もお願いしますね」
メッセージに送られた手順を確認する。そうして俺は気付き、あぁ、そういう事か…と、ふっと笑ってしまった。
「君は人助けも請け負っているのですか」
「いいえ。ただ青木さんが追われているその組織とは個人的に色々ありまして。だから今回は最後までサポートします。それにあなたは運良くある男と接点があるらしい。だから僕は最善の策を提案したまでです。…そうは言っても僕ができる事は多くありませんが」
「…ある男、ですか。そこまで調べがついているとは、正直恐ろしい。あなたにはきっと嘘は通用しなかったですね」
「えぇ。僕に嘘は通用しません」
「ふふ、助かりました。恩に着る」
「無事に会える事を祈ってます。それでは」
電話を終えるとすぐに身支度をした。車の鍵を手にして部屋を後にする。きっともう二度と戻らないであろうこの部屋に何の執着もなかった。
ただ、思い残す事は組の事。斉藤くらいには言ってやりたいがそれも出来ない。付き合いの長いあいつはきっとひどく悲しむだろうし、あいつが次期組長を継ぐだろうから組の事を任せたと一言くらい声を掛けたかった。だが俺が消える事はもちろん言えない。言ってしまえば全て終い。俺は誰にも何も言わず、その場を後にした。
車を走らせ約5時間ほど。ある街の寂れた繁華街の通りをゆっくりと走っていた。東京を離れる直前、情報屋の言うある男に電話をしていた。あなたから、青木を奪う事になる、と。ある計画を実行したい、と伝えると、男はくくっと喉の奥で笑い、条件を突きつけた。青木が持っているであろう情報も、俺が持っている情報も全て自分に渡す事。そして男は低い声で続ける。「青木の代わりに君が一生私に飼われるのであれば」と。俺の答えはひとつしかなかった。「分かりました」そう答えて俺は東京を離れた。
黒い雨雲が太陽を遮り、今にも降り出しそうである。その小さな街の繁華街の外れはただでさえ人通りが少ないが、治安の悪さから人を寄せつけない怪しい雰囲気が漂い、人の姿は見当たらない。ようやく人を見つけても、ヤク中のホームレスらしき男が虚な目をして建物の壁に寄りかかって座っているだけ。窓を開けて、道を聞こうかと考えていた俺は諦めて、あるアパートを自力で探そうと判断した。
しばらくその辺を走り続け、繁華街の裏路地に今にも潰れそうなアパートを見つける。二階建てのそのアパートの階段は錆びて今にも崩れ落ちるんじゃないかと不安になりながら、上から下まで確認する。
あの日からあいつはここに身を潜めていたのだろうか。それとも居場所を転々として、ここへはつい最近流れ着いたのか。逃亡劇の末、辿り着く場所にしては持ってこいなのかもしれないなと、俺は二階の角部屋をじっと見上げながら考えていた。
様子を見ようと遠目から部屋を眺めて数分、突然ガタガタと騒がしい音を立てて青木が勢いよく外へと飛び出して来た。黒いパーカーを着ており、深くまでフードを被っている。その為、顔が見えにくいがあいつに違いなかった。
その時、二台の黒いセダンがこちらに向かって走ってくるのがサイドミラー越しに見えて、俺は一度バックミラーで確認する。セダンは俺の車を追い越すと、アパートに横付けして車を停車させ、何人もの男達が車からぞろぞろと降りてくる。
こんな田舎街の裏路地に面したボロアパートと、連中の組合せはどう見ても異様としか言えない。連中は階段を降りてきた青木と目を合わせ、青木は咄嗟に足を止め、どうすべきかと必死に考えているらしい。一年も見ていなかった青木の姿に安堵したいが、悠長に安堵している場合ではなかった。青木はベルトに挿していたナイフに一瞬手を掛けたが、多勢に無勢、戦っても勝てないと判断して逃げる事を選択した。
そのまま俺の方へ逃げて来いと、俺はエンジンを掛ける。青木は死に物狂いだった。停まっている車に誰が乗っているかなんて気にしている場合ではなく、俺に気付かず横を通り過ぎ、どんどんと遠くへと走って行く。あいつをひとまず捕まえよう。こんなところで終いにして堪るかと、アクセルを踏み込んだ。
連中をまじまじと観察する事は出来なかったが、この状況がいかに危険かは十分に理解できた。連中は銃を携帯しているのだ。だからその銃をぶっ放す前に、俺は何としてでも青木を助ける必要があり、俺の心臓はその緊張のせいでこれでもかと言うほど脈を速め、焦りに汗が背筋を伝う。連中と青木の距離が縮まっていく。俺は更にアクセルを踏み込み、クラクションを鳴らした。連中はその音と猛進してくる車を反射的に避け、俺は急ブレーキを掛けて青木の前に車を停めた。丁度青木は十字路に差し掛かる手前だった。「おい!」と開けた窓から青木に呼び掛けた。青木はギョッとしたように眉間に皺を寄せながら俺を見る。その瞳はまるで亡霊を見るかのようだった。俺はつい可笑しくなったが、笑ってる余裕はない。
「早く乗れ!」
青木は動揺を隠せないのだろう。何故、俺がここにいるのか飲み込めず、切羽詰まった状況にも関わらず車に乗ることを躊躇っている。乗ってしまえば俺も巻き込む、そう考えてくれているのだろうか。青木の表情は苦しそうに歪められたままだった。さっさと乗れ、そう言おうと口を開いた時、銃を握ったひとりがこちらに向けて一発放った。その弾は青木にも俺にも幸い当たらなかったが、青木は舌打ちを鳴らすと銃をベルトから抜き、撃ち合いを始めようとするから俺は咄嗟に止める。
「青木!」
今のあんたに勝算はねぇだろ。ここまで来て死なれちゃ困るんだよ。そう言ってやりたかったが、一刻も早く車に乗せたいと言葉を選んだ。
「もう、良いだろ! 乗れ!」
そう声をかけて一秒も経っていない。パンッと骨に響くもう一発の銃声に、俺は反射的に身を低くする。すっと顔を上げると青木の姿が見えなかった。瞬間、ゾッとした。咄嗟に助手席のドアに手を掛けて開けると、青木が痛みに唇を噛み締め、右の太腿を抑えていた。出血は少ない、急所は外してる。そう即座に判断し、青木の腕を強引に掴み中へ引き込みながら、鬼の形相で走って来る連中を視界の端に捉えた。
「…なんでだよ! 離せよ!」
青木はそれでも抵抗した。乗りたくないと、後ろに体を引こうとする。でも俺はもう離せなかった。青木の歪められる瞳を見下ろし、青木の腕を握る手に一層力を込めた。きっとアザになるだろう。
「離さねぇよ」
青木の迷いのある瞳は驚いたように見開かれ、そして諦めたように、俺の手に引かれながら車に乗り込んだ。青木がドアを閉めるよりも少し早く俺はアクセルを踏み込み、その場を離れる。連中もアパートに付けていたセダンに乗り込むと俺の後を付いてくる。
ゴミが散乱していた細い路地を抜け、人気のない大通りに出た。後方を確認しようとバックミラーを覗く。連中は執念深く、いつまでも後を付いてくるようだった。それで良い。それで。
「……なんで場所分かっちゃうかなぁ」
青木は独り言のようにそうぽつりと呟いた。パーカーの中に着ていた白いTシャツを脱いで、パーカーを着直すと、白いTシャツは器用に破かれ、太腿の止血に使われる。白いTシャツはみるみるうちに赤く色を染めていくが、思ったより出血量は少ない。
「あんたの事、探してた。あの日からずっと」
「あいつらにお前を殺す理由を与えたんだぞ。お前が殺されなかったのは今まで俺が…」
「もう、逃げるのはやめにしないか」
ゆっくりと低い声でそう青木に訊ねた。青木は意味が分からないと眉間にぐっと皺を寄せて俺を見る。正直に言おうと俺は口を開いた。
「最期は、あんたと共に時間を過ごしたい」
青木は突拍子もない事を言われ、面食らったように言葉を失くしている。数秒、眉間の皺が更に深くなり、溜息が宙を漂った。
「最期って……。これはお前にとったらただの自殺だ。今すぐ車を停めて俺をあいつらに突き出せよ。なぁ、もう、あいつらが何かなんて検討ついてんだろ? あいつらからは逃げられない。だから、」
「今、俺があいつらにあんたを渡すと本気で思ってンのか」
「………」
青木は何も答えなかったが、下ろされた視線は正直だった。
「自殺と言われようが俺はあんたを突き出さない。ようやく見つけたんだ。俺はもう、あんたの事を離す気はねぇからな」
「勝手な事すんじゃねぇよ…。なんで、どうして…」
「言ったろ。最期はあんたと共に時間を過ごしたいって」
「本当に馬鹿じゃねぇの」
「…なぁ、青木。俺に精算させてくれねぇか」
青木は小さく溜息を吐くと、流れてゆく窓の外へと視線を向ける。
「格好つけンなよ。俺はね、何もかもを壊して、お前を地獄に突き落としてやりたかっただけ。お前が俺に対して心を開いて、それを愚かだなぁと嘲笑ってさ、まぐわう度に願ったね。斉藤の言う事なんて聞く耳を持たなくなりゃぁ、事は楽に進むのにって。お前が苦しめば苦しむほど俺はすげぇ楽しくて爽快だった。お前もそしてお前の組も、何もかもをめちゃくちゃにして俺は大満足。……すげぇ満足してンだよ」
青木はペラペラと早口にあれもこれもと嫌われようと口数を増やす。だが、本当はそうじゃない。俺がそれに気付いてるって事も分かっているだろうに。今更、嫌われようとするなと、俺は少し苛立った。
「そうか」
「そうか、って。…だから俺を突き出してしまえばお前は、」
「何を言っても無駄だって分かんねぇのか」
ぴしゃりと制すると青木は頭を掻き、「分かりたくねぇよ!」と初めて声を荒げた。
「こんなのただの馬鹿げた逃避行だ。なぁ赤澤。……俺なんかに絆されてンなよ。頼むから、…なぁ、」
今にも苦痛に押し潰されそうな声だった。苦しくてもがいて、それでも必死に我慢しようと飲み込んで。絆されたと言うのなら、それは俺じゃないよなと、辛そうな青木と裏腹、俺の口角は緩く上がっていた。緊張に支配されていた体に少しずつ余裕が戻ってくる。
「絆されたのはあんただろ」
青木はその言葉に何も返さなかった。ただ、飲み込むだけのように見えた。否定せず、俺を見た後、何かを考えるようにその視線は外へと移される。
「お前に対する殺意は本当だった」
そしてそう静かに呟いた。だった、と。
「殺意はあったのに、どうしてかなぁ。どうして今、俺はお前の隣にいるんだろ」
青木は自嘲するように鼻で笑う。
「馬鹿だよなぁ………」
そう付け加えられた言葉に俺は言い返したくなった。急に胸がざわついたからだった。今言わないとこいつはまた消えてしまうのではないか、と嫌な恐怖が振り返す。トンと心臓が痛み出す。余裕を得たと思ったら、こいつはまた俺を突き放す。もう、良い加減にしろよ。
「あんたと再会した時、あー、これはすげぇ面倒になるなと思った。あんたの側にいると否定し続けた自分の本音と向き合う事になると分かってたから。こんな厄介な感情と向き合う事ほど面倒な事はないから」
青木はその言葉を聞くと再び俺の方を向く。俺は静かにゆっくりと、言葉を選んだ。
「俺は認めたくなかった。自分の気持ちを受け入れたくなかった。何もかも全てを持つあんたに対して、心底苛立つ相手に対して、何を考えてんだろうと訳が分からなかった。…けどあんたと離れて、年月が過ぎて、再会しちまった。あんたの吐く言葉も、微笑む顔も、心配そうな目も、全てが嘘だと分かっても尚、あんたを側に置きたいと思っちまった。それが俺の本音だ。隠しようのない本音。だから俺はあんたが何と言おうと、あんたが今こうして隣にいる事に対して安堵してるし、嬉しくて仕方がない。だから、もう、連中の所になんて行くな。ひとりで死にに、行くな」
青木は何もかもを諦めたように溜息を吐くと、「俺は遅かれ早かれあいつらに捕まる。お前が俺を突き出せば、お前はまだ見逃してもらえる」と呆れたように言葉を漏らした。だから俺はふっと笑う。だってこれから起こる事は決して悲劇ではないのだから。
「だから捕まる前に俺と死ぬんだよ」
青木はその言葉に戸惑い、眉間に皺を寄せて俺の顔をじっと見た。
「……本気、かよ」
「あぁ、本気だよ。俺達は死ぬ。いいな? この先に有名な丘がある。海が一望できる丘だ。そこから俺達は死ぬ。俺達が自由になるにはそれしかないんだよ」
青木はしばらく俺を見た後で、くくっと喉の奥で笑い出す。肩が少しだけ揺れていた。
「へぇ、そういう事か」
青木はそうぽつりと呟いて笑みを溢しながら、また外へと視線を戻した。しばらく車を走らせる。目的地まで一キロ程度。バックミラーを確認し、しっかりと後を付けられている事を確認する。
「で、お前はそれで良かったのかよ。指まで落としたくせに、あっさり組を捨ててさ。組長にまで昇り詰めたんじゃないのかよ」
青木は降り出した雨のせいで見えにくいであろう景色を見ながらそう訊ねた。
「俺が今、ここにいる事は答えにならねぇのか」
「……どうだか」
「俺は割と常に自分がいなくなってもやって行けるように考えて行動をして来たつもりだ。だから今いなくなってもあいつらはきっとごたつかない。指を落として守れるものがあるのなら俺は何本でも落とすよ」
「斉藤を守る為なら指を、ね。正直、お前がそこまでするとは思わなかった」
「斉藤を残す事は組の為。組を腐らせない為。あいつは絶対に失くせなかった、それだけだ」
「あ、そ」
「あんたにはあの世界が汚れきっていて、憎悪しかないような場所に見えているかもしれないけど、世間から爪弾きにされた連中が居場所が欲しいと、認めてほしいと、自分を主張できる場所でもある。あの世界ってのは特殊で、恐ろしいくらいギラギラしていて、なかなか捨てたもんじゃなかったと今は思うよ。俺はこの稼業が向いているか向いてないかで言えば、きっと向いてなかったのかもしれないが、好きか嫌いかで言えば、きっと好きだった。だから筋ってものがいつまでも通る世界であってほしい。その為に斉藤は失くせない」
「へぇー。早速後悔? お前はその世界で骨を埋めたかったんじゃないの」
「後悔はしてねぇよ。その世界を捨てでも、何もかもを失くしてでも、あんたに会いたい思ったんだよ。また、あんたに触れたいって」
素直に言葉を吐いてしまうとは自分でも意外だった。恥ずかし気もなく、つらつらと会いたいだの、触れたいだの言ってしまった。けどきっちり口に出して、こいつに俺の想いを知って欲しかった。知った上で判断し、行動するのはこいつだが、青木は窓の外を見つめながらはっと笑うと、「クセェのな」と呟いた。どうやら拒絶はされないらしい。
「斉藤はお前が消える事、知らないんだろ?」
「あぁ。…けど、勘付いていたかもしれねぇな。いつか消えちまうんじゃねぇか、って」
「お前は何をしたって組を、いや、斉藤を取るかと思ったんだけどな…」
青木の言い方が気になった。組を、と言いかけて、斉藤を、と言い直す。ただの喩えのようなものだろうか。俺が指を落としたのは斉藤の為、つまり組の為だから、そんな言い方になったのだろうか。そうどうでも良い疑問が湧いたが、特別聞くような事でもないと思った。「あの世界で死ぬと思ってた」そう笑うと、青木は何も言わずに俺を見る。だから俺はその瞳を一瞬だけ見て、言葉を続けた。
「でもあの世界では死ななかった。死に場所を変えた。どうしてかは、もう言わなくて良いよな」
青木は困ったように眉を顰め、また外へと視線を流して呟く。
「傲慢だな」
「そうだな。俺もそう思うよ」
自嘲した俺に青木はつられるようにして笑い出す。
「俺だけが逃げ回ってりゃぁ良かったのに。これは自業自得なのにさ。お前は高校の時みたいに自分勝手に生きて、ただ笑ってりゃぁ良かったのに」
青木はコツンと窓に頭を寄せ、ぼうっと俺を見上げていた。その表情は哀傷にも似ているが、きっとそれだけじゃない。悲しみの中にどこか安堵を含んでいるようだった。自業自得とこいつが言うのならやはり全ては俺の因果。俺への罰で俺が償うべき罪。そうなんだろうな。だからこの命はもう俺のものじゃない。
「生憎、もう逃げ回る事はねぇな。だって俺の命はもう、あんたのものだから」
「………よく真面目に言えるな、そういう事」
「あんたに自由を与えてやれりゃぁ、俺も過去を精算できるかと思ってさ」
「死んだら自由、か」
「だから受け入れてくれねぇかな。……この最期を」
雨が酷くなる。大粒の雨がバケツをひっくり返したように降り始め、視界が悪くなっていた。この雨なら何の痕跡も残らないだろう。
「いいよ」
青木はふっと甘く、柔らかく相好を崩す。俺は心底安堵した。こいつはもう、いなくならない。そうどこかで確信したからだ。車はスピードを上げて険しい山道へと入って行く。土砂崩れが起きそうな崖を横目に、ひたすら山道を登って行く。それでも黒のセダンは舗装されていない道をガタガタと追いかけてくる。
「追っ手は二台。証人は十分。この先の崖は有名だもんなぁ」
青木はそう言うと口角を上げた。
「あぁ」
「自由、か。…何をしようかなァ」
「次に会う事が出来たら、俺の名前を彫るって言ってなかったか?」
「アハハハ、そんな事言った?」
「言ってたな。紫色で、俺の名前を」
「ダッセェなぁ」
「すげぇダセェよ」
ケタケタと散々笑った後、青木は少しだけ首を傾け、じっと俺を見ていた。沈黙が沈黙を呼び、静寂を楽しんでいるようだった。青木はクスッと可笑しそうに笑う。灰色の空から大粒の雨が降り注ぐ。上り坂が緩やかになった。海は、近い。
「青木、」
名前を呼ぶと青木は口角を上げたまま、冷たい掌を俺の頬に寄せた。青木の甘い瞳を見つめながら、アクセルを踏み抜いた。立ち入り禁止の看板が目に入ったが、そのまま突っ走る。暗い海、黒い雲。太陽は少しも顔を出さないが、晴々しくて清々してくて甘すぎる瞬間だ。どちらともなく顔を近付けて唇を重ねた。互いに舌を絡め、短い息を吐く。欲を打つけるように、歯列をなぞって唾液を飲み込む。舌を重ね、何度も角度を変えて貪るように唇に甘く噛みつき、その溶けそうな甘さに名残惜しさを覚えながらそっと唇を離した。
「阿呆だな」
ふわりと車は宙に浮く。俺達を追って来たセダンが急ブレーキを掛けて崖の端に停車した。雨は止みそうにもなかった。波に飲まれた車はもう二度と見つかる事はないかもしれない。そしてきっとそこから人の遺体は見つかることはないのだろう。
赤澤 邦仁というどこぞのヤクザも、青木 怜という組織に追われる訳ありな男も、もう、この世にはいないのだ。
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