18. 嘘と本音

俺は家に戻り、すぐにパソコンに繋げて情報を読み込んだ。印刷してそれを封筒に入れてテーブルに置く。それを眺めながら、銃を片手にシングルソファの上に腰を下ろした。朝までこのまま、万が一に備えておこうとベッドでは眠らなかった。だが座りながら、何もする事がないとどうしても赤澤の事を考えてしまう。嫌でも脳裏にあいつの事がよぎってしまう。あの時の血の感触も、みるみるうちに血の気をなくし、青白くなっていく唇も、何かを言おうと開かれる口の動きも。


あんたは何ともねぇなと、あんな状態で俺の心配なんかしやがって。自分の事だけを考えていれば良いのに。心配なんかする必要全くねぇのに。お前が刺されたのは俺のせいなのに。なのに大丈夫だと伝えると、それなら良かったと言いやがった。


あいつは何の為に俺を庇ったのだろう。俺はあいつを裏切っていて、あいつだってそれを分かっているはずなのに、なぜ俺なんかを庇えたのだろう。高校時代の贖罪の気持ち? 俺がこんな風になってしまったのは自分のせいだって、責めた結果? それとも…。赤澤の事を考えるのをやめようと努力すればするほど、それがいかに難しいか浮き彫りになるだけで、心の隙間に嫌な感情は入り込み、俺の首を絞めていく。


何が正解だったんだろうな。俺はそうぽつりと呟いた。


朝、全ての書類を片手に、地下駐車場へと向かった。古賀さんの黒い高級車を見つけ、後部座席をノックして中へと入る。古賀さんには久しく会っていなかったが、何も変わっていない。低い声で「久しぶりだな」と俺を見た。



「ご無沙汰しておりました」



俺は後部座席に座り、ドアを閉める。運転手が鍵を掛けた。



「随分、派手な見た目になったね」



「1週間もすれば治るかと思います。…で、これが例の情報です」



「ご苦労。受け取った」



古賀さんはそう言って封筒を鞄に仕舞う。



「Xの方はどうかね」



「荒木に二重スパイじゃないかと疑われ、危うく殺されかけました。もう、あそこには潜入するのは難しいかと」



「そうか、惜しいが仕方がない。あの組織は実態が掴めず、潜入する事自体が難しい。難航していたが、ここまで進展があったのは君のお陰だ。君はしばらく休みなさい」



「はい。それで……あの、」



「何かね」



「俺を正式に抜擢して頂けますか」



「そうだね、追って連絡するよ」



古賀さんの言葉に、俺は疑念を抱く。今の俺には余裕がない。早く、一刻も早く、Xを潰さなければならないのに、悠長に構えてる場合ではないというのに、この人はまだ曖昧にするのだ。



「…Xは壊滅、ですよね?」



だから俺はそう眉間に皺を寄せた。俺をさっさと引き上げて、正式な職員として採用してくれるなら良い。バッジさえ貰えれば、俺があいつらを潰してやるから。でも、この人はそれを濁した。ならば、壊滅はこの人が早急に対応してくれなければ手遅れになってしまう。



「青木、あまり急がない方がいい。自分の首を絞める結果になりかねない」



だが、古賀さんは少し面倒そうな顔をした。急がない方が良い、って何だよ。この為に俺は危険な橋を渡ったんだろう。この人は俺が行き場を失った時、俺を拾い、今まで守ってくれていたが、この人にとって俺はただの駒にすぎなかったのでないか。俺を日の当たる場所へ戻してくれると、そう俺に言ったのも、俺を都合良く操る為だったのではないかと。この人は俺を元に戻す気はないのかもしれない。永遠と、この人の影で働かされるだけなのかもしれない。瞬間、裏切られたと感じた。焦りと不安に思考が支配され、怒りを感じていた。



「しかし……」



食ってかかる俺に、古賀さんは静かに続けた。



「葉山組の若頭、刺されたようだね」



ドキリとした。見透かされたような瞳と声のトーン。これ以上動くなと、古賀さんは俺の手綱を握り制している。



「はい…」



「君が先を急ぐ理由は、やはり、あの同級生の赤澤邦仁の為かね」



「いえ、そうでは…」



「彼が刺された時、君もその場にいたそうだね。先程君は、二重スパイだと疑われて殺されかけたと言ったが、そのキッカケは何かな。実行できない命令が下っていた、そうじゃないのか? それを実行できないから、相手は君に探りを入れる事になった。そのキッカケとやらが赤澤邦仁、彼だとしたら、君は潜入を失敗した上に、暴力団幹部に絆され、流された、という事になる。もし君達が既に関係を待っているのならば、あの時、赤澤邦仁は君を庇った、そういう事になるのではないのかね」



「それは………」



何も言い返せなかった。違う、と否定できれば古賀さんの信用は取り戻せる。いや、否定する材料が皆無だという事を、古賀さんは見抜いたうえで俺を追い込んだのだ。



「彼は相当君を大切に思っているようだな」



そう、淡々と。



「そして君も」



動揺した俺に古賀さんはふっと笑う。この人はいつも簡単に俺を制してしまう。



「追って連絡を入れる。大人しく部屋で待っていなさい、分かったね?」



「………はい」



この人は、俺を引き上げるつもりはない。ヤクザの若頭である赤澤と関係があると疑っている俺を日の当たる所へ戻すはずがない。俺は、この人にとって今もこれからも、使い捨ての良い駒でしかないのかもしれない。だとするならどうやって、荒木を止める事ができるだろうか。俺はあの組織を壊滅させなければならない。荒木を止めなければ、赤澤は永遠と狙われてしまう。古賀さんと別れた後、俺は部屋へ戻り、熱いシャワーを浴びた。大人しくしろと言われたが、大人しくしていた所で状況は何ひとつ好転しないと分かっている。


どうするのが得策か。やはり、荒木に接触するしかないだろうか、あいつに直接会って、駆け引きが出来ればまだ望みはあるだろうか。今、俺にできる事はそれくらいか。俺はシャワーから出て、タオルを腰に巻いたままリビングに戻る。濡れた髪はそのまま、携帯を手に取って電話を掛けた。しかし、「お掛けになった電話は…」と、使われていたはずの荒木の携帯電話は繋がらなかった。しばらく考えたが、黙って部屋にいる事もできなかった。焦りに鼓動が速くなり、何かしていないと落ち着かなかった。古賀さんに家にいろと、動くなと、手綱を引かれるが俺は初めて無視をした。服を着直して部屋を出た。荒木に会わなければならない、その一心であいつが居そうな場所を探す。情報を渡していた公園、そして会っていたあの安アパート、その周辺をしばらく探したが荒木の姿はなかった。


安アパートに関しては、まるで人が住んでいなかったかのように、物はひとつもなく、人の気配すらなかった。徹底して俺の前から消えた荒木に、俺は何としても会わなければならない。会えないのなら、あいつを誘き出すしか方法はない。


昼頃、俺は何食わぬ顔で事務所に戻った。赤澤が刺されてから顔は出していなかった為、全員が全員、妙な面持ちで俺を見ていた。そりゃそうかと、納得しながら心地の悪さだけを感じていた。ここでは俺は、若頭の盾になることができなかった出来損ない、なのに赤澤組長が直々に俺を助けたのだから、ここの連中は俺に対して得体の知れない何かを感じ、不信感を抱いているようだった。



「集金行ってきます」



顔の腫れはだいぶ引いていた。体はまだ至る所が痛んでいた。街中をうろつき集金という名目で、荒木に俺の居場所を教える。もし、俺がひとりで隙を見せれば、あいつに雇われた誰かが殺しに来るかもしれないと俺は踏んでいた。荒木に会わなければ交渉すら出来ないのだから、一刻も早く会う必要があると焦る俺の期待は裏切られる。まるでそんな組織は存在しなかったかのように音沙汰なく、淡々と日々が過ぎていくのだ。


顔の腫れが完全に引いていた。抜糸も済み、体のあざも薄くなる。組内では斉藤の破門が解かれる方向で話しが纏まりつつあった。野上が森へ話をつけたようだった。赤澤組長へ探りを入れるが、荒木が接触している様子はなかった。


斉藤は俺を黒だと知りながら、特別俺を潰そうと動こうとはしなかった。動けば赤澤に危害が加わると思っているのかもしれないし、もう俺には組を破滅に追い込むような力はない、と判断したのかもしれない。斉藤の本心は分からないが、斉藤が俺に接触する事はなかったし、斉藤が上に掛け合う事もなかった。


ただ過ぎていく日々に、赤澤だけがまだ戻らなかった。そんな世界に俺は取り残されるように組にいた。荒木に、あいつに会わなければ…。そう急ぐ気持ちだけが宙を虚しく漂い続ける。焦れば焦るほど、何も出来ない自分の不甲斐なさが浮き彫りとなっていった。


繁華街、夜も遅く、しとしとと小雨が降っていた。ここ数日、仕事が終わると俺は赤澤の家へと足を運ぶようになっていた。大金を払ってでも赤澤の始末を願う者がいる以上、あいつは狙われ続けている。だとするなら、赤澤の部屋に明かりがついていれば、刺客が来るのではないかと考えたからだった。あいつのいない部屋で俺はひとり、そこに居座っては時間が過ぎるのを待っている。今日もまた、赤澤の家に帰る途中だった。だが、いつもと違う何かを感じた。同じ帰り道、同じ景色、違うのは何か。歩く速度を少し落とした。そうして気付いたその違和感。


……視線、だ。誰かが後をつけている。


荒木に雇われたヒットマンだろうかと、ビルとビルの間の細く汚い路地裏に入る。入ってすぐ足を止め、後ろを振り返った。



「お久しぶりです」



そう笑っていたのは荒木だった。ひらひらと手を振り、俺をじっと見ている。ようやく、捕まえた。



「探しました」



そう声を掛けると、「ですよね」といつもの調子で笑っている。



「話があります」



「えぇ、俺も。ここでは何です、近くに車を停めてありますので、ひとまず移動しましょう」



誰がついていくかよ。そんなの自殺行為だろうがと断ろうとして、背後を取られている事に気付いた。俺が荒木に気を取られていた間に、どうやら逃げ場を奪われたらしい。この状況を生み出した自分に対して苛立ちを感じるが、今は冷静に対処しなければ、呆気なくこいつらに殺される。



「指示に従ってくれますね」



荒木は楽しそうに微笑んでいた。背後に音もなく近付いた男は、銃口を俺の背中に突きつけ、言葉も吐かずにただ威圧する。暗い場所で顔はよく見えないが、俺よりも頭ひとつ分デカい。体格も良い。正面から挑んでも、力でぶつかれば勝ち目は無い。死を覚悟しろと言われているようだった。



「車には乗りません、…そう答えたら、殺しますか」



様子を見ようかと、俺は従うふりしてそう両手を上げながら荒木に訊ねると、荒木は優しく微笑んだまま答える。



「話があると言いました。それを飲み込んでくれるまでは生かしておきます」



なるほど。荒木はまだ、俺に何かを求めている。俺に価値があると踏んでいる。それは裏切りが分かっても尚、俺を生かさなければならないほどの何か。それなら俺はまだ、殺されない。



「保証がないようでは動けません」



一歩、後ろへ下がる。



「でも、青木さんに選択肢はありません」



「…さぁ、どうでしょう」



後ろの男は荒木の指示がない限り俺を殺せない。つまりこの銃はただの脅し。それが分かればこちらのものだと身を翻し、男の隙をついてベルトからナイフを取り出した。瞬時にそれを振り翳す。ひらりと男はかわし、俺は一歩踏み込んだ。相手がプロだという事は一目瞭然で、男は一瞬の隙を見て、切り掛かった俺の手首を掴み、問答無用で捻った。痛みについ、ナイフを落としてしまったが、男は油断したように思えた。体を男の方に勢いよく寄せ、その手を離させる。雨が降り、視界がかなり悪い。撃たれないのなら上等だと体勢を整え、ナイフを構えた瞬間、「もうよしましょうか」そう荒木の声が後ろから聞こえた。その瞬間、バチンと体中に突き抜けるような鋭い痛みが走り、体は冷たいコンクリートに叩きつけられた。何をされたのかと理解する間もなく、そのまま気を失った。


再び目を覚ました時、そこが何処かは分からなかった。打ちっぱなしのコンクリートの天井と床と壁。窓はない。けれどカビが生えたジメジメした地下室ではなく、比較的に利用されているらしく、清潔感はあり綺麗な場所だった。ただ、甘ったるい香水の匂いに吐き気を覚える。この家主の趣味だろうか。悪趣味だなと俺は鼻をおさえながら、ゆっくり上体を起こして辺りを見回した。ここを所有しているやつはきっと、かなりの金持ちなのだろう。目の前には大きなスクリーンがかけられ、オーディオルームとして使っているのか、シアタールームとして使っているのか、大きなスピーカーが設置されている。部屋の奥にはバーカウンターがある。金が掛かっていそうな部屋だが、暖房設備はなく、かなり肌寒い。濡れた体には堪えた。着替えもなく、タオルもない。寒いな、と体がガタガタと小刻みに震える。それに首が死ぬほど痛い事も難点である。体中が筋肉痛のように強張り、痛みについ顔を顰めてしまう。


はぁ、と溜息を吐きながら横を見る。きっとここの主であろう荒木が、派手な色のシングルソファに深く腰を掛け、分厚い本を片手に俺を見ていた。その顔は呑気にも微笑んでいる。



「気分はどうです?」 



良いわけがあるかと苛立った。言葉を無視して、俺は引き続き部屋の中を見渡し、自分の背後も確認する。俺が寝かされていたソファの後ろには、観葉植物がいくつか置かれ、そして上階に上がるための階段が奥にあった。俺の位置からは10メートルほど離れており、今走って逃げようとしても荒木にあっさりと捕まる事は馬鹿でも想像できるだろう。首をさすりながらまた荒木を見る。荒木はパタリと本を閉じた。



「手荒なマネをした事は謝ります」



「そうですか」



「体、痛みますか?」



「痛みます」



「しばらくは痛みが続くかと思いますが、そのうち痛みも引きます」



「…で、俺に話って何ですか。俺を生かしておくからには、理由、あるんでしょう」



「さすが青木さん。その通りです。でもまずはそちらの要件を聞きましょうか」



青木は優しく目尻を下げる。



「は?」



「青木さんも俺を探していた、そうでしょう? でしたらお先にどうぞ。聞きますよ、青木さんのお願い」



今はどう足掻いても俺に勝ち目のない状況だった。ベルトに挟んでいた唯一のナイフもない。携帯もどうやら取られたらしい。素直に従う他ないなと、俺は座り直して荒木に口を開く。



「赤澤には一切手を出さないで下さい。それから松葉への脅し、そしてそっちのヒットマン、切田と関係のある男の解放、切田にももう近付かないで下さい。それがこちらの要件です」



そう、願いを伝えたところで、主導権を握る荒木が断る事は想定内だった。しかし、「分かりました」そう荒木は二つ返事で承諾した。動揺し、眉間に皺を寄せて荒木を見つめる俺に、荒木はふっと表情を緩める。



「全て飲みましょう。良いですよ」



そんなわけがない。荒木は可笑しそうに眉を顰めて笑っている。



「どうしてそんな顔をするんです? 俺は良い、と言ってるんです。条件を飲みます、と」



いや、違う。素直にこの男が飲むわけがない。



「……交換条件、でしょうか。だから俺を殺さず、生かしてる。違いますか」



荒木の片眉が上がる。



「話が早くて助かります。こちらの条件は簡単です」



やはりそうか。荒木は俺に体を向けると口角を上げた。



「青木さんはもう二度と裏切らないと誓って下さい。ここにいると、俺の良きビジネスパートナーだと、誓って下さい。だって公安の刑事を組織に入れるのって、とても好都合なんです。手離すなと、上がね」



あぁ、なるほど。そういう事かと俺は荒木から視線を外して少し考える。素直に頷ける条件ではもちろんない。



「嫌だと断れば?」



「稗田を使って松葉を脅し続け、内部情報は全て渡すよう指示を出します。さすがに全て、となると、断るかもしれませんから、稗田には少し、痛い目に遭ってもらいましょうかね。そうすれば、脅しじゃないと分かってくれるでしょうから。それから、切田と接点のあったあいつには死んでもらいます。切田の目の前で、拷問して、血みどろに、死んでもらいます。アレはもう潮時でしょうから」



そこまで早口で言うと一呼吸置き、ソファの背に深く寄りかかる。



「それから、赤澤。分かってますよ、青木さん。赤澤は自分が始末すると言い続けてますが、本心は違う。あなたに赤澤を殺せません。…俺ね、思ったんです。あれが刺された時、青木さん、嬉し泣きするかと思ったんです。でも、違った。絆されてしまいましたね。だとするなら、あなたの目の前で赤澤をなぶり殺す事は最も効果的かなって」



ひくっと目の下が痙攣する。荒木はうっとりと、目を細め、にやりと不気味に笑う。



「アレ、良い男ですもんね。俺のタイプじゃないけど、あーいうのが好きなやつって結構沢山いますよね。しかも本物の極道を輪姦せるって、絵になると思うんです。あ、もちろん、撮影しなきゃですね。背中の刺青は何が入ってるのでしょう? もちろん知ってますよね? 撮影するなら、背中の刺青が映えるように、後ろからこう……」



「いい加減にしろ」



荒木の挑発に反応した今、俺は全てを認めたようなものだった。荒木は乗ったなと、とても愉悦そうに笑っている。



「怖い怖い。怒らないで下さい」



敵に回したくないと分かってはいた。こいつが敵に回れば相当厄介だと。それでも俺が上手く立ち回れなくなったのは、やはり、あいつが原因なのだろうか。あいつに近付いたからこうなった? 自由になる為には、あいつを殺す必要があったのに。あいつは散々、俺を苦しめたのに。なのに、どうして、あいつが死ぬ事を今になって認められないのだろう。荒木に微笑まれると、腸が煮えくり返るような苛立ちにを覚え、強く、強く、あまりにも強く拳を握ったせいで、掌に爪が食い込み、気付けば血が滲んでいた。ぎりっと奥歯を噛み締めていると荒木は口角を上げ、首を傾けた。



「青木さん、あなたが拒否するのなら、そちらの願いは破棄されます。だったらこのままここにいて、情報をこちらに流した方が得策じゃないですか。大丈夫、あなたは脅されてやっただけ。…ね?」



「……その前に。ひとつ聞かせて下さい。俺を欲しがる理由は俺が公安だから、そうですか? もしそうなら、公安だと言う情報はどこから?」



「情報源を俺が明かすと思いますか」



「ならそのうち分かる事ではありますので言いますが、俺は正式な公安の刑事ではありません。俺が公安として情報を流せるかと言えば、答えはいいえ。あなたが欲しい情報を俺が持っていないから約束は破棄、なんて事になったら困るんで、先に言っておきます」



「あー、そういう事ですか。それはご安心下さい。正式な刑事ではない事は分かってます」



「なら、どうして……」



俺の眉間は更に深くなる。こいつが欲しい情報って公安が掴んでいる何か特定の情報じゃないのか…? そう怪訝な顔をする俺に対して、荒木は恐ろしい答えを口にする。



「あなたが古賀の犬、だからですよ」



その名前が出て、俺は一気に青ざめた。荒木は畳み掛けるように言葉を続けた。



「あの古賀が目をつけた。それなら、この上ない人材です。この組織としてはあなたが欲しくて堪らないんです。この組織には元公安が他にもいます。昨日、あなたに銃をつきつけたあのデカい男がそうです。でも、彼は古賀との接点はありませんでした。当時は公安の内部情報を流してもらってましたがね、今はもう辞めてしまいましたし。だから今は俺の用心棒。ね、青木さん。悪い事は言いません。報酬も上げましょう。先程の約束の為にもこちらにつきませんか? そして古賀からの情報を俺達に流して下さい。あなたは古賀の顔を知り、古賀に唯一近付けるのですから」



俺を殺そうとしたこの男が、俺と古賀さんの接点を見つけるや否や、俺を引き込もうとする。何故、古賀さんなのだろう。何故、名指しなのだろう。俺には理解のできない事が山のように降りかかり、俺は一旦自分を落ち着かせるように呼吸を整える。



「古賀、という名前は何処から?」



「詳しい事は教えられません。ただ、この組織は昔からあの人とは確執があるんです。分かってると思いますけど、あの人はこの組織の尻尾を掴んでさっさと潰したい。だからあなたもここへ送られて来た、そうじゃありませんか?」



「……」



そこまで調べがついてるのであれば、言い逃れは出来ないし嘘も通用しない。俺は苛立ちにまた奥歯を噛み締めた。



「でも古賀はこちらの正体をなかなか掴めずにいます。こちらも同じ、こっちの近しい組織や潜入していた場所が摘発され、損害がかなり多く出ているのに、古賀の正体や素性には辿りつかない。さすがに、この国も馬鹿じゃないんだなぁーと思いましたよ。ふふ、俺達を追い込む唯一の存在、その相手の事が未だに分からない。ただ、偽名か本名か分からない苗字だけ手中にあります。そんな中、あなたの正体を掴んだ。古賀、と聞いた瞬間、あなたは顔色を変えました。古賀はあなた達身内にもその名で通してるという事です。さて、青木さん。古賀の正体、教えてくれますね?」



焦り、不安、苛立ち、嫌な汗が背中を伝うようだった。脈が速くなり、呼吸が少し荒くなる。あの人を売れば俺はまず間違いなく、二度と這い上がる事はできない。日の当たる場所へ戻る事はできない。絶対に裏切る事の出来ない相手が、古賀さんだという事は俺が一番良く分かっている。俺はなんとしてでも、這い上がりたい。こんな所に、俺はいるべきじゃない。


でも、俺が拒否をすれば赤澤はどうなる。こいつらの手によってトドメを刺される。…分かってる。選択肢はもう無い。荒木はふっと笑うと、俺の横に座り直した。



「あぁ、良いこと、教えてあげましょうか」



荒木はまるで俺の考えている事を察したように、自分の胸ポケットから俺の携帯を取り出し、その画面を俺に見せた。メッセージが3件、着信が2件、入っていた。



「意識を取り戻したみたいですね」



それらは全て、赤澤からだった。



「安心、しましたか? 嬉しくて泣いてしまいそうですか? メッセージ入ってますよ。あぁ、ご心配なく。ロックが掛かっていたので中は見てません。でも、ほら、『今、どこにいる』ですって。探してるみたいですよ。でも、青木さん、今のあなたにとって彼が生きている事は少し厄介でしょうか」



そう言うと荒木は俺の濡れた髪に触れ、横へと流すと、じとっとした目つきで俺を見た。楽しそうに口角を上げ、俺に逃げられない状況だと、嫌な笑みを溢している。



「赤澤の所にはひとり、送り込んでます。そいつには赤澤を始末できなければ、切田を殺すと伝えてます。青木さん、切田の行方も知ってますよね? 病院にいるなんて嘘に騙されてしまいました。さて、時間は待ってくれませんよ?」



痛い。痛い痛い痛い。何が痛いのか分からない。途端に恐ろしいほどの恐怖に思考がぷつりと停止して、何も考えられなくなっていた。逃げ道を考える余裕もない。でも、ここで屈してしまえば俺は這い上がれない。今までの俺の努力も、何もかも、全てが水の泡になる。そんなの耐えられるかよ。さんざん足掻いて苦しんできたんだ。


なのに、なのに…



「赤澤……」



あいつが殺される事が、いなくなる事が、何よりも、今は……



「はい、彼がどうしました?」



「本当に、殺し屋はあいつの所にいるんですか」



荒木は少し考え、それから自分の携帯を懐から取り出した。電話の発信ボタンを押すと、スピーカーに設定し、俺の目の前にその携帯を置く。そこにはSとだけ、名前が表示されている。相手はすぐに電話に出た。



「状況報告をお願いします」



荒木がそう問いかける。



『病室の明かりはついてます。先程と変わらず、病院近くの駐車場には葉山組の車が2台、常に待機しています。車内には2人と2人。計4人。病院内には、4人の用心棒がいます』



荒木はふっと目を細めると小さな声で「だってさ」と笑う。このSと表記のある男はきっと赤澤を刺した男だ。顔に傷のある、切田が心配していた男。そしてその男は今、切田を人質に取られ、赤澤の病院の前にいる。



「赤澤が中にいると、確認は取れていますよね?」



『えぇ。308号室、病室は変わってません。…実行に移しますか』



そう男の声を聞き、俺は恐ろしくなって荒木を見た。荒木のほくそ笑む顔に、「分かった」と俺は返事をするしかなかった。



「その代わり、今すぐそいつを赤澤から離れさせて下さい。そいつ、切田が心配していた男ですね? だとしたらそいつの解放も。そして稗田も。この一件から、手を引いてください。それが条件です」



「手を引けば青木さんは一生こちらのもの。もう二度と裏切りませんよね? 赤澤にももう接触はしませんね? 青木さんは、もう、ここの一員。外部との接触は控えて頂きたい」



「条件は飲みます」



「良かった。嬉しいです。とっても。俺は青木さんと仕事するのがとても、楽しかったので」



荒木はそう満面の笑みを浮かべると、「聞こえましたか」と電話相手に声を掛ける。



「あなたにとっては救世主現る、ってところですね? あなたはこーんなに優しい青木さんを殺そうとしたのに。皮肉なものですね。…さて、そこを離れて良いですよ。今夜限りでうちとの関係は解消です。二度と、この街に現れないように」



『………分かりました』



「切田さんにどうぞ、宜しく伝えて下さい。では」



荒木はそう伝えると電話を切った。



「彼、あなたも、俺も、本気で殺したいようでした。怖い飼い犬でした」



荒木はそう言うと口角を上げた。



「……俺が、切田の口封じを命じたからですね?」



「えぇ。そして俺が殺せと命じたから。あれは少々厄介です。身内に置くには信用なりません。あなたの願いでなければ始末しようと思ってましたが、他でもない青木さんのお願いですからね。…さて、本題といきましょうか。古賀という男の情報を教えて下さい」



もう、逃げられない。俺が約束を破る事は、逃げる事は、許されない。



「分かりました。では…何を知りたいのですか」



俺は覚悟を決めた。聞かれた事に対して、こいつには嘘が通用しないだろうから。



「あ! その前に!」



しかし突然、荒木は何かを思い出したように立ち上がり、「用意しなきゃ!」と上階へ繋がる階段を上り、誰かと話しをするとすぐに戻って来る。何事かと、俺は状況が読めず荒木を見た。情報収集よりも重要な事とは一体何だろうか。荒木は興奮しているようだった。そうして俺の目を見ながら、上機嫌に語りだす。



「ほら、ヤクザの背中の大きな刺青、あれって極道として生きていく、つまりカタギには戻らない、その意思を表す証明みたいなもの、なんですよね? 似たような事、俺達もしてるんです。ただ、俺たちの場合、潜伏してナンボなので背中に刺青なんて事は出来ませんが、俺達は命が尽きるまでこの組織に支えると、証明して頂く必要があります。ファミリーはみんなするんです。だから、ね、青木さんもファミリーとしてここに認めます」



「ファミリー……?」



「えぇ。死ぬまで、あなたは俺のファミリーです」



上が騒がしくなった。そちらを見ると男が数名、階段を下りてくるのが見えた。俺はその男達の顔を覚えようと凝視する。ひとりは先ほどの運転手。ひとりは俺の背後を取ったあの男。他にふたり。170センチくらいの細身の男、髪は明るい茶髪、年は20後半くらい、左手の甲に大きな火傷の痕。もうひとりはその男と背格好は同じくらいで、年齢は30後半くらい、髪は黒、短髪、右目の目尻に小さな傷。男達の特徴を目に焼き付ける。



「押さえつけて」



荒木のその指示を聞くと男達は突然、俺の方へ腕を伸ばし、そのまま体をコンクリートの地面へと押し倒す。仰向けに寝かせられ、ひとりは右、ひとりは左、俺の腕を固定した。体重をかけられ、俺は抵抗しようと体を捩るがびくとも動かない。何をするつもりか、どういう事なのか。読めない行動に緊張し、体が強張った。



「何を、…する気ですか」



冷静になろうと恐怖を殺して荒木にそう訊ねる。荒木は視界から消えていた。俺は灰色の天井を見つめ、荒木の返事を待つ。



「ここの一員である証明ですよ。裏切らないと、誓いを立てるんです。俺達にしか分からない証拠を残すんです」



そう言うと荒木はそっと俺の横に座り込み、冷たい手を腹部へ撫でるように滑らせた。



「どこが良いでしょうか」



「…何をするか言ってもらえませんか」



「分からない方がドキドキして良いじゃないですか」



本当に何をされるのか分からなかった。情報を聞く前に何かをするつもりなのだから、殺されはしないだろうとは思うが、確証は得られない。突然、やっぱり要らないと殺そうとしても荒木ならあり得るような気がして、恐怖に嫌な汗をかく。生唾を飲み込むと、荒木は俺の顔を見下ろし、そしてその視線は俺の喉へと下ろされていた。その頬は興奮に緩んでいる。



「さすがにここは、無理でしょうかね」



冷たい手は首にかけられ、俺の体はひくっと反応する。その反応を見てふふっと笑い、手はするりと下へ伸ばされる。



「決めました。ここに、しましょうか」



荒木の真っ黒な瞳は俺をじっと見ていた。荒木の手は、俺の右の内腿に触れている。



「だから、何を…」



荒木は俺のベルトへと手を掛け、カチャカチャと音を鳴らして器用に外すとジッパーを下げる。冷静になろうと頭を回転させるが、何をされるのかと恐怖は思考を支配する。脱がされたそのスラックスは乱暴に放り投げられ、ひとりの男が俺の左足を押さえつけた。



「おい…! 離せ…ッ」



恐怖に抵抗して溢れた言葉に、荒木はとても愉快なものを見る様に目を細めて口角を上げて笑っている。



「何をされるか分からないのに、やめてほしいんですか。もしかしたら好きかもしれませんよ?」



荒木はそう言って立ち上がった。荒木と入れ替わるようにひとりの男が俺の右足を押さえつける。内腿が露わになるよう脚を開かせ、膝を強く床へ押さえつける。体は全く動かず、強引に抜け出そうとしても、体力を失うだけだった。荒木は上階へ上がり、何かを手にして戻ってきた。それを見て、俺は理解する。逃げなければ、そう俺の体はこの状況から逃れようと必死になった。じわりと額に汗が滲み、動悸と震えも伴った。



「荒木、頼む……嫌だ、」



「もう二度と、裏切らないで下さいね。…青木さんは、こちらの人間です」



瞬間、右の内腿に押し付けられたソレは皮膚を焼き、肉を焼いた。嫌な臭いが漂った。焦げた臭いが鼻をつく。焼けた皮膚の痛みに悲鳴をあげ、逃れようと体をよじる。荒木は俺の体に痕を残し、俺はぜぇはぁと肩で呼吸をした。



「小さな焼きごてです。俺は左の内腿にあります。これでお揃いです」



荒木はそう言うと俺の顔を覗き込み、頬に触れ、そっと額にキスを落とした。



「ようこそ、デセオへ」



デセオ。こいつらはそう、自分達の事を呼んでいるのだろう。俺はじくりとした強い皮膚の痛みを感じながら、顔を顰めて荒木を見上げた。



「もう良いですよ。後は俺がやっておきます。仕事、戻って下さい」



荒木の言葉に男達は俺から離れて部屋を出た。荒木は何処からか救急箱を持ち出し、そこから何かを取り出して、焼いた皮膚に塗り、ガーゼを傷口に当て、包帯で固定した後、氷嚢を当てる。



「青木さんも悲鳴とか上げるんですね。勃ってしまいました」



「あんたって、相当イカれてるんですね」



「褒め言葉として受け止っておきます。…これ、当てといて下さいね。今はかなり痛むでしょうが、そのうち痛みは引きます」



俺は氷嚢を受け取り、顔は顰めたまま荒木に訊ねた。



「荒木さん、あんた、本当は俺の事、殺したいんでしょう」



この焼きごてを当てた時、俺の首に触れた時、こいつはやけに興奮したように頬を紅潮させていた。こいつの本音は俺を今すぐにでも嬲り殺したい、そう書いてある。



「どうしてです?」



でもその感情を隠すように、荒木は優しく微笑んで首を傾げる。



「やけに嬉しそうな顔してましたから」



「あなたがこちら側に来てくれた事に対して嬉しいんです。古賀という男の正体をようやく掴める事もそう、あなたとまた仕事ができる事もそう、それにあなたみたいなタイプの人間が、恐怖に喚いて、痛みに悲鳴を上げるから、単純に興奮しただけです」



「本当に、それだけですか。なら、俺が裏切ったと知って、最初殺そうとしたのに、どうして今はこっち側に引き込もうとするんです」



「……あー、まぁ、そうですよね」



荒木は珍しく口籠もり、救急箱を片すとソファの上に座り直した。



「正直に言いましょう。あなたを殺さず幹部にしろというのは上からの指示です。俺は裏切り者は許せないタチなんで、今すぐあなたを散々苦しめてから殺したいと想像しててしまう。けど上は、青木さんが古賀と繋がっていると知り、絶対に殺すなと。命拾いしましたね? 青木さん」



やはりな。



「そうですね」



投げ飛ばされていたスラックスを手に取り、痛む足を庇いながらゆっくりと履く。雨で濡れていたそれは、まだ乾ききっておらず、気持ちが悪い。早く帰って着替えたいと俺は溜息を吐いた。



「では続き。教えてもらいましょうか。古賀のことを」



「何を、知りたいのですか」



「そうですね、まずは、下の名前知ってます? それから見た目も。写真なんてあったらとーっても助かりますが、そんな都合の良いもの、ありませんよね? あとは、住んでいる場所や車なんて知ってたら、とても助かります。青木さんの知ってる情報、全て、教えて下さい」



荒木の和やかな顔を見て、苛立つ感情を抑える。氷嚢を火傷に押し当てながら、俺はゆっくりと、古賀さんの特徴を伝えた。



「見た目は…50代半ば、男、短髪の黒髪、背は175くらい。細身で筋肉質。右の頬にホクロがひとつ。大きな口が特徴、鼻筋が通っていて、彫りが深く、少し日本人離れした印象を持ちます。それ以外は生憎、俺には答えられない質問です。本名は知りませんし、下の名前を呼ぶ事はないので知りません。住んでる場所なんて、普通の会社員ですら上司の住んでる所なんて知らないでしょう」



「へぇ。…名前は知らず、住処も知らず、ですか。あなたはどれほどこの組織にとって価値があるのでしょう」



価値がないのなら殺すのも辞さない、そう面と向かって言われる。こいつは上の命令を無視してでも俺を殺す事はあるのだろうか。もし俺を殺したらその時は赤澤の事は諦めてくれるのだろうか。実際、赤澤を殺せと命じた人間がいる。つまり、あいつは金になる。それでも俺を殺せばあいつから手を引く事は有り得るのだろうか。いや、引かないだろうな。俺があいつに執着している限りは絶対に引かないだろうし、俺を殺したって金になる赤澤を殺す。


どうにかして荒木を赤澤から離すことは出来ないだろうか。



「…荒木さん、携帯、良いですか」



「何に使うんです?」



「赤澤の安否、確認したいので」



俺は、赤澤との関係を切る必要があった。荒木から見て、俺はもう赤澤と関係がないと少しでも証明しなければならなかった。俺にとってあの男はもう脅しの種にはならないと。



「本当に殺してませんよ。…それにアレは外部の人間。もう、関わらないで頂きたいのですが」



荒木はそう言いながらも携帯を俺に渡す。



「電話をしたらもう二度と関わりませんよ」



「へぇ。そう簡単に割り切れるものですか」



地下室の電波は最悪だったが、無いわけではなかった。俺は携帯を操作しながら、荒木を見上げる。



「あんたが望むように、俺は赤澤と関係を断ちます。なので荒木さん、一芝居、打ってください」



「芝居?」



荒木は小首を傾げると、不思議そうに眉間に皺を寄せなが少し考えている。二度と、あいつを俺の弱味にする事はできない。だからこうするしかない。これは荒木にとっても好都合に動くだろう。だから荒木は断らないと、俺は深呼吸した。



「俺を、殺して下さい」



荒木は目を見開くと、理解したようでにやりと笑った。



「どうやって?」



「銃で。ひと思いに」



「銃で、ね。良いですよ」



荒木はそう微笑むと階段を上がり、ドアを開けて入口に立っている男から銃を受け取った。階段を降りて来ると、俺の前で弾が入っている事を見せる。 



「赤澤との関係を切った、だからもう関係はない。同じに使うな、って事ですね? 赤澤を殺すように依頼は入っていましたが、青木さんが古賀について教えてくれればそれで良いのに。用心なことですね」



「赤澤が俺の弱味だってあんたは知ってますから。きっちり外部と遮断してやるって言ってるんです。感謝して下さい」



「そこまで赤澤が大切なんですね。最初は本当に嫌悪していると思ってたんですよ? すっかり騙されました」



荒木の楽しそうな顔を見ながら、電波がまだマシな階段付近へ行き、寝ているだろうかと思いながら通話ボタンを押した。コール音が鳴ってすぐ、赤澤は電話に出た。



「もしもし? おい、青木か、今どこにいる」



久しぶりに聞くその声に、安堵する自分が嫌だった。思っていた以上に重症だなと頭を掻きながら、階段に腰を下す。荒木はこちらを見下ろしながら微笑んでいる。



「おい、聞こえてんのかよ」



「聞こえてるよ。案外元気そうだな?」



「お陰様で。あんた、生きてたんだな」



赤澤はホッとしたように、落ち着いた声で話す。俺は心の中で大きな溜息を吐いた。



「生きてた」  



「なぁ、今、どこにいる?」



「……どこでも良いじゃない」



「どこでも良いわけねぇだろ」



電話の向こうで赤澤が呼吸を整えた。はぁ、と深く溜息を吐くと「青木、」と続けた。



「分かってンだろうが、狙われてたのは俺じゃない。あんただ。だからあんたを迎えに行く。逃げ回ってんなら、場所、教えろ。どこかに隠れてンだろ? どこにいるのか…」



「もうお前とは会わねぇよ。この件から身を引く事にした。斉藤の破門も解かれるだろ? このままいけば、安定してお前の親父が次期本家若頭、そんでいずれはトップだ。邪魔な相馬は失脚。お前もいずれその親父の跡を継いで、昇り詰めるのかもな。お前の座は俺が奪ってやろうと思ったけどさ、お前は俺が地獄に落としてやりたかったんだけどさ、俺の計画は失敗。それまでってこと。だからもうお前の前から消えてやるよ」



「……一方的だな」



その言葉に俺はあの時を思い出していた。その言葉は俺が、あの時、心の底から思った事だった。悔しかった。苦しかった。辛かった……。


あれは呪縛だった。



「あの時のお前みたいだろ。一方的に目の前から消えて、それで、はいお終い。俺はようやく自由になれると思った。お前に復讐して、お前さえ消えれば、俺は自由になれるって。でも、……でも、無理だった。なんでだろ。無理だった」



こいつを殺せば、もう、呪縛から解放されると思ったのに。壁にコツンと頭を寄せる。赤澤は何も答えず、黙っていた。しばらくの沈黙の後、「そうだな」と低い声が返ってくる。



「無理だと分かってんならもう諦めろ。居場所、教えろ」



「……それは出来ないな」



「どういう事だよ。そのまま消えるつもりじゃないだろうな?」



赤澤の声がくぐもった。



「さぁね、どうだろ」



「あんた、…本当に今どこにいる? 監禁されてんじゃねぇだろうな」



「赤澤、」



「なぁ、今、何が見える? なんでも良い、言え!」



途端、電話の向こうがガサガサと騒がしくなった。焦ってんのかなぁと、つい可笑しくなった。



「電話したのは、最後にお前の声、聞きたかっただけだから。お前と再会するンじゃなかったよ。良いチャンスだと思ったのにな」



「最後にって…。なぁ、青木、悪ふざけならよしてくれ。頼むから。もう二度と、あんたを離したくない。俺の気持ち、気付いてんだろ。"昔から"お前は分かってたんだろ」



気付きたくねぇよ。知りたくもねぇ。



「お前、刺されて死にそうになって、頭おかしくなったんじゃねぇの」



「刺された時、体が勝手に動いてた。そん時、もう抵抗はできねぇなって思った。…あんたの為なら、なんも惜しくねぇなと思っちまった。そんな風に考えちまうとかさ、何もかも終いなんだよ。堪忍しなきゃならなねぇよな。青木、俺はあんたを失いたくない」



今も昔も、こいつの本音は変わらない。そうだよな…。お前は阿呆だから、俺はこうするしかないんだよ。俺は深呼吸して荒木を見た。荒木は合図を受け取ってカチリと銃の安全装置を外す。



「赤澤。…お前の事好きだった」



これは本音だろうか。それとも赤澤の懐に入るための、いつものような戯言だろうか。



「だからあの時、苦しかった」



いや、分かってる。



「死ぬほど、苦しかった」



これは、



「今でも鮮明に覚えてる。屋上から見た街の景色。お前に言いたい事は山ほどあった。けど、こうして最後となると、…やっぱり伝えたくなるのよな」



「おい…」



「………愛してるよ、赤澤。だから、さようなら」



本音だ。


パンッと耳に響く銃声。荒木は目を細めながら、俺から携帯を受け取り、「こんばんは、赤澤さん」と楽しそうに赤澤に声を掛ける。これで良い。何もかも終いにしよう。



「初めまして。もう今後はそちらのお邪魔はしませんのでご安心を。それが青木さんとの約束でしたので。あぁ、お父様にも宜しくお伝え下さい。相馬に関する情報は全て送ってありますので、と。…アハハハ、えらく動揺してますね? 青木さんは優秀でした。優秀でしたが、詰めが甘かった。結局、あなたを殺せず、なぁなぁにして、だから俺に正体を見破られてしまったんです。極道の世界もそうですよね? 裏切り者は始末しないと、ですよね? まぁ、でも、………」



しばらく荒木は赤澤を煽るように話しては、心底楽しそうに笑っている。赤澤は電話の向こうで動揺してんのかと、俺は頬肘をつきながら荒木を見上げる。荒木は俺を見下ろしながら電話を切ると、そのまま電源を落とし、自分の懐にそれを仕舞った。



「これ、もう必要ないですよね?」



そう楽しそうに笑いながら。



「さて、彼にとっては残酷な結末ですね。トラウマになりそうです」



荒木の顔には愉快と書いてある。



「これで、俺はあいつとの関わりを断ちました。あんたに媚を売っているんです。意味、分かりますよね」



「アハハハ、うん、分かりますよ。十分。良い餌だと思ったんですけど、青木に今機嫌を損ねられると困るのでね。それにひてもあの赤澤がえらく動揺していましたよ。今頃、どうなってる事やら。楽しいなぁ。…さてと、これで青木さん、あなたが外に出る理由は消えました。媚を売られたからには、青木さんの事、たくさん可愛がらないと」



荒木は俺の顔を覗きこむと、俺を煽るように首を少し傾けて口角を上げている。俺は腹が立ってその視線から逃れるように顔を逸らした。



「ねぇ、高校の時、本当は、どういう関係だったんです?」



荒木はそう揶揄うように俺の横に腰を下ろすと、そう質問を投げかける。どういう関係だなんて、どうでも良いだろうに。



「あなたが知ってる通りです」



拳をゆるりと解き、呼吸を整える。荒木に苛立っていても仕方がない。



「いじめっ子といじめられっ子? それだけ、とは言いませんよね。本当は何があったんですか」



「何かあったとして、何故そこまで知りたいんですか。あなたに言う義理は何ひとつありません」



「赤澤始末を命じられたのに、青木さんは従わなかった。青木さんはただ赤澤の居場所を知りたかった、そして側に行きたかった、俺達は青木さんに利用された、そういう事なんじゃないかなーと」



「想像力豊かですね」



「そうとしか思えないですから。それに、もしそうまでして赤澤という男の側を選んだのなら、知りたいじゃないですか。高校時代、自分をいじめていた男へ復讐心を抱き、それが何故、恋心に変わったのか。どうして絆されるようになったのか。本当は、学生時代に何かあったんじゃないのか。再会してから絆されたわけではなく、元から青木さんは赤澤の事が…」



「やめて下さい。恋心なんて笑わせないで下さい。あいつは腐れ縁なだけです」



「愛してる、って本音でしょう?」



荒木はふっと笑う。



「……違います、と言ってもどうせ信じないんでしょう」



「えぇ、信じられませんね。今、本当にギリギリのところを生きていてる青木さんにとって、赤澤との縁を切る事は、俺から赤澤を遠ざける事。それは実質、赤澤を救う事に繋がる。そして自分は死ぬかもしれないと、覚悟を迫られた時、赤澤には本音を伝えたかった。自分がどう思っていたか、最後には本音を。そんなところでしょうか」



「もういいでしょう」



溜息をついて頭を掻くと荒木は口を尖らせ、小馬鹿にするように笑った。



「怒らないで下さいよ。だって興味あるんです。どうして自分を殴るような人を大切に思えるのかなぁーって」



「赤澤に愛してると言ったのは本音じゃない。そう言えばあいつにダメージを与えられると思ったから。自分を好いていた男が殺される、それはあいつにとってかなり打撃があると思った、それだけです」



「その答えは用意してましたか」



しつこいなと眉間に皺を寄せると、荒木は「怖い顔しないで下さいよ」とふっと笑う。



「はいはい、赤澤の事なんてどうでも良いですよね? 俺も青木さんを手放せませんから、今は何も詮索しません。また逃げられたら困りますもんね。だって、古賀が手に入った、そういう事なのですから」



本当に厄介な事になった。ただこれで、荒木はもう赤澤を狙わない。溜息混じりに立ち上がった俺を荒木は見上げると、楽しそうに首を傾けた。



「慰めてあげましょうか」



「ふざけるのも大概にして下さい」



睨みつけると荒木はクスッと笑う。



「残念。俺、けっこう上手いと思いますけど。男も女もイケるクチなんで。青木さんは綺麗な顔ですし、好きなタイプです。俺って面食いなんですよね」



「そうですか」



あの笹野って人は、随分と整った顔だった。ヤクザにはどう見たって見えなかった。そう頭の片隅で考えていると「さてと、」と切り替えたように荒木も立ち上がる。



「教えて下さい。あなたの知ってる古賀について。古賀の下の名前、本当は知ってますよね? 古賀の車だって知ってますね? 隠し事はいけませんよ。俺は青木さんを、信用しています」



荒木は口角を上げる。嫌な男だなと、つくづく思う。こいつはきっとある程度、情報を掴んでいて、俺が素直に吐くか否かを見ているのだ。俺は舌打ちをした。



「………古賀 賢一、だったと思います。下の名前なんて呼んだ事ないので、本当にうろ覚えです。合っているかは分かりませんし、それが本名かは定かではありません。ただ俺は、その名前で呼んでいる、というだけです。車については、国産の高級車、色は黒という事くらいでしょうか」



「車種や銘柄とか分かりません?」



車について食いつくのは、やはり古賀さんが外に出ている時を狙おうとしているからか。荒木はどこまで古賀さんの情報を知っているのかは分からないが、ハッタリは通用するのだろうか。いや、今はこいつからの信用を得た方が身の為か。仲間に引き入れたからには、こいつらの情報は今まで以上に把握しやすくなるだろうから、こんなところで殺されたくはない。だから車についての詳細を述べ、「車番は覚えてません」そう嘘をついて、すぐに特定されないよう伝える。



「運転手っていますよね? どんな方です?」



「専属の運転手がいます。年は40代くらい、性別は男。短髪黒髪、色の白い細い人です。その人の素性も名前も知りませんが、必ずその人が運転をしています。その人が適当に運転しながら、俺と古賀さんは後部座席で話し合います」



「毎回、車で話し合うのですか?」



「いえ、基本的には電話です。公衆電話から電話をかけて情報を報告して終わりです。だから、古賀さんの情報なんて俺はほとんど知る事が出来ません」



荒木はメモを取らない。俺がつらつらと語った事を一切書き留める様子がない。それはこいつが知っている情報だったからなのか、それとも書かなくとも覚えられるからなのか。



「古賀の事をあまり知らない、という事は分かりました。嘘はついていないようですね。でも重要なのは、あなたは古賀を呼び出せる、という事なんです。それだけであなたは十分に価値があります」



「…そうですか」



「えぇ。ところで、古賀の電話番号、頭に入れているのでしょう?」



荒木はそう言うと自分の携帯を俺に渡した。入力しろと微笑んでいる。ここで古賀さんの電話番号を入力してしまえば、一巻の終わり。俺は携帯を受け取り、入力に一瞬だけ躊躇いをわざと見せた後、ある番号を打ち込む。それは電話を掛けたところで一生繋がらない番号だった。家に置いてきた、俺のもうひとつの携帯電話の番号である。バレるのも時間の問題だろうが、今はそれで凌ぐしかない。荒木は「素直ですね」と口角を上げながら、俺から携帯を受け取った。



「この番号ひとつで分かる事は山のようにあるんですよ、青木さん」



嘘をつくなよと、言われているのだろうが、俺は知らないふりをする。



「そうですね。でも今はあなたに媚を売るのが先決かと思ったまでです」



今は一旦、これからの事を考えたい。何をすべきか、どこまで渡すべきか、整理したい。



「わ、嬉しいです。僕はまだまだ聞きたいことがあるので…」



ここで辞めるべきだと、俺は咄嗟に思った。



「荒木さん、悪いけど、少し休ませてくれませんか」



そう訴えると、荒木は「確かに、お疲れですよね」と案外すんなりと受け入れる。奥を指さすと、この部屋の詳細を伝える。



「手洗いは向こうにあります。暗いですけど、電気をつければドアが見えます。シャワーは地下室にはないので、上階になりますが、今日は皮膚を焼いてるのでやめておきましょう。明日、一緒にお風呂入りましょう?」



「一緒に入らなくても逃げません。第一、ここがどこかも知らないんで。逃げようありません」



「怪我人の手伝いをしたいだけです。手は出しません。俺、けっこう一途なので」



「そうですか。なら、」



これは良い機会。少し、探りを入れようかと、俺は荒木の顔を見上げる。



「笹野って人も安心ですね。自分は檻の中なのに恋人が外で好き勝手してると知ったら悲しいですから」



笹野、その言葉に荒木の目の色は分かりやすいくらいに変わった。さて、どこまで効果のある存在だろうか。荒木は俺の一言で、俺が笹野を知っているという事を知り、尚且つ、その名前を教えたのは松葉だと分かるはずなのだ。そうなれば、少しは荒木の立場を揺るがせる。脅しには、脅しを。もしこいつが、赤澤を引き合いに出す事があれば、俺は笹野を引き合いに出せる。そう、荒木は一瞬にして理解したはずだ。


松葉が笹野の命を狙っている事を、こいつはよく、分かっているのだから。荒木は「参ったなぁ」と呆れたように笑った。この荒木にも弱点があるという事は明白だった。



「笹野 旭司。荒木さんが面食いっていうの、よーく分かります。笹野さん、容姿の良い人ですもんね。でも、上はこの事を知らないようですね。荒木さんと笹野さんの関係、どこまで秘密なのでしょう。俺もファミリーとやらになった以上、上と直接会う機会がある、そうですね? そうなれば、口、滑らせちゃうかもしれませんね」



荒木にとって笹野という男は、思った以上に効果があるらしい。



「あーあ、上の反対を押し切ってでも、青木さんを殺しておくべきでした。俺は青木さんをファミリーに入れるのは反対だったんですよ。俺の人生、どーも上手くいかない」



「きっちりと俺の約束、守って下さい。守ってくれれば、俺はあんたの邪魔は一切しません」



「守らなければ邪魔をする、そういう事? それってつまり、俺を脅してるンすか」



荒木の本性が、根っこが、見えた。いつものようにヘラヘラと笑うこの顔から、一瞬にして笑みが消えたのだから。一歩前進だ。



「さぁ? 脅したつもりはありません」



そう言って肩をすくめると、荒木は「ですよね!」とまた微笑み直す。



「俺は昔から笹野さん一筋なんで、あの人に何かあったら、上に逆らおうが何しようが、あなたを消しますよ」



誰であろうと。敵だろうと味方だろうと。その笹野という男が荒木の最大の弱点だという事がこれで十分すぎるほど分かった。良い武器になるよなと、俺は「そうですか」と笑ってみせる。



「では、着替え用意してきますね。待ってて下さい」



荒木は一度上階へ上がり、適当にTシャツやらダサいジャージを持って戻って来た。どこかのチンピラヤクザが着そうだなと思いながらも、濡れている服が嫌ですぐに着替える。



「すごい傷痕ですね」



着替えている最中、荒木はじっと俺の体を見ている。品定めするかのように、頭の先から、爪先までじっと。



「そうですね」



「色んな経験をしてきたのだろうなって、体が物語っているようで、カッコいいと思います。古賀さんもそんな青木さんだからこそ、買っているのでしょうね」



「さぁ。どこまで俺と古賀さんの事を知っているのかは分かりませんが、あの人は俺の功績なんか興味ありませんよ」



「へぇ。そうですか」



着替え終え、ソファに再び腰を下ろすと、荒木は俺にコンビニ袋と新しい携帯を手渡した。



「飯、食べてなかったでしょう? コレ、水とお茶と、あと飯類を色々。好きに食べて下さい。あと、氷はここに。痛みが酷いかと思いますので、今夜は氷嚢を当てて下さい。それと、携帯はこれを使って下さい」



「…あなたとのやり取りはコレで?」



「えぇ。連絡先は俺のだけ登録してます」



「分かりました」



「落ち着いたら、この家を出ても構いません」



「落ち着いたら、ね」



「青木さん、朝ご飯は一緒に食べましょう」



「………はぁ」



「お風呂も一緒に」



「……」



「お背中流しますよ」



「要らないです」



「そうですか? 残念」



荒木は何を考えているのか分からない。見透かしたような瞳、揶揄うようなその表情に、俺はまた苛立ちを覚えたが、何ができる訳でもなく、そのまま無視をするように、分かりやすく溜息だけを吐いた。



「あーあ、幸せが逃げますね」



荒木はそう宙を眺めた。



「悪いけど、もう疲れたんで寝たいんだけど」



「どうぞ、寝て下さい。案外このソファ寝心地良いですよ」



荒木はそう言うと、ソファから腰を上げて俺を見下ろす。



「最後にひとつ。…これは尋問でも何でもありませんが、古賀の弱味って何だと思います?」



あの人の弱味。そんな事、考えた事もなかった。



「………さぁね。知りません。弱味なんて部下に見せないでしょう」



「そうでしょうか。青木さんには見せているかなと思ったのですが」



「…なぜ、俺ですか」



「別に深い意味はありません。ただあなたは正式な公安刑事でもないのに、古賀にとても信頼されているようでしたので。聞いてみただけです。では、今日は疲れているでしょうし、明日また古賀について聞かせて下さい。おやすみなさい」



荒木の考えている事が読めず、俺は調子を狂わされた事に心底苛立ち、頭を掻き、ソファに横になる。部屋の電気がパチリと消される。荒木は地下室から出ると、ドアに鍵をかけたようだった。俺は渡された携帯をしばらく眺めながら、今後、どう動くべきかを考える。逃げ道はないのか、と。


携帯のライトを点け、部屋の壁を伝いながら歩き、どこか抜け道はないかと探してみる。真っ暗な部屋の中を一通り探すが、何もない。組織幹部の家なら地下室から外に出れる抜け道くらいあるんじゃないかと思ったが、そんなものはないし、あるなら俺をここに入れないかと肩を落としながらまたソファに戻る。


しかしこんな所に軟禁されて、外の情報も得られず、発信もできない。ただ、今できることは少しでも多くこの組織の事を知ること。隙を見て全てを古賀さんに渡す事が出来れば、俺はここを抜け出せるし、この組織を壊滅できる。けどその壊滅は早くしなければならない。笹野で脅しを掛けてはいるが、相手は荒木。いつ、赤澤に手を出すか分からない。さっさと終わらせたいと俺は苛立った。


こうなった以上、古賀さんにこの事をどう伝えるかが問題だった。俺は古賀さんを裏切れない。かといって、荒木に嘘を言ったところで通じない。今は浅い情報を小出しに、ここを逃げる道を探るしかない。


情報が鍵になる。古賀さんが俺を助けなければならないほどの情報が。情報さえあれば、あの人は俺をここから助け出してくれるだろうと踏むしかない。その為には、あの人を釣る為の強い情報が必要だった。


けれど情報を得て逃げ出せば、荒木との約束が問題となる。俺がここを逃げて古賀さんに情報を渡す、それはつまり、荒木に飲ませた約束を破る事を指している。俺がここにいる事と引き換えにした条件を、全て、なかった事にする、という事は松葉も切田もその犠牲になりかねない。赤澤もそうなれば、荒木にまた狙われかねない。笹野という男が、どこまで荒木を縛り付けられるのか。それが重要になってくるが、荒木は笹野という男の為なら、あっさりと何もかもを始末して、俺の息の根も止めるそうだなと、容易に想像できてしまう。ならば荒木を恐れて何もせずここにいるか? 八方塞がりな気がしてならないと、体は疲労で悲鳴を上げているのに、脳みそは活発で、全く寝付けそうになかった。様々な考えがぐるぐると思考を支配し、落ち着かず、俺は深い溜息を吐いて水を一口飲む。焼かれた部分へ氷嚢を押し付けながら、苛立ちに舌打ちを鳴らした。


一旦寝よう。煮詰まった頭で考える事など碌でもない。そう目を閉じた。何も考えないようにしようと、脳を休めようと思ってふと考えてしまう。


あいつ、俺が死んだって、本当に信じたのだろうか。


動揺してたって荒木は言ってたけど、あいつも動揺なんてすんだな。そりゃぁ、するか。するよなぁ。俺の事で動揺しちまうのか。


あいつは今、何を考えてんのかな。


氷嚢を太腿から離す。ズキンズキンと離せば疼くような痛みだった。逃げる、逃げない、荒木は赤澤を標的にする、しない、赤澤は…延々と繰り返す疑問。答えは出ないのに、あーだこーだと頭の中では整理が付かず、結局、その夜は一睡も出来なかった。


翌朝、真っ暗な地下室にいるせいで、そこが夜か朝かも分からない状態の中、「おはようございます!」と煩い荒木の声に叩き起こされた。ほとんど寝れず、軽く頭痛を引き摺る俺に、楽しげな荒木の声は心底苛立ちを覚える。



「朝ご飯食べましょう? 上に用意してます」



「腹減ってません」



「そんな悲しい事言わないで下さいよ。一緒に食べれば少しは気も紛れます」



荒木の考えている事は微塵も分からない。俺の腕を引くと階段を上って地下室を出る。部屋中、太陽の光で溢れ目が眩んでしまう。白い壁に白いカーテン、暗闇に放り込まれていた俺にとって、その光は刺激が強すぎた。少しの間、目を慣れさせようと目を細め、睨みつけるように部屋の様子を伺った。顰めっ面する俺を横目に、荒木は俺を洗面所へ案内し、自分はそそくさとキッチンへと消えた。俺はひとり、広い洗面所で立ち尽くし、大きな鏡を目の前に顔を洗う。真っ白なシンクにはカビひとつ生えていない。


新品の歯ブラシとタオルが用意されていて、歯磨き粉はどうやらイタリア語で記載されている。家主はどうやら拘りが強いんだろうなぁと、イタリア産の歯磨き粉らしいそれを眺めながら、シャコシャコと音を立てて歯を磨く。これ、歯ブラシの横にあったから使ったけど、洗顔だったらどうしよう。と思ったがミント感が強いから多分、洗顔ではない。


ふぅ、と一息つきながら、指紋ひとつない鏡で自分を映す。目の下にひどいクマができていた。クマの酷さに溜息を漏らして、窓の外を見る。どうやらここは森の中らしい。どこもかしこも木。デカい木。山奥の高級別荘、といった印象である。逃げようとしたって無駄だろうなと、その景色を見ていると嫌でも檻に入れられている事を自覚する。歯を磨き、顔を洗い、いくらかさっぱりした気分で、荒木がいるキッチンへと向かいながら、俺はひとつ、気が付いた。そういえば他に誰もいない。今、ここには俺と荒木しかいない。逃げようと思えば逃げられるのだ。荒木だけならどうにかなる状況なのでは…。そう思い立ち、キッチンの前で俺は立ち尽くした。


ぐるぐると考えが巡る。逃げるとしたら、場所を把握する必要がある、とか、この建物を出たとして何処へ向かうのか、とか。しかしすぐに、あぁ、これは無謀だなと俺は諦めざるを得なかった。この状況は、俺が逃げないと確信している証拠なのだから。逃げられない。何も考えず檻にいろ、そういう事らしい。ま、そりゃそうかと考えながら、再び歩き出してキッチンに入り、笑顔の荒木に迎えられ、嫌気をさしながらダイニングルームへと足を運ぶ。大きな窓、そこには真っ白なレースカーテンが掛けられている。手前には6名掛け、アンティーク調の木製テーブルがあり、その上には洋風な朝食が既に作られ置かれていた。全て、荒木が用意したものらしい。


荒木はガラスの水差しに水を入れ、それをテーブルに置くとようやく椅子に腰を下ろした。水の中にはローズマリーが入っている。荒木に座るよう促され、対面の席に腰を下ろした。



「いただきます」



荒木のやけに楽しそうな顔を見ながら俺は自分のガラスコップに水を注いで一口飲む。ほんの少し、ローズマリーの味がした。厚切りのトーストを一口齧り、荒木と目が合う。荒木は相変わらずにこやかで、腹が立つ。



「昨日、いた人達は?」



視線を外してそう聞くと、「いませんよ」と荒木はサラダをつつく。



「ここにいるのは俺と、青木さんだけ」



「不用心すぎませんか」



「そうですか? だって、青木さん逃げないでしょう」



だって逃げたら約束はなかった事になりますもんね、そう言われているのだ。そう、だから、ここには誰もいない。策もなしに逃げるのは無謀だった。



「そうですね」



荒木は俺と交わした約束の効果を十分に理解している。これは目に見えない鎖なのだ。嬉しそうに微笑む荒木を見ながら、赤葡萄にフォークを突き刺した。荒木は俺とまた目が合うと、「仲良くしましょう。ここには俺と青木さんのふたりだけですから」そう口角をあげている。



「俺を殺したい人間とふたりきり、俺にとってここは安息の地にはならないって事ですね」



「約束を守って頂ければ、ここは永遠の楽園。青木さんにとって唯一の安息の地。だーれも青木さんに手は出せない。それはどんな相手でも。違いますか?」



荒木はそう言うと、プツッとフォークでプチトマトを刺す。



「さぁね」



外を眺めた。やけに晴天で腹が立つ。少しだけ開けられた窓から小鳥の囀りが聞こえ、そよ風がレースカーテンを揺らしている。



「今日は俺、仕事ないんです。というか、青木さんの監視が仕事です。だから色々、楽しみましょうよ。この家の中も案内します」



「そうですか」



窓の外に向けていた視線を荒木へと向ける。



「もう俺たちはファミリーですから、そう構えないで下さい」



荒木はへらへらと口角を上げていて、それが俺の気に障る。苛立ちを覚えるが、今はまだ、何も出来ない。食欲もなくなる。こんな所、さっさと抜け出したいんだけどな。



「青木さん、少しはリラックスして下さい」



「してますよ」



「じゃぁ、もっと食べて下さい。食パン一口、葡萄一粒、サラダ一口、倒れます。昨日の夜、何も食べてなかったでしょう? 俺の事を信用して、少しは食べて下さい」



「今は食欲がありません。もう十分」



「それでも何かは食べなくちゃ。あ、このリンゴ、美味しいんですよ」



フルーツの盛り合わせから八等分に分けられたリンゴの一片をフォークで刺し、それを俺の皿へと移した。荒木は首を少し傾けて俺を見ると、俺がそのリンゴを一口齧るのを見届けてから、また自分のを食べ始める。



「どうしてそこまで古賀さんに近付きたいんですか」



リンゴなんて久々に食べたが、これはかなり甘い。しゃりしゃりと食べながら、荒木を見る。



「あの人、いろーんな情報を待ってますから。それを武器に俺達の邪魔をたくさんするんです。相手が国であっても、俺達にとって邪魔なら排除すべきでしょう」



「無謀に聞こえますね」



「対国ならそうでしょうが、対人、ですから。人ひとり始末出来ないようじゃ、この組織も終いです。ねぇ、青木さん、古賀という男はどんな人なんですか?」



「どんな人…」



「青木さんから見て、古賀という男がどのような人物か教えて下さい」



ここで嘘をついても良い事はない。あやふやにしたいが、それはかえって怪しい。この男に嘘をつく事は得策ではないが、俺はまだ、日の当たる所へ戻りたい。だから俺は少し考えてから口を開いた。



「食えない人、でしょうか。隙がなく、何を考えているのか分からない。割と手段は選ばず、リスキーな所が少しがあります。冷酷な人なんだろうなと思ったのが最初の印象。でも、たまに笑います。だから人の心はあるんだなーと最近は思います。それくらいでしょうか」



「所帯は?」



「独り身だと思いますよ。知りませんが」



「へぇ。知らないのに独り身だと何故、思うのですか」



「あんな仕事していますし、常に動いています。あの人に家族がいるって、少し想像できません」



していたとしても、きっと、公にはしていないだろうなと思った。



「そうでしたか。参考になります」



荒木は目を細めて微笑んだ。荒木は古賀さんのことを聞き終えると、雑談を始める。今日は天気が良いだの、明日は雨予報だの。俺は他愛もない話しを聞き流す。


朝食を済ませると、荒木は俺をリビングに移動させ、風呂の用意をした。湯が溜まるまでの間、皿を片し、風呂の用意が出来ると、俺を無理矢理に風呂へと入れる。太腿にはガーゼとラップをグルグルに巻かれ、そしてビニールを更に巻かれ、テープで固定される。


風呂場はもちろんのように広く、海外の風呂のように猫足バスタブだった。風呂場の作りが日本人らしくない。さっきの歯磨き粉もそう。どちらかと言うと西洋的である。こいつ、生まれや育ちは日本じゃないのか…? だとしたら、この組織の母体は日本じゃない? バスタブに押し込められながら、俺はバスタブから少し離れた所に風呂用の低い椅子が2脚ある事に気付いた。椅子の前の壁にはよく磨かれた丸い鏡がある。シャワーも浴びれるように低い位置に一ヶ所設置されている。これは少し、日本の風呂の作りっぽい。でもやはり、置いてある物は全て外国製のもので、今回は英語表記である。単純に男の趣味か。いや、どうだろう。


荒木は服を着たまま、バスタブの縁に腰を下ろした。白いシャツの袖は捲られ、麻のパンツの裾も濡れないよう捲られている。



「昨日、ほとんど眠てないですよね?」



荒木はそう言うと俺の髪を撫でる。



「ですね」



「寝ないと保ちませんよ」



「人ン家ってのがね」



「警戒しすぎです」



「…俺にリラックスしてほしいなら、話かけないで下さい。少しは休みたいんです」



「冷たい事を言わないで下さいよ」



「ひとりにして下さい」



「それは出来ません」



「逃げないって分かってるんでしょう? だったら放っておいてほしいんですけど」



「青木さんの事、知りたいんで嫌です。ね、頭洗いますよ? 俺、ヘッドマッサージ上手いんです」



勘弁してくれ。そう顔に書いてあるはずなのだが、荒木は無視するように横に設置されているシャワーを取り、慣れた手付きで俺の髪を流した。シャンプーは柑橘系のアロマオイルのような心地良い香りがした。確かにこれは落ち着く香りだなと、つい思ってしまった。



「好きですか? ベルガモットとカモミールです。良い香りでしょ? 目を閉じていて良いですよ」



心の中を読まれたように荒木はそう言って微笑んでいる。やけに静かな空間で、妙な時間を過ごしている。そうして髪に触れられていると、うとうとと船を漕いでしまう。しばらくして、ひゅうっと肌寒い風が吹いた。その風に目を覚ますと、荒木は窓を少し開けていた。



「風呂から上がったら傷を消毒します。その後は少し寝て下さい」



俺は微笑む荒木を見上げながら欠伸をひとつ。



「こんな生活をいつまで送るつもりですか」



「落ち着くまで、と言いましたよ。今は葉山組もだいぶゴタついてますから、外に出て、万が一、葉山組に見られたらとーっても厄介です。赤澤はもうあなたが死んだと思って組を動かしているはずですから。あなたは突然消えた黒幕にすぎないのですから、今は大人しくしていて下さい」



「そのゴタつきを待っていたら数ヶ月、いや年単位かもしれないですよね」



「ならその間はずっと、ここにいて下さい」



「…冗談でしょう?」



「元はと言えば、あなたが望んだ事なのですから、あなたはどうこう言えませんよ、青木さん」



荒木の濡れた手が頬に寄せられ、俺は荒木を見上げる。



「赤澤を苦しめたいと、だから葉山組に潜入したいと、そう言ったのはあなたです。だから俺達はあなたを信じて送り込んだ。適任だと思ってました。だから力を貸しました。裏切るから面倒な事になるんですよ。命あるだけでも感謝してもらわないと」



荒木はふふっと笑う。俺は荒木から視線を外し、また外を眺めた。風呂から上がると、広いリビングルームのソファに座らされ、荒木は手際良く焼きごての痕を消毒し、新しいガーゼと包帯を巻いて固定する。置き時計が12時少し前を指していた。



「少しは寝て下さいね」



そう言って温かいハーブティーを渡され、荒木は俺の横に座りながら本を開き、同じハーブティーを飲んでいる。



「ハーブティーって味が独特で苦手なんですよね」



そう飲まずに香りだけを嗅いでいると、荒木はクスッと笑う。



「俺も最初は苦手でした。でも子供の時に、笹野さんが落ち着くから薬だと思って飲んでみなさい、って俺に半ば強引に飲ませて、それが案外美味しくて、いつの間にか好きになってました。ちなみにこれは、ラベンダーとカモミール、それと少量のハチミツです。良い香りでしょう? 香りを楽しみながら、ゆっくり飲んで、少し休んで下さい」



荒木はそう言ってまた分厚い本へと視線を落とした。鳥の囀りが相変わらず外から聞こえ、俺は窓の外を眺めながら、そのハーブティーを口にする。全てを飲み終え、しばらくして、俺は強い眠気に襲われた。つい、気を緩めた為か、これがハーブティーの効果なのか。俺はいつの間にか眠ってしまっていた。


再び目を覚ました時、リビングのソファでもなく、地下室のソファの上ではなかった。ふかふかのベッドの上だった。大きな窓があり、カーテンは閉められているが、カーテンから漏れる陽の光で部屋は少し明るい。部屋の外からクラシックギターのレコードが聞こえていた。古いレコードらしく、音質はあまり良くない。ここは誰のなんの部屋だろうかと、体を起こして見渡した。全てがアンティーク調である。金刺繍が施されている青いベルベッド生地のシングルソファが窓際に置いてあり、小さなウッドテーブルには90年代っぽい、海外のファッション雑誌が置いてあった。横には大きな本棚、それから白のウッドクローゼット。中にはロックバンドのTシャツやら派手な柄のシャツが掛けられていた。窓に近付き、そっと外を覗く。山の中にぽつんと家があるように、どこまでも木と草ばかり。ひとまず地図を確認しようかと、枕元に置かれていた携帯を手に取って数秒、いや、やめておこうか、と携帯をまた枕元に戻した。


この携帯は荒木が与えた物。つまり、監視用である。地図の確認がバレてしまえば、面倒にならないだろうか。俺が何を確認しているのか筒抜けだろうから。考えすぎかな。いや、考えすぎ、という事はないだろう。なら、前の携帯を返してもらうよう聞いてみようか。いや、それこそ無駄な事。筒抜けだとしても、荒木に渡された携帯を使って位置を把握するしかない。地図を見る事くらい、相手は予想しているだろうから。そうベッドの上で地図を開いて数分、コンコンと開かれたドアをノックされ、荒木がこちらを見ている事に気付いた。



「逃げるんですか」



荒木はそう俺の考えを読み取ったように笑った。やはり、監視していらしい。



「逃げませんよ。俺は弱味を握られているんですから」



それでもまだ俺は地図を眺める。



「それに青木さんはファミリーです」



ファミリーという言葉は、ただ逃げるなと脅しをかけるより怖い言葉だった。俺は溜息を吐いて荒木を避けるようにリビングへと戻った。ソファに座りながら、テレビをつける。荒木はリビングには来なかった。


俺は携帯を再び開き、再度、地図を開く。現在地は都内から車で3時間弱の山奥。周りに家はない。道らしい道もない。車道はあるはずだが、地図に反映されていない。大きな道に出るには、歩いてどれくらいかかるのだろうか。途方もない距離なような気がする。俺はつい舌打ちして、携帯をまたポケットへと戻した。


時間だけが淡々と過ぎていく。逃げ出す事もできず、外部と連絡も取れず、軟禁という名の妙な二人暮らしは5日ほど続いた。荒木はたまに外へ出て、しばらく戻らない時があった。そしていつだったか、派手な怪我を負って戻って来た事も。どこのどいつがこいつを殴れるのだろうかと、俺は痛々しい見た目になった男を見て、清々しい気分になったのを覚えている。しかし怪我を負ったとはいえ、荒木には反抗できなかった。荒木が優位に立っている事実は何も変わらない。荒木がいない時は、代わりの見張りが俺につき、その間は少し監視が厳重になった。そんな生活を送っていた6日目の夕方頃。荒木は慌ただしく家を出て行き、荒木の代わりにひとりの男が俺の監視についた。そいつは雨の日に俺の背中に銃を突き付けたあのデカい男だった。荒木よりは年上だが、たぶん、俺より年下だろう若い男である。確か、こいつが元公安。今はただの用心棒。



「荒木さん、どこ行ったんですか」



「………」



男は何も答えなかった。何も答えるなと命じられているらしい。つまらない大男とふたりになり、俺は首を傾けながら考えている。これは、古賀さんに連絡を取れる最大のチャンスじゃないか、と思い立つ。連絡手段が今の俺にはないが、この目の前の男は外部と連絡する為に携帯くらい持っているだろう。俺よりは信用されているだろうし、携帯も持たずに俺を監視しているとは考えにくい。この男の携帯を使ってしまえば良いのでは? でも問題は、その携帯を奪う必要がある、という事。どうやって奪おうか。こいつはいつまでここにいるのだろうか。夜には荒木は戻ってくるのだろうか。


もし夜間も俺を監視するのがこいつなら、こいつの寝込みを襲う事はできないだろうか。睡眠薬、なんて物があれば楽だが、探しても見つかるような所に置いてはないだろうな。こいつが運良く眠るのを待つか、他の連絡手段を考えるか。監視体制はいつもひとりで、きっと、今日もこいつひとりだろうと、俺は顎を撫でて考えていた。



「元公安って本当?」



そう聞くが、男は俺を見もしない。



「けれど古賀さんの事は知らなかったと」



男は表情ひとつ変えない。手を後ろで組み、ただ俺の質問を聞き流す。



「どうしてこの組織の一員に?」



何を言っても無視をされる。少し煽ってみようかと、突破口にならねぇかなと、敢えて近寄った。1メートルほどの距離で男の顔をじっと見る。男はうざったそうに眉間に軽く皺を寄せた。



「公安時代、何をしでかした? 公安にいられなくなったから公安の情報を売って、この組織に媚を売る、そうでしょう? ね、その腕、何か隠してるみたいだけど、何?」



そう男の腕に手を伸ばすと、咄嗟にその手を掴まれ、ぐっと自分の方に寄せられる。瞬間、ほんの一瞬、男は耳元で口を開いた。



「全て監視されています。ご注意を」



そう低い声で吐くと、俺をドンと突き放した。俺と少し距離を取ると俺をまた視界にも入れなかった。へぇ。この男は何を隠しているのかな。ちょっと気になるじゃない。


夜、男は寝室のドアの前に置かれているシングルソファに座ると、言葉は何も発せず、俺をじーっと監視するように見ていた。寝たふりをすれば、こいつも寝てくれるだろうかと、俺は時間が過ぎ、男が寝落ちるのを待っていた。


数時間後、俺は静かな室内で、ゆっくりと目を開ける。暗い部屋の中、男は寝息を立てていた。危機感のないやつなのか、何か狙いがあるのか。後者だとするなら厄介だ。これは、罠、かもしれないのだから。けれど今は外部に連絡を取るのが最優先。このチャンスを逃すわけにはいかない。


俺は数分迷いながら、決断し、ゆっくりとベッドから出る。静かに男に近付き、起こさないよう、目視で携帯の位置を確認した。案外それはすぐに見つかった。ソファの脇に挟まっていたそれを、俺は静かに、慎重に息を殺して手に取った。問題はロックの解除方法だった。指紋認証であればマシか、パスコードや顔認証であれば、他の手を考えるしかないかなと考えながら携帯に触れると、ロックは掛けられていなかった。呆気取られたが、中身を見て、なるほどと、監視役のこいつが眠っている理由も理解して、俺は頭を掻く。画面に表示されるソレを俺は読み進めた。



『このメッセージは読み終えたら削除して下さい。私の名前は灰田と言います。用心棒として荒木についています。元公安第三課として荒木の懐に入りました。しかし、私は任務の一貫としてここにいます。あなたと同業、私は現役の公安刑事で、あなたに危害を加える事はありません。何かあればお守りますのでご安心を。』



そこまで読んで、ほーらな、と俺は納得した。



『この屋敷のほぼ全ての部屋に監視カメラが仕掛けられています。外には3人見張りが常に隠れています。外部と連絡を取るのであれば、盗聴器、カメラが仕掛けられていない一階の奥にある手洗で、この携帯を使って下さい。お気付きかと思いますが、荒木が手渡した携帯は荒木が常に監視していますので使用しないで下さい。


荒木は緊急の仕事の為、1週間は戻らないと聞いています。監視カメラの確認も今はしていない可能性が高いと見ています。他の者が交代で確認している可能性もありますが、今は他の案件で問題が発生し、人手が足りない為、監視カメラの確認は荒木ひとりが対応している可能性が高いです。


最後に、青木さんが追っていた葉山組の件に進展がありましたので念の為、記載します。相馬組と葉山組で完全対立、戦争が起こっています。鎮圧させようと野上組筆頭に動いていますが、暴徒化した相馬組はかなり危険な組織となっています。赤澤邦仁の命を狙う者が多い現状です。荒木はあなたを閉じ込めておく為には手段を選びません。外に出すつもりもありません。もし逃げて赤澤を助けるのであれば、荒木が忙しい今夜中に実行した方が宜しいかと。ここを出て南に5キロで山道に突き当たります。山道を下れば、車道に出ます。そのまま下山をすれば街に出ます。もしここを出るのであれば、その際は十分に気を付けて』



灰田というこの男のメッセージを読み終え、俺はそのメモを全て消す。静かにバスルーム横にある手洗へ入り、鍵を掛ける。古賀さんの携帯に連絡を入れるが、時刻は深夜2時。起きてくれと念じて数コール。



「………はい」



古賀さんの低い声に俺は安堵した。



「青木です」



「無事だったのか」



「はい。勝手に行動した事は謝ります。しかしいくつか情報が手に入りました」



「今、どこかね」



俺は早口に地図で確認した場所を伝えた。住所を口頭で伝え、そして本題となるこの組織の事を伝える。



「この組織の名はデセオ、本人達はそう自分達の事を呼んでいます。確認できたメンバーは荒木と他4人。性別は全員男。内、1人は灰田と言います。この携帯を俺に渡した男です。"元"公安第三課という事でこの組織に雇われてるようですが、本人曰く、現役。二重スパイかと」



「灰田…。偽名だろうな。聞いた事がない。それより青木、荒木とかいう幹部は笹野 旭司が弱点だと言っていたな」



「はい」



「4日前、その男が出所したぞ。その後忽然と姿を消している。こちらでも追ってはいるが、行方は分かっていない」



「出所……」



だから、荒木はよく家を空けるようになったのか。そして今朝、何かがあった。だから急いでどこかへ行ったのだ。だとするならしばらく戻らないというのも頷ける。カメラの監視もできないほど、切羽詰まっているのならやはり抜け出すのは今日しかない。



「荒木は君をどうするつもりかね」



「少なくとも簡単には殺さないかと思いますが、ここに永遠と監禁されるわけにもいきません。今夜、隙を見て逃げます」



「そうか」



俺が公安だと確信したあいつは、俺を簡単には殺せない。しかし古賀さんの情報を横流しにする代わりに生かされている、とこの人には言えるわけがなかった。



「ここを出たらまた連絡します。八坂の事も、このデセオの事も、俺が貢献したという事、忘れないで下さい」



「あぁ」



「あと、最後にひとつ。…葉山組の状況だけ、教えてくれませんか」



「やはり心配かね」



「……そういうわけでは、」



「相馬側についたいくつかの組と大きな対立になり、派閥争いに発展している。相馬組も赤澤組も本家に随分と貢献している組のひとつだ。そこがぶつかり、船木組の弱体化は待った無し、と言ったところか。君の友人、随分と狙われているようだが、今の所、死んだという報告は入っていない、が、ひとつ。X…いや、デセオと相馬組が繋がった可能性が高い。君の友人は突然消えた君の行方を探し、その矢先、相馬組と一悶着あった。赤澤の居場所を特定でき、尚且つ相馬組に教える事ができたのは、デセオの人間ではないかと私は踏んでいる」



「つまり、デセオの誰かが、あいつの居場所を相馬組に教えた、という事ですね。赤澤のいた病院なら荒木は知ってました。きっと他の連中も…」



「いや、病院じゃない。退院後、赤澤邦仁は雲隠れしたんだよ。しかしどう探ったか、君の居場所を重乃沢エリアと断定し、そっちへ向かったと見られる。しかし、君は彼と会っていない。つまり流されたその場所が間違っていた、という事だ。では彼は、どうやってその場所を突き止めたか」



何故。あいつがこの俺がいるこの場所の特定を? どうやって…?



「…青木、お前の携帯はどうした?」



はっ、とした。瞬間、赤澤は嵌められたのだと理解する。そしてその犯人も。荒木の考えた策に怒りを覚え、ふつふつとまた殺意がぶり返した。あいつはやはり、俺を仲間だとは思っていない。あいつは上にバレないように俺を殺す事しか考えていない。



「荒木に取られました。俺は赤澤に対して死を偽ったんです。俺を死んだ事にして、荒木が赤澤にこれ以上近付かないよう策を立てたつもりでした。でも、荒木はそれを利用したのかと。携帯のGPS、…どうやったのかは分かりませんが、もし赤澤がそれを辿ったのだとしたら、荒木に嵌められたのかと思います。あいつは、無事、なんでしょうか」



「あぁ。死んではないようだ」



「そう、ですか…」



「荒木が呼び寄せた場所に都合よく相馬組の連中がいた、よく出来た話だよな?」



「荒木が相馬組の連中を呼び出し、赤澤を始末しようとした、そうとしか考えられません」



荒木に対する殺意は膨れ上がり、拳が震える。俺をここに閉じ込め、赤澤を殺すつもりだったのか、俺に対する脅しに使うつもりだったのか。何にせよ、赤澤には手を出すなと言ったのに、それは簡単に破棄されたのだ。



「青木、」



苦虫を噛み潰していた俺に、古賀さんは低い声で伝えた。



「相馬がここまで葉山組に対して怒り、赤澤組長の実子である邦仁を狙う理由はなんだろうな」



ひくりと反応する。相馬組があいつを狙う理由。俺はぞわりと鳥肌を立てた。



「その荒木ってのが繋がり、赤澤組長を狙うよりは手っ取り早くダメージを与えられると発破を掛ければ、後は勝手にやってくれる。相馬からすりゃぁ、殺しても殺したりないだろうからね。全てが“でっち上げ”で、トップの座を奪われたとなりやぁ、怒り狂ってもおかしくはないだろう」



でっち上げ? 何を言っているのかと、思考が停止する。



「青木、聞くが、そのデセオの目的は何だね? 実際は関東の大所帯、大組織船木組のコントロールではなく、弱体化、そして消滅、あいつらは組織そのものを潰すつもりなんじゃないのかね」



ひやりとした。俺はしてやられたのだ。確かに、この組織は警察上層部と繋がってると言う。大きくなりすぎた組織を壊滅させる為に、デセオが動いていたのなら、俺はただ乗せられていただけ。言葉を無くした。愕然とした。


もしそうなら、あいつの身が危ない。



「明日、23時、赤澤邦仁と側近が石南港に出向くようだ。武器の取引のようだが、その情報が相馬に漏れている。デセオが関係しているのなら厄介だぞ。相馬は刺客を送り、葉山組を壊滅させる最初の手筈として、赤澤邦仁を始末するつもりだ。若頭を取られりゃぁ、もう歯止めは効かない。船木組は自ずと弱体化し滅ぶ。荒木は何と言って君を逃げないように仕向けたかは知らないが、荒木という男を信じてそこに居続けるのは得策ではなかったようだな」



心臓が煩い。脈が速くなり、嫌な汗が滲む。石南港、明日の23時。赤澤に伝えなければ。でもどうやって。いや、いい。今はそんな事を考えている場合ではない。ここを、出よう。一刻も早く。



「さて、君はどうする」



「ここを抜けます。今すぐに」



「分かった。無事を祈る」



電話を切って俺はじっと外を眺めた。外にも監視役がいると灰田は言っていた。それにきっとカメラもある。ここを誰も知られずに抜け出す事はきっと不可能だろう。だったら覚悟を決めてここを抜け出すしかない。荒木がきっと笹野に気を取られて身動きできない今こそ、ここを出よう。寝室に戻り、寝ている男の側に携帯を戻し、俺は武器になるような物を探した。ナイフや銃なんて上等な物はもちろんなく、キッチンにある果物ナイフをポケットに入れた。


部屋に仕掛けられている監視カメラなんてもうどうでも良い。靴を持ち、人気のなさそうな奥の手洗場の高い位置にある窓からひょいと外へ出た。人の気配はない。静かなものだった。真っ暗な空に満天の星空が輝き、どこか遠くで何かの動物の鳴き声が聞こえている。一歩、踏み出す。キシッ、パキッ、と枯れ葉や枝の折れる音が響くが、誰も追ってこない。俺はそのまま無我夢中で山の中を走った。携帯もなく、明かりもない。真っ暗な森の中を、ただひたすらに。

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