17. 露顕
携帯を取り出して荒木へと連絡をする。荒木は2コールですぐに電話に出た。
「問題発生ですか?」
「えぇ。会えますか」
「分かりました。では、いつもの場所に来て下さい」
荒木は会うや否や笑い出し、俺は椅子に腰を下ろしながら荒木の楽しそうな顔を見た。
「ふふふ、上手くいきませんでしたか?」
「上手くいかなかった、どころの話ではありません。作戦を変える必要があるかと。…発信機も盗聴器もバレました。あんなの、誰かが入れ知恵したとしか思えません」
テーブルの上に盗聴器とシルバーリングを置くと、荒木は肩を揺らしながらそれを受け取る。何がそれほど面白いのか…。
「誰が入れ知恵したかなんて、分かってるんでしょう? 追い込みすぎましたかね、彼の事」
「……さぁね」
「刑事の彼は脅しに使えませんでしたか?」
「無理です。アレはきっと何があっても赤澤を裏切りませんよ。脅しも通用しません」
「そうですか。残念。赤澤の方はどうですか。発信機と盗聴器はあなたが仕掛けたと分かったのなら、あなたを始末しようと動いてもおかしくありませんよね」
俺を始末しようと動いても、か。俺は溜息混じりに頭を掻いた。
「ひとまずその場しのぎで、盗聴器は知らない、発信機はあいつが攫われたらすぐに助けに行けるように、なんて無理な嘘をつきましたが、赤澤の中で俺が黒なのは確定でしょうね。ただ、あいつは俺を殺せません。それが出来るのなら、早い段階で白黒つけていたはずですから」
「感情とはえらく厄介ですよね。赤澤はどうしたってあなたを切れないって事は分かりました。青木さん、あなたの努力の賜物です」
俺があいつの懐に入る事を努力の賜物だなんて、俺の感情を知っていて、敢えてそう言ったのだろう。
「ただね、青木さん。自ら手を下さなくとも、例えば赤澤が父親に青木さんの全てを言ってしまえば、かなり面倒な事になると思いますよ。あの父親、あなたの事はただの情報屋だと思ってます。ようやくあの父親も、野上も森も、こちらに引き込み、コントロールできるところまで近付いた。しかしそれでも相手はヤクザ。青木さんが実際は松葉を使って赤澤を落とそうとした、なんてバレたら全てが無駄になる可能性出て来ますよね」
荒木は首を少し傾げて俺をじっと見た。俺はその見透かされそうな瞳を見ながら、静かに低い声で答える。
「赤澤から漏れる事はないかと思います」
「へぇ。すごい自信ですね。愛する者を追い込むような事はしない、と?」
棘のある言い方を敢えてしている。嫌な性格だなと、俺は荒木の目を見ながらゆっくりと話す。
「……愛、ですか。だとするなら違います。あいつが俺を追い込めないのは、贖罪の気持ちでしょう。あいつの中で愛を持って、一番大切にしたいのは斉藤です。そして俺にとって問題はその斉藤。赤澤は斉藤の破門には反対ですし、それを直談判した可能性があります。斉藤の信頼は今や赤澤組長や野上、森にとっては無いに等しいかもしれませんが、それでも今回の盗聴器や発信機の事を、斉藤がその3人に俺が仕掛けたと喚けば、厄介な事になるかもしれません。俺はやってないと言い張ったとしても、また罪を斉藤になすりつけようとしても、今回は無理があるかと。赤澤にシルバーリングを渡したのは明白で、それなら盗聴器も俺が仕掛けたと考えるのが当然。そうなれば俺の信頼が失われる。斉藤の破門が取り消しになってしまえば、あいつは組員として俺を潰しにかかります」
「なるほど。しかし盗聴器も発信機も原物はここに。強引ですけど、3人にもし問い詰められても、そんな事実ありません、って言い張る事も出来ますよ。赤澤は証拠となるそれを青木さんに返しました。つまり、自分は追い込むつもりないって言っているようなものです。それが愛だろうが贖罪だろうが、赤澤は青木さんを殺せない。しかし、そうなると本当に斉藤の存在は厄介です。今は自分の事で精一杯だとしても、破門が無くなれば、そうですね、何としてでもあなたを潰そうとするでしょうね。それはもちろん、赤澤のために」
荒木はそう言うと口角を上げたまま、楽しそうに言葉を続けた。
「だって、あの赤澤が斉藤のために指まで落として頭を下げたんですから。そして相手はそれを受け入れた、つまり斉藤の破門を取り消そうと動くはずです」
分かってはいた。しかし、いざそう斉藤のためだと言われると心臓がぎゅっと握り潰されたように痛むのだ。その痛みを隠そうと必死になる。痛みの原因を否定するために。
「…あいつは誰に頭を下げたんですか」
「野上です。これもまた、青木さんにとっては逆風ですね。あれは曲者ですから」
「…そう、ですね」
「結構、堪えてますか? 赤澤が責任を取った事が。それが斉藤のためだという事が」
こいつはどこまで俺を疑ってる? 分からない。しかし、目の前の男には気付かれると厄介な感情というのが俺には確かにあり、それに気付かれた時、きっと芋蔓式に俺の情報がこいつの手元に集まりそうで怖いのだ。この感情をこいつには何があってもバレたくはない。だから必死に否定をし続けた。自分自身にも言い聞かせるように。
「あいつが苦しむ分には特に。ただ面倒になったなと、修正する方法を考えているだけです」
「ふふ、そうですか。動くのなら早い方が良いかもしれませんよ」
「動く? 何をするつもりですか」
「青木さん、まだ間に合います。まだ、赤澤の信頼を失ったわけではありません。だからちょっと怪我をしてくれません?」
荒木はそう笑みを浮かべる。悪魔のような笑みだった。赤澤の信頼を今ならまだ取り戻せる、だって、取り戻したいでしょう? 何としてでも、赤澤から離れたくない、そうでしょう? そう、悪魔に囁かれている気分だった。
「散々、顔を殴られて、その傷も癒えないのに新しい傷を増やす事になりますが、あなたが怪我を負えば、上の信頼は確固たるものになるかと。ついでに、あなたが嫌悪する赤澤からの信頼も取り戻せる」
言っている事が理解できず眉間に皺を寄せ、どういう事か、と訊ねると、荒木はにやりと口角を上げた。
「赤澤を庇って刺されて下さい」
ゾクッと背筋が凍った。同時に、そうか、そう言うことかと、荒木は俺の過去も何もかもを知っていて、俺が何をしてきたのかも、全部知っているのだと、改めて思い知らされる。この男からは逃げられない。荒木は俺の首輪を指を引っ掛け、これがあるうちは言いなりだ、と言いたげに笑っている。
「大丈夫ですよ。確かに激痛ですし、傷痕は残りますけど死にはしません。それで野上からの信頼を得たい。今、赤澤組長、野上、森の信頼を失えばこの件は終いです。失敗するわけにはいきません。青木さん、これはあなたの責任でもあります。きっちり責任、取って下さいね」
荒木の目を見たまま俺はしばらくは何も返せなかった。何かを返してボロを出すわけにはいかなかった。これはもう飲み込むしかなく、俺に選択の余地などない。つい舌打ちをしそうになったが自分を落ち着かせ、「分かりました」と静かに頷いた。
「青木さんにしか出来ない役割です。嫌悪しながらも自分の感情を殺して、赤澤の側に居続け、赤澤の懐に入った青木さんにしか。赤澤は青木さんが敵じゃないかと疑い続け、黒だとついに証拠が出た。そんな時に、自分を庇って青木さんが怪我を負うんです。ね? まだ遅くはない。信頼は簡単に取り戻せる。取り戻した後に、しっかり仕事をしてもらって、それからじっくりと葬り去れば良いんです。青木さん、あなたにはまだ価値がありますので、しっかり働いて頂きますよ」
信頼を取り戻した後に殺せ。こいつにとって、いや、この組織にとって赤澤なんてどうでも良い。重要なのは赤澤組長、野上、森をコントロールすること。その為なら何だってするのだろう。その何だって、の中には俺を駒として動かす事も含まれていて、成功しなければ、不要になるのだ。
「そう固くならないで下さい。刺す場所は、ここです」
荒木は俺の目を見ながら一本のナイフをテーブルの上に出した。俺はつい強張っていたのだろうか、荒木は片眉を上げるとそう言って自分の腹部の下の方を指差す。
「ナイフはコレを使います。パッと見は分からないかと思いますが、刃の部分が短いんです。刺しても臓器には届きませんし、致命傷にはなりません。ただもちろん、痛いので覚悟して下さい。とは言っても、慣れっこですよね? そうやって、瀬戸組で難を逃れたのですから」
こいつ……。過去の事を掘り返されて突きつけられる。過去にやったのだから、今回も同じ痛みを与えても良いでしょう? そう笑われている気がして腹が立つ。それはあまりにも素直に顔に出てしまっていたらしい。出しているつもりはなかったが、人の心を読み取るのが上手い荒木は、俺の顔を見ながら、まぁまぁと宥めるように首を傾けた。
「そう怖い顔をしないで下さい。あなたあってこその今回の作戦、今回の報酬です。苦労も報われますよ? けれどその前に、きっちり仕事をしなきゃですね。赤澤とふたりっきりになる状況を作って頂きます、良いですね? できれば繁華街、夜。路地裏なんて最高ですが、若頭がのこのこと路地裏なんて歩かないですよね。うーん。人混みの中、雨なんか降ってると楽なんですが。さて、計画を立てなきゃですね」
荒木は次から次へと計画案を口に出しては、楽しそうに語っている。
「だから楽しそうに笑ってたんですか」
「楽しそうでしたか?」
「今日はやけに機嫌が良さそうというか、会って早々爆笑してたでしょ?」
「あー、アハハ、そりゃぁまぁ。顔がそんな状態なのに腹まで刺されるなんて、可哀想だなぁーって」
「荒木さんって、とんでもなく性癖歪んでますよね」
「ふふ、どうでしょう。詮索しないで下さい」
荒木はそう言うとふっと笑い、パソコンを開いた。
「今日はもう帰っていいですよ。追って連絡します」
「……分かりました」
そう言って席を立つと荒木は、「赤澤に宜しくお伝え下さい」と揶揄うように笑う。俺が赤澤の元へ帰る事も、この男は知っている。逃げられないよと、背後から首へナイフを回されているようだった。
俺はその場所を離れ、ひとり、ゆっくりと、帰路へ着いた。俺が刺されたら、あいつはどんな顔するのだろう。泣くかな? 焦るかな? それともざまぁねぇなと、笑うかな。そんな事をぼうっと考えながら、赤澤のマンションのエントランスで足を止める。
鍵を開けて入ってしまえば、後悔しないだろうか。帰って来い、と言われてのこのこ帰るなんて滑稽すぎないだろうかと、色々な考えが思考を支配していたが、俺は一歩、踏み入れてしまった。俺はまだ、あいつの懐に入っている必要がある。あいつを始末するその時まで。そう、理由はただそれだけ。あいつの元に帰る理由はそれだけ…。
「おかえり」
部屋にはすでに赤澤がいた。
「ただいま」
部屋着姿で左手の小指に包帯が巻かれ、不便そうに冷蔵庫から飯を取り出す。
「食うか?」
「待ってたの?」
「あまり腹減ってなかったから。食うなら温めるけど」
「飯作れたんだ」
「作れると断言して良いものかは分からねぇがな」
「ふふ、あそう。着替えて来るから温めておいて。一緒に食おう」
「あぁ」
赤澤の背中を見ながら、ひたと思う。それほどまで、斉藤が大切なのか、古臭いヤクザらしい事してまで、斉藤の破門を解きたかったのか。お前にとってあいつは何。嫌な感情に苛まれて、ぎりりと奥歯を噛み締めた。
赤澤はきっと斉藤の事を、家族、とでも言うのだろうか。赤澤の阿呆なヤクザ脳みそで言うのなら、血の繋がりのない家族、と躊躇いもなく言うのだろうか。それとも堂々と…。嫌気がさして、それが溜息となって宙を漂い、気分を紛らわす為に洗面所で顔を洗う。腫れはまた少し引いていた。しかし切れた傷は生々しくそこに残っている。抜糸したところで、この傷は一生残るのだろうなと、その傷を指先で撫でた。服を着替えて赤澤の元へ戻ると、赤澤は「エビチリな」と満面の笑みを浮かべていた。どう見ても水を入れ過ぎたであろう赤い液体に浸るエビ。ふふ、とつい笑ってしまった。料理が下手にもほどがあるだろ。
「俺の知ってるエビチリじゃないんだけど」
「でも味は保証する。市販の素使ってるし」
「なら不味くはないか。なぁ、片栗粉足した?」
「足してない。確かに、そうすりゃぁ固まるか」
「うん。えっと、…確か、ここにあったよな」
「ん」
こうしてふたりで過ごす時間を、こいつはどう思っているのだろう。
「水で溶かして、………ほら、固まった。美味そう」
「本当だな。やっぱあんた、料理できんだな」
「お前が出来ないだけだろ」
「それは否定できねぇな。…それじゃ、食おう」
「うん。水とお茶、どっちが良い?」
「水」
まるで恋人かのように飯を作っては、それを二人で食う。それをこいつはどう、考えているのだろう。
「いただきます」
「おう」
「……あ、美味い」
「だろうな。市販の素は俺の味方だからな」
「アハハ、…そうだな。水の量さえ間違えなきゃ誰でも作れるわな」
「うるせぇな」
赤澤の笑う顔を見ながら俺は思っていた。やっぱり、戻って来るべきじゃなかった。もう否定ができなくなってしまっている、と。気付きたくない。認めたくない。認めてしまうことは、全てを終いにすることだ。
「なぁ、赤澤」
「ん?」
「お前っていざとなったら俺の事、殺せるの?」
赤澤の眉間に深い溝が出来たのを見て、俺はふふっと可笑しくて笑ってしまう。
「お前も俺もヤクザなんだよな。だから、もし俺が裏切り者なら、お前、ちゃんと殺せって指示出せるのかなーって。だってお前、きっと自分の手で殺せないだろ?」
赤澤は箸を止めると、首を少し傾けて俺をじっと見た。しばらく見て考えた後、ようやく口を開く。
「いざとなったら殺すのか、じゃなくて、殺せるのか、ね。そういう言い方をするのなら、あんたはもう分かってんじゃねぇのか。あんたの中で答えは出てんじゃねぇの」
そう言われるとは思わなかった。もう答えは出てると面と向かって言われると、嫌でもその答えを自覚しなければならないような気がした。否定してもしきれないその答えを、良い加減自覚しろと突きつけられる。それがつまり何を意味するのか、どういう結果を招くのか、嫌でも考えなければならない。勝ち目のない戦を仕掛けた結果、なんだろうな。
「殺さないとお前の立場が危うくなってしまうもんな。そりゃそうか。あっさり俺のことは殺すよな」
わざとそう口にすると、赤澤は困ったように一瞬眉を顰め、溜息混じりに視線を落とした。
「そうだと良いな」
そう呟くと、再び視線を上げる。鋭い瞳が俺を捉え、赤澤はふっと鼻で笑った。それは揶揄われるような笑みだった。その瞳、笑みに、心臓をぐっと捕まれるようだった。苦しくなった。こいつの側にはやっぱりいるべきじゃない。俺の眉間に皺が寄ったのを見て、赤澤はまた視線を飯に戻した。
「いいから飯、食えよ。冷めちまう」
感情を隠して言葉を探すが見つからなかった。早く、一刻も早く自由になりたいのに。こいつからの呪縛から逃れたいのに。それを強く望んだはずなのに。飯を食い、シャワーを浴びて、赤澤が寝ているベッドに潜り込み、赤澤の隣で眠る。こんな事を望んでるわけじゃない。なぁ、赤澤。もうそろそろ、解放してくれても良いよな? 俺は眠る赤澤を見下ろして首を傾ける。今すぐ、こいつの脳天を弾いてしまえば全ては解決するのにな。そう思いながら、俺はただ拳を強く握っただけだった。
翌日、事務所で赤澤が「今夜、少し付き合えないか」と俺に声を掛けた。
「何に?」
「仕事に。先方があんたをご指名なんでな」
「俺を?」
「あぁ。今までみかじめを断ってた店が、あんたとなら話すって。知らない奴の店じゃないし、結構デカい所だから俺も顔を出しておこうかと」
あぁ、なるほど。こいつとふたりになる口実が出来たというわけだ。刻一刻と状況は進んでるのよなと、俺は赤澤を見下ろしながら口を開いた。
「分かった。どこの店?」
「繁華街の中央にあるホストクラブ。あんた何回か声掛けてたんだろ? 新崎でもダメだった場所だ。あそこのオーナー、前に何度か話したけど、すんごいヤクザ嫌いだろ」
「あー、ジュビアね。そうね、あそこのオーナー、ヤクザ嫌いだって言ってたな」
「そのオーナーが、もし問題が起きた時に青木を寄越してくれるなら、みかじめ払うって。その代わり今夜、ちゃんと顔を合わせて話したいってよ。あそこから金が入るなら良い仕事じゃねぇか。あんた、夜は空いてるな?」
「うん、空いてる」
「なら、22時頃行くから用意しとけよ。いいな?」
「分かった。…なぁ今日って雨、降るだろうか」
「雨…? さぁな」
赤澤は窓の外をちらりと見て、興味なさそうにそう答えた。雨が降れば良い。路地裏ならもっと良い。赤澤と別れた後、俺はそう考えながら外へと出た。荒木から案の定連絡が入る。荒木は淡々とした調子で、「今夜、実行します」と俺に告げた。そういう事だよな。分かってる。
「赤澤から今夜付き合ってくれと誘われたところです。繁華街のホストクラブ、ジュビアに22時頃行くと伝えられました。荒木さんの仕業ですね? ジュビアのオーナーにかけ合いましたか」
「まぁ、そんなところです。確認ですが斉藤は行きませんよね? 用心棒もなし、ですね?」
「えぇ。赤澤が涼司を…用心棒を斉藤につけてますから。斉藤はこの件には関係ないので、赤澤は声を掛けてないはずです」
「それは良かった」
「で、誰を仕向けたんですか」
「お抱えの人間です。大丈夫ですよ、そこら辺の使い捨ての駒を使うわけではありません。プロですから、死なないよう怪我だけを負わせる事も簡単です」
「特徴は?」
「背丈は俺と同じくらいの黒いフードの男、とだけ伝えておきましょう。青木さんのためにもあまり伝えない方が良いでしょう? 赤澤に気付かれてしまえば、全て終いですから。なので赤澤とふたりで今夜繁華街に出たら、その瞬間から刺される覚悟でいて下さい。…良いですか、青木さん。この船木組の件に失敗は許されません」
「分かってます」
言われなくとも分かってる。難を逃れる為、信用を得る為、とはいえ怖くないと言えば嘘になるが腹を括るしかない。俺にはまだ仕事が残っているのだから、こんな所でしくじるわけにはいかない。大丈夫、あんな感情は一時の迷い。そうだろ? そうであるべきなんだよ。俺はただ仕事を全うするだけ。それだけに集中しようと、夜、ギラギラ光るネオン街を赤澤と共に歩いた。繁華街はどこもかしこも騒がしかった。
店までの道のりは、人々の煩いほど賑やかな話し声と鳴り止まない街の雑多音で騒がしい。そんな中、俺は赤澤の隣で用心棒として側を歩き、周りを警戒している。道中、赤澤は何も話さなかった。無口で、肩で風を切るように街を歩いている。何も話さないこいつは夜の街によく映えた。笑う事の無さそうな唇と暗い色の瞳、情の薄そうな顔立ちは、若頭という貫禄ある肩書きにぴったりだった。光沢のある黒に近い濃紺のシックなダブルスーツに、ベストを中に着て、真っ白なシャツの胸を少しだけ肌蹴させている。髪は真っ黒な艶やかなウェーブがかった髪を軽く後ろに撫で付けていた。それなのに、下品な感じが皆無なのは、こいつの容姿が何処かヤクザらしくない見た目だからだろうか。こうして高級ブランドのスーツを着ていると、偉く上品な感じがした。
だから目立つのだ。こんな繁華街でも、背の高い赤澤の容姿は嫌でも目立った。殺し屋も見つけやすいだろうなと、俺は少し呆れている。
ジュビアまでの道のりに人通りの少ない路地裏はない。人の多い道を歩くしかない。金曜の夜ともあり、人は湧いて出てくるように、どこもかしこも人だらけである。あと少しで店に着くだろうかと、考えていたその時だった。黒いフードを被った男が視界に入る。少し離れたカフェの入口に立っていた。繁華街の人混みに紛れ、少し早歩きでこちらへと向かってくる。プロだというくらいだから、もっと殺し屋っぽいやつなのかと、オーラのあるやつだろうと思ったが逆だった。驚くほど目立たない。少し地味なくらいだった。俯きながら歩き、俺達を確認もしない。黒いフードと言っていたから、勝手にそうだと思い込みながらそいつを凝視していたが、もしかすると違うのかもしれない、別人かもしれない、そう思うほど落ち着き、俺達を気にする様子がない。
しかし、互いの距離が腕を伸ばせば届きそうなほど近くなると、男は俺を一瞬見て、袖から素早くナイフを出したのが見えた。そしてその瞬間、気が付いた。
………あぁ、もしかして。俺は瞬時に体が強張るのが分かった。男は赤澤ではなく、俺を見ていた。赤澤を刺すふりなのだから、俺との距離を測るのは間違いではない、そう思いたいが、きっとそうじゃない。男が持っているナイフは、荒木が見せたナイフではないのだから。男の表情は冷たく恐ろしいものだった。瞬間、何もかもを覚悟した。変に俺が抵抗して、赤澤を標的に変えられても面倒か。だったら…、そう思い、俺は男との距離を自ら縮めるため一歩、男の方へ体を寄せた。どうやら荒木は、
「……っ」
俺を殺せと、命じたらしい。
赤澤を始末するフリをして俺を確実に始末しろと、そう命じていたのだろう。赤澤を信頼させる為に、赤澤を庇って刺されろ、そう俺に言えば俺は逃げも隠れもせず刺されるだろうと荒木は判断したようだった。その手が一番、楽に俺を始末できるだろうと踏んだのだろう。しくじったな。今更後悔に苦虫を噛み潰し、ぐっと目を瞑った。その鋭い刃は肉を裂き、深々と突き刺さり、…しかし数秒、何が起きたのか分からなかった。痛みが、ない。目を開き、ようやく状況を理解する。
「…なんで……」
どうして、何故。刺されたのは俺じゃない。そう理解するのに数秒の時間が掛かり、男の舌打ちが頭上で聞こえた。ふっと顔を上げると男の顔が一瞬だけ見えた。右の目尻から頬にかけて、真新しい大きな切り傷があった。人が周りにたくさんいるというのに、誰もこの状況に気付いておらず、男は瞬時にナイフを引き抜き、袖口に仕舞うと、何事もなかったかのように人混みに紛れて姿を消した。
瞬間、自分でも驚くほど恐怖を感じていた。怖くなった。焦りに脳が支配され、それでも処置をしなければと懸命に考えを巡らせる。
「おい……おい、しっかりしろよ。…きゅ、救急車呼ぶからな」
溢れて止まらない真っ赤な血。シャツもスーツも赤く染まっていく。あっという間にその血は地面へと広がり、辺りを赤く染めていく。苦痛に歪む顔。何かを言おうとする唇の揺れ。赤澤が倒れ込むのを見て、ようやく周りの人々は異常な事態に気付いたらしい。人が集まり、ざわざわと騒がしくなった。
「おい、赤澤、しっかりしろよ! おい!」
赤澤は苦しそうに息を吐き、眉間に皺を寄せ、横目で俺を見ると微かに笑った。
「あんた、は、…なんとも、ねぇな?」
「なんともねぇよ……大丈夫」
俺の眉間に皺が寄ったのを見ると、赤澤は「なら良かった」とぽつりと呟いた。傷口は想像以上に深かった。強くその傷口を押さえるが、押さえても血は次から次へと溢れ出てくる。こんなに血が溢れてるのに、応急処置なんて役に立つのかよ。俺はどうしようもなく、焦っていた。救急車が来てから、俺はどうしたろうか。気が付けば俺は病院の待合室にいた。手が震えている事にその時、初めて気が付いた。もし、あいつがいなくなったら…。ポケットに仕舞っていた携帯電話が鳴る。血でべとつくその手で携帯を取り出し、相手を確認した。
「もしもし」
低い声で相手の言葉を待つ。
「失敗ですか?」
相手の嬉しそうな声に、何かがぷつりと切れたのが分かった。
「赤澤が刺されました」
「へぇ」
「あんた、俺を殺そうとしたんだろ」
「さて、どういう事でしょう」
「あのナイフは、あんたが見せたナイフじゃなかった。最初から殺すつもりだった。あの殺し屋は確実に俺を殺すためにあんたが送って来た、そうだろ」
「さぁね? それより、あなたがピンピンしてるという事はかなり厄介ですよ。赤澤が刺されたなんて、こちらとしては仕事が片付き祝杯を挙げたい気分ですが、組からのあなたの疑いはますます濃くなるばかり」
「……っ」
「青木さん、プランBといきましょう」
「…まだ、続ける気ですか」
「当たり前の事を聞くんですね。青木さんらしくない。あー、青木さんらしいって言葉はやめましょうか。俺はあなたに騙されていたのですから。あなたの性格や本性、分かっていたつもりでした、が、どうやら違った。あなたには赤澤を殺せない。我々からの仕事だとしても、遂行できない」
荒木の言いたい事が伝わり、俺は拳を握る。荒木は淡々と続けた。
「だってあなた、今まで人を殺した事がないのだから。俺に嘘はつけませんね」
荒木に正体が……。だから俺を殺す必要があった。でも、なぜ、どうして。どこから俺の情報が漏れたのだろう。でももう、どうでも良い。こうなってしまえば、やるべき事は限られる。
「さて、これはあなたが蒔いた種。追ってまた連絡します。それでは、また」
荒木に正体がバレた事への恐怖や不安は確かにあった。しかしそれよりも怒りで手が震えていた。返す言葉が思い浮かばないくらい、怒りで脳は支配され、今すぐにでも荒木の首を掻っ切りたい気持ちだった。俺はぐっと拳を握り、じっと考えた。ただひたすらに、淡々と。警察に事情聴取され、刺した男の顔は見ていない、知らないを突き通し、適当な事を抜かしては時間が過ぎるのを待っていた。組同士の抗争、そう警察は結論付けた。俺は署から出てすぐ、新崎からもちろんのように殴られたが、どうでも良かった。俺がやるべき事はもう、決まっているのだから。
「ふっざけんじゃねぇぞ!」
新崎の目は血走っていた。折角塞がった頬の傷は見事に開いた。殴られ、蹴られ、それでも俺は謝らず、血を流しながらじっとそのタイミングを伺う。斉藤は状況を知り、殴られる俺を見下ろしていた。直接俺に手は出さなかった。冷たい目で俺を見下ろすだけで、何もせず、何も言わない。12時間ほど経った頃だった。拷問のように一方的に殴られ続けたが、鶴の一声のように赤澤組長が止めに入った。
「青木、何も言わねぇそうだが、どういうつもりだ。あ? 説明しろ」
低くしゃがれた赤澤組長の声を聞き、俺は脇腹を押さえながらゆっくりと上体を起こす。ようやくだった。遅すぎるなと、俺は苛立ちながらも口を開いた。
「ふたりきりにしてもらえるのなら」
赤澤組長に話を聞くのが手っ取り早かった。今は何よりも、まず、ここを出て話を聞く必要があった。
「お前…!」
俺の言葉に怒りを露わにした新崎は、どうやら赤澤組長に対する俺の言葉使いが気に入らなかったらしく、怖い顔して食って掛かる。しかし赤澤組長はそれを簡単に制した。
「新崎、下がれ。青木、車乗れ」
渡されたハンカチで鼻を抑え、赤澤組長の車に乗り込んだ。新崎の驚いた顔、斉藤の不審がる怪訝な顔。俺と赤澤組長の関係を知らないこのふたりにとってみれば、赤澤組長が俺を助けた事に驚きを隠せないようだった。さて荒木はもう先手を打っているのか、否か。俺は窓の外を眺めながら考えていた。
「説明してもらおうか」
赤澤組長はタバコに火を点けて圧を掛けるように訊ね、俺は組長を見ながら口を開く。
「説明なんてありません」
「何だと?」
「その場に森鳳会のバッジが落ちてたから、という理由で警察の見解は森鳳会の若いのがカシラを刺した、そう結論付けています。でも実際はそうじゃありません。けど、俺から説明する事もありません」
あの男はわざと森鳳会のバッジを落としていた。これをただのヤクザの抗争にして、警察にあまり嗅ぎ回られない為だろうなと最初は思った。だが何故、森鳳会だったのかと俺は考えていた。切田を刺された報復、だからだろうと思えばそれまでだが相手は荒木。きっとそれだけの理由ではないのだろう。だとするなら俺を追い詰める為に敢えてそうした可能性が高い。もし俺を殺す事に成功していたのなら、あいつはわざわざバッジなんて落とさなかっただろう。万が一を考え、あの男にバッジを渡していたのなら話は変わる。
つまり荒木は、俺が森鳳会を追いかけていると分かっていて、俺の正体を知っていると示唆し、これ以上踏み込むなよと圧を掛けているのだ。だとするなら、俺は一刻も早く動かなければならなかった。
「お前は相手が誰かを見てンだろ。それを頑なに見ていないと言い張っているようだな」
「本当に見ていません。相手は黒いフードを深く被っていて、俺にも顔が見えませんでした。ただ、男がナイフを片手にこちらへ向かって来たのが見えただけです。危ないと思った時にはもうどうにもできなかった。気付くのが遅かったんです。赤澤組長、そこ曲がったら降ろして下さい。助かりました」
「見てねぇくせに、森鳳会の人間ではないと断言できんのか」
赤澤組長の声色は更に低くなり、俺はその表情を見た。眉間に皺が寄り、殺気立っている。そりゃぁそうよな。俺はあいつの隣にいたのに、俺だけピンピンしてんだもんな。
「断言できます。…あの男、本当は俺を殺すつもりでしたから」
あんたの子供を殺すつもりじゃなかった。これは抗争なんかじゃない。あんたの子供は巻き込まれただけ。だからこれは、俺の仕事。
「何?」
「ヤクザ同士の抗争なんかじゃないんですよ」
この組織がどうなろうが、もう俺には関係がない。荒木が俺の正体を知った今、あいつは敵。あの組織が俺を消そうと動くならば俺は今、防衛の為にもやらなければならない事がある。だからこそ知りたいのは森鳳会のこと。八坂のこと。あの人に情報を渡す事が唯一、残された手段であり俺の仕事だ。荒木を、あの組織を、一刻も早く潰す為にも俺は情報を手に入れて動く必要がある。
「訳がわからねぇな」
そう赤澤組長の顔は殺気立った恐ろしい顔から、怪訝な表情へと変わっていた。
「誰かがこれをヤクザの抗争として片付けたかった、という事です。それでも組長としては、可愛い我が子を刺されてるわけですから、返しをしたいという気持ちは分かります。ただそれは待って頂きたい。相手は森鳳会ですから」
「お前の言う事が本当だとするなら、その誰かとやらがそう仕向けた、という事だな」
「えぇ。もしそうなら証拠が無くても飲み込めますか。子が死んだとしても、目を瞑れますか」
組長の眉間に皺が寄り、怒りが見えた。だから俺は言葉を続ける。
「組長は森鳳会の事、どうお考えですか」
「どう、というのは?」
「あの組織は本当に味方なのか、否か。そして一枚岩か、否か」
俺はわざと組長の不安を煽った。
「確かに、俺としては葉山組の返しを止める立場にあります。俺が原因でカシラが刺されたわけですから、返しを避けなければならない。しかし、組長としては疑念が残るのではないかなと。俺としても森鳳会は簡単な相手ではありません。あれほど読めない相手はいません。自分の力不足を突きつけられている気分です。そしてあの組は、元は葉山組と敵対にあった組だからこそ、俺は少し思うんです。土壇場で、"ある人" が森会長にあなたを裏切れと、もしくは手を引けと命じたら、そう考えると森鳳会の手綱を握れているか…」
「ある人、…お前、どこでその情報を…」
「組長は何故、あの組織が大物を抱えているのかご存知ですか」
何でも良い。情報が欲しい。組長はタバコを深く吸い込み、頭を掻く。
「お前の情報はいつ、どうやって手に入るのかと疑問だった。誰も掴めなかった情報も、あっさりと掴んできやがる。だがな、知っちゃいけねぇ事ってのも山程ある。俺ァ、あの組に深入りしたくないんでな」
「そうですか。……では、俺の話を聞くだけでも構いません。あいつらと繋がりのある政治家というのは、八坂議員、そうですね」
組長の顔が強張った。そうか、八坂が繋がっているのは確定。俺は更に情報が欲しいと、組長の表情を読む。
「森鳳会からの金は一部、八坂議員に流れてます。そして八坂議員の金は、ある宗教団体に流れていて、その団体は昔から公安にマークされてます。そんな団体に、なぜ金が…」
「よせ、青木」
赤澤組長はそこまで聞くと、ぴしゃりと俺を制した。何も聞くなと釘を刺される。でも赤澤組長も何かを知っている。これはやはり、八坂とあの宗教団体が繋がっている事を明確にするようだった。その証拠さえ見つかれば、古賀さんを動かせるのに。そうすりゃぁ、赤澤だって…。けれどここはもう押しても無駄だと、俺は一呼吸置いて、自分を落ち着かせた。
「…カシラの容態は、どうですか」
そう赤澤へと俺は話を変えた。
「まだ危ない状態が続いてると医者は言っていたが、あいつは昔から丈夫だ」
「………丈夫な人間でも、あれだけ血ィ流してたら、分からないものですよね」
「何を言いたい」
「今死なれては困るなと思っただけです。組長は、次期本家若頭の事だけを考えていて下さい。船木組長の容態は良くないと聞きましたので、こっちも情報を掻き集めて、準備を進めます。組長にはトップを取って頂きたいですから、森鳳会に関しても、何か気付いた事があればすぐに俺に言って下さい」
「……青木、お前の後ろに何がいる?」
この人も、あいつと同じような事を聞いてくるんだなと、俺は笑いそうになった。
「何もありません。俺はヤクザかぶれの情報屋です。あ、ここで降ろして下さい。カシラを刺した男は警察には捕まらないですし、表にも出ない。でも俺なら接触できます。だからこの件、組長は組の連中が森鳳会へ返しをしないよう制御して下さい。カシラを刺した男については俺に任せて下さい」
赤澤組長は運転手に車を停めるよう言い付けると、人気の少ないその場所で車は停まった。組長は眉間に皺を寄せ、怖い顔のまま、何も答えなかった。
「ありがとうございます」
俺がそう礼を言い、車を出ようとした瞬間、赤澤組長は低い声で俺に尋ねた。
「あいつを刺した男にアテはあるんだな?」
「えぇ。誰が雇って仕向けたかは知ってます。でも、あなたに教える事はできません。これは俺の仕事です」
「森鳳会とは絶対に関係がない、そうだな?」
「はい」
「もし、真実が異なっていたら?」
「有り得ません。…が、もし、あの殺し屋がただの森鳳会の鉄砲玉なら、俺を煮るなり焼くなり、好きにして下さい」
「えらい自信だな」
「はい」
赤澤組長は一度深く息を吐くと、「分かった」と頷いた。
「組員は俺が止める。殺し屋の始末はお前に任せるが、絶対にミスはするな。殺しの証拠を撮っておけ、良いな?」
そうやって俺の首にも首輪を嵌めるのか。この人にとってはそうするしかないのだろうなと、俺は飲み込んだ。だってきっと、近いうちに俺はこの人の前からも姿を消すだろうから。
「分かりました。最後に、カシラは狙われている可能性があります。カシラの護衛を増やして下さい。それじゃ、これで」
車を降り、足早にその場を去った。空を見上げると少し、どんよりと厚い雲が太陽を隠している。何もかもが手遅れになる前に、早く行動に出る必要があり、俺はタクシーを拾ってあるマンションへと車を走らせた。深夜、1時を過ぎていた。そのマンションの前で携帯電話からそのマンションに住む男に電話をかける。
「……もしもし」
男の機嫌の悪そうな声を聞きながら、「ご自宅ですか?」と訊ねた。
「急に電話をしてきて、突然自宅ですか、とは何ですか。要件は何です」
「会って話がしたい。ご在宅かと思いまして」
「もしかして、家に来るとか言いませんよね?」
「俺は情報を扱う人間です。あんたの家だけ知らない、なんて事、ないと思いません?」
「はぁ。もうすぐ着きますか?」
「もう着いてます」
「開けますので、上がって来て下さい」
男の呆れ果てた声を聞いて、エントランスを抜け、エレベーターでその部屋のフロアまで上がる。部屋のチャイムを鳴らすと、男は眉間に皺を寄せて怖い顔で俺を迎えた。スーツ姿だった。
「こんばんは、松葉さん。帰宅したばかりですか?」
赤澤組長から情報を引き出すのが無理なら、森鳳会の若頭に吐かせようと俺は微笑んだ。松葉は煙たそうな顔をしながら、「えぇ」と俺を中に招き入れる。入れてすぐ、家の鍵を掛ける。危ない状況にいるのは俺も、この人も同じかと、俺は鍵の閉まる音を聞いていた。かなり用心しているのだろう、俺がリビングへ入った瞬間、背後から物騒にも何かを突きつけられた。まぁ、そりゃそうかと、俺は素直に冷静に両手を上げる。
「俺を殺しても状況は変わりませんよ」
「勝巳を脅しのネタに使い、それからうちの組のモンにまで手を出しましたからね。君のその太腿に穴を開けるくらい当然かと。死にはしないでしょうけど、使い物にならなくなるかもしれませんね」
「発砲すれば騒がれます」
「騒がれても良いと思うほど、頭にキてるんですよ。メンツで飯を食ってるヤクザに喧嘩を売ったんですから、死ぬ事だって覚悟の上でしょう? だったら足に穴が開くくらい、安いもんじゃないですか」
コツンと銃口が背中に当てられる。でも会って早々、有無を言わさず撃つわけではないのだから、話を聞く気はあるらしい。
「話、聞いてから撃つかどうか決めてほしいものですが」
「では、どうぞ。話して下さい」
「さっきも言ったように俺を撃ったところで、何も状況は変わらないって事は頭に入れておいて下さい」
「そうですね。状況は変わらない、そう堂々と言えるという事は、やはり単独じゃないという事ですね」
「やはり、って事は想定内でした?」
「君ひとりであれだけの情報をかき集められたとは思えないですから。後ろに得体の知れない何かがいる事は容易に想像できます。ただ、それが何か知ったこっちゃない。君にはしっかり痛い目見てもらわないと」
「へぇ、そうですか」
俺はふふっと笑いながら後にいる松葉を見ようと、体を動かそうとすると、「動かないで下さい」そう松葉に動きを制止させられ、それでも後を見ようと首だけを少し動かして話を切り出す。
「赤澤が刺されたのは知ってますよね」
「えぇ。うちの組員が刺したと騒がれてますから。警察も動いてますし、その対応のせいで疲労困憊です。君、その場にいたんですよね? 俺も話を聞きたかったところです。話して下さい。なぜ、赤澤を刺したのか」
「確かに俺は、赤澤を苦しめる事が目的です。あなたを脅して動かしていたのも、あいつを追い込む為。でも俺ではありません。俺がそう簡単に殺すはずないでしょう? だから俺が刺したと考えているのなら答えはいいえ、です」
「さて、ね。どうだか」
「なら良い事を教えましょう。あの時、本当は俺が刺されるはずでした」
「…どういう事ですか」
松葉の表情は見えないが、怪訝な顔してそう言った事は見なくても分かった。
「赤澤を刺した男はわざと森鳳会のバッジを落とし、組同士の抗争で片付けようとしていますが、そっちの組員ではないでしょう? どれだけ組員に探りいれても犯人は出てきません。赤澤を刺したやつはプロの殺し屋で、俺を消すつもりだったんです。俺が単独で動いているわじゃないと確信しているのなら、俺が組織の人間だって事は分かってますよね。その組織で俺は消さなければならない存在になったという事です」
松葉が銃を下ろし、俺も両手を下げ、「座りません?」と首を傾ける。松葉はテーブルに銃を置いていつでも撃てると脅しをかけながら、「どうぞ」と対面の席に座るよう顎で席を指した。
「君は組織で不要になり、始末が命じられた。君の言う事が本当だとしたら、殺し屋が誤って赤澤を刺したわけではない。…赤澤は君を庇ったという事ですか」
「はい」
「へぇ」
松葉は冷たく返すと、ふぅと息を吐き、テーブルに置いた銃の銃口を俺に向けながら、俺の様子をじっと伺っている。しばらく考えると、ふっと笑って椅子の背もたれに寄りかかった。
「君に赤澤の事を言われると腹が立つと思っていましたが逆みたいです。君の本性が垣間見えてしまうからでしょうか。君、怖いですか。赤澤が殺されるかもしれないという現実が」
そんな言葉を言われるとは思わなかった。
「野暮な質問ですね。俺があいつを嫌悪しているのも、殺したいのも知ってますよね?」
「そう思ってたんですけど、なんだか君を見てるとそうじゃないような気がします。何故かな」
松葉はそう呟くように言うと銃から手を離し、「それで、本題は?」とやけに楽しそうな顔をする。なんだか調子を崩されたなと舌打ちをしそうになったのを堪えた。
「Xと呼ばれる情報屋集団の事はご存じですか?」
「噂は聞いたことがあります。どんな依頼も遂行する掃除屋でありながら、どんな情報も扱う特殊な情報屋。しかし実在しているかは分かりません」
「噂の域を出ない闇の連中です。元マフィアや元ヤクザ、この組織に来る前から裏社会の人間もいれば、警察側の人間や元弁護士ってのもいます。訳ありな人間の集まりです。俺はそこの一員…、いや、正確には一員でした。俺の仕事は赤澤の命とある情報、そしてこの大組織、船木組のコントロール。その為にあなたに近付き、脅しをかけた、というわけです」
「それを俺に言う理由は?」
「あなたが握ってる秘密を教えて頂きたい」
「俺によく言えますね、そんな事。でもまぁ、対価によっては考えてあげましょうか。億くらいの金でも積めば、俺も口を割るかもしれません」
「億の金になるかもしれません。あなたの出方次第では」
「ほーう。何を提供してくれるのでしょう?」
「俺の命です」
「やけに自信たっぷりですね。今の君にそれほどの価値があるとは思えませんけど」
「物は使いようかと。俺はあなたにとっては億なんて金よりも価値があると思います。俺を殺したところで、あなたの大切な人は脅しの種として使われ、俺のような人間がまたあなたの前に現れる。あなたは今後も良いように使われます。一度脅しに屈した者は格好の餌食ですから」
松葉の顔はその言葉に分かりやすく曇ったが、それをすぐに隠そうと表情を直す。
「……それで?」
「俺ならその根源を、Xを壊滅させる事ができます。俺の命はあなたに預けます。俺が失敗したらその時は好きにすれば良い。俺を使って金になりそうな事は全てすれば良い。その代わり、ある情報を渡してほしい。その情報が、あの組織を壊滅させる突破口になります」
「ある証拠というのは、八坂議員の事ですね」
「えぇ。宇宙の平和と幸せの会との繋がりを決定付ける証拠が必要になります。どれほどの金が流れ、その金は何処から出てきたのか。詳細が知りたい」
「そのXとかいう情報屋集団ですら掴んでいない情報でしょう? 悪いけど、君みたいな信用のできない人間に渡せるとは思えません」
「この情報はXに渡す為のものではなく、Xを潰す為。それでも渡せませんか」
「君、その情報屋集団の一員だったんですよね? でもそいつらに命を狙われるはめになった。…腑に落ちませんね。理由が分からない。その組織を潰す為に八坂議員の金の流れが知りたい、あの宗教団体との繋がりを知りたい、…君、何か重要な事を隠してませんか?」
「隠してません」
松葉は何かを考えるように腕を組み、しばらく考え、大きな溜息をひとつ。
「隠し事をしている人間を信用しろというのは無理な話です」
「そう言われても隠し事なんてありません」
「…青木さんについて少し調べさせてもらいました。経歴がかなりヤクザらしくないですよね」
「えぇ。元々は警官を目指してましたから」
「目指していただけではないのでは?」
「そういう疑いは死ぬほどかけられてきましたが、全て疑い留まり。俺はただの情報屋組織の一員で、今は葉山組の…」
「公安、でしょうか」
松葉は表情ひとつ崩さず、俺を見下ろすようにそう詰めた。
「違います」
そう否定したところで、松葉の中では確定しているようなものだった。松葉は「そうですか」と吐くとテーブルに肘をつき、前に乗り出すように俺の目をじっと見た。
「もし君が警察側の人間なら、全て説明がつきます。それも公安なら、あの宗教団体の事を知りたがるのも、八坂議員の事を知りたがるのも頷けます。そして情報屋集団に命を狙われるハメになったのも。…殺せなかったんじゃないですか? 赤澤を。そうしているうちに、相手は君が裏切っているのではないかと探りを入れ、公安の人間だと知ってしまった。君は自ら危険な道を選んでしまった、そうじゃないですか?」
俺は何も答えられなかった。それが何よりも答えになってしまった。松葉は楽しそうに声を出して笑うと、「へぇ、そうですか」と呟いた。
「誰かを想うと人は弱くなりますね」
ひくっと目の下が痙攣する。認めたくない感情を、松葉は認めろと突き付けてくる。
「さて、公安さん。八坂議員の情報が本当に必要な理由、君の口から言ってもらいましょうか」
松葉から視線を外す。頭を掻き、しばらく考えるが良い口実が浮かばない。だったら全てを吐いてしまった方が、松葉は口を割る可能性が十分にあった。俺は唇を噛む。松葉以外からはもう情報を引き出せそうにもなく、荒木が動くよりも前に俺が動く必要があり、もう時間がない。
「Xにいるのは…」
そう話して松葉の目をじっと見つめる。
「あの闇組織を解明する目的もありましたが、あそこにいれば正確な情報が手に入り、それを生かす事ができるからです。俺の本来の目的は葉山組を隠れ蓑に八坂議員の金の流れを探ること。そしてあの宗教団体の情報を手に入れること。多額の資金が流れている事は掴んでいましたが証拠がなかった。無差別テロが噂されるような怪しい組織になぜ、多額の金が流れているのか探る必要があった。八坂議員からその糸口を掴みたい、でも、簡単に掴めるわけもない。けれど、その情報さえ掴む事ができれば、…俺は"あの組織"を潰せます。稗田さんを、いや、あなたを解放する事もできます。俺の命はあなたにとって、かなり価値があると思います」
松葉は俺の言葉を聞くと、ふっと笑う。
「そうみたいですね。君があの組織を潰せず失敗に終わってもまぁ良い金になりそうですし。でも、君はあいつをネタに俺を脅して、更にうちの切田を刺した。その罰はかなり重いですよ。あの組織を壊滅させた後もきっちり働いてもらいましょうか」
壊滅後も、とは大きく出たものだなと俺は目を細める。
「俺に拒否権はありません。情報を俺に渡してくれるのなら飲みましょう」
全てが終わる頃には、俺は日の当たる場所に引き上げられている。あんたが渡してくれるその情報で、俺は、あんたの手の届かない所へ行ける。
「約束はきちんと守らないといけませんよ」
でも俺の心の中を読んだみたいに、松葉は口角を上げ、俺の頬へと手を伸ばした。
「良い金になってもらわないと。リスクを背負うのはこちらですから。罰はちゃーんと受け入れてください」
「…えぇ。分かってます」
「そうですか、それなら良かった。逃げられやしないかと不安になりましたが、理解しているのなら安心ですね」
松葉はそう言うと席を離れ、隣の部屋のドアを開けた。何事かと眉間に皺を寄せていた俺に、「聞いてたろ」と松葉は部屋の中にいる誰かに声を掛けた。松葉と共に部屋から出てきた男に、俺はぎょっとした。
「………なるほどね」
「殺し損ねたな」
切田はふっと笑って俺を見下ろし、デカい図体で忠犬のように松葉の横に立っている。
「へぇー。生き返りましたか」
正直、ホッとしていた。でも生きている事が分かったら、こいつもまた、荒木に狙われるのだろうなと淡々と考えながら見ていた俺に、切田は「なぁ」と低い声で俺に尋ねた。
「本当はあんた、俺を殺すつもりなかったんじゃないんすか」
殺すつもり、か。俺はもちろん、知らないふりをした。
「殺すつもりでしたよ。ヒットマンが殺し損ねましたが、あんたを刺せと命じたのは俺で、」
そう言ってる途中で切田は割って入った。
「あんたを殺せと命じた男の事は聞いてます。荒木と呼ばれる若い男、そうですね」
「なんで、それを……」
荒木の名前が切田の口から出た事に驚き、つい動揺して眉間に皺を寄せると、切田は難しそうに表情を歪めて俺を見た。
「そしてその男が俺も消そうとした。…あんたが言ってたヒットマン、俺の知ってるやつなんすよ。あいつ、俺を殺し損ねたって荒木に捕まって、連絡取れなくなって、そいつから荒木って人の事は聞いてたんすよ。だから、もしかしたら、もうあいつは……」
切田は不安に唇を噛み締めた後、ぐっと拳を握り、再度口を開く。
「でもあいつ、生きてンだとしたら、荒木に命じられて赤澤のカシラを刺した可能性もあるなと思ったんです。そんでずっと連絡してるんすけど、音信不通で…。なぁ、青木さん、赤澤のカシラを刺した人間を見てるんじゃないすか。そいつの特徴、覚えてないっすか」
こいつは荒木が言っていたお抱えの殺し屋と繋がっていた。殺し屋はこいつを殺し損ねたと荒木は冷たい怒りを見せていた。厄介な事に、その殺し屋は切田にある程度の事をベラベラと話しているらしい。尚更、荒木にとってこいつは邪魔になる。殺し損ねた事もそう、内部の事を話してしまった事もそう、その殺し屋の命も切田も、命が無いようなものだろうなと俺は切田を見上げた。
「黒いフードを深く被っていました。ナイフを使う事にかなり慣れていました。派手さは全くなくて、むしろ地味な感じがしました。一重の切れ長の瞳で、目つきの鋭い人でした。それから、右の目尻から頬にかけて、見る限り新しい、刃物で切られたような切り傷がありました」
警察にも赤澤組長にも、他の組員にも誰にも言わなかった情報を、切田には何故、喋ってしまうのだろうか。こいつを標的にした事に対する罪滅ぼしか。それとも、こいつがあまりにも不安そうに表情を歪めているからか。考えれば考えるほど、嫌になる。
「顔に、傷っすか……」
切田の表情が更に暗くなった。
「あんたを始末するはずが出来なかったのだから、拷問されていてもおかしくはないでしょう。生きているだけでも御の字、そうじゃないですか。捕まったら最後、もう逃げられないでしょうから、覚悟は決めた方が良いかと思います」
あの傷はどう見たって戦闘でついたような傷じゃなかった。ナイフを使った喧嘩でさえ、あんな風にはつかない。
「……青木さん、あんたなら荒木とか言う男を止められる、そうすよね? あいつ、言ってたんです。荒木から、俺を殺すよう指示が入ったと。でも、組織に探りを入れても、俺を殺せと指示が出た記録がなかったと。だから今回のこの案件の中心人物は、脅せと、指示を出しただけなんじゃないかって。だとするなら、青木さん、あなたは俺を黙らせたかっただけ、そうなんじゃないすか。あなたは俺が赤澤のカシラと接触したから、口を塞ごうとしただけで…」
バカだな。この切田という男もどうしようもない愚か者だ。俺は分かりやすい、大きな溜息を吐いてみせる。
「本当にそうだと? 俺はあなたが生きていて困る人間です。でも今となってはどちらでも良い。Xさえ潰せば、あなたのお友達も救い出せますよ。今頃、もっと酷い事、させられてるかもしれませんからね?」
切田の表情は辛そうに歪められ、重そうに口を開く。
「そう、すよね…」
「この世界にいる人間なら分かるでしょうけど、荒木があんたの友達の顔にわざわざ傷を付けたのは、カタギに戻れないようにするためです。あの組織を潰してあげますから、情報を渡してくれますね?」
俺は切田を見て、それから松葉を見る。
「……どうしますか、カシラ」
切田は困ったように松葉を見た。最終判断はやはり、松葉というわけだ。けれど、松葉ももう逃げられない。
「うちの組も変わる時かもしれませんね」
松葉は大きな溜息をついた。
「八坂を通して政治に首を突っ込む事ができ、しかも何かあった時は便宜を図ってもらえる。会長にとって八坂は必要不可欠です。…しかし、これからの時代、今後の組の事を考えるのなら、これ以上、組の金を八坂に流す事は止めたい。うちからの資金が止まれば、八坂は終いになる。そうなれば会長も終いでしょう」
「松葉さん、どちらにせよ、八坂議員の政治生命は長くはありません。議員として誠実に振る舞っているつもりでしょうが、あの宗教と関わりがある事が明るみに出てしまえば終いです。けれど問題はあの組織が何か大きな事件を起こす前に、その資金源を止める事。そして組織を壊滅させる事。あの宗教団体は、ずっと公安が目をつけていましたが踏み込むための糸口が掴めなかったんです。だからどんな事をしてでも、その糸口を掴む必要があるんです。もし政界に顔をきかせたいのなら、別の人間を見つける事ですね。そして、森鳳会のトップに立てば良い。悪い話じゃないと思いますが、如何ですか」
「俺がトップ、ですか。俺は向いてませんね。勝巳の事で脅され、屈した時に、もうこの世界で上を目指す事は出来ないと分かりましたから」
松葉はそう言うと部屋の奥にあった棚からマイクロSDカードを取り出し、俺の目の前にそれを置いた。
「けれど、もういい。さっさと潰して下さい。潰して、二度とうちの邪魔をしないで下さい。二度と、あいつに近付かないで下さい」
俺はその小さなカードを受け取り、「分かりました」と微笑んだ。これで良い。これで。
「それと、コレ」
「……は?」
松葉は俺の目の前に鍵をぶら下げる。何の鍵かと眉間に皺を寄せていると、切田がその鍵を受け取った。
「案内します」
「何処に」
俺の疑問に松葉がクスッと笑った。
「3つ隣の部屋。この部屋よりは狭いですが、一人暮らしには不自由ないでしょう? 監視する必要がありますから」
「……それって物理的な話だったんですか。まさか、一緒に住むとか言い出しませんよね?」
「その通りですよ。もとはこいつを君の目から隠す為に借りた部屋です」
松葉はにっこり笑い、俺はその笑みに頭が痛くなった。誰が呑気に住めるか。しかも切田と一緒に。
「逃げられると困るんです」
「ずっとここにいる訳にいきません」
「そのXとかいうヤバそうな組織ですが、ヒットマンを送り付けるような組織ですよ。しかも情報屋でしょう? 今更どこに帰るつもりだったんですか。家、張られてますよ」
俺の事を気に掛けたのか? 俺はつい絶句してしまう。
「部屋を出る際には、ひと声かけてください」
松葉の横に立っている切田の顔には、お前に拒否権はないと書いてある。
「はぁ……」
制限がある中でどう動こうか。これじゃぁ監禁だろう。荒木が動く前に、どうにかしなければならない。荒木を出し抜かない限り、どうしようもできない状況なのに。その時、ふと、ある事を思い出した。
「柳田組の幹部を始末していましたよね?」
「えぇ、それが?」
松葉は眉根を寄せて首を傾げる。
「その幹部の事でひとつ教えて下さい。今、刑務所に入っている男の事知りませんか。幹部のひとりで、まだ娑婆には出てきてません」
「あぁ、…笹野、ですね。ひとりムショにいます」
笹野。きっとそいつだ。ビンゴだ。
「その人の事、教えてくれませんか」
「何故です?」
松葉は意図が読めないと怪訝な顔をして俺を見た。俺は正直に吐こうと、口を開く。
「荒木の弱点なんです。その男」
「………は?」
「お願いします。名前とか生年月日とか、知りませんか? 荒木という男を潰す為には、こちらにも武器が必要です」
「君に力を貸すのは癪ですが、乗り掛かった船、潰せと協力したからには良いでしょう。……名前は笹野 旭司(アキジ)、生年月日は分かりませんが、40くらいでしょうか。主にヤクで稼いでいる派手な男です。細身で、見た目はヤクザっぽくない紳士な装いですが、もっとも頭のイカれた男です。柳田組はイケイケな連中ですが、その筆頭がその笹野と言っても過言ではありません。けど笹野が、その荒木という男の弱味、ですか…」
「えぇ。ほぼ間違いなく。その男は俺にとっての武器です。何か見た目の特徴とかありませんか。例えば入ってるスミとか、目立つ傷とか」
「幹部連中の写真はあります。…待っててください」
松葉は奥の部屋へ戻ると、何か薄いファイルを手にしていた。松葉はそれを開くと数枚の写真を取り出して、俺の前に広げる。
「これが笹野です」
写真は盗撮されたようなアングルで撮られていた。松葉が言うように細身の男。手足が長く、スーツはブランド物だろう。靴も腕時計も、下品に飾っていないところが紳士らしい。派手な柄物は一切ない。金持ちの紳士、といったところで、これがヤクザなんて信じられないような出立ちだった。
「年を重ねてもまぁモテる男です。男とか女とか気にしないタイプの人間でね、自由奔放な人間かと思えば、恐ろしいくらいに執念深い一面もある。厄介で面倒そうな男ですが、その荒木って人と笹野の関係、気になりますね」
「深入りする気はありません。…あの、携帯の充電器貸して下さい」
俺がそう頼むと、切田は充電器を奥の部屋から持ってくる。「どうぞ」と俺に渡し、俺は充電器を携帯に挿し、カードを携帯に差し込み、中身を確認した。これだ。金の流れが細かく記載されていた。森鳳会から流れる八坂への金、そしてあの宗教団体へ流れている事が書いてある。そして笹野 旭司。見た目も分かった。荒木に対してはいざという時に使える。これらの情報があれば古賀さんは動く。
荒木を、潰せる。
「ちょっと外、出ます」
俺はすぐに行動に出ようと携帯を懐に仕舞って立ち上がった。
「何処へ? と聞いたところで言うわけないですね。携帯貸して下さい」
俺の事をもちろんのように信頼していない松葉は、俺に携帯を出せと手の平を上に向けて俺に手を出している。
「……は?」
「貸して下さい。君は億の金なんでしょう。首輪もつけず、外には出せません」
あぁ、そういう事かと、俺は舌打ちをして携帯を渡す。松葉は俺の態度が面白いようでにやりと笑って、携帯を受け取った。松葉は俺の携帯を受け取ると何か作業をして、すぐに返した。
「どうぞ、どこへでも」
追跡アプリでも入れたのだろう。あとで削除する必要はあるが、今は急いで報告をしなければならない。時間は待ってくれない。一刻も早く、俺は荒木を止めなければ手遅れになる。俺は携帯をポケットに押し込むと玄関へと急いだ。マンションを出てすぐ、近くの公衆電話は何処だろうかと探しまわり、少し離れた公園にぽつんとあった公衆電話を見つけ出す。俺は時間も気にせず、古賀さんの携帯電話を鳴らした。
プルルルと無機質な機械音が鳴り続け、古賀さんは出る気配がなかった。頼む、出てくれ。頼むから…。焦り、不安、嫌な緊張が脳を支配していた。
「……今、何時だと思っているのかね」
相手は不機嫌だが俺は安堵していた。一呼吸つき、「すみません」と謝った後で情報を口にする。
「一刻も早く連絡すべきかと。八坂からあの宗教団体へ金が流れてる証拠を掴みました。そしてXの上層部と繋がっている荒木という男の事についても分かりそうです。柳田組幹部、笹野 旭司、この男を探れば荒木に繋がるかと。古賀さん、会えませんか」
「ほう。それが本当なら、お手柄だな。…明日、午前6時、君の家の駐車場で待ってる。すべての証拠を持って来なさい」
「分かりました」
これで俺も正式に戻れる。認めてもらえる。日の当たる場所に帰れる。電話を切り、俺は自分を落ち着かせようと深呼吸してその場を後にした。
こんな重要な証拠を持って、どこに行けば安全だろうかとしばらく考える。松葉が言ったように間違いなく俺の家の住所は突き止めているはずだった。赤澤の家も、もちろん。けれどやはりどう考えても、俺のもうひとつの棲家を知られているとは思えなかった。古賀さんが与えてくれたあの棲家は、荒木ですら知り得ないだろうと。だとするならあの家が一番安全だろうなと、公衆電話のボックスから出ようとして、ひとつ思い出す。
そういえば松葉、携帯に何か入れやがったよな。
残り少ないバッテリーの残量を睨みつけながら、身に覚えのないアプリを探し、あっさりと見つけ、もちろん削除した。瞬間、松葉からは当然のように電話がかかってきた。
「逃げるんですか」
「えぇ、今は逃げます」
「今、君に死なれては困ります」
「荒木も俺の隠れ家までは知りません。俺、家がふたつあるんで心配しないで下さい。荒木はきっと片方しか知りませんから。それと、松葉さん、あなたの部屋はバレてます。どこか隠れる事をオススメします。切田さん家も分かってますから、さきほど俺に差し出した鍵の部屋にふたりで隠れていて下さい。荒木はきっと、切田さんを狙います」
「………癪ですね」
松葉の分かりやすいほどの溜息につい、笑いそうになった。
「あなたは俺の弱味を握ってます。仕留めようと思えば、いつでも仕留められます。だから大人しく俺の指示に従って下さい。今は俺に時間を下さい」
「……分かりました。随時、進展を報告して下さい。もし怠ればその場で終いだと思って下さい。俺は君が思っている以上に君の事をしっかり見張ってます。では、また」
電話を切り、俺は周りを確認する。暗い公園内で、誰にもつけられていない事を確認してからタクシーを拾って家へと向かった。あの場所を知っているのは、その場所を用意したあの人と、俺が情報を明かした赤澤だけ。他に知る人はいない。タクシーは静かにネオン街を通り過ぎ、落ち着いた高級住宅街へと走って行く。
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