15. 明確な殺意と証明

橘園の奥座敷、部屋の中は柑橘系な爽やかな香りが広がっていた。部屋の中ではひとりの芸者が三味線を横に置き、男に酒を注いでいる。俺が部屋に入ると、男はその芸者に出るよう伝えて俺を部屋へと招く。



「飲むか」



男はお猪口を軽く上げて酒を勧める。俺には酒を飲む程の余裕はなかったが断るわけにもいかず、一杯だけ、とお猪口を受け取った。嫌な緊張感だった。男はくっと一杯飲み干し、俺も同じように飲み干した。酒の味が全く分からないほど、今の俺は緊張しているらしい。男は俺が飲み終えたのを見ると、数枚の書類を差し出しながら口を開く。



「金の用意は?」



俺は黒い風呂敷に包んだ札束を差し出し、男が中を確認した後で書類を手に取った。ここにあいつの全てが記載されているのだ。俺の知りたかった事、全てが。そう思うと正直、恐怖に似た感情がふと湧いてきて、それを押し殺すように深呼吸をする。男は酒を注ぎながらくくっと喉の奥で笑った。



「怖いか」



まるで揶揄われている気がした。全てを見透かされ、真実を知る準備なんて出来ていないのでは? と。怖いというわけでは…、そう否定した俺に、男は「大切かね、その青木って男は」と口角をゆるりと上げる。



「そ、れはどういう…」



大切ですと、素直に答えるべきだった。組員として大切だと男も理解するだろうに、変に口籠もり、男はそれを聞き逃さない。



「真実と向き合うのは怖いだろう」



俺は心地悪さを感じて眉間に皺を寄せると、男はふっと笑って言葉を続ける。



「金と情報。今回はそれが対価だ。いいね?」



「はい」



「ひとまずはその書類。気になるだろ。ざっと読んでみなさい」



「…はい」



手渡された書類に目を通す。名前、生年月日、家族構成までは俺が元々知っていた情報と一致した。経歴は斉藤がまとめた内容とほとんど変わりがなく、大学を出てから小さな食品企業に勤めた事も、カナミヤファイナンスの事も同じ記載だ。ただ菅野や友人関係に関しては記載がなく、職歴がより細かく書かれていた。それくらいの違いだった。拍子抜けだった。もちろん、違和感を覚える。そんなはずはない。何度読み直しても怪しい点がない。それが何よりも怪しく、腑に落ちない。



「……あの、これ…」



「なんだね」



「これが青木の経歴ですか」



「あぁ」



男は酒を一口また飲むと、怪訝な顔をしていた俺を見て言葉を続ける。



「…何か疑問が?」



「あなたの情報はいつも正確です。だから信用しています。ですがこれは納得が…」



男はお猪口をトンとテーブルに置く。



「できるわけがない、かな? 君は部下を使って青木を探らせ、この情報は知っていたようだね」



「はい、でも何故それを…」



男は鞄から別のファイルを取り出すと、「青木の経歴には表と裏がある」と低い声で伝え、そのファイルをテーブルの上へ。



「もし君がこの表の情報だけで納得してくれるなら、それまでだったが、斉藤が掴んでいたのも全く同じ情報だったようだね。この表の情報もオモテと言うわりには入手困難だったはずだが、斉藤はどこの情報屋と繋がっているのか気になるところだ。もしくは、彼の友人が組対でもある程度の情報を掴める人物、という事か」



あぁ、本当にこの人は食えない。斉藤にとっての情報源であるその友達を、この人はどうするつもりなんだろう。斉藤には確かに情報屋にコネがあり、優秀なようだが、警察関係はもっぱらその友人頼みだったはずだ。



「斉藤のコネ、潰したりしませんよね?」



ファイルに手を伸ばしながらそう聞くと、男はクスッと笑って「生憎、今の私にそんな権限はないよ」と呟くように言うとまた酒を飲む。


そうなら良いですが、と俺は男からファイルへと視線を移してファイルを開いた。心臓の音は徐々に速くなり、耳の奥でトントントンと高い脈の音が響いて落ち着きを無くしている。青木の真実に目を伏せてしまいたくなった。やはり怖いのだ。あいつを裏切り者だと確定する事が。


しかし前に進まなければならない。受け入れなければならない。さもなければ斉藤も組も、全てを失う事になる。ひらりと一枚、ページを捲る。家族構成が細かく記載され、学生時代の学校名も交友関係も記載されていた。高校の記載欄には俺の名前があり、赤く丸印が付けられ、俺の情報も箇条書きで記載されていた。その紙に記載されている内容は、一目見ただけで先程の情報とは違うと分かった。表と裏の、これはウラ。



「最初に渡した書類は表。万が一、誰かが青木を探った時に手に入る、いわゆる造られた過去。努力して探りを入れりゃぁ、あの情報は手に入る。そして今、君が手にしている方は彼の実際の経歴であり、表に出ちゃならない裏の経歴だ」



青木は、警視庁組織犯罪対策課第一班、つまり組対の刑事だった。やはり…。そう思ったのと同時に安堵が心を支配する。あいつは、刑事"だった"、のだ。



「青木は依願退職扱いになってるが、そこに記載がある通り本当は辞めさせられたようなもんだ。こいつの上司は悪い男でね、青木に罪を着せて辞めさせ、自分は今や課長に昇進だ」



退職理由がつらつらと述べられていた。



「辞めさせられた理由は、…同僚への暴行、ですか。あいつがそんな事するわけないと、他のやつらは疑問に感じなかったのでしょうか」



俺はファイルの文章を目で追いながら返事を返す。



「人は追い詰められるとどうなるか分からないよ。暴行をした理由、もう読んだかね? 理由が理由だ。真面目に職務を全うしていた男を追い出すには十分な理由だった」



読めば読むほど胸糞が悪くなるような内容だった。



「要は自分がヤクザに情報を渡したのがバレそうになり、同僚に問い詰められ、口論の末その同僚を殴った、ってオチだ。ヤクザ絡みの事はかなりグレーだから証拠もなく、誰も真相は調べない。けど暴力は問題だ。殴られた同僚が青木に殴られたと騒ぎ立て、上はろくに調べもせず青木を追い詰め辞めさせた。しかし真実はロクでもない上司と同僚の男は結託して、いや、その同僚も脅されていたかは知らないがグルだった。上司は鼻の効く青木を追い出したかっただけ。ヤクザと癒着していたのはきっとその上司で、青木は暴こうとしていたのかもしれなが真相は闇の中。当時、辞職を迫られた青木は無実を主張したが、」



「通らなかったんですね」



「あぁ。だからあいつは元刑事。同僚を殴って全治一ヶ月の怪我を負わせ、ヤクザに警察内部の情報を流したと噂される悪徳元刑事。落ちるところまで落ちて、そうして今じゃ立派にヤクザ者だ」



「そうです、か…。青木は元、刑事…」



「安心したか?」



「安心したい、というのが本音です。しかし…もし、青木のバックに誰もいないのなら、刑事じゃないのなら、あいつはなぜ…」



なぜ、あんな風に言葉を吐いたのだろう。自己破滅を望むように、ぽつりぽつりとヒントを出すように。



「…なぜ?」



「いえ、なんでも」



しかし俺はそれを飲み込んで、ファイルに再び目を通す。男は少し怪訝な顔をした。



「青木の事は署内でも伏せられて誰も触れない。箝口令が敷かれてる。だから斉藤君の友達も探る事はできないし、上も青木については何も語らないだろうよ」



「そう、ですか」



「元刑事の人間を信用しろというのは難しい話だろうが、人間落ちる時は簡単に落ちるものだよ」



「……」



「私ももう組対の人間ではない。だからあまり組の情報は詳しくないが、君ンとこの組で何か問題が起きていて、それに青木も関わっていると君は踏んだ。そういう事だね?」



「…はい。俺が関わる案件に関して、次から次へと情報が漏れ、先回りされています。それで組内に裏切り者がいるのではないか、と」



「ほう。それで青木、か」



「新しく入って来た青木を疑うべきだと…。それが自然な流れだとは思います。しかし青木には把握できないだろう案件まで漏洩しているんです。そしてその案件全てに斉藤が関わっている…。ただ俺は、斉藤が裏切るとは思えませんし、青木はどうしたって極道らしくありません」



「他に目星をつけている組員は?」



「いえ、特には」



「そうか。まぁ、私があれこれ言うべきではないだろうが感情とは厄介で、真実を見えなくしてしまうものだ。気を付けなさい」



感情とは厄介、まさにそうだ。今の自分が置かれている状況がまさにそうなのだから。俺は静かに「はい」と頷いた。



「さて、こちらも欲しい情報がある」



この人にとってはここからが本題だ。



「えぇ、なんでしょう」



「森鳳会の森会長について、ある政治家と癒着がある事は知っているね?」



驚いた。この人は当たり前のようにその情報を掴んでいるらしい。



「…何故、それを」



「何故、に対する回答はできないが、その事で教えて欲しいことがある」



「はい。俺に答えられる事であれば…」



「森会長と繋がってる議員の名前を君は知っているね?」



知っているね、という語尾は明らかに俺に圧を与える為だろう。知っているか、という疑問ではなく敢えて知っているね、と知っている事を前提で聞くあたり、この人は主導権を手離さないのだろうと俺は苦虫を噛み潰す。俺の知らぬ存ぜぬは通用しないという事だった。あぁ、やはりかと心のどこかで大きな溜息を漏らす。この男に対して嘘は通用しない。



「……」



これを答える事でうちの組にどれほどの影響が生まれるだろうか。森鳳会が影響を受けて、それがうちに返ってくる事は…。そう考えていると、男はやけに冷たい目をして俺を見下ろした。



「これは対価だ。聞いているのではなく命令だよ」



俺は男の目を見据える。確かにこれは、青木の情報料ではあった。しかしそれに伴う利益、不利益を計算し、俺は「分かりました」と答える。男は「名前をここに書いてほしい」と紙とペンを俺に差し出した。俺はそこに名前を書きながら、それにしても…と考えていた。


何故、この人がその情報を今になって知りたいのだろうか。組対を辞めたこの人が森鳳会と繋がる議員の事を知りたい理由は何だ。だってこの人、今は…。



「ほう、そうか。八坂議員。これはまた大物だね」



男は書き終えた紙を受け取ると、なるほどと顎を撫でる。その名前を本当は知っていただろうに。俺を試す為だったか、自分の持っている情報と俺の情報を合わせて照合させ、その正確さを確かめたかったのか。俺には分からないし、聞くつもりもない。



「では次の質問だが、船木組長、あの人はもう長くないそうだね?」



「……はい」



身内でも身近な組織のトップしか知らないような情報だが、そんな事も知っているらしい。俺は心底この人の事が怖くなる。



「それに伴って本家若頭に赤澤さんと、野上組長が並ぶ。それは本当かね」



「よくご存知で…」



「相馬組長も含めると三人だね?」



「えぇ」



「君は誰が一番有力だと?」



「……相馬組長、と言いたい所ですが、そうではないようです。親父もこの件に関しては何かを隠しているらしくて、俺にも詳しい事は分かっていません。急に船木組長から親父と野上組長の名前が上がって、相馬組長が候補から消される理由も分かりません」



「どうやら少し、ややこしい状況になっているようだね。では少し、質問を変えよう。野上組に関して、野上と森は兄弟盃を交わしているね? 元は君達と敵対していた組だが、野上は何故、森鳳会を身内同然に扱うようになったのか聞いているかね」



「それは…、たぶん、うちと戦争をさせないため、かと。うちと野上組は良い関係を築いてきましたので、血を流させないようにと野上組長が森会長と話をつけた可能性はあります」



そう親父には聞いていた。素直に伝えた言葉に、男はふっと鼻で笑った。



「野上組長はそこまでお人好しではないと思うがね。彼はビジネスマンだ。損得で動ける男だよ」



「…何が、言いたいのですか」



「ただ血を流させたくないという理由だけであの組と対等になった、というのはどうかなと思ってね」



この人は何を知っている? そして、本当は何を知りたい…? 俺が眉を顰めると男は再び質問を口にする。



「森鳳会を味方につける事で得られる旨みに惹きつけられた、そういう事なんじゃないかと思ってね。さて、君はそれに関して何か知っているかね。森鳳会の持つ旨み、ってやつを」



この人はそれについて知りたいのか。俺には松葉と接点があるし、森鳳会との付き合いも長い。俺が何か知っていると踏んだのだろう。つまり、この人が動かなければならない何かがあの組にはあるという事だった。



「いえ、……俺には全く。八坂議員以外に何かある、という事ですね」



俺の言葉に男はじっと俺の目を見た。まるで俺が嘘をついているか否かを見定めるように。その瞳に心地が悪くなり、俺は耐えられなくなって視線をすっと外す。



「そうか。何も知らないか」



外された視線を見ながら、男はぽつりと呟くようだった。



「森鳳会は情報が少ない。身内にすら情報は落とさない。だが、君はあの松葉と親しい仲のようだったからね、何か知ってやいないかと思ったが、その様子じゃぁ、本当に何も知らないようだね」



「親しい仲…ですか。上が兄弟分になったとはいえ、俺が知る事は多くありません。松葉と話す事は多くても、俺に語れる事は何ひとつ…」



「君に頼み事をしたい。いや、交換条件というものかな」



この人が頼み事だなんて…。何がどうなってる。この人は今まで俺に頼み事なんてした事がなかった。



「はい」



「森鳳会と繋がりがある組織が分かったら連絡をしてほしい。というよりは、八坂に繋がりのある何か、だね。もしその何かを掴めたなら、君にある情報を渡そう」



「ある情報、ですか」



「青木の情報」



嫌な胸騒ぎがした。血の気が引くような、再び緊張が体に走るような。青木に関して俺はまだ重要な事を知らされていないのかもしれない…。



「青木の情報はこれが全てではない、という事ですか」



この人が青木に関して隠す事が何を意味するのか。知りたくない…。だが、知らなければならない。



「君はあまり情報を持っていないようだからね。全て明かしてはこっちの利が少ないと判断させてもらった。八坂に繋がっている組織が判明すれば、私はとても助かる。そして君は青木の秘密を知れる。ギブアンドテイク、いいね?」



飲み込むしかないのだろう。既に金は払った、全て教えろ、そう吠えたいがそれが出来る相手ではない。俺は「分かりました」と返事をするしかなかった。


情報が得られず悔しかったわけではない。青木の秘密に対して、この人がかなり高い価値をつけたという事実が恐ろしいのだ。この人が大金で売る情報はこの人にとってどうでも良い情報だった。一方、この人が情報を欲しがる時は、この人が切羽詰まるような状況にいる、もしくは渡す情報がこの人にとって価値のある重要な情報という事だ。それは金を積んでも教えてはもらえない。


つまり青木は元刑事のチンピラという仮面をつけているにすぎない、という事かもしれない。



「だから、宜しくね」



男から得た情報は今のあいつに詰め寄れるほど価値はない。深い溜息が宙を漂った。車を走らせるが、その道のりの足取りは重い。帰りたくなかった。青木にはどう接すれば良いのだろうかと、あいつの中途半端な真実を知った今、俺はあいつには何と声を掛けるべきかと、その迷いが足を止める。組対の刑事だったんだな、そう言ってしまえば、あいつは何と返すだろう。


どうやって知ったかを執拗に訊ねるか。いや案外、飄々と肯定しそうだ。どうあれ今の俺にはあいつに会う準備が出来ていなかった。しばらくあてもなく車を走らせていた。それでも会う覚悟が出来ずにいた。何と言うべきか分からなかった。


あんたは組対の元刑事で、今は何者なんだ。もう、全てを打ち明けてくれないか。もし、そう言ったら。あいつはどこまで俺に嘘を突き通してくるのだろう。嘘をつくのなら、最後の最後まで、ボロを出さずに騙してほしい。そう思って、あの時、口から言葉が溢れた。あれは本音だった。あいつが小出しにする自己破滅的な仄めかしに、俺は怖くなっただけなんだ…。


良い加減、帰ろうかと俺はひとつ決意していた。青木の過去を知った事を俺はまだ、あいつに言わないという決意。それはまだあいつの全てを分かっていないから、とも捉えられるがきっと違う。


俺はただあいつを失いたくない。きっとそれだけだった。傲慢な欲に俺はふらりと靡いてしまったのだ。知らないを突き通せば楽。何もまだ、言わない。そうすればあいつは……。


家の鍵を開ける。青木は寝ているだろうか。いや、飯でも食って呑気にテレビでも観ているだろうか、そう考えながら静かに部屋に入った。家の中はしんと静かだった。物音ひとつせず青木の姿は見当たらない。寝室も風呂場もどこにも姿はないのだ。


あれほど目立つ怪我を負ったのに外へ行ったのだろうか。あいつだって謹慎みたいなもんだ。外に出られちゃ困るんだが。そう思いながら一度落ち着こうとソファに腰を下ろす。 


もしかすると、近くのコンビニでも行ったか。急用? 仕事に戻ったりはしてねぇよな? あの顔で。


そう考えながら三十分が過ぎ、一時間が過ぎる。しばらく考えても埒が明かず、俺は仕方なしに青木に連絡を入れた。青木の携帯を何度も鳴らす。一向に繋がる気配のないコール音。無機質な留守番電話サービスへの案内。俺は苛立った。あいつは今、どこで、何をしてやがんだ。電話を諦め、「どこにいる」とメッセージを打ち込むが青木からの返信はないままだった。


妙な胸騒ぎがした。何かあったんじゃないかと不安が思考を支配する。あいつに何かあったとしたら、仕掛けたのはやはり斉藤…か? いや、待て。斉藤には涼司がついてる。しかし涼司の目を盗んで、という事も怒り心頭な斉藤ならやりかねない。そう思い立ってしまうと居ても立っても居られず、気付けば斉藤の携帯を鳴らしていた。


あのふたりが衝突する事だけは避けたい。ドクドクドクと妙な緊張に脈は速くなる。斉藤は、電話に出なかった。いつもならスリーコール以内で出るあいつが、出ないのだ。電話を切り、嫌な想像をしてしまう。斉藤が青木を殴り殺す、そんな想像を。あぁ、勘弁してくれ。


………頼むから。…頼むから。


緊張に生唾を飲み、すぐに涼司に電話を掛ける。涼司はツーコールで応答した。



「お疲れ様です」



「おう、涼司か…」



つい動揺した。涼司の携帯に掛けたのは俺自身なのに、すぐに電話を取った涼司に驚き、俺は少し口籠った。



「はい、俺です。どうしましたか」



「いや、悪い。…斉藤は一緒か?」



「はい」



あぁ、良かったと、一気に安堵が体を支配した。



「そうか、…なら、良いんだ。斉藤に電話したが繋がらなくてな。斉藤、今は何してる?」



「あ、電話…すんません、カシラ、電話してたンすね。兄貴の携帯、充電してて見てなかったです。で、兄貴は今ぐーっすり寝てます。何か、問題でも起きましたか?」



「いや、何でもないんだ。そうか、斉藤は寝てるか…」



「かなりキレてて手に負えなかったんで、少し前から寝かせちまいました。薬飲ませたんですけど、叩けば起きるかと思いますが」



その言葉を聞いて俺は少し頬を緩ませた。



「寝かせてやれ。大丈夫だ」



斉藤がキレた時の対処は荒いが涼司に任せるのが一番だと思ってはいた。が、そうか、最終的には無理矢理に寝かせたのか。



「しばらくは、そのまま側にいてやってくれ」



「分かりました。今日は泊まります」



そう素直に涼司は返事をする。「頼んだ」そう伝え、俺は電話を切って背もたれに深く寄りかかった。涼司はすぐに一枚の写真を送ってきた。それは薬を盛られ、すっかり大人しく寝ている斉藤だった。これなら斉藤が青木に何かする、って事はなさそうだ。それならあいつは何処へ行った…?


新崎に電話し、青木が事務所に戻っていないかと訊ねるが戻っていないと即答される。そりゃそうか、当たり前か、と思いつつもそれなら本当に何処へ消えたのかとまた不安に支配される。しばらく待てば戻って来るかと待っていたが、戻って来る気配はなかった。再度、電話を入れる。応答はない。


あいつの行きそうな所は? バーなんて行きそうにもないし、キャバや風俗も行かないだろう。あいつのいそうな所…。


その時、もしかしたらとあいつが言ったあの住所を思い出した。あいつが本当に知りたくなったらと言っていた場所。あいつが消えた今、その場所しか手掛かりはない。俺はジャケットを羽織ってその場所へ向かった。


到着したその場所は想像通りだった。ヤクザの下っ端が住むような場所ではない、高級感のある高層マンション。外にいる人間の身なりでどういうエリアなのか、十分に理解できる。エントランスで905と部屋番号を押した。チャイムは鳴っているが誰も出ない。


そのままエントランスにいたところで、中には入れず、俺は立ち往生しながらどうするべきかと考える。まったく、俺は何をやってんだ。勢い余って来たは良いが、あいつが出迎えてくれるとでも思ったのか。手掛かりはこの場所だけ、とはいえ、この場所が何なのかも分からない。


俺は自分に呆れて溜息を吐き、仕方なしに車に戻った。しばらくその場所に留まったが不安が募り、時間だけが過ぎていく。無駄に事務所に戻って居座り、あいつが帰って来ているかもしれないと、朝方、家に戻った。部屋の中は相変わらず静かだった。再度、電話をするが応答はない。音信不通に舌打ちをして、強い酒で喉と胃を焼いた。


そうして気付けば少し落ちていたらしく、遮光カーテンから漏れた陽の光がもう高いところまで昇っている事に気が付いた。重い体を起こし、再度携帯を確認するが青木からの連絡は無かった。


どうしたものかと考えながら事務所へと戻ったのは、午後三時頃だった。事務所に戻るとすっかり冷静を取り戻していた斉藤が、俺の部屋に入るなり頭を下げる。事務所に青木の姿はなかった。



「おい、謝る必要はねぇだろ」



「…カシラの友人を殴った事には変わりありません」



「あいつを友人だと思った事は一度もねぇから安心しろ」



「……」



斉藤の難しそうな顔を見ながら、俺は気になる事を聞く。



「それより、青木、見なかったか」



「青木、ですか。えっと…さっきまでは集金、行ってたかと。あ、もしかして昨日、電話もらったのって青木の事についてでしたか? 俺、すっかり寝てしまって…。折り返しできず、すみません」



「いや、いいんだ。そうか、青木、来てんのか」



家には戻らなかったが仕事には出ているようで、どうやら俺の前から消えたわけではない、らしい。だとしたらどこで寝泊まりしてンだと、考えて自嘲してしまう。


帰って来る事が当たり前みたいに思ってンな。あいつはただ自分の家に帰っただけだろうに。そうなるとあのマンションにあいつはいたって事だよな。いや、あのマンション、本当にあいつの自宅なのか。秘密を抱えるような男が自宅をそう簡単にバラすだろうか。だとしたら、あの場所は一体何だと言うのだろう。


何がどうあれ、あいつとは話さなきゃならねぇよな。そう考えてハッとする。


話さなきゃ、ならない…? 何を。俺はあいつが刑事だった事を伏せていたい。あいつにはそれを言うつもりがない。だとしたら何を聞きたい? 何を話す事がある? なぜ、会わなきゃならない?


俺が聞きたいのは、なぜ、家に戻らなかったか…それだけなんじゃ…。



「あの、カシラ、…どうかしたんですか」



斉藤の怪訝な顔を見て我に返った。



「…いや、なんでもない」



そう咄嗟に答えると、斉藤はまた気難しい顔をしながら口を開いた。



「あの、カシラは、…その、青木とは…、いや、青木をどう思ってるんですか」



青木とは、そう言いかけて、青木をどう思ってるのかと斉藤は言葉を少し変える。俺は斉藤を見上げながら眉を顰めていると、斉藤は「すんません」と少し頭を下げた。



「詮索したいわけではないのですが…」



「いや、お前が気にするのは当たり前だよな」



俺は自分自身の不甲斐なさに溜息を吐いて、椅子に深く腰を掛ける。ギィと革椅子が軋んだ。



「あいつの正体は俺にはまだ“分からない”が、俺のシノギの邪魔、切田の刺傷、それらにあいつは関わってると思ってる」



「カシラは青木が黒だったら、落とし前をつけると言ってましたよね」



「あぁ」



「どう考えてもカシラがそこまでする必要ないかと思います。青木にしてやられただけ。いくら同級生だからって、カシラがそこまでする必要は…」



「全て俺の責任だから、だろうな」



「責任、って…」



「あいつが俺を追い込む為に俺に近付き、俺のシノギを邪魔して、今はお前にまで刃を向けてる。ならその原因は俺だ。責任ってのはきちんと取らなきゃならねぇだろ。それだけだ」



「どうしてもカシラが責任を取らなきゃならないんですか」



「そうだな。お前が黒だとしても、あいつが黒だとしても、その責任は俺が取る。部下を馬鹿な行動に走らせた責任だろ」



斉藤は俺の言葉に一瞬、唇を噛んだ。何かを堪えた様子だった。それからゆっくりと口を開く。



「青木が部下、ですか」



そしてそう怒りを抑えつけながら言葉を絞り出す。



「あいつは突然この組に転がりこんで来て、全てを滅茶苦茶にしやがった…。なのにカシラは、自分を犠牲にしてまであいつを救おうとする。カシラが、あなたが落とし前を取る必要ないじゃないですか…。高校時代、暴力を振るっていた贖罪の気持ちですか。だから、あいつを本気で潰そうとは考えない、そういう事ですか。カシラには警察関係者にコネがある、そうですよね。俺のよりもっと強力なコネが。あの人に聞かないのは金がかかるから? おやっさんと繋がっているから? …そうじゃないんでしょう。カシラは青木を守りたい、今カシラの頭にある事はそれだけなんじゃ …」



斉藤の感情は見ていて辛くなるほどぐちゃぐちゃで、怒りも悲しみも憎しみも、全てが混ざっているのに必死に隠そうとしている。参ったな……。こいつにそんな顔をさせたくないんだが。



「あいつは警察じゃねぇよ」



俺の言葉に斉藤は訝しげな顔をする。



「あの人に聞いたんですか…」



「あぁ。お前の言う警察関係者のコネ。あの人に聞くのはお前も分かってると思うが最終手段だ。金もかかるし、下手をすれば親父に弱味を握られる可能性だってある。確かにお前が言うように俺はあいつを守りたいと思っているし、その事は否定できない、だが、だからと言ってお前の立場が危うくなるのを黙って見過ごせない」



斉藤は眉間に皺を寄せたままじっと俺の目を見つめ、言葉を待っている。だから俺はゆっくりと落ち着いて話した。



「……決着を着けるためにあの人に青木の事を聞いたんだ。だが、答えは俺が思っていたのとは違った。あいつは警官じゃなかった。あいつが裏切り者だと思う一方で何ひとつ証拠はなく、あの人にすら警察ではないと否定をされる。…だが、あいつには何かある。それは確かなんだ。あいつは裏切り者だろうと予想はするが、あいつの正体が分からない今、あいつの喉は掻っ切れない」



そうですかと、呟く斉藤の悔しそうな顔を俺は見上げた。苦虫を噛み潰したように、心底悔しそうだった。



「俺の黒はますます濃くなっていきます。カシラが俺を信じてくれても他は違う。おやっさんは俺を破門にするつもりです。俺も青木もなんて、もう無理な状況なんです」



破門。その二文字に俺は目の前の男が想像以上に追い込まれている事を知る。親父は斉藤の首を土産に何かを成し遂げようとしているのかもしれない。だとしたら、何だ……。



「親父から直接そう言われたのか」



「はい。俺の破門は確定、そして…カシラも責任を取らされると。破門が色濃いと言ってました。切田さんの意識が戻らない事がかなり状況を悪くしています。森鳳会から正式に抗議があり、野上組長が間を持ってますが森鳳会の怒りを鎮めるには俺とカシラの首が条件なようです」



親父は敢えて俺に何も言わないのだろうが、こいつだけを呼び出した理由は一体何だろうか。俺と斉藤を失えばこの組は成り立たない事くらい分かってるだろうが、何を考えてる? 親父の目的は何だ。俺はぎりりと奥歯を噛み締めて怒りを堪えていると、斉藤は表情を一切崩さず続けた。



「もし俺達がこの組を追われたら、誰がここに居座ると思いますか。カシラの後釜は、…若頭代行を務めるのは青木だそうです。青木は何もかもを壊すつもりです。もう、分かってンでしょう。カシラ、…青木は裏切り者です。証拠がなくても、あなたが責任を取る事じゃない。あなたはあいつを、…青木を……」



そこまで言うと言葉を無理に飲み込んだようだった。青木を、破門すべきだ、なのか。それとも、始末すべき、なのか。分からない。面と向かって言われる言葉に目を背けたいと思っても叶わない。黒幕が青木だとするなら、青木は親父とすらも繋がっているのだろう。


青木は一体、何者なんだ……。深く息を吐く。冷静になろうと、思考を整理しようと、口を閉ざした俺に斉藤は続けた。



「青木は事が収まったらカシラだけを組に戻すつもりです。カシラ、俺はあの日、あいつに脅しをかけたんです。金を使って青木の事を刑事に探らせる、と。その後なんですよ。切田さんが刺されて、俺がその犯人は仕立て上げられたのは。あいつの正体はやはり潜入捜査官なんです。それなら納得がいきます。あの人が違うと否定したのには何か理由があるんです。それなら辻褄が合いますよね? 本当は警察だから、それを隠す為に…」



「違う、…斉藤。切田が刺されたのは…」



俺のせいなんだ、と咄嗟に溢れそうになって言葉を止めたのは切田が言っていた事を思い出したからだった。身内は誰も信用するな。その言葉に俺は目の前の斉藤にさえも口を閉ざしてしまう。こいつではないと否定しているにも関わらず、全てを疑えと体が勝手に動くようだった。青木の本性が分からない今はまだ、切田が俺に伝えた情報はこいつにも言うべきではないと判断してしまったからだ。



「悪い、なんでもない。…だが切田の件はお前の責任じゃない」



だからそう曖昧に言葉を濁した。斉藤を真っ白に置けない自分に嫌気がさす。



「……俺にも言えない、って事ですね」



斉藤の苦痛に歪められた顔を俺は直視できなかった。視線を逸らし、「悪い」と吐き捨ててタバコを取り出す。



「…すんません。無礼な言い方でした」



斉藤はそう言いながらスッとライターを取り出し、即座に火を点けようと火を差し出した。そのライターはいつぞやに俺がこいつにあげたライターだった。年季の入ったシルバーのそれは勢いよく細い火を吹き出している。自分のライターを取り出そうと懐に手を入れていた俺は一瞬だけ戸惑い、その手をぶっきらぼうにポケットに突っ込んだまま、火に先を近付けた。紙とタバコの葉がジュッと音を立て、煙が一筋天井に伸びていく。


斉藤はライターを仕舞い、俺は斉藤の表情を読み取ろうとその目を見ていた。いつも澄ましたこいつの表情は、どこか悲しげに歪められている。そこに怒りはもう無かった。それが余計に辛い。



「……カシラ、俺は汚名を着せられてこの組から追放される事に納得がいかないんです。しかも得をするのが青木だという事が何よりも許せません。あいつが後釜になる、それが全てを物語っているのに、俺には何も出来ない…。でもカシラにとってみればあいつはきっとかなり白に近い。俺の前では青木は黒いと言ってくれますが、本音は…そうじゃないんですよね。あの人から青木は警察ではないと結果が出てしまったから、俺がどんなに足掻こうがカシラは青木を信じたい、そうなんじゃないですか。……だとしたら俺に、チャンスを下さい。あいつの正体を暴いてみせます」



「……」



斉藤が裏切り者なわけがない。それでも、僅かな可能性が俺の思考を鈍くする。そしてその僅かな可能性を青木は見越していたのだろう。俺はきっとあいつの掌で転がされているだけなのかもしれない。抗うなら決断をしなければならない。なのに、斉藤に全てを告げる事は出来なかった。斉藤の背中を押せなかった。


青木を殺す事は、どうしたって出来ないのだ…。何も答えずにいた俺に、斉藤はぐっと拳を握った。



「何か言って下さいよ…。俺は、…俺は、あなただけは守りたかった。…だからおやっさんにはカシラの破門だけはどうにかと、…でも何もかも上手くいきません。あなたに裏切り者の烙印を押されたくないんですよ…。青木が警察ではないと確証を得た今、俺の言葉は信じられないかもしれません。でも俺は誓ってあなたを裏切ったりしない……絶対に、絶対に」



こいつにこんな顔をさせてしまうとは。こんな風に言葉を吐かせてしまうとは。若頭失格だなと、俺は静かにタバコの煙を吐き出した。



「…カシラ、俺はあなたのためなら死ねる。それだけは覚えておいて下さい」



斉藤はそう呟くように弱々しく吐くと部屋を出て行った。俺は斉藤の言葉を何度も何度も頭の中で繰り返し、深くタバコの煙を肺に押し込んでからそれを灰皿に押し付けた。


携帯を手に取り、親父に電話を掛ける。斉藤の状況を変えなければならなかった。今、俺にできる事はそれくらいだった。


親父は電話に出ず、俺は涼司を呼び出して親父の屋敷へと車を走らせる。親父は何を考えているのだろう。親父の狙いは本家若頭の座なのか。その為に斉藤や俺の首を差し出すのか。野上組に良い顔をする事が何より得策だと思っているのか。


ひとまずは会って話さなければ分からない。そう考えながら屋敷に着き、門を開けるようインターホンを鳴らす。住み込みしている若いのが応答した。



「あのすんません、カシラ、おやっさんが誰もいれるなと…」



若いのはおどおどと何か気まずそうに口籠っていた。妙だった。



「誰も、の中には俺も含まれてるって事だな?」



「すんません…」



「誰が家に来てる」



「え……」



「誰か家に来てんだろ」



「いや、えっと…それは…」



そう言うことかと俺は舌打ちをしそうになった。この若いのに悪態をついたところでどうにもならない。だがきっと今、ここには野上組長も森会長もいて、まさに今後について話し合われているのだろうと思った。だから親父は電話にも出ないし、誰もいれるなと指示を出している。


誰も、の中に俺が含まれているという事は、ここに俺が来ては厄介な事態になる相手がいるから。そういう事だ。



「なら親父にすぐに話があるから電話に出ろと伝えてくれ」



「分かりました。伝えておきます」



そう言って若いのは気まずそうに返事をした。俺はその返事を聞き、その場を離れる。少し離れた所に停車させていた車内から屋敷の様子を伺うが、何かが動く気配はなかった。涼司は相変わらず何も聞かず、俺の指示を静かに待っていて、後部座席から家の門をじっと見ている俺の顔を何度かバックミラー越しに確認している。



「…悪いな、涼司。長時間、付き合わせる事になる」



車を停めてからかれこれ三十分は過ぎたろう。腕を組みながらそう涼司に伝えると、「大丈夫です」とバックミラー越しに目が合った。更に時間は過ぎて日が暮れ始める。夕陽が眩しく、涼司は運転席のサンバイザーを下ろした。その時、ようやくギィという重い鉄の軋む音を響かせ、屋敷の門が開くのが見えた。若いのがずらりと外に出て来る。相手はそれほどの相手という事だ。


予想通り野上組長と森会長だなと俺は顎を撫でる。


だとするなら格上がわざわざ親父の屋敷に来るほどの理由なのだ。野上組長は昔から親父との付き合いだし、うちは元々格上だったから野上組長が訪れるのは珍しくない。が、問題は森会長だ。森鳳会のトップが直々、屋敷に訪れるという事は只事ではない。車は二台。黒の高級セダン。後部座席はスモークがかかり、誰が乗っているのかは分からない。車番を覚えて俺は車から降りる。


二台の車が走り去ったのを見ながら、ゆっくりと屋敷へと歩いた。見送りをしていた若いのがぞろぞろと中へ戻っていく中、俺は最後のひとりの腕を掴んだ。



「……え、カシラ、何してんスか」



そいつは俺がここにいる事に目を丸くして驚いた。



「それはこっちのセリフだ。金谷、お前こんなとこで何してんだ」



「いや、あの…おやっさんに呼ばれまして。その、直接詫び、入れに来たんスけど…」



「森会長、来てたのか」



「あ、……えっと、そうなんすけど、でも、極秘裏なんで口止めされてて。すんません、俺、戻らないと」



そう焦って屋敷へ戻ろうとする金谷を見下ろし、「親父は中にいるな?」と低い声で訊ねると、金谷は明らかに困ったように「えっと…ちょっと待っててもらえますか」ともごもごと訴える。掴まれた腕に視線を流し、心地悪そうに眉尻を下げている。



「誰かに確認すんのか」



「は、はい。おやっさんに今日は誰もいれるなと強く言われてるんで…」



「さっき客は出て行ったろ。…まだ、誰かいんのか」



「それは俺にも分かんないっスけど、とにかく屋敷に人をいれるなって。おやっさんは部屋に籠りっきりなんで…」



そうやり取りしていると、金谷を見兼ねたように親父が玄関からのそっと顔を出す。濃紺の着物に下駄を履き、不機嫌そうに俺を見ていた。



「こんな所までわざわざ何の用だ」



ようやくお出ましかと、俺は親父の顔を見ながら苛ついていると、親父は俺が何しにここへ来たのかを察して顎で中を差し、「入れ」と一言吐いて中へと消えた。


金谷が門を閉める。俺は親父の後について屋敷の中へ入り、親父の部屋へと足を踏み入れる。部屋はタバコの匂いが微かに残っていた。それは明らかに親父のではなかった。牛革のやけに重厚な椅子に座る親父を俺は立ったまま見下ろした。



「単刀直入に聞く。斉藤と俺を破門にするって話を聞いたが本当か」



「斉藤の破門は免れないがお前の処分はまだ確定じゃない。が、可能性は高いな」



「斉藤はやってない。やってないやつを破門にするなんざどういうつもりだ」



「やってない証拠はどこにある?」



斉藤がやってない、という証拠。つまり他の誰かがやった証拠。そんなもの俺は突き付けられない。



「俺は斉藤がどんな男かを知ってる。親父だって分かるだろ。あいつは組を裏切るような男じゃない」



「話にならんな」



「…今、斉藤を失くす事は組にとっては痛手になるぞ」



「組のために文句も言わず、組を支えて来た男がある日突然組を裏切る。そんな男を何人も知ってる。それでも斉藤はやってないと言い切れるのか?」



親父が言う事はもっともだし理解できる。組をいくら支えてきても長い時間の苦楽を共に過ごしても、裏切る時は裏切る、そういう連中は一定数いる。それは俺も分かってる。



「切田が刺された理由は俺にある。斉藤はそれに関わっていない。だから斉藤が切田を刺したとは思えない。そう言ったら、どうする」



「お前がどう関わってる?」



切田の件を親父に伝えるしか手段はなかった。親父が青木と繋がっている可能性はあるが、それでも切田の事を伝えなければ斉藤の破門は消えない。取り消す突破口はもう、これしかない。青木が裏切り者なら何か手は打っているかもしれないが、今俺に出来る事をしなければならないのだ。



「うちの組の情報を、俺の案件を、森鳳会に流す裏切り者がいる。親父がずっと否定し続けてる事だ」



「またその話か」



親父の呆れた顔に苛立ちを覚えたが、こんなところで腹を立てている場合ではないと、俺はゆっくりと伝える。



「俺が森鳳会の件に首を突っ込んでるんじゃなく、あいつらが俺の邪魔をしてる。それを切田は認め、謝罪をした。その上で俺に助けを求めた。その裏切り者は情報を武器に、あの松葉を使って俺を邪魔してる、だから切田はその脅しから松葉を助けたいと、俺に何もかも話した。だが話した翌日にあいつは刺された。俺に知っている事を全てを伝えて助けを求めた男を、誰かが刺した。それは、切田が俺に漏らした事を知れる人物で、斉藤がそこに関係しているとは思えない。あいつは現に、この事を知らなかった。だから斉藤は黒じゃないと断言できる。あいつは俺の命を何よりも優先し、俺を守ろうとするだろ。…けれどこの裏切り者は、俺を破滅させようと動いている。斉藤は、黒じゃない」



親父はそれでも表情ひとつ変えず、「それで?」と冷たく放つ。



「俺を潰そうとする人間が、俺を助けようと必死になるわけがないだろ。裏切り者は相当頭がキレるし情報を武器にする。森鳳会の若頭をコントロールし、この組を破滅させようと動いてる。それだけの情報を、力を持ってるような男だぞ。もし斉藤なら疑問が多すぎるだろ? 斉藤は長い事この組を支えてきた。もし斉藤がその裏切り者なら、何故、今だった? 何故、今になって動き出した? もしあいつがこの組を本気で潰したいと思ったのなら今じゃない。簡単に潰せたであろう時期ってのは今までに何度かあったろ? 組の存続が危うくなった時、あいつは必死になってこの組を支えた。なのに、あいつは今になって裏切ったって事になる。だからあいつは、黒じゃない」



少し興奮気味に早口に伝えた俺に、親父は何も言わなかった。じっと考え、数秒が過ぎる。タバコを吹かし、その後、何も言わずに俺を見上げた。それが心地を悪くする。だから俺は親父の言葉を促すように、更に言葉を並べる。



「親父は、…本家の座が欲しい、そうなんだろ。だから俺と斉藤の件を早く片付けたい。親父は野上組と仲良くして良い顔してたいんだろ。本家の座に自分が敗れて、野上組長が本家若頭になったとしても、野上組長がそのままトップになったとしても、野上組長と手を組んでいれば自分にも利益があるから。そうなんだろ? その為には森鳳会とぶつかる俺が邪魔、そういう事なんだろ」



親父は低い声で言葉を吐く。



「お前は何も分かってない」



そう、呆れた顔と共に。



「この組はまだまだ大きくなる。お前もそのうち知るだろうから先に言っておこう。この組はニ次団体に格上げになる」



「どういうことだよ。なんで、うちの組が格上げに……」



「この組は船木組長から直接盃を貰って組を掲げてる直参だが、昔、相馬と一悶着があってこの有様だという事は知ってるな? この組を元の位置に戻す話はだいぶ前から上がってたんだよ。それをあの相馬が止めていた。相馬がいなくなりゃぁ、うちは元に戻り、組を更に大きくできる。けど、内部で派閥があると困るよな? バラバラの方を向いていたら偉く面倒だ。野上が何だって話じゃぁねぇ」



この組が格上げされて、元の位置に戻る。今になって? 何もかも、上手く進みすぎではないのか。親父は長年、ずっと過去の栄光に縋るように、組の位置を気にしていた。昔から格下げになった事に文句を並べ、上層部に対してかなり不信感を募らせていた。


それが今、ようやく戻るチャンスが来たという事らしい。だからかと俺は拳を握った。俺と斉藤は、親父にとって邪魔なのだ。



「その為に、俺や斉藤が破門になると?」



「足並みを揃える必要があると言ってンだ。いいか? 野上や森会長は切田のことも、シノギの邪魔も斉藤の単独じゃねぇと思ってる。命じたのがお前だと、向こうはそう考えてる。つまり自作自演。この組を落とすためのな」



「…そんなデタラメ、親父は信じたのか」



「さぁな。何の為に、と思う反面、お前が斉藤をやけに庇うのには理由があるとは思っているがな」



「ふざけるな! 俺がなんだって自分で自分の首を絞める必要がある? なんだってこの組を落とす必要が…」



「問題はお前が噛み付いた先だ。お前が思う以上にデケェって事だ。いいか? 上が黒い物を白いと言やぁ、白くなる。白い物を黒いと言やぁ、黒くなる。お前はその標的にされ、まんまと罠に嵌められたんだよ。分かったら大人しく、流れに身を任せろ」



親父は本家若頭の座が欲しい、その為なら何だってする覚悟なのかもしれない。もしそうなら俺と斉藤を切り捨てる事も厭わない。そう嫌悪感に鳥肌が立った。優秀な斉藤を組から追い出し、動きづらくなった俺だけを残すつもりなら、何が何でも、斉藤を組から追い出すわけにはいかない。


しかし青木の狙いがわからず、身動きもとれない。そして青木の事に関して親父に言えない事が、今の俺の全てを物語っている。なら、せめて…そう俺は口を開いた。



「野上組長や森会長が俺も排除したい事は理解した。親父もそれを飲み込むしかないって事も。けど、斉藤は残してやってくれないか……。あいつが組の後ろ盾をなくせば森鳳会の連中に殺される。あいつは連中に殺されて良い人間じゃない。だから斉藤だけは、頼む」



「良いか。お前の処分が確定しねぇのは斉藤が状況をよーく理解し、お前を守ろうと動いたからだ。それをお前は理解してんだろ。それでも尚、斉藤を残して自分を破門にしろと?」



「あいつを破門には出来ない。何があっても、だ。俺の破門や絶縁は受け入れる。だがあいつは残してくれ。…あいつは、…あいつだけは、」



「邦仁、お前は本当にこの世界に不向きだな」



親父はそう冷たく言い放ち、俺は苛立ちに眉を顰める。誰がこの組を支えてきたと思ってんだ。今まであんたの下で働いてきたのは誰だと…。



「…親父、あいつは殺されるかもしれないと、それも承知の上で破門を受け入れたんだ。だとするなら尚更あいつは白い、そうだろ? なのに親父はそんなあいつを見捨てんのか」



「それがあいつの望みだと言ったら納得か? 喚くのをやめるか、あ? 無実だろうが何だろうが、事実、あいつはあの場にのこのこやって来て、それを森鳳会の若いのに見られてる。それが運の尽き。言い逃れ出来ない状況を作ったのはあいつ自身。そうだろ? あいつはお前を守る為に身を引いたんだ。だとするならお前はあいつの行いを無下にしないためにも、大人しく処分を待っていた方があいつの為になるんじゃねぇのか?」



青木、あんたが全てを描いているのなら、もう満足したろうよ。だから勘弁してくれないか。俺だけなら良い。俺だけなら。俺はあんたに散々な事をした。これはその復讐だろ? 俺に対する罰なら何でも受け入れる…。


でも斉藤は違うだろ。関係ないだろ。


だからもう、勘弁してくれ。俺は親父の言葉に心底幻滅し、虚しさを感じていた。



「のし上がる為に無実の組員を犠牲にした、その事実は一生付き纏うぞ」



親父は俺の言葉にふぅーと煙を吐き出し、表情ひとつ変えなかった。ただ呆れたように俺を見上げ、俺はギリリと奥歯を噛み締める。ここにいても何も変わらない。俺は握っていた拳を更に強く握りしめ、爪が肉に食い込むのを感じていた。


だがどれほど苛立とうが親父を変える事はできず、俺はひとつの考えを頭に事務所へと戻った。


何もかもが上手くいかない、斉藤はそう嘆いていた。そんな風にあいつに言葉を吐かせる事の不甲斐無さ。こうなってしまった以上、あの人に頭を下げるしかないのだろうかと俺は事務所の自室で舌打ちをした。重要な位置にいるあの人なら、この件をきっとどうにかできるだろうが、あの人を動かす為には…。そんな事を考えていた時だった。



「カシラ、青木から何を貰いましたか」



突然、そう問い詰めるように斉藤が部屋へと入って来た。斉藤は入るや否や部屋の鍵を閉め、やたらと怖い顔をする。



「突然だな…」



「青木が知り得ない情報をどうやって手に入れたか、先回りできたか、理由が分かったんです。やっぱり全ては青木の仕業です」



「……何か証拠が出たか」



そうか、ついに、確証が出てしまうんだなと俺は斉藤に向き合った。



「コレ、」



すると斉藤は小さな黒く平たい何かをポンと机に置いた。何かと思いそれを手に取り、裏返して何かがようやく分かった。



「考えたんです。青木はどうやってカシラの行動を読んでいたのか。先回り出来ていたのか。もし、カシラが何処へ行っていたか、青木が何らかの方法で知っていたら、今まで邪魔されていた案件も納得がいきます。きっと盗聴器はここだけじゃないはずです」



そうかと、俺はそれを手に取った。



「カシラ、家に青木を入れてますか。もしそうだとしたら家にもきっとあるはずです。…俺はカシラの味方です。だから全て言ってくれませんか。切田さんが刺される前、カシラは切田さんに会っていたんじゃないですか」



「…なんで、お前それを」



「やっぱり、そうなんですね。だからカシラは急に口を閉ざしたんですね」



切田を刺したのは青木で確定なのか…。だとしたら、あいつの後には何がいるんだ。何があいつを動かしてる? 単独で動いてるわけじゃねぇんだろ。



「カシラ、指輪。前から気になってました。青木からですか」



そう斉藤は恐ろしいほど冷たい目で、低い声で、青木が俺に手渡した指輪を指さした。



「………そう、だが」



「貸してくれませんか」



まさか。否定したかった。今になって青木が向ける殺意を否定したかった。バカバカしい。あいつが俺に向ける殺意は明解だろうに。そしてこれが、その証拠なんだろう……。


俺は何も言わず指輪を外し、斉藤の掌に乗せた。あいつが俺に触れたのも、笑ったのも。俺の名前を呼んだのも、あの言葉も。全て偽りだと分かっていた。分かっていたはずなのに、感情というのは厄介だった。斉藤が正しいと頭では理解しているのに、青木の言葉が偽りだったと思いたくはなかった。


勝手だ。俺という人間は、嫌になる程傲慢で身勝手だ。


斉藤は部屋の隅に置かれた使われていないラジオの電源を入れると、手際良くラジオの周波を合わせ、適当に何かを流した。そのシルバーリングをラジオの前にかざした瞬間だった。周波は乱れ、ザザザッと障害が起きた。


あぁ………。それはつまり発信機が内蔵されているという事だった。



「これが証拠です。あいつはカシラを……」



青木が黒だという決定的な証拠だった。あいつは俺を地獄に落としたいと、恨み、復讐したいと願う証拠だった。青木に殺されるのもひとつの手だろうかと思っていた。全ての原因は俺自身なのだから、斉藤を巻き込むのはやめてくれと。俺の事を殺したいのなら、殺せば良い。あんたの手で、復讐を達成させれば良い。


だが、いつからだろうか。隣で笑うあいつを見て、心配そうに表情を歪ませるあいつを見て、こいつはいつまでも俺の側にいてくれんじゃないのかと思ったのは。俺への復讐は、もう、消え去ったんじゃねぇのかと。向けられるのは、少しばかり歪な愛情なんじゃねぇかと。


でも、そうじゃなかった。あいつはきっと、ずっと、俺を殺したかった。最後の最後まで俺には嘘を突き通してくれ。こんな形でバレてんじゃねぇよ。



「あいつは俺を許してねぇんだな。…ふふ、それなら話は早い。斉藤、悪いが外してくれ。少し考えたい事がある。それとこの事は誰にも漏らすなよ。青木が敵なら標的が増えるとかなり厄介だ」



斉藤は俺の顔を不安そうに見下ろすと、「はい」と返事をして指輪を俺の元へと返す。



「あの…青木ですが、姿を消してますが、たぶん今日の23時、Club Linに顔を出すかと思います。新崎と仕事はしているようですので」



「分かった。ありがとう」



返された指輪を握る。この状況を変えるには、斉藤を解放してやる為には一か八か賭けにでるしかない。あの人に、頭を下げるしかない。俺はうんと伸びをして指輪をまた中指に通す。身なりを整え、札束を包み、ある場所へと向かった。基本損得でしか動かない人だが、それでもあの人はヤクザらしいヤクザなのだ。


俺は無礼を承知であの人の元へと直接足を運んだ。男は立派な事務所の奥の部屋にいた。案外あっさりと俺を招き入れ、ダークブラウンの高級なスーツを身に纏い、俺を見ると優しい顔で笑った。



「今日、君のお父さんと会っていたんだよ」



「えぇ。知ってます」



「あら、そう? 知ってたんだ。君が来ること、お父さんは何も言ってなかったな」



「親父には何も伝えてません。申し訳ありません、無礼を承知で伺わせて頂きました」



「そうだろうね。お父さんに伝えていたら、私に連絡があるだろうから。で、用は何かな」



男は不気味なほど青白い顔をして首を傾けるとそう訊ねた。



「森鳳会と俺の件に関してお願いがあります。もちろんこれは組としてではなく、俺個人としてのお願いです」



「個人、ねぇ。それで?」



「これを、野上の叔父貴、あなたにお渡しします。これでどうか、斉藤の件を森会長に考え直すよう説得して頂けませんか」



相手はあの野上組長。この行動が吉と出るか凶と出るか、俺には全く分からない。



「……君がこういう行動を起こす類の人間だとは知らなかった。案外、古風なんだね? こんなので人の気は変わらないものだよ」



野上組長はそうクスッと肩を揺らす。



「お願いします……」



それでも俺にとって交渉できる相手は、もうこの人しかいないのだ。



「邦仁君、頭上げてよ。そう頭下げられちゃうと困っちゃうな」



しばらくの沈黙の後、野上組長は静かに口を開く。



「斉藤の破門がなくなる代わりに、誰かが責任を取らなきゃならないけど、それは良いのかな?」



「覚悟はできています」



「そう。こうやってヤクザ丸出しの男がカタギさんの世界で生きられると思えないけど。君みたいに若頭まで上り詰めた人間は特に、ね? 斉藤を犠牲にしておけば、って後悔すると思うよ」



「これは俺が蒔いた種なんで。俺自身で片を付けなければなりません」



「へぇ、そう。何があったんだろ。面白いなぁ。でも、そこまで言うなら分かったよ」



野上組長は静かに返事をすると、黒革の椅子から立ち上がり、俺の目の前に立つとそっと冷たい手を俺の頬に寄せた。



「あんな大金をぶら下げられると、咥えずにはいられないよね? それに古風な君の誠意っていうのも見れたし。でも、それにしても随分と顔色が悪いようだね。病院、行かずにそのまま来たのは私の情に訴えるためかな?」



「効果があったのなら、嬉しい限りですけど」



「ふふ。痛みは徐々に強くなる一方だと言うのに。君ってお父さんに似ず、後先考えないで突っ走しってしまうタイプみたいだね。私はそういう人間が結構好きだよ。ヤクザらしくて良いじゃない、ってね」



するりとその冷たい手は首筋を触れ、そのまま俺の左手へと伸びた。ひくっと痛みに反応すると、野上組長はふっと笑い、俺の目をじっと見つめる。



「どうせ鎮痛剤も飲んでないんだろう。よく効くのがある、これを飲むと良いよ」



そう言うと目の前で右掌を広げて見せる。その掌の中には小瓶があった。中身はカプセルが数錠。野上組長はその蓋を開けると一錠取り出した。



「ほら、口を開けて。痛みを受け入れるのも罰だと思っているのなら間違っているよ。さ、……良いから、言うことを聞きなさい」



心の中を読まれたようだった。軽く口を開けると、野上組長はそれを舌の上に置き、机の上にあった水を手渡した。ごくん、と飲み込んだのを見て、野上組長は口を開く。



「折角話が纏まったというのに、君のお父さんにはどう伝えようかな」



「……」



野上組長が楽しそうに笑ったのを、俺は痛みの中、確かに見たような気がした。

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