14. 覚悟と現実

そこにないはずの物がある時、動揺し、否定し、自分の潔白を主張しようと必死になる。そいつが嘘をついているはずないと分かっていた。信じてやるべき相手はこいつだと分かっていた。



「カシラ! 俺じゃない! 俺じゃないです!信じてください…」



でも否定をすればするほど、疑いが濃くなるようだ。裏切り者は青木。だから斉藤は裏切り者ではない。でも、なら、なぜ………。



「これは結構、マズいんじゃないですか」



焦り、怒りを露わにする斉藤の顔を見ながら青木はほくそ笑んでいる。現実、青木が裏切り者だという証拠は何ひとつなく、斉藤の黒は濃くなる一方だった。



「…斉藤、正直に吐け。もう、これはお前ひとりでどうこう出来るもんじゃねぇ」



そう低い声で親父は斉藤に言った。事務所の一室、俺と親父と青木と斉藤。とうとうこの面倒な件に親父が入って来るほどの出来事が起きてしまった。もう目を瞑ってはいられなかった。親父の低い声に斉藤は焦っていて、それは、今の状況がどれほど深刻かを表していた。



「おやっさん、違うんです! 俺は本当に、何も…」



「けど証拠が出てンだろ。だからサツも動いてる、そうじゃねぇのか? あいつらだってヤクザ同士の抗争で片を付けてぇ。今はまだ表立って動かねぇだろうが、これで相手が死んでみろ。組内でもうちは窮地に立たされる。面倒な事してくれたなァ、斉藤」



「俺じゃ、…俺じゃありません! 何度も、何度も、言ってます。俺はあの日、青木に……」



この場に青木がいる理由は、青木が仕掛けた罠に斉藤が嵌ったからだった。派手な罠だが青木は尻尾を掴ませない。静かに、俺の首を絞めては楽しそうに笑うのだ。悔しさを滲ませた斉藤の顔は、みるみるうちに怒りの表情へと変わっていく。斉藤は拳を強く握っていた。青木はそんな斉藤をじっと見つめて口を開いた。



「俺を裏切り者にしやすいのは分かります。けど、それは利口な方法じゃない。だってあなたが言うように、俺があなたを呼び出したと言うのなら、その証拠があるはずですよね」



「だからそれは…」



「ない、そうですよね。俺からすると、あなたは俺を嵌めようとしてるだけ、そうとしか思えないんですよ」



「でも、確かに電話の声はあんただった。話したい事がある、そう言われてそこへ行ったら……」



「森鳳会、若頭補佐が血まみれで倒れてた、と?」



あまりにも出来過ぎていた。



「でも、俺はやってない!」



「じゃぁ、なぜ逃げた?」



親父は静かにそう問いただす。斉藤は青木からまた親父へと体を向けた。



「それは…、あの時、向こうの若衆もいて…、俺と血だらけの切田さんを目撃されたんで、咄嗟に逃げてしまっただけなんです! もしあのまま、あそこに留まっていたら俺の釈明なんてあいつらは聞く耳を持ちませんでした。あいつら、チャカを持っていて、…撃たれると思ったんで、だから…」



「逃げた方が賢明だったと?」



「…っ」



「そのおかげで、向こうはお前を出せとカンカンだ。ケジメつけろってな。サツはサツで動いてる。もちろん、あいつらもお前を探してる。とはいえサツはどうだって良い。切田はまだ死んだわけじゃねぇからな。所轄が刺傷事件だと、一応は形式的に犯人を探してるだけだ」



事は厄介で、昨日の夜、斉藤から一本の電話が入った。斉藤はえらく慌てていた。落ち着くよう諭し、数秒後、斉藤は口を開いた。『まずい事になりました』そう訴え、事務所で落ち合い、斉藤は震える声で俺に伝えた。



『青木に呼ばれて、その場所に行ったら…、切田さんが刺されました。向こうの若衆に見られて、咄嗟に俺、逃げて来てしまって…、今までの件もあります、向こうは俺が犯人だと…』



切田が刺されたのは偶然ではない。俺と繋がったからだ。そう俺だから確信できる事だった。裏切り者が、切田の存在に気付き、消そうとしたのだと。俺にとってはこれが、斉藤は裏切り者ではないと決定付けるような出来事だった。斉藤は嵌められたのだ。斉藤が主張するように青木に。斉藤の声色も焦った顔も、全て、演技には見えなかった。本当に混乱し、怖がっていた。


だとするならそう、これが青木の言う「お前が騒いだところで覆らない証拠」なのだ。


どうして切田が俺に情報を渡したと気付いたのかは分からない。ただ、青木なら切田を刺して斉藤を呼び出し、斉藤が咄嗟に逃げる事も計算して行動したように思えて仕方がない。いや、そうするように仕向けたのかもしれない。


青木が何者かは未だに読めないが、これが全て青木の仕業だとするならば、青木は斉藤を葬るつもりなのだろうと俺は青木の方を見た。


青木は鉄仮面をつけ、自分は真っ白だと主張し、斉藤が全ての犯人だと親父に印象付けるようだった。


斉藤の立場はどんどん危うくなる。斉藤のこの状況は俺が生み出してしまったのに、俺は何も言えずにいた。斉藤を救わなければ、何もかもが手遅れになる。何か、斉藤を救う為の方法を…。


しかし俺は、青木が裏切り者だとは言えなかった。


それは青木が黒だという証拠がないからではない、という事は頭でも体でも分かりきっていた。自分自身に呆れて何も言えなくなる。若頭なんざ失格なのだ。


ふと、青木と目が合う。青木は余裕そうに表情を緩めたように見えた。あんたは今、何を考えてんだ。



「警察共はどうでも良い」



親父は斉藤を冷たい目で見た。



「問題は刺した相手だ。今まで森鳳会の案件に首を突っ込んでは邪魔をして揉めていた。そうなりゃぁ、お前がむこうの若頭補佐を刺す理由は十分あるって事だ。金谷が撃った三下のチンピラとはワケが違う。松葉の右腕を刺すたぁ、俺ァ庇いきれねぇ。森会長とナシつける必要があるが、重い処分になる事は覚悟しとけ」



そう淡々と言った後、親父は俺を見て言葉を加えた。



「お前もだぞ、邦仁」



どうやら俺も切り捨てるつもりかもしれない。だとするなら、青木の狙いはコレ、か。



「ま、待って下さい! カシラは何も…」



斉藤の焦燥に駆られた声を俺はまるで他人事のように聞いていた。



「何も関係がない、と言いたいのか? お前はこいつの補佐だろうが。下の不始末は上が取るべきだろう。お前の処分だけじゃ相手は納得しない。そりゃそうだろうな? 今まで散々、邪魔をしてきて、ついには補佐を刺したんだ」



親父はそう述べ、部屋を出ようと黒革のソファから腰を上げる。



「金の稼ぎ方を見直せと言ったはずだが、お前は聞かなかった。こうなる事も予想出来たはずだ。まったく、お前にはがっかりさせられるな」



親父は吐き捨てると部屋を出ていった。俺は何も言い返せなかった。言えば言うほど、斉藤の状況を悪くするようにも思えたし、青木を突き出す事も出来ないのだから。


部屋の外では組員が一斉に挨拶をし、親父は事務所を後にした。部屋に残された斉藤が、悔しそうに手を震わせていたのを俺は初めて見た。



「カシラ、俺…」



「馬鹿な事は考えんなよ」



斉藤が暴走しないよう釘を刺し、落ち着かせようと俺は頭を回転させる。



「ひとまず座れ」



「……はい」



「青木、あんたもだ。座ってくれ」



「話す事は何もないんだけどな」



親父にドアを開け、見送っていた青木をまたソファに座らせる。青木はまるで煽るような態度だった。俺は斉藤の隣に腰を降ろし、正面に青木を置き、話を始めようと口を開こうとした。


しかし青木の言葉に斉藤は、苛立ちを爆発させるようだった。



「何もかも無茶苦茶にしやがった。切田さん刺したのも、テメェの仕業だろ!」



「おい、斉藤、落ち着け」



「迷惑なんですよ。だって俺、何もしてませんから。あなたにも電話してませんし、呼び出しもしていません。とんだ言い掛かりだ。これ、処罰対象にならない?」



青木の火に油をそそぐような言い方に、斉藤の目の色が変わった。椅子から立ち上がると青木の胸ぐらを掴み、殴ろうと拳を振るのを見て、あーそうだった、こいつはもともと、とんでもなく喧嘩っ早かったんだと、俺は昔を思い出しながら、その拳を止め、斉藤の体を自分の方に寄せる。



「落ち着け」



「落ち着けるはず、ないでしょう…。こいつのせいで、…こいつのせいで、カシラまで…。……いや、俺のせい、なんですよね。俺が逃げずに、その場にいて説明していれば、こんな事には…」



「説明なんて向こうの若衆が聞くわけねぇだろ。お前の判断は間違ってねぇよ。あいつら、チャカ持ってたんだろ? だとしたらお前は間違いなく弾かれていた。そうなりゃ、刺された切田に撃たれたお前、真相を知る者がいなくなっちまうだろうが。お前は逃げて正解だ。大丈夫、俺に任せろ。親父とはちゃんと話、つけてくる」



「しかし……」



「大丈夫。だから少し、話をさせてくれ。お前らしく、冷静に。できるな?」



「……はい」



斉藤は悔しそうに表情を歪めながら、再びソファに腰を下ろした。俺はそれを見てから青木の方を向く。



「青木、あんたもだ。煽るような言い方やめろ」



「煽ったつもりないけど。で、何を聞きたいの」



「あんたは本当に斉藤に電話してないんだな?」



「してない。電話番号だって知らない。なんなら携帯、調べてもらっても構わないけど」



青木はそう言うと携帯をぽんとなんの躊躇いもなくローテーブルに置いた。それを見て、斉藤は咄嗟に口を開く。



「そうやって携帯を出して無実を主張しようとしてンだろ。あぁ? 携帯に履歴残したまま渡すわけねぇもんな。お前は履歴が残らないように公衆電話か何かを利用して俺に電話をしてきたんだ。あれは非通知だった、携帯から掛けたわけじゃねぇ」



斉藤は青木を睨むように見ながら、ひどく苛立っていた。



「だから決めつけないでくれない? とはいえ、公衆電話って方法を持ち出すのなら、誰にだって出来たよな? 赤澤にだって出来たはずだ」



斉藤の目の色が変わったのを見て、俺は「そうだな」と斉藤を制するために、敢えて食い気味に言葉を返した。



「あんたが電話したという証拠もない。あんたが電話していないという証拠もない。同じように、斉藤が切田を刺したという証拠もない」



「それ、本気で言ってんの? その切田とか言う、森鳳会の若頭補佐がたまたまいた場所に、葉山組の若頭補佐がいたって?」



「だから、それは!」



斉藤は声を荒げ、青木は呆れたように言葉を返す。



「あー、そうでした。電話で呼び出された、そうですよね? けど、電話で呼び出されたって言ってるのは、斉藤さん、あなただけ。俺には悪足掻きに見えるんですよ。この組の情報をリークしてたのも、あなたなんでしょう? それでいざこざが切田さんと起きた。そういう事なんじゃないの」



「ふざけんな、カシラの案件をリークしてんのはテメェだろ! あんたはあの日、俺に何もかもぶち撒けた。カシラを地獄に突き落とす事が目的だと、余裕な顔して笑ってやがった! そんなやつに、…そんなやつに…!」



「斉藤、落ち着け」



斉藤の言う言葉はたぶん、きっと本当で、青木は斉藤にそう告げたのだろう。



「演技上手いなぁ。そうやって赤澤に取り入ったんでしょう? 怖いなぁ」



青木のほくそ笑む顔に、斉藤の殺意が見えた。それはあまりにも速くて、俺にはどうする事もできなかった。斉藤が青木を殴り、青木は何処かを切り、血を流し、ニ発目は鼻に入り、鼻血を流す。


昔のように青木は一切抵抗しなかった。殴り返そうと、手を出さなかった。俺はその時、どこかで確信した。こいつは昔と何も変わってない。自分の正義ってのがあって、ヤクザも暴力も大嫌い。


それならこいつはきっと、警察側の人間だ。


俺は斉藤を青木から引き剥がそうとするが、キレて手のつかない人間というのは、相手が死ぬのを確認しても殴り続けるものなのだろう。俺は仕方なしに涼司を呼び、ふたりがかりで斉藤を青木から離す。青木の顔面はもちろん血だらけだった。斉藤は青木の血で拳を赤く染めても尚、殴り足りないと暴れ、それを見上げながら青木は鼻で笑っていた。



「涼司、悪いが斉藤を家まで送ってくれ。それから斉藤の見張りを頼む。今日一日、目ぇ離すな。命令だ。頼んだぞ」



「はい。…しかし、カシラの護衛は」



「自分の身は自分で守るよ、大丈夫。今日は特に外に出る予定もないから。ここか、自宅かだ。斉藤を今、ひとりには絶対にしておけない。斉藤を止められるのはお前だけなんだ、側にいて、こいつの頭を冷やしてくれ」



「しかし何かあってからでは…」



「分かった分かった、誰かをつけておく。だから、お前は斉藤を頼んだぞ」



「…分かりました」



涼司はデカい体で斉藤を羽交締めにしながら、俺に頷き、斉藤はそれでも怒りと苛立ちと殺気を青木に向けている。俺は溜息を吐いて、斉藤の目の前に立つ。


斉藤は俺を視界には入れず、獲物を見るような目つきで青木を見ていた。こいつの恐ろしいところは、こういうところだ。細身だが割と筋肉質でガタイも良いこの男を、止めれるのは斉藤より背も高くゴツくてデカい涼司くらい。斉藤は一度ぷつりと切れてしまうと、涼司以外誰も手が出せなくなるから恐ろしい。それは俺でも止められないほどに。


斉藤の顎に指を引っ掛け、俺を見るように無理矢理に視線を合わせる。



「斉藤」



声を掛けてようやく、斉藤は俺を見た。



「…お前は今日一日、家にいろ。いいな?」



斉藤は返事をしなかった。ただ悔しそうに表情を歪め、また青木を見下ろしている。



「おい」



そう低い声で圧を掛けると、斉藤は「…はい」と小さく返事をする。ようやく少し落ち着いたようだった。涼司に離すよう指示を出し、涼司が離れると斉藤はすぐに部屋を出た。追うように涼司も部屋を出て行き、部屋には殴られて顔面血まみれの青木と俺だけになった。



「あんたもほら立て。病院行くぞ」



床に座り込み、袖で鼻を押さえる青木を見下ろす。青木は俺を見ずに言葉だけを返した。



「必要ない」



そう言って立ち上がると、そそくさと部屋を出て行こうとするが、その足は少しふらついていた。あれだけ殴られれば、そりゃぁ足もふらつかと俺は咄嗟にその腕を掴み、青木の足を止める。



「病院行くぞ。鼻、折れてたらどうすんだ」



「折れてないって」



「分かんねぇだろ。良いから、行くぞ。来い」



半ば無理矢理に青木を引っ張り、部屋から引き摺り出して車に押し込んだ。事務所を出る時、数人いた組員は血だらけの青木と、青木の腕を引っ張る俺に、顔を強張らせていたが、何も言わずに出てきてしまった。変な噂が立たなきゃ良いが、と思いながら、ひとまずお抱えの病院まで車を走らせ、待合室で俺は時間を潰す。


十数分ほどで青木は出てきた。顔中にガーゼを貼られ、俺はつい笑ってしまう。医者は、「鼻は折れてない、傷もすぐ塞がると思うよ」と説明し、青木は「どうも」と軽く礼を言って無愛想な顔で俺の横に立った。


青木は頬骨の上をパックリ切っていたらしく、数針縫われていた。鎮痛剤を大量に処方され、青木は不満そうにそれを受け取ると車に戻る。



「あんたのそれは自業自得だ。今日は家で休んでろ。家まで送るから、住所、教えろ」



助手席にいた青木は俺の方は見ず、窓の外を眺めていた。



「自業自得、ね」



「そうだろ。で、家の住所…」



「なんで俺が裏切り者だって騒がなかった? お前の中では確定なんじゃねぇの? だったら言ってしまえば斉藤の疑いは晴れたろうに」



「あんたが言ったんだろ。俺が騒いでも覆らないくらいの証拠、って。証拠が全部あいつだって示してンだ、俺が騒いだところで親父は斉藤を切り捨てたろうよ。それとも何か。騒いでほしかったのか」



「お前のその判断のせいで斉藤は重ーい処罰を食らうかもしれないのにね?」



青木は可笑しそうにクスッと笑う。



「そうはならねぇように動くさ」



「へぇー。お前自身が動くくらい、斉藤って重要なんだ」



「そうだな。俺が若頭を務めてられるのも補佐であるあいつのお陰だ」



それでも、青木の事で騒げるわけがなかった。騒いでいたらどうなってた? 青木を黒だと親父に言ったら?


菅野の件もある青木を親父は見過ごさない。いくら金を稼いでも、いくら斉藤に怪しい点が多く、青木の事を裏切り者だと思っていなくても、親父は青木を徹底的に調べるだろう。


もしそうならば、親父は自分のコネを使い、青木の素性を調べ上げ、正体が分かったところで始末する。それが出来ないから俺は騒げなかった。覆らない証拠が云々ではなかった。親父が青木を徹底的に調べる事を避ける為だった。つまりそれは、何があってもこいつにトドメを刺せないという事だった……。



「若頭補佐の替えはきかないって事か。ふーん」



「なぁ、青木。俺にあんたを咎める権利はない。だから、俺は自分だけが苦しむ分には足掻くつもりはねぇよ。でも、斉藤や他の組員がその標的になるのなら、黙って見過ごすわけにはいかない。あんたに対して、本当に酷い事をしたと思ってる…。そのせいであんたは苦しんだんだろ。だから過去を清算できるなら、俺は何だってしてやるよ。でも組は、あいつらは、違う。あいつらに俺達の過去は関係ない。……それは理解してくれねぇか」



俺は自分自身に苛立っていた。青木に対してではない。この状況の全ては俺が引き金で、そのせいで何もかもが崩れてしまう事に対しての苛立ちだ。青木は何も言わず口を閉じてしまった。妙な時間が過ぎていく。俺は仕方なしに自分の家へ向かおうと、車のエンジンをかけた。青木は流れていく窓の外を眺めながら、ぽつりと呟いた。



「一度しか言わない。だから覚えといて」



そして言葉を続けた。



「白樺台2丁目3-5。部屋番号は905」



「……え?」



「でも今から行くのはお前ン家で良い。俺の事を本気で知りたくなったら、その場所へ行けば良いよ」



得体の知れない男なのは再会した当初からだった。けれどその男がまるで素性を明かすように、ある場所を口にする。それはきっと自分の住処だろうと俺は思った。


俺の事を本気で知りたくなったら…。俺は青木が言ったその言葉を何度も頭の中で繰り返した。青木が住んでいる場所は安アパートなんかじゃなかった。エリートが落ちるところまで落ちて来たと思っていたのだが、そうじゃなかった。


今言った場所にこいつの家があるのなら、こいつはきっとチンピラなんじゃない。だってそこは高級住宅街エリアなのだから。ぽつりぽつりと小出しにされるヒントを俺はかき集めて最後にどうしたいかは、お前が決めろと言われている気分だった。


俺は「分かった」と呟いて、青木を家へと連れて戻った。青木は部屋へ入るとすぐに冷蔵庫から水を取り出し、それを持ったままリビングのソファに腰を下ろした。



「痛むのか」



青木は鎮痛剤を水で流し込み、面倒くさそうに俺を見上げる。



「別に」



それでも鎮痛剤を飲む程度には痛むのだろうと、俺は横のシングルソファに腰を下ろす。



「なぁ、どうして殴り返さなかった」



「殴り返してどうにかなったのか」



「少なくとも、ここまでの怪我にはなってなかったんじゃねぇのか」



そう言うと青木はふっと鼻で笑う。



「だってあの人、強そうじゃん。一発が重かったし、速かった」



「暴力では何も解決できない、そう考えてンのか」



「何を今更。俺はお前と同じ、この暴力バンザーイな世界にいるんだけど」



青木は小馬鹿にするようにそう言うと、水をテーブルに置いて、ガーゼまみれの顔を軽く触っている。



「なぁ、青木」



「何?」



「あんた、警察の人間だろ」



青木の手がぴたりと止まる。表情は何ひとつ変わらない。



「さぁ?」



青木は俺を見上げると、そう揶揄うように目を細めて喉の奥で笑った。



「俺は高校ン時を思い出した。高校ン時も、あんたは一切抵抗しなかったよな」



青木はその言葉を聞くと、また顔のガーゼに触れ、視線は俺から外される。



「そうだね」



血で固まり、皮膚がガーゼに引っ張られる。左の頬は数針縫われ、瞼も腫れ、鼻は赤黒く腫れ、口の端も切れている。俺はそんなボロボロの青木の顔をじっと見ていた。


例えこいつが警察側だと俺ひとりが確信したところで何も変わらない。こいつに認めさせるだけの証拠もない。結局、状況は何ひとつ変わらない。



「抜糸、いつって?」



「一週間後」



「そうか」



青木は血だらけのガーゼを手にして、それをゴミ箱に捨てると立ち上がったまま、「なぁ、」とソファに座っていた俺を見下ろす。



「何」



「次の葉山組若頭補佐には誰がなるんだろうな?」



自分自身に決着をつける時なのだろう。決着をつけなければならないのだろう。現実を、見なければならないのだろう。こいつの正体を、確証を得る必要があるのだろう。確証を得なければ斉藤を潰される。組を壊される。俺を苦しめる為には手段は選ばない、そう喉元に刃物を突き付けられているのだから覚悟を決めなければ。



「どう足掻こうがあんたにそのポジションはやらないし、斉藤は潰させねぇよ」



「へぇ。この状況から斉藤を救い出せる策があるんだ?」



青木は楽しそうに笑っている。俺は意を決して口を開いた。



「……過去を清算できるとは思ってない」



「清算、ね」



「だから俺の命が欲しいならくれてやる。それくらいの覚悟だったが、俺を苦しめる為にこの組を、斉藤を標的にしているのなら、俺はそうさせない為に動く。良いな?」



「宣戦布告だ?」



「どう捉えてもらっても構わねぇよ」



俺はソファから立ち上がり、俺を見ていた青木の頬に手を伸ばした。腫れた頬に軽く手を寄せ、言葉を吐く。



「………でも、嘘をつくなら、最後の最後までつき通せよ」



本音だ。復讐心を抱くこいつに対しての本音。青木は何かを言おうとした。俺はそれを聞こうとはせず、青木に背を向けて部屋を出た。車に乗り込むと深呼吸をして、携帯電話を取り出す。


組を、斉藤を、守らなければ。


あんたが本気で斉藤を潰す気なら、俺も動かなければならない。だからあんたの事はいい加減、探らせてもらおうか。



「……もしもし」



ある番号に電話を掛け、相手の低い声を聞いた。



「ご無沙汰してます。ちょっと、お伺いしたい事があります」



「身内にネズミでもいたかね?」



男はふっと笑った。



「まぁ、そんなところです」



「知ってるだろうが俺はもう刑事ではない。それは分かってるな?」



「えぇ。でも刑事だった頃より、情報は手に入りやすいかと」



「そう言う物言いは赤澤さんそっくりだな。いいだろう、名前は?」



「青木 玲。ただ、警察内のファイルにも名前はないようで、読みが外れてるかもしれません。マトリの可能性もあるので、そちらも探って頂ければ」



「…青木 玲、か」



「はい。あなたなら何か調べられませんか」



「調べられない事はない。が、疑いの目を向けるという事は、そいつは何かしでかしたのかね」



「俺と青木は高校の同級生なんです。あいつはヤクザになるような男じゃなかった。しかし、調べても調べてもあいつの経歴に警察の文字はありませんでした。…俺の読みは当たっているはずなんです。調べてもらえませんか」



「君の部下、斉藤と言ったね? 彼、組対に友達いたろう。その友達に聞いても分からなかった、と言う事だね」



「はい。なので組対ではない事は分かってます」



「なるほどな。まぁ、そうだろうな」



男の言い方が気になった。まぁ、そうだろうな。俺は眉間に皺を寄せて聞き返す。



「…何かご存じなのですね」



「その斉藤の友達、数年前まで道警にいたろう。知らない事ってのはたくさんあるはずだ」



その口ぶりからして、この人は青木の事を知っている。確信した。やはり、そうか。だとするなら全てが嘘だった。偽りだった。あいつの言葉も行動も。



「あいつは刑事、そういう事ですか」



落ち着こうと呼吸を整えてから、俺はそう訊ねた。男は数秒黙った後、再び口を開いた。



「青木の事を教えてあげよう。これから会おうか」



「え?」



「こちらとしても、少し君に聞きたい事がある。ギブアンドテイクだよ」



俺に聞きたい事、それが今回の情報料のひとつらしいなと俺は頷いた。



「分かりました」



「一時間後に橘園でどうかね」



「はい」



青木という男は、その男が名前を聞いただけで分かるような男なのだ。何かが壊れて行く感触があった。一方でこれで良いと俺は飲み込んでいた。


これは過去の罪滅ぼしなのだから、これで良いのだと。俺はその残酷な真実を正面から受け入れなければならないのだ。男から語られるあいつの正体が何であれ、俺は全てを聞かなければならないのだ。


真実が俺にトドメをさすだろうと分かっていても。

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