13. 業

俺はひとり椅子に深く腰を掛け、タバコに火を点けていた。青木が部屋を出た後、斉藤を呼びつける。しばらく話した後に斉藤は部屋を出て行った。斉藤は青木を組の裏切り者だと強く疑い、青木はその斉藤のポジションを欲しがる。


この二人のうちどちらかが、黒、なのだろうか。それとも二人とも、なんて事はあるだろうか。ないとは思うが、考えては人間不信になりそうだった。


誰が裏切り者で、誰が真実を語っているのか、様々な仮定をしては否定し、確証が欲しいと必死になる。身内のごたつき、目に見えない何かに掻き回されている感覚。その正体を掴みたかった。何か突破口のようなものが欲しかった。


だから俺は、久しく訪れていなかった親父の屋敷を訪ねる事にした。重い腰を上げ、涼司の運転で屋敷へ訪れたのは陽が沈んだ頃だった。


郊外にある屋敷の一室、親父の部屋は如何にも任侠丸出しな部屋で、日本刀が床の間に飾ってある。親父が気に入っている屏風には、金色の龍が描かれ、その瞳は描かれていない。


畳の上に赤い天鵞絨の絨毯が敷かれ、その上に年季の入った黒革のソファがある。親父はそこに深く腰を掛け、濃紺の浴衣姿でタバコを吹かしていた。



「本家の若頭候補の噂、本当なのか」



「さぁな」



親父はしゃがれた低い声で俺を威圧する。



「…何度も報告を入れてるように、森鳳会がこっちのシノギを横取りして、その金は野上組にも渡ってる。若頭候補に野上組長もいるのなら、親父はいつまで野上組長の肩を持つつもりだ。組の稼ぎが、あいつらに奪われてンだぞ」



「俺はお前が森鳳会のシノギに首を突っ込んでると報告を受けている。森会長からも抗議がきて、それを俺が穏便に止めてンだ。これ以上、掻き回すな」



親父は決して俺の味方ではない。それは昔から。親父は野上組長とは仲が良く、その絆は実の子供である俺なんかよりずっと強い。だから俺と野上組長なら、俺を切るだろう事は予想できていた。



「認めるんだな。相馬組長と敵対して、若頭候補に並ぶ事を」



俺の言葉に親父は少し間を開ける。気怠そうにタバコの灰を灰皿に落とした。



「相馬はもう終いだ。俺ァ、野上と手を組んで、この組織を支えていく決心をしたまでだ。騒いで良い事は何もない。事を荒立てるな」



「被害受けてンのはうちの組だろうが。ただ指咥えて見てろって言うのかよ」



「被害? お前が持ってくる案件は全部、森鳳会が最初に唾付けた所じゃねぇか。それを横取りして、被害を受けたって言ったところで誰もお前の肩は持たねぇぞ。他の組員の稼ぎは上がってる。最近入って来たあの元瀬戸組の幹部もよく稼いでる。お前の稼ぎだけが落ちてる。いいか、お前が稼ぎで焦って森鳳会に噛みつき、おこぼれを貰おうとみっともない事をする、そんな風に思われてンだ。分かったら大人しくしろ。お前は少し、森鳳会から離れて考えた方が良いんじゃねぇのか」



何を言っても無駄だ。


でもこれで親父は野上組長の肩を持ち続けるだろう事は確定だ。同じ若頭候補になっても対立はしない。今のこの状況で対立しないのであれば、きっと今後もしない。この組を支えるために野上組長と共に、なんて言ってるが、何処でどう転ぶかは分からない。第一、相手は格上だ。良いように使われて切られるのがオチなんじゃねぇか。


けど俺がそう言ったところで、この親父には響かない。



「…相馬組長はどうすんだよ」



「さぁな。ただ、黙ってねぇだろうな。今になって候補が二人も追加されるかもしれないんだ。あいつが怒り狂ってドンパチ始まってもおかしくねぇだろうな」



「ドンパチって…。俺は跡目争いや派閥争いほど無利益なものはないと思ってる。同じ組内で殺し合って、潰しあって、結局は互いに力を弱めてしまうだけじゃねぇのか。なぁ、親父。うちの組内でも空気がおかしい。何か隠してるのなら全部言ってくれ」



「言うわけがねぇと分かって言ってンだろ?」



俺は舌打ちをしそうになった。拳をぐっと握り、来た事を後悔した。これだから会いたくなどなかった。自分の意見しか押し付けず、重要な事でも俺に隠す事がある。そんな親父だから、話したって無駄だろうなと思ってはいた。


でも少しは情報を得られると思ったから来たのだが、どうやら無駄だった。



「…もういい、邪魔した」



「金の稼ぎ方には注意しろよ。俺がお前を守りきれなくなる前に、新しい金の稼ぎ方を考えておけ」



「………」



誰がいつ、守られたってんだよ。何も分かってないのに、何を言ってんだ。もしくは知らないふりをして森鳳会の、いや、野上組の肩を持ってんのか。俺は苛立ちを押し殺しながら襖を閉め、縁側の廊下を歩き、玄関へと向かった。



「お疲れ様です!」



「おう」



何人かの若いのが屋敷に寝泊まりし、親父の世話をしている。若い奴らは俺に頭を下げ、俺はそいつらの横を通って屋敷を出た。涼司は車の外で待っていた。俺の姿を視界に捉えると、直ぐに後部座席へと回り、ドアを開ける。



「お疲れ様です」



「お疲れさん」



涼司にそう頭を下げられながら俺は車の中に入り、時刻は何時だろうかと腕時計を確認した。親父からは情報を得られなかった分、切田の情報を待つしかない。


時計の針は九時少し前を指していた。切田との待ち合わせ時間まで少し時間があった。涼司に家に帰るよう伝え、俺は流れていく外の景色を見ながら帰路につき、深い溜息を漏らした。家の中は静かだった。ジャケットを脱いで、それポンと椅子の背に掛け、冷蔵庫から水を取り出してソファに腰を下ろす。


青木はまだ仕事だろうか。いや、こっちには戻らず自分の家だろうか。どこかは知らないが、町外れの小さなアパートだと新崎か誰か他の組員が言ってたよなと、水を飲みながらぼうっと考えていた。時間を持て余してしまうと、やはり頭の中では青木の事を考えてしまうようだった。あいつは結局、裏切り者なのだろうか…。斉藤が言うように、もしあいつが警察で潜入捜査としてここにいるのなら。それが他に知れたら。どうしたって親父も他の組員も青木の事を始末しようと動くだろう。組の恥、なのだから問答無用で命を取られる。


そうなりゃぁ、上を黙らせるには俺が動くしかねぇよなぁ。けど俺が動いたとしても、あいつを見逃してくれるかは分からない、か。俺が全ての責任を取ったとして、納得してくれるのだろうか。いや、納得させるしかねぇのよな。


青木の行動全てが偽りだったとしても、俺はケジメを取るべきなのだろう。青木じゃない。俺が、取るべきなのだ。それでもきっと、過去の清算にはなっていない。


過去の清算なんて、どうすりゃいい? あいつは俺に、何を望んでいるのだろう。どうすれば清算になるのだろう。


清算をすれば少しは…。なんて自分勝手な望みを抱いては、鼻で笑ってしまう。青木に対する感情に蓋をして目を瞑っても、いい加減、向き合わなきゃならないというのに、青木をどうしても黒に置けない理由がそんな望みのせいで明確になっていくのだ。



「…参ったなぁ」



ぽつりと漏れた声がゆらゆらと宙を漂った。あいつが黒だったら、それはつまり、全てが偽りだったという事を意味する。ソファに深く寄り掛かり、あぁ、それって…と溜息を吐いた。


あいつが笑いかけたのも、心配そうに顔を歪めたのも、嫉妬を剥き出すのも。全てが偽だったと認める事になる。瞬間、認める事を怖いと思ってしまった。そう気付いてしまった自分の心に自嘲してしまう。


滑稽だ。なんで、そうなっちまったのかね。いつ、そうなっちまったのかね。


分からない。考えても考えても、答えなんてないように思えた。ただ気付いてしまった今、何もかもが雁字搦めで動けなくなる事は分かりきっていた。そう青木に対する厄介な感情に気付き、俺は考えるのをやめようとタバコをふかして時間を過ごした。


そうして時間になり、俺はひとりで待ち合わせの場所である丘ノ森公園へ向かった。薄暗く広い駐車場。車を停めて辺りを見渡すと、少し離れた所からひとりの男がこちらへ歩いて来た。



「…乗ってもいいすか」



窓を開けると切田はそう尋ねる。鍵を解除し、切田はフロントから回って助手席へと座った。



「話って?」



「……あの、その前に、ありがとうございます。本当にひとりで来てもらえると思ってなかったんで…」



切田は申し訳なさそうに謝っている。俺にとって有益な情報を持っているだろうからここに来た、それだけの事だが、用心棒も付けずひとりで来させた事を、こいつは少し気にしているらしかった。



「ま、お前がここで俺を弾いて山に埋めても、だーれも気付かないわな」



だから俺はふっと笑って冗談をひとつ。切田は安心したようで、少し肩の力が抜けたのを横目に、俺はタバコに火を点けた。一本差し出すと、切田は「ありがとうございます」と頭を下げ、一本のタバコを咥えて火を点け、煙を肺に深く押し込んでいる。



「信用して下さい、…とは今の状況、言いにくいすよね」



ふぅと窓を少し開けて外に煙を吐くと、切田は困ったように眉を下げる。



「まぁ、な。…で、どうして俺だけを呼びつけた?」



「はい。あの、呼んだのは、うちが次から次へと赤澤のカシラの案件に首突っ込んでる件に関してです。どうしてうちが必ず邪魔できるのか、先回りできるのか、もう気付いているとは思うンすけど、そっちの組の誰かが、うちのカシラに情報を渡しているからだと思います。理由をつけて邪魔するよう、カシラに指示を出している者がいる事は間違いないンすよ」



あぁ、やっぱり黒はいるのか。そりゃそうか、と俺は頭を掻く。



「それは確かなんだな?」



「はい。カシラを脅して、カシラを動かしてるのは確かです。けど、その正体を探ろうとしましたが全然ダメで…、正体が全く分かりません。その裏切り者が誰か分からない以上、涼司にもバレたくはなかったんすよ。もし繋がってたら厄介なんで」



「つまりこっちの組員の誰かが俺を裏切り、俺の案件を松葉に流し、松葉に金が流れるよう指示を出してるって事だな?」



「はい」



こうしていざ肯定され、裏切り者の存在を突き付けられると、やはり堪えるものがあった。分かってはいたのに、ぐっと胸が苦しくなる。俺はタバコの煙を肺に押し込み、自分を落ち着かせるようにゆっくりと吐き出した。



「…でもどうして松葉なんだろうな。脅せるだけのネタを掴んだのがたまたまあいつだったのか、それとも、初めからあいつを利用するつもりだったのか」



「分かりません。…でも、カシラは良いように動かされてます」



「そう、か。…だがそもそもなぜ、お前は松葉が脅されてると思ったんだ? あいつが自ら金欲しさに邪魔してるのではなく、脅しだと、どうして言い切れる」



切田の方を向くと、切田は難しい顔をする。



「カシラは何も言いません。でも、明らかに態度がおかしい。いつも苛立っていて、そわそわして、不安そうで。だから脅されてると考えた方が俺にはしっくり来ます。たとえ大金と引き換えに赤澤のカシラの案件を潰せ、と言われても、カシラは動きません。カシラは金だけでは動きません。あの人を動かすって事は容易じゃない」



「金の亡者なようでいて、そうだよなァ、あいつは金だけでは動かねぇな。で、あいつが脅されてンのなら、そのネタはなんだ」



「そ、れは…」



切田は俺から視線を外し、俯き、途端に口を閉じてしまった。



「口籠るって事は、お前はその理由を知ってんだな」



そう圧をかけると切田は俺を見上げて、口を開いて何かを言いかけ、またその唇を閉じ、そして一呼吸おいて、「すんません」とぽつりと謝った。



「俺がこれかなと思ってる事が直接脅しの種になっているのかは定かではないンす。ただ、もし脅されるとしたら、って思う事があるくらいなんすけど、でもそれについては赤澤のカシラにも言えません」



「呼び出しておいて?」



「はい…すんません」



その脅される種が裏切り者を突き止める何か重要な点に繋がるのではないのか? だとしたら、何としてでも聞き出したいが…。少し角度を変えて質問しようか。



「なぁ、切田。弱み握られた松葉が俺の案件に首を突っ込み、金を掻っ攫っていくって事には変わりない。つまりあいつが脅されてようがなかろうが、俺の金を横取りしてる事には変わりねぇのよ」



「…はい。それは、本当にすんません。…俺も、状況は把握してます。けどそれを止めるには、カシラをどうこうしても無駄かと。その裏切り者を突き止めない限りは解決できないンすよ。カシラを使ってその裏切り者は赤澤のカシラの首を狙ってると思うんで。裏切り者の狙いは、赤澤のカシラ、あなたの首かと思うんで」



組内に俺を殺したいと恨む奴なんて、きっとひとりしかいねぇよな。そう俺はタバコの煙を吐き出す。



「お前、それを律儀に俺に伝える理由は?」



「……理由…と言われましても」



「黙って俺の案件を取ってりゃぁ、そっちの稼ぎは増えるだろ。なのにわざわざ俺にそれを言うメリットは?」



切田は迷ったような顔をする。不安そうに口元に手を寄せながら俺を見た。



「元は敵対組織、信じてもらえるかは分からないンすけど…、俺はカシラの事を勘違いしてほしくないンすよ。うちの組はあなたを潰す気はないんす。それに…」



「…それに?」



「……カシラを、助けてほしい。赤澤のカシラに頼めた義理じゃない事くらい分かってます。勝手なのは十分、理解してます。そちらの損失を考えれば何されたって文句は言えません。でも、…頼める相手は赤澤のカシラしかいないンすよ。本当にすんません…。本当に…。でも、あなただけはカシラを脅している人物じゃない。だから、だから…」



切田は必死だった。



「カシラを、カシラを助けてくれませんか!」



切田はそう言うと頭を深々と下げ、革のクラッチバッグを俺にぐっと差し出した。



「何の足しにもならないと思いますが、…こ、ここに五百あります。これは赤澤のカシラに預けます。だから、お願いします…」



こいつは松葉を助けようと、足掻き、苦しんでいる。それはどう見たって真実を言っているように見えた。こいつは俺を騙してはいない。そうなると、いよいよ俺は組内にいる黒を対処しなければならない…。



「だったらお前の知ってる事、全部、吐き出せ。ナシはそれからだろ」



俺は静かにそう詰めた。重い頭を支え、腕を窓にかけ切田を見下ろす。切田の眉間にぐっと皺が寄る。不安と迷いとが、またその表情に表れる。だから俺はもう一押し、詰め寄った。



「本当は俺の組に裏切り者なんていなくて、お前も実は松葉の差金。こうして松葉を守れば、俺の怒りはそっちの組には、いや、松葉には向かない。あのイカれ野郎が考えた筋書きだと考える事もできんだろ」



「違う! そんなんじゃ…、これは俺の独断で…」



「じゃぁ全部吐け。お前、俺に縋り付いて来たンだろ。だったら覚悟決めろ。俺を信用してんなら、全部」



「………」



切田はすっかり黙ってしまった。どうしようかと悩み、答えが出ず、自問自答を繰り返しているらしい。ぎゅっと握り拳を作ると、唇を噛み締めている。俺は今、こいつにカシラを売れと強要している。こいつが思い詰めるのも無理はなかった。


しかしこいつに洗いざらい知っている事を吐き出してもらわないと、こっちも黒を打てない。長い沈黙の後、「柳田組…」そう、切田は呟いた。



「柳田組がどうした」



「カシラの大事な人が、柳田組のヤクでヤク中になっていたらしくて、その挙句、幹部連中に暴力を振るわれて。それを知ったカシラ、見た事ないくらい取り乱しちまって、…柳田組の幹部連中を全員、潰そうと密かに動いてたンすよ」



あんなイカれた柳田組を潰そうだなんて、松葉はどうかしてる。しかも組としてではなく、あいつ個人で動いてたって事だろ? 森会長にそれがバレたらあいつは責任を取らされ、きっと、身柄を渡されるんじゃねぇのか。



「関わらないって手はなかったのかよ。いくら大事な人が怪我を負わされたとは言え、相手もヤクザ。戦争になりかねない事くらい分かってンだろ」



「だから極秘なんす。絶対にバレちゃならない事なんで。ただ、もともとうちと柳田組は悪い関係ではなかったんすよ。地上げ頼んだり、仕事流したり。すごく良い関係、とは言えないですけど、別に悪くもなかったンすよ」



「じゃぁ尚更、事を構えない方が賢明だったろ。お前は止めなかったのかよ」



「俺にカシラを止めれるわけないじゃないすか。無茶言わないで下さい。……だから、証拠は残さないように片付けてはいるンすけど」



ヤク中、という言葉で前に料亭ですれ違った若い男を思い出した。松葉が声を荒げていたカタギさん。もしかしたら、とひとつの仮説が浮かんだ。そうだとしたら、その若いのが柳田組のヤクに溺れて、暴力振われて、泣き寝入りせざるを得ない状況になった。で、そいつのために松葉は動いた。もしそうなら危ない事をしやがったな。



「…で、まぁ、そんな事があって、柳田組に仕事の依頼を一切出さなくなったんです。なのに、カシラの様子がおかしくなってから、…多分、脅されるようになってから、また柳田組を通してそっちの案件を潰したり、別件で仕事を渡したり、前の関係のように戻りつつあるんすよ。しかも柳田組幹部の件も、俺に調査しなくて良いって、もう始末しなくて良いって、言い出して…。あれだけブチギレてたのにっすよ」



「ほーう、なるほど。松葉が意見を180度変えたと、そういう事だよな。しかも松葉にとったら仕事を渡したくない相手に今は仕事を渡してる、と」



「はい。うちのカシラを脅して、自分が嫌悪する組織に仕事の依頼を出して金を作らせる。カシラが最も嫌う事を敢えてさせる。そう考えると、そいつ、カシラにも何か恨みがあるのかもしれません」



「つまり裏切り者は松葉の弱味を握り、松葉に恨みを待ち、柳田組の事もしっかりと把握している人物。そうなるわけだが、心当たりねぇのか」



「…ないっすよ。ないからこそ、赤澤のカシラに頼るしかないんす」



「この情報、外に流してないよな?」



「流せるわけないすよ!」



切田の声が興奮気味に少し大きくなる。



「お前が裏切り者じゃないって証明は?」



しかし俺のその質問に、切田の声は小さくなった。



「…俺、すか」



「できるか? 俺にはこう見える。お前が実は黒幕で、俺の首を取ろうとしてる。松葉を脅して、この組を壊滅させようとする。それだって一応は筋、通ってるだろ。俺にとってネックなのは、松葉が俺の稼ぎを掻っ攫う事。だとするなら、俺の組に裏切り者がいるわけじゃなく、お前自身がその主犯ってのはどうだ」



「…ってのはどうだって、赤澤のカシラ、意地悪言わないで下さいよ。俺を本当に疑ってんなら、俺は違うって証拠を…」



「ふふ、悪かった。お前が黒幕なら、わざわざ俺に言いに来ないか」



「まぁ…はい」



「敢えて来て疑いを逸らすって手もあるがな」



「冗談に聞こえないんでやめてもらえますか。それに俺だったら、赤澤のカシラの案件を片っ端からどうやって知るんすか。組だって違うのに」



「まぁな、そこなんだよなァ。悪かったよ」



青木が裏切り者だとしても、そこが引っ掛かるのだ。斉藤ならまだしも、青木を黒と置く場合、あいつはどうやって全ての案件を知る事ができたのだろう。



「…俺、カシラの事は絶対裏切らないすよ」



切田はそう少し拗ねた様子を見せた。



「そうだな。悪かったよ。あいつは良い部下を持ったなと思ってる」



「…ありがとうございます」



「ふふ。でもよ、あいつが脅されてるとして、何故、あいつは俺に会わない? あいつから話を直接聞ければ全て解決すると思うんだが」



「会えないんだと思います」



「会えない?」



どういう事かと、俺は眉間に皺を寄せた。会いたくない、のではなく会えない、となると話は変わってくる。



「あくまで俺の予想なんすけど、カシラ、赤澤のカシラを避けているようなんです。俺がここに来たのはカシラの命令なんで、カシラだけが動けない状況なんすよ。だから会いたくても会えない理由があるのかと」



「だから昨日、お前がタイミング良く来たわけか。あいつ、電話では俺に話す事はないって、早く電話を切ろうとしてたからよ、てっきり、俺の金を根こそぎ奪って釈明もなしかと腹が立ったんだがな」



「話したくても話せないんだと思います。ただ、カシラは俺にも何も言いません。たまたま昨日は俺が側にいたタイミングで赤澤のカシラから電話があったんで、俺に行けと指示を出したんだと思います。でも俺が側にいなかったら、カシラはただ抱え込んで終いだったかと」



「お前にも何も言わないのか…」



「はい。それに昨日、赤澤のカシラと電話で話している時、強く当たるような事を言ってましたが、表情はなんというか辛そうで。言いたくない事を言って、赤澤のカシラを突き放すつもりだったのかな、なんて…。だからカシラは、あの電話で本音を言ったわけじゃないって事、分かって下さい」



「面倒な事になってんなァ…」



「裏切り者にとったら自分と繋がってるカシラと、標的である赤澤のカシラを会わせるわけにはいかない、だから会わせないようにカシラに脅しをかけてるんじゃないかなと思うんすけど」



「かもしれねぇな。…けど、そうか。松葉は何もかもを知ってンだな」



「はい。でも、誰が裏切り者かは絶対に言えないんだと思います。で、あの、…赤澤のカシラは目星ついてるんすか」



目星、か。斉藤か青木か。ついてはいたが言えるはずもない。俺の中で確定ではないのだから、ただの疑いを簡単に口には出せなかった。



「さぁな…。まだ分からない」



だからそう誤魔化した。



「そう、ですよね。たぶん、その裏切り者、赤澤のカシラの事をよーく知ってるんでしょうね。きっと誰よりも…。組の事を知ってるってよりも、赤澤のカシラの事をよく知ってる、そんな感じがするンすよ。赤澤のカシラの案件ばかり狙ってるのも、赤澤のカシラに対する執着っていうか、恨みっていうか、強い感情が見えるんで…」



俺の事をよく知ってる。組の事よりも俺の事を。そうなりゃぁ言わずもがな、ひとりに絞れちまうよな。もしあいつなら、何故、松葉を選んだのだろう。何故、森鳳会なんだろう。


いや、そんなのは今、考えても答えは出ないし、分からないのだから考えるだけ無駄だろうか…。



「参ったね……」



「そう、すよね…」



青木が黒だとするなら、何故、あいつは自分が関わっていない案件まで知っていたのだろう。全部に斉藤は関わっていたが、青木は数件しか関わっていない。なのに、何故…。そうなると、やはり斉藤が…? 訳が分からない。疑問は次から次へと湧いて出てきた。俺はタバコの最後の一口を吸うと、煙を吐き出しながらそれを灰皿に押し付ける。



「切田、お前はどうしたって松葉を助けたいんだよな?」



「は、はい! カシラのためなら、なんでもします」



切田は松葉の忠犬だ。腕っぷしも良いし、度胸もある。そんなこいつがどうしようもなくなって、俺を頼ってきた。俺は切田の膝の上に渡された鞄をトンと置いた。



「なら、この金は要らねぇな」



「で、でも…」


 

切田は受け取れないと焦ったように突き返すが、金よりも欲しいものがあると切田に鞄を再び突き返す。



「教えて欲しい事がある」



切田は大人しく金を膝の上に置くと、眉間に皺を寄せた。



「えっと…カシラの事ですか」



「いや、別件だ。代紋違いのお前に聞くのは違うかもしれねぇが、森鳳会は野上組とべったりだ。それで、だ。最近、こっちの組織全体が妙にざわついてる。それと俺の今ある状況とが、無関係だとは思えないんだよ。…船木組、本家の跡目の話、知ってるか」



そう切り出すと切田はぎょっとしたように驚いた様子だった。



「赤澤のカシラは、やっぱりもう知ってたんすか」



「その口ぶりなら、お前も知ってるんだな?」



「詳細は分かりません。ただ、相馬組長が跡目候補から外される可能性が出てきたと。それに伴って台頭したのが野上組長と、赤澤組長、そう、ですよね? 相馬組長は緑翔組に対して交戦的です。なので、野上組長や赤澤組長が跡を継ぐのであれば、こちらとしては有難いんすよ」



「……お前、その話誰から聞いた?」



「俺はカシラから。カシラは多分、森会長から直接。でも、現時点で知ってる人はほぼいないと思います」



「相馬組長は何故、外されるか知ってるか」



「いえ、それは分かりません。正直、驚きました。赤澤のカシラは何かご存知で?」



「いや、お前なら知ってるかと思ったんだ。野上組の事なら森鳳会の方が詳しいだろうから、何か掴んでやしねぇかなと」



「すんません、力になれませんで。本当に、何も知らないんすよ。ただ、葉山組と野上組で手を組むのかと思ってたんで、対立候補に上がるのは少し意外でした」



「対立ねぇ、どうだか。親父は俺の件に関して、どんなに損失が出ようと見て見ぬふりをしてる。しかも理由は俺がお前の組のシノギを横取りしてるからだ。だから親父は野上組と対立する気はねぇと思うんだがな。…どちらにせよ参るよ、全く」



「横取り、そうすよね。名目上はそうなんすよね。でもきっと、それが裏切り者の狙いなんすよ。そうやって赤澤のカシラが見つける案件を潰して追い込めるんすから」



「そうだな」



切田はタバコを軽く吸うと、灰皿に押し付け、窓を閉めると眉間に皺を寄せながら口を開いた。



「俺の勝手な印象なんで聞き流してくれて良いんすけど、俺、この裏切り者の使う手って極道者っぽくないなって思うんすよ。かなり正確な情報を掴んで、躊躇いなく脅しに使って。でも、そいつは金目的じゃない。自分の手は汚さずにカシラを脅して動かして、一銭も懐に入れてないっぽいンすよ。んで、赤澤のカシラの案件ばかりを潰す点、どう考えても俺達極道が使う手じゃないように思えて…」



切田の言葉を聞きながら、薄暗く人気のない窓の外を眺めていた。考えたくないが、考えなければならない事に頭が支配され、疲れ切ってしまっていたのかもしれない。無言でいた俺に、切田は「…すんません、でしゃばりました」と謝るものだから、「いや、」と切田の方を向いた。



「俺の案件だけを潰しにきている点からして、俺に恨みがある事は分かってた。だから俺に恨みがあるやつを洗い出せば良い。組にこれ以上迷惑を掛ける前に、松葉が潰れる前に俺が動く必要がある。…だから、お前の意見を聞けて少しはスッキリしたよ」



「……すんません」



「ふふ。だから謝んなよ。けど、そうだな。色々と組内で精査すべき事が多いわな。それに相馬組長の失脚が濃厚なら、少しだが全体図がようやく見えてきた。俺の方で動くから、お前はこれ以上目立った動きはしない方が良い。分かったな?」



「はい。分かりました。…あの、ひとつ良いっすか」



「ん?」



「赤澤のカシラは裏切り者が跡目までコントロールしてると思いますか」



「俺はそう思ってる。だから、そいつが何らかの方法でコントロールしててもおかしくねぇなと、可能性はゼロじゃねぇと思ってる。ただ、船木組長をも動かすって事だろ? どんなカラクリがあるのか分からない。ま、調べてみるさ。ひとまず松葉の件、何か進展があったら必ず俺に報告してくれ。…ただ、電話は使うな。ここで会って話そう」



「電話…」



切田はハッとしたように目を見開くと、早口に言葉を吐き出した。



「もしかして、カシラが電話だと話せないってのは携帯に何か仕掛けられてたから、って事すか」



「そ。あいつの電話、盗聴されてんじゃねぇのかと思ってな」



「なるほど…」



「違う理由があんのかも知れないが、松葉が盗聴を疑って俺との電話を切ろうとしてたなら、納得できるだろ」



「なるほど」



切田は何度も頷き納得しながらシートに深く座り直し、腕を組んだ。「そうかぁ」と俺に微かに聞こえる声で呟いている。



「だから何かあったら俺にだけ分かる方法で伝えてくれ。黒と繋がってる松葉の耳にも入れるなよ」



「分かりました」



「あ、それと、」



「はい」



ひとつ気掛かりがあった。



「昨日の件だが、うちの若いのが誤って撃ったお前ンとこの若衆どうなった? 結局、松葉とナシついてねぇが」



そう問うと、切田は「あいつなら大丈夫です」と表情を崩した。



「腹、撃たれましたけど急所外してましたし。カシラもその場で金を渡せと言ってましたけど、多分、請求するつもりはないかと思います。…非があるのはこっちだって理解してるんで。ただ、それを表立って言えないんで、なぁなぁにして流したいのかと。不幸中の幸いと言いますか、あいつが軽傷で良かったすよ。これで当たりどころ悪くて死んじまったら、会長まで出る事になってたかもしれないんで…。そうなると赤澤のカシラを潰そうとする動きは激化するでしょうし、裏切り者の思う壷っすから」



「軽傷だったか…。それなら良かった。どうなかったと思ってな」



「心配しないで下さい。障害も残らないみたいだし、本当に当たりどころ良かったんすよ。ただ、金谷が実弾を撃ってきた事には驚きました。葉山組って、銃の携帯にかなり厳しいイメージあったんで」



「それについて言い訳みたいで嫌なんだが、一応言っておく。俺はあいつに実弾の入った銃の携帯を許可してない。あいつの銃に実弾が入ってた事自体、報告を受けて驚いたんだ。それは一緒にいた斉藤もそうだった。戦争の引き金になるような事、わざわざさせるわけないだろ」



「え、金谷が裏切り者……すか」



「いや、金谷は違うだろうな。あいつはこんな絵を描けるような人間じゃないし、第一、撃ったあいつが一番驚いて、ショックを受けて取り乱してた」



「となると、裏切り者が金谷の銃に仕掛けたンすね」



「あぁ、きっとな。ま、そこも含めて精査する。が、お前に言いたいのは、葉山組としてお前ンとこの若いのを故意に撃ったわけじゃねぇってのは伝えておきたくてな」



「カシラにも伝えておきます」



「あぁ。で、森会長はどこまでこの件に関わってる? ここ来る前に親父と話したが、会長から抗議がきてるって言ってたんだが…。会長が出てきたら、親父も出てくるだろうから早めに把握しておきたい」



「抗議…。そうだったんすか。一応、建前的に抗議してるだけな気がしますけど。正直、会長は何も気にしてないと思うんで。というのもカシラは全ての案件を濁して伝えてるんで、今回の件も、若衆同士のいざこざ、やりすぎた喧嘩で片付くかと思います」



「そうか」



「えぇ」



「ひとまず俺の方で動く。何かあったら言ってくれ」



「はい、すんません」



「だから謝るな」



切田からの情報で、裏切り者に繋がる直接的な確証は得られなかったが収穫はあった。こいつの心象的な意見も含めて、自分の中で裏切り者の位置が定まってくる。



「それじゃぁ、俺は、これで」



「おう、気を付けろよ」



「赤澤のカシラも。それじゃ」



切田が去った後も俺はそのまま、その場所にしばらく残っていた。時間だけが過ぎていく。切田から得た情報を頭の中で整理しながら何度も何度も考えた。俺の首を絞め、殺そうとする男の事を。確証はないが切田の言った事を信じるのなら、ほぼほぼ間違いなく青木が黒だろう。


もし、あいつが本当に俺の息の根を止めようとしてるのなら。もし、今までのあれこれが、全てが嘘だったなら。あいつの目的はひとつだ。


復讐。


だとするなら全てが頷ける。


あいつは俺に再会したあの瞬間から本心を偽り、嘘で固めていて計画的に距離を縮めた。やはり、斉藤は裏切り者じゃない…。


そう結論に辿り着き、俺は溜息と共にシートに深く寄り掛かる。否定したかった。キリキリと痛むその痛みを、違うと真っ向から否定して、逃げてしまいたかった。こんなにも厄介な事になるなんて。こんなにも辛いと思ってしまうなんて。


気が付けば日付を跨ごうとしていた。また溜息をひとつつき、俺は帰路に着く。足取りは重かった。そりゃそうだ。帰ったらきっと、あいつがいるだろうから。あいつは俺と再会してから何を考えながら俺に触れていたのだろう。俺を組み敷いた時、何を思っていたのだろう。


俺に抱かれた時、何を……。



「…おかえり」



家には当たり前のように青木がいた。



「おう、ただいま」



玄関で俺は靴を脱ぐ前に、ただじっと青木を見上げていた。



「今日は早いじゃん。晩飯の余りならあるけど、食う?」



青木はそう首を傾げて片眉を上げる。否定すべき感情が不意に自分を襲った。ぐっと胸が苦しくなり、痛みは強くなる一方で、治りそうにもない。



「いや、今日はいい。…少し休みたい」



でも、この痛みは自業自得なのだ。受け入れなければならないのだ。分かってはいるのに、期待する。こいつはまだ、俺に嘘をついてくれる。だから、大丈夫、と。だから、今は、少しだけ…



「……おい」



嘘でも良いからと思う事ほど滑稽で哀れな話、あるだろうか。腕を伸ばし、青木の体を自分の方へ引き寄せる。俺は動揺する青木の声を耳元で聞いた。青木の温もりをただ、感じていた。青木は迷いながら、両手を俺の背中に回す。あぁ、…全ては俺が蒔いた種。


自業自得。因果応報。悪因悪果。



「俺はあんたに殺されンのかね」



つい、溢れた言葉。



「は? 何言って…」



「……全てが嘘だと言われるくらいなら、その方がマシかもしれねぇやな」



口にすべきではないと、分かっているのに。青木が心配そうに表情を歪める度に、あり得ないであろう飛躍した考えが脳を支配する。



「急にどうしたよ…」



そんな訳がないのに。とんだ現実逃避だ。



「悪い。……なぁ、青木、」



「なん、だよ…」



答えなんて、分かってるのにな。最初から、分かっていたのにな。



「俺がもし、……愛してる、なんて言ったら、あんた、どうする」



青木の動揺はすぐに伝わった。こうして抱き締めていれば嫌でも伝わる。言葉を失い、必死に言葉を探し出そうと頭を回転させているのだ。俺も愛してる、なんて言葉を期待してたろうか。こいつはそんな言葉、死んだって言いやしないだろ。偽りでも、その言葉は言えやしないのだろ。


だって、こいつは俺を地獄に落とす為に俺の側にいるのだから。



「……冗談だよ。悪かったな」



俺はそう言って青木から体を離した。青木の眉間には深い溝ができ、俺を凝視している。



「いやなに、誉達があんたの驚いた顔って見た事ないって言うからさ、つい、な。あんただって驚くよな? ふふ、良い顔見れたよ」



固まる青木を横に、靴を脱いで俺は部屋の中へ入った。



「シャワー浴びたら、俺ァ寝るわ」



俺はそのままシャワーを浴びようと脱衣所へと向かう。青木は何も言わなかった。いや、何も、言えなかった、が正しいのだろう。


切田の言った事を信じるなら、松葉を使うのも、この組織全体に手が回せるのも、標的を俺にするのも青木しかいない。俺の案件を知っていた事といい、金谷の銃の事といい、起きた出来事は斉藤を指しているように見えるがやはり斉藤ではない。俺は斉藤という男を長い事見てきた。だからこそ、やはり斉藤を黒と置く事に違和感を感じてしまう。青木ならどうだ。確かに疑問は多いが、俺の息の根を止める為ならなんだってするだろ。


しかし確信を作るのが怖かった。俺が動いてしまえば、きっと、白黒ハッキリしちまうから。過去を清算する日は近いだろうに、俺は言い訳を考えて逃げ回っていたいだけだ…。


熱いシャワーを浴びた。全て、洗い流す事ができれば。このまま溶けて消えてしまえば、楽だろうに……。シャワーを止め、蒸気で蒸し暑い室内で深く息を吐いて、俺は浴室のドアを開ける。



「…ぉっと、びっくりした…」



出た瞬間、青木と目が合う。脱衣所の壁に寄り掛かり、青木は腕を組んでいた。浴室の蒸気がぶわっと勢いよく脱衣所に逃げ、俺は表情ひとつ変えない青木を横目に、白いバスタオルを手に取った。



「なに、…どうした」



それを腰に巻きながら、気まずくなってそう声を掛けると、青木は静かに口を開いた。



「答え、聞きたいんじゃないのか」



「…え?」



「愛してる、って言ったらどうする? って聞いてきたのお前だろ」



「いや、だから、それは…」



「赤澤、」



青木は一歩俺に近付くと、俺の目をじっと見つめた。



「昔、俺に何をしたか、分かってンの?」



「……っ」



一瞬だった。青木の冷たい掌が喉を絞めるように寄せられた一瞬の出来事だった。青木の片足が体を割って入り、ぐるりと視界が回った。何が起きたのか理解するまでに数秒。ガタンと大きな音を立て俺の体は倒れ、いや、倒され、あの日のように青木は俺を組み敷く。


あまりにも一瞬の出来事で、俺は驚きに目を見開き、状況を把握しようと必死になる。分かる事は、青木の掌が熱くなっているという事…。



「お前は俺に散々暴力を振るった挙句、ある日突然、あんたとはもう会わねぇからって消えたんだ。そんなやつ、まるで存在してなかったかのように綺麗さっぱりお前は俺の人生からいなくなった。お前がいなくなった後、暴力を振るわれなくて精々したよ。解放されて最高に気分が良かった」



青木はそう淡々と言葉を吐くと俺を見下ろし、その冷たい瞳を俺に向ける。喉に掛けられた手は静かに離された。濡れた髪にするりと指が絡められ、その指先に力が込められた。痛みに顔を顰めると青木はふっと楽しそうに鼻で笑った。



「俺は生憎マゾじゃないんでね。殴られるのは好きじゃない。痛いのも好きじゃない。もうひとつ言うと、抱かれるのも。俺はさ、お前をこうして見下ろしてる瞬間が何よりも興奮する。お前の焦った顔を見るのも、苦しそうに顔を歪めるのも、全部、全部、見えるから。…けどそれでも抱かれていたのは、相手がお前だったから。お前は抱かれるの、すげぇ嫌なんだろうなって知ってたから。でもね、やっぱり俺はお前の嫌がる顔が見たい。俺はお前を苦しめたい。俺はお前の事、一生許さない。お前が俺をそうさせたんだ。……だから最後まで責任取れよ」



その言葉はどう解釈すべきだろうか…。青木は何を思って、その言葉を選んだのだろう。俺には分からなかった。ただ、乱れた呼吸と、滲む汗と、熱すぎるほどの熱を肌で感じた。頭が回らなくなるほどのひどい熱だった。目の前がチカチカと眩しく霞み、のけ反っては必死に呼吸をしようと足掻く。何をどうしたって、もう後戻りはできない。



「青、木……っ」



「不幸な事に、体の相性良いよね、俺達って」



「………ッ」



「俺はちゃんとお前を殺すよ。大丈夫、…大丈夫。そのために今まで生きてきたから」



「……あんた、…何を考えて…」



「俺はいつもお前の事しか考えてないみたい。四六時中、お前の事しか」



「……嘘を、……ッ…」



熱い。呼吸をするのも難しい。あまりにも強い快楽に頭がぼうっとする。はくはくと浅い呼吸を繰り返し、空気を食べるように口を開けるが脳に酸素が届いていないかもしれない。それでも必死に酸素を取り込もうとする俺に、青木は目を細めてその姿をじっと見下ろすと、半開きになったままの唇にそっと触れた。



「苦しい?」



「……ん、…っ、」



「話す余裕ないか。…赤澤。俺はいつもお前の事だけを考えて生きてるよ。どうしたらお前は俺しか見なくなるのだろうか、どうしたらお前は俺を信じてくれるのだろうか。…なーんてね。裏切り者は、誰だろうな?」



青木はそう言うと、俺の頬を指の背でするりと甘く撫でた。



「お前が騒いだところで覆らない証拠、俺がちゃーんと持って来てあげるから。…言ったろ? 俺はお前を地獄に落とすって」



青木は熱い息を吐きながら、そう笑った。覆らない証拠って何を言ってるんだと、その言葉を追求したかった。何をするつもりなのかと、答えを聞きたかった。


でも、それは叶わなかった。



「……ッ」



息が出来ない。快楽に押し流され、何も言えなくなる。腰を抱く青木のその手に力が入り、青木は眉間に皺を寄せたまま肩で呼吸をしていた。奥深くに出された熱を感じては、下腹部に力が入るようだった。しばらくそのまま青木は動かず、寄せられた眉間の皺を解きながら呼吸を整え、そしてゆっくりと俺の顔を見下ろした。


やけに楽しそうで、熱を帯びた獣のような目だった。



「裏切り者は斉藤だよね? あいつひとりが裏切り者だ」



青木はそう言うと、両手で俺の首を包み込む。



「そうだよね?」



徐々に力が加わる。喉が締まり、呼吸が苦しくなる。青木はじっと俺の瞳を見つめていた。俺は抵抗せず、ただ青木の顔を見上げていた。



「俺は何があってもお前を離さないよ。絶対に、何があっても」



悔しそうに言葉を吐くんだなと思った。俺の首を絞めながら、とても苦しそうに言葉を。



「…った…あお、き……」



悪かった、そう言ったところでこいつの復讐心は消えやしないのだろう。


でも俺はきちんと伝えなければと、そう口を開いた。喉を圧迫され、上手く言葉を発せられていないだろうが、青木はその唇の動きを読み取ったように、途端に手を離した。俺は空気を目一杯吸い込む。少し咳き込みながら体を起こした時、青木の掌が俺の頬に寄せられ、そのまま顔が近付いた。


柔らかな唇が甘噛みするように重なる。ゆるく舌が触れる。その濡れた舌は唇を撫で、甘くなぞっていく。触れるような熱い息は甘いが、苦しい。胸がぎゅっと締め付けられ、痛みに耐えられそうにもない…。


何もかもが偽りだった。ならばこれ以上、痛みは要らない。もう解放してはくれないだろうか。


もう良い加減…。


……いや、解放されるわけがない。


こいつはきっと、ずっと、俺を苦しめたいのだ。その為にここにいるのだから。青木はやたらと甘い目を俺に向けて、緩やかに口角をげる。



「……愛してるよ、赤澤。だから目一杯苦しんでくれ」



過去は、清算されるのだろうか……。

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