10. 信頼への警鐘

「どういう風の吹き回し?」



「何が?」



「……あんた、普段料理なんかしないだろ」



「するよ。お前の前ではしないだけ」



「そう。で、なんで急に飯作ってんの」



「なんとなーく?」



「へぇ。なんとなーく、ね」



家へ帰って来たのは朝4時過ぎ。疲労困憊で昼からほとんど何も食っておらず、倒れる寸前だった。仕事でゴタつきまくり、ストレスはピークで、胃に穴が空くんじゃないかと心配になる。そんな時に飯を作ってくれる人がいればなと思ってはいたが、まさか、あの青木がその作ってくれる人になるとは。



「…俺、料理上手いよ」



「自分で言うやついるんだな」



青木が出してきたのは蕎麦である。良い脂が浮かぶ温かい出汁に浸った蕎麦。



「手作り蕎麦…?」



「さすがに蕎麦は打ってない。行きつけの蕎麦屋あるんだけど、そこ、蕎麦だけ買えるのよ。お前、蕎麦、好きだったろ?」



「よく、覚えてんな…」



青木はふっと笑い、割り箸をパチンと割る。俺も割り箸を割って、俺を眺める青木の視線を感じながら一口、口に入れた。ずるずると音を立てて食べてみる。


これでマズかったら頭一発叩いてもバチは当たらないだろうと思ったのだが、



「ふふ、…美味いだろ」



余裕に笑う青木に腹が立つ、が、正直美味かった。好みの味だった。鶏肉の脂がいい具合に溶けていて、ネギが少し炙られ甘くて…って、何を胃袋掴まれてるんだろ。



「蕎麦屋の蕎麦だ、そりゃぁ美味いな」



「出汁は俺が作ったっつーの」



その蕎麦を食べる俺を青木は楽しそうに眺めていた。腹が減りすぎて、あっという間に食べ終えた俺に、青木はニヤニヤとずっと口角を上げている。



「…なんだよ」



「いやぁ? 別に」



「……美味かった」



「知ってる。これ作るのに案外時間掛かってんのよ」



「ふふ、そうか。でも助かったよ。今日はひどくゴタついたからな、全然飯食えなかった」



「だろうな。夕方に会った時のお前、顔死んでたから。あ、鍵、忘れないうちに返しておくな」



そう青木は言うとポケットから鍵を取り、それをテーブルの上に置く。俺はその鍵を見下ろしながら、少し間を開けた。どうすべきかな、と。鍵をこいつに渡しても良いのではないかと、頭によぎった。そこまでこの男を信用していいものか。そもそも、俺とこいつの関係って何だろ。俺はこいつに何を求めているのか。何をしてほしいのか。疲れて家に帰って来て飯があるって、こうも持っていかれる事なのかと俺は自分自身に呆れている。今まで家に誰かを上げた事も、住まわせた事もないし、そもそも誰かがこうして家で飯を作って、一緒に食った事もない。


これは呆れるほど厄介になってきたな。



「…それ、やるよ。部屋、好きに使ってくれていい」



鍵をすっと青木の方に差し出すと、青木は驚いたように目を丸くして俺を見る。そりゃ、そうだよな。驚いて当然よな。



「いや、あんたいつも鍵貸せって言うだろ。最近は帰りも遅いし、事務所にもあまり戻らないから。鍵、渡しておくから好きに使ってくれて構わない」



「…飯、作れる時は作っといてやるよ」



青木は嬉しそうだった。口角を上げ、頬を緩めながら鍵を手にしている。



「助かるけど、あんたが遅い日もあんだろ。別に飯のために鍵、渡してるわけじゃねぇからよ。無理はすんなよ」



青木は頷くと、素直に「分かった」と返事をした。鍵をポケットに仕舞うと、心配そうに「…なぁ」と少し難しい顔をする。



「ん?」



「無理すんな、は俺のセリフなんだけど」



あの青木が俺を心配している事が未だに信じられない。俺は少し口角を上げた。



「まぁ最近は立て続けにゴタついてるからなぁ。疲労で死にそうよ」



そう言ってやると、青木もゆるりと口角を上げる。



「あ、疲労には甘い物が良いんだってよ」



「甘い物…ね。ロウソクつけて祝ってくれんのか」



「…何、気付いてたの? 俺が祝ってやってるって」



青木は少し口を尖らせると肩をすくめた。



「あんたが料理を作って待ってるとか、只事じゃないだろうが」



「まぁ、そうか。で、食うだろ? 早朝からケーキ」



「食う。紅茶いれようか」



「酒、飲まない? ブランデーゲットした」



「あんたブランデーなんて飲むのかよ」



「普段は飲まないよ。でもお前、好きだろ」



即答で、そんな事を言っちまうんだな。参ったな…。



「まぁ」



「グラス、用意してよ」



「あぁ」



意外だった。こいつが甘い物を食べてるところを一度も見た事はなかったし、俺もあまり食べない。それなのに、しっかりとケーキを用意している。


しかも甘いのが苦手な俺を知ってか知らずか、ダークチョコレートの小さなケーキである。そしてお供にブランデー。あの青木が何かを祝うなんて、明日は嵐になるのだろうか。グラスを上げた俺に、青木は「おめでとう」と笑った。調子が狂う。何をどうして良いのか分からなくなる。俺にとってこの男がどういう存在だったか、そして俺がこいつに何をしたか、忘れそうになる…。



「ありがとう」



俺が散々痛めつけた相手。今になって何かを得ようなんて、都合が良すぎる相手。青木、あんたは俺をどう見てるんだろうな。柔らかく笑う青木を目の前に、ブランデーを一口飲み、ケーキを一口頬張る。この年になって誰かに誕生日を祝われるなんて、変な気分だった。しかもあの青木に。


しばらくふたりで他愛もない会話をした。美味いブランデーはついつい飲み過ぎ、酔いが回り若干ふわふわするが、それももはや楽しかった。目の前にいる男が、俺を嫌悪してる相手だとしても。俺を恨んでるだろう相手だとしても。少なくとも俺は、この状況を楽しいと感じてしまっていた。



「…でさ、誉が言うんだよ。俺の憧れは赤澤のカシラです! 俺はあーいう貫禄のあるカッコいい若頭になるんです!って。お前、貫禄のあるカッコいい若頭なんだってさ」



「アハハハ、あいつは調子良いからなぁ。俺にはあんたが一番カッコいいって言ってたぞ。この前なんてよ、新崎にあんたがつけてる香水は何か聞いてたしなぁ。ありゃ、新崎も困ってたぞー」



「ふふ。誉、俺の事好きだからなぁー。…なぁ、嫉妬しちゃう?」



「俺が?」



「そう、お前が」



青木のイタズラっぽい瞳。グラスに残っていたブランデーをくいっと飲み干し、俺がどう答えるかやたら楽しそうに待っている。



「嫉妬、するかな。事務所内で誉がやたらベタベタとあんたに触ってるから、一回海に沈めようかと思うほどには」



そうわざと言ってやると、青木は少し驚いたらしかった。それからぷっと吹き出して笑う。



「何、お前、かなり酔ってる?」



「だいぶな。疲れてる体に酒は効くな」



「ふふ、…だよな。俺もだいぶ酔ってんな」



青木は立ち上がると俺の正面に立ち、少し強引に俺の頬を鷲掴んだ。



「酔ってないならこんな事、しないもんな」



噛み付くようなキスだった。唇を甘噛みされ、ブランデーの味がする唾液が混ざる。何がスイッチなのかと、俺はつい可笑しくなった。なぁ、青木。あんたは俺を見下し、嫌悪し、心底腹を立ててんだよな? 俺にいつも笑い掛けるのは何か魂胆があるんだろ? あんたの底は未だに掴めやしないけど、あんたが俺に笑うわけがねぇと何処かで否定したいんだ。


そうしないと、取り返しのつかない事になってしまうから。



「……青木」



「ん?」



青木は首元に噛みつき、手は器用に俺のシャツのボタンを外している。



「シャワー浴びてねぇぞ」



「…だから?」



「……だからって、あんたな…」



「最近、忙しかったろ。休みもないし、こうして時間を過ごす事もなかった。それにお前、事務所にもあまり顔出さないし…」



青木はそう言うと、俺を跨ぐように腰を下ろす。思いがけない事をしてくるなと、俺は青木の細い腰に手を回しながら気付く。ハッとして青木の顔を見上げた。



「おい、ゴムつけてから挿れ…」



「中、出して良いよ。高校ン時みたいに」



俺がこいつに参っている事、こいつはとっくに気付いてるのだろうな。



「…今日はやけに優しいんだな」



そう青木の顔を見上げると、青木はクスッと笑う。



「…ん、…っ、疲労困憊のお前を組み敷いたら気絶、させそうだから、ね……」



そう苦しそうに熱い息を吐きながら、甘い瞳で俺を見下ろした。



「斉藤さんが羨ましいなって思うんだ…、っ、…お前の側にずっといる事を…許されてンだろ…」



やばいな。本当に酔ってんな。俺も、こいつも。相当酔いが回ってんな。



「阿呆だな、あんた。……そんな事、考えてたのか」



「……ふふ、そう、な」



「ベッド、……行かなくて良いのかよ」



「ベッドに行く余裕がない、…かな。それにベッド行ったら、さ、…お前の上取りにくいから。…はぁ、…やば、すげぇ気持ちいい」



「ん……」



青木の腕が首に回され、青木の熱い息が耳にかかる。青木は満足そうに腰を動かし、体を密着させる。体の熱がみるみるうちに上がっていく。



「嫉妬、してんの」



ぽつりと耳元で呟かれた言葉。



「…俺のがずっと」



驚いて、つい眉間に皺が寄った。



「あんたが嫉妬?」



「…そう、斉藤さんはさ、やたらお前といる、から…。なぁ、俺も力は強いよ。そうは見られないけど……俺を側に置けよ……んっ…斉藤さん、じゃ、なくてさ…」



「あんた、…やっぱり阿呆だな」



肌と肌が重なる、その度に熱を帯びて肌が濡れていく。額に汗が滲み、青木の細い腰に腕を回し、形の良い唇に唇を重ねた。俺を側に置けよ、か。


これは由々しき問題をつきつけられているのだろうと、俺は青木の舌に舌を絡め、ギシギシと椅子を鳴らしながらひたと思った。本当に俺があんたを側に置いたら、あんたは、どうするのだろうか。俺の為に体を張るつもりだろうか。


あんたは俺の為に死ぬのか…。


事が終わる頃には完全に太陽が空に昇っていた。シャワーを軽く浴びて寝室へ戻ると、青木はベッドの上で本を読んでいた。遮光カーテンは閉められ、真っ暗な部屋の中、枕元にある読書灯だけをつけている。



「寝てなかったのか」



「あぁ」



青木は俺を見ると本を閉じた。青木の横に腰を下ろす。青木はシェルフの上から小さな黒い小箱を取り出し、俺にすっと差し出す。



「はい、これ」



「……ん?」



手渡されたそれ。俺が片眉を上げて青木を見ると、「開けてみて」と優しく微笑まれる。そーっと中を開けると、中身は指輪であった。上げた片眉が戻らない。何なんだコレは、と驚いて何も言えない。厚みのあるアンティーク調なシルバーのゴツい指輪で、何か模様が彫られている。しかしゴテゴテとした下品さはない。



「お前さ、アクセサリーってあまり着けないだろ。高校ン時は、たまに着けてたのに。でさ、コレ、似合うと思った」



左の中指につけて丁度いい大きさである。それをつけて青木に見せると、青木は「やっぱお前、指が長いから似合うな」と笑っている。



「他にアクセサリーつけてない分、この指輪が目立つよなぁー。なんか飼い犬な気分だわ」



「首輪にしときゃ良かった」



「青木、ありがとう」



「…ん、どういたしまして。肌身離さずつけといてよ。そんで四六時中、俺の事を思い出して、早く帰らなきゃって焦れ」



「分かった。何があっても外さないし、これ見る度にあんたの事を思い出して、ちょっと盛るんだろうな」



「盛るのは良いけど、相手選べよ」



「あんた以外に盛るかよ。はぁー、しばらく忙しいのによ、参るな」



俺は深い溜息を吐いて、ずるっと枕に沈む。



「…なぁ、赤澤」



「うん?」



「命を危険に晒すような事はすんなよ。ヤクザだからって、命投げ出すのは違うからな。組の若頭だからって、何もかも背負うのは違うからな」



「どうしたよ、急に」



「また、松葉とか言うイカれた野郎の組にシノギ取られたんだろ? 今回はまぁまぁな損失が出た。赤澤の親父さ、…いや、組長さ、野上組長と仲良いだろ。なんか話聞いてると、組長は森鳳会の方に肩入れてるような気がするし、お前、追い込まれてンじゃねぇのかなって。だから、松葉はそれを良いようにのさばって、お前が色々と危ない目に遭うのが予測できるっつーか、不安になるっつーか。たぶん、すげぇ大変な状況にいると思うんだよ。だからさ、俺、松葉シめてこようか?」



「あんた、頭良いのに言う事なす事、ちょっと狂ってんだよなぁ」



「冗談じゃなくて。俺、役に立つと思うよ。斉藤さんより強いし、プラス俺は金の事に詳しいから」



「そうだな。分かってる」



青木は枕にぽふっと顔を埋めると、「あんま無理すんなよ」と呟くように吐いた。俺は上体を起こして青木を見下ろし、そっとその目尻にキスを落とし、眠りについた。


朝方、ヴーとメールを受信したバイブ音が響いた。メールは斉藤からだった。青木はまだぐっすりと眠っていた。



『話があります。14時に事務所に来て頂けますか』



『分かった』



ゴタゴタはしばらくは収まりそうにもないらしい。そうして14時、事務所の自室。



「……というわけです。今回の件には森鳳会は関わっていませんが、柳田組が横槍を入れてきています」



斉藤が眉間に皺を寄せながら俺に報告を入れた。ここ数日、組関係の事でひどくゴタついていたが拍車を掛けるようにまた凶報である。



「柳田組がなんでまた出てくんだよ。面倒くせぇな」



「分かりません。でも柳田組なら事を構える姿勢を見せて追い払った方が良いかと。一年前の件で懲りたと思ったんですけどね…」



「あんなイケイケなイカれ集団と表立って揉めたくないぞ。あんなとこ、マトモに取り合ってたらこっちの損しか生まれない」



「しかし、何もしないわけにもいきません。森鳳会には立て続けにシノギ持っていかれてますし、今回は何としてでも回収しないと…」



「まずは向こうの出方を見ようじゃない」



「手遅れになりませんか」



「ならないよう、しっかり見張っておけ。関わるだけ損なんだ、なるべく関わりたくはない。それと、柳田組が関わってるなら金谷は外せ。あいつの事だ、煽られたらすぐに手が出るだろうから。向こうはきっとそれを狙ってる可能性が高い」



「…でも、そうなると誰を代わりにつけますか」



「青木に任せる」



「青木、ですか」



斉藤は少し、怪訝な顔をした。



「あぁ。不満か?」



「いえ、そういうわけでは…。ただ、カシラは青木をかなり信用しているんだなと」



信用していると言葉に出されるとつい、身構えてしまう。信用という言葉は怖い。あいつは信用できるのか、否か、そう問われれば、あいつの事はまだ信用できない。いや、信用してはいけない。高校時代の俺があいつに何をしたか、それを考えればあいつが俺を裏切るだろうと予測できてしまうから。


でも、信用したいか、否か、であるならば、俺はあいつを信用したいと思ってしまっている。厄介だ。面倒だ。そんな事、分かり切っている。



「青木は冷静に対処できるだろうと思ったから。それだけだ」



「カシラは当初、青木を疑っていましたので、大きな仕事に青木はつけないのかと思ってました」



「高校時代を知ってる分、アレを信用するのには少し抵抗があった。…いや、正直、今でも完全には信用はしてねぇよ。けど、あいつはいつも冷静に状況を判断して、損得で動ける。柳田組みたいな組を対処するなら青木が相応しいと思っただけだ」



「腕は立ちますか? 何かあった時、青木が潰されてはこっちの面目が…」



「大丈夫だろうよ」



「そう、ですか」



斉藤の表情は依然、硬いままである。何か思う事があるような苦い顔だった。どうしたかと口を開こうとした時、斉藤は「分かりました。では、青木に伝えておきます」といつも通りの表情に戻る。何かと外とゴタつき、斉藤も疲れているのだろうか…。



「そういや、うちの若いのが松葉ンとこと喧嘩した件、どうなった?」



斉藤を見上げると、斉藤は「あー…」と間抜けな声を出した後、目を細めた。



「バーで殴り合いになった件ですね。特に金銭の要求はありませんので、俺の方でどうにかします」



「あの松葉が金は要らないと?」



あの松葉が? ちょっと不思議に思い、俺は首を傾げる。



「はい。それに悪いのは向こうの組員ですから。こっちのシマに何も言わず入ってきて、バーで女の子にちょっかい出したのは向こうです。挙句、暴れて看板は壊れ、グラスはダメになり、椅子も何脚かぶっ壊れ、大惨事でした」



「それは大変だったな。だったら向こうが謝りに来て然るべきなんじゃねぇのか」



「それが、ですね…、怪我を負わせてしまったんですよ。仮にも松葉さんとこの組は、野上組長と兄弟でしょう? なのに怪我させたんですよ。それで向こうは怒って、てんやわんやです」



「ふーん。怪我ってどれくらいよ」



「ひとりは右腕を折られたみたいで、もうひとりは鎖骨にヒビが入ってるみたいです」



「それで治療費は請求してこないのか? やっぱり悪いとは思ってんだな、向こうも」



「いや、…それがそうではなくて、ですね」



「なんだよ、何か要求されてんのか?」



「いえ、あの…」



「斉藤。事が大きくなる前に、収める必要あんだろ?」



脅すように敢えて低い声を出すと、斉藤は気まずそうに苦笑いを浮かべた。



「はい、まぁ…」



「斉藤」



「はい」



「言え」



「……金は要らないからカシラを出せと」



「松葉が?」



「たぶん。松葉さんから直接言われたわけではありませんが、向こうの若いのが、若頭出せって騒いでると報告がありました」



「ほーう。松葉からは連絡こねぇな」



いつもなら俺に直接連絡が入るはずだが…、と眉間に皺を寄せていると、斉藤がギョッとしたように目を見開いた。



「カシラ、プライベートで松葉さんと連絡を取り合ってるんですか」



「あ? 気持ち悪い事言うなよ。こういういざこざ起きた時、あいつから連絡が来るんだよ。呼び出されるけど、話し合って終わりだ。でも、…最近、いざこざが起きても連絡は来ねぇな。お前、なんかした?」



「いえ、してません」



「だよな」



頬杖ついて斉藤を見上げる。斉藤は眉間に少し皺を寄せると、「ひとまず、この件はこちらでどうにかしますんで」と念には念を押すように俺に伝える。


どうにかする、って言ったってねぇ…。

相手は松葉だろうに。



「俺が出ないと埒が開かないんじゃないのか」



「こんな小さな事件にカシラを巻き込むわけにはいきません。ただでさえ他で手一杯なんですから。カシラは少し休んで下さい」



「それはお前にも言える事だろうが」



「と、とにかくこの一件は俺に任せて下さい」



「…分かったよ」



と承諾したものの、最近のゴタつきは異様だった。外とのいざこざが増えたのもそうだが、組内でも静かに動きがあるようで、その正体は掴めずにいた。


何がどう動いているかはハッキリしない。


ただ、空気が異様なのだ。


深夜、家に帰ると青木はまだいなかった。静かな室内は真っ暗で、青木より先に帰って来るのは久し振りだなと思いながら靴を脱ぎ、リビングのソファに腰を下ろす。


飯を作って食う体力はない。気力もない。かといってコンビニまで行くのはもっと億劫だし、宅配もなんだか面倒である。


腹はそこまで減ってないが、何か食うべきかなと考えながらズルズルとソファに横になる。


何もしたくねぇなと思っていると、携帯のバイブがポケットの中で振動した。俺は携帯の画面を覗いて目を擦った。そこには永井という名前が表示されている。


また面倒事じゃないだろうな。



「…はい、もしもし」



「おう、兄弟」



「よう。どうした?」



「なぁ、今何してる?」



「何って、もう家だよ。寝ようかと思ってた」



「おいおい、ヤクザが飲み歩かないってどうなってんだよ。ちょっと付き合えよ」



「あ? ヤだよ。こっちは疲れてンの。お前だって知ってんだろ」



「いいから、付き合えよ。ちょっと話があんだ」



「だからイヤだって言って…」



「そっちの組についての話があんだよ。いいから、下、降りて来い。迎えに行く」



「……は?」



「じゃぁな。10分後にエントランスにいろよ」



「お、おい」



プツンと切られた電話に俺は愕然とし、しばらく携帯を眺めていた。永井から話があると呼び出される時は大抵面倒事で、俺は正直行きたくはない。


だが俺の組について、と言っていた。


一体、何だろうかと、俺はジャケットを羽織って部屋を出た。永井の車はすぐにエントランスに現れ、運転席にいた芳原がそそくさと運転席を出て、俺に一礼をすると後部座席のドアを開けた。



「おう」 



そう永井が手をヒラヒラと振っている。芳原は俺を乗せると早々、車を発進させてその場を離れた。



「なんだよ話って」



「いやぁーちょっとよ」



永井は呼び出したくせに勿体ぶる。



「さっさと要件を言ってくれ」



そう俺が急かすと、永井は「じゃぁ…」と俺の方を向いた。



「単刀直入に言うけどよ、俺を葉山組に戻してくれないか」



「…どうしたよ、急に」



仲違いでもしたか? この永井の短気さに蘭戸の叔父貴が痺れを切らした? いや、だとしたら叔父貴が親父に直接相談するだろうから違うか。


そう眉間に皺を寄せてる俺に、目の前の永井は溜息をひとつ。



「面倒な事になりそうなのよ」



「また面倒事かよ…」



「いや、そうじゃねぇの。今回は俺が、じゃねぇよ」



「……説明しろ」



「お前さ、本家の跡目の話聞いてるか?」



跡目の話…?

何の事だと俺の眉間の皺は更に深くなった。



「……知らないが、本家の跡目とお前がこっちに戻るのと、どう関係があるんだ」



「その様子だと、お前は何も知らないか。…船木組長、病気だって知ってたか?」



「いや、聞いてないが…。やっぱり、そんなに悪い状態なのか?」



「だいぶ、悪いらしい」



今年に入って数回、船木組長の姿を見たがかなり痩せていた。親父も心配して声を掛けていたが、船木組長は病院が嫌いで滅多な事がないと行かない人だった。


でも、そうか。

歳も歳だし、病気か……。



「で、ここからが本題よ。船木組長が病気になって、今、改めて話題に上がってんのが跡目問題だ」



「跡目なんて決まってるだろ」



今更、跡目がどうこう、問題になるはずはないだろうと思った。次期組長は既に決まっていたようなものだから。


しかし、この永井は「それがよ…」と頭を掻いて否定する。



「船木組長が今になって、次の跡目を誰にするか濁してるらしいんだよ」



「いやいや、そんなの相馬の叔父貴しかねぇだろ? 他に誰がいるんだよ」



「そう思うよな。相馬組長一択なはずだろ? なのに動きがおかしい。だから今、組長達がざわついてンの」



「あの人以外の可能性が浮上したって事か…?」



「そう。うちの組長が本家と電話してるの聞こえちまってよ」



「叔父貴と、本家が…」



そうなると、かなり信憑性が高い。



「どうやら船木組長、おやっさんを跡目候補に入れるらしいぞ。つまり本家の若頭ポスト」



「え?」



正直、驚いた。親父は確かに昇進を希望していたかもしれない。本家若頭のポストは欲しかったろう。


しかし、昔から相馬の叔父貴とは仲が悪かった。その相馬組長がある事をキッカケに若頭の座に長年就き、親父は肩を並べる事もできなかった。


そんな印象だった。


だから親父が昇格する事はないと思っていた。



「お前でも聞いてない、となるとまだ内密も内密なのかね」



「俺は何も知らないが、その話、裏は取れてんのかよ」



「そんなもん取れてはねぇけどよ、でも、本当の話だよ。俺もさ、情報欲しくて必死なの。お前ならなんか知ってるかと思ったんだけど、そうか、知らないか」



「本当に何も聞いてない」



「その反応、本当っぽいよなぁー」



「嘘つく意味ねぇだろ。でも、親父が本家若頭なんて、今更って感じはするが…。何がどうなってんだよ」



「混乱するよな」



「あぁ…。訳がわからねぇ」



「今ンなって浮上する跡目候補。本家の若頭候補に赤澤組長、それから野上組長も噂されてる。そして昔っから船木組長の側近で現若頭、相馬組長。この3人が次期跡目として台頭する。なーんか嫌な予感するよな」



「物騒な匂い、すんな…」



俺が大きな溜息をつくと永井はふっと笑い、「なぁ、お前どう思うよ?」と首を傾げた。



「全員直系、しかも赤澤組長にいたっては船木組長のお気に入りだ。船木組長が相馬組長を跡目だと断言しない今、次期跡目、赤澤組長がなるって流れはあり得ると思うんだよ」



あり得ると言われて肯定する材料も、否定する材料も持っていない。だから俺は分からない、と眉間に皺を寄せるだけだった。



「まだ野上組長のが若いし、金の事にも詳しいし、これからの船木組系全てを仕切るには適任な気はするが、…でも確かに船木組長が親父の事をかなり可愛がってんのは昔から知ってる、から…」 



「よな。船木組長はおやっさんを跡目にする可能性が大なのよ。まったく、俺達の知らないとこで、ちょっと上がゴタつきだしてンの。嫌な予感するなーと思ってよ」



「もしその話が全部本当だとしたら、相馬組長、黙ってるわけねぇよな。そうなると、相当厄介じゃねぇか」



「厄介よ。だから俺を戻してくれって言ってンの。うちの組長はさ、おやっさんにもちろん恩義感じてるし、おやっさんを裏切るような事はないと思うけどよ、あの人、相馬組長とも仲良いだろ? だから万が一の事を考えると、俺は葉山組にいなきゃならねぇなって思ってさ。俺は何があっても、おやっさんを裏切るわけにはいかねぇから」



「……分かった。親父には言ってみるが、お前からこの話を聞いたってのは伏せるぞ。公式な話じゃねぇからな」



「ま、そりゃそうか。けど、その話を伏せるなら俺が戻るの難しいやな」



永井が唇を尖らせ、流れる外の景色へと視線を移す。



「何か理由を考えてみるが、正直、難しいだろうな…。蘭戸の叔父貴だって、お前をすぐに手放すとは思えねぇしよ。ま、俺の方でも跡目の話は探りを入れて裏取ってみるが、それまではお前も変に動くなよ」



「あぁ、分かったよ」



そう永井は少しだけ口角を上げて俺を見た。少しの沈黙の後、永井は「で、話はもうひとつあってよ」と眉を顰め、不安そうな表情を見せる。



「最近、そっちの組で問題が頻発してるらしいじゃない」



「…まぁ、ちょっとな」



こいつが不安がるのは珍しい。

永井が不安を見せるくらいだ、俺が置かれている今の状況は、俺が思っている以上に厄介なのかもしれない。そう俺が眉間に皺を寄せていると、永井は「その原因、野上組長だと踏んでんだけど」と、突拍子もない事を言った。



「あ? なんでよ」



「最初、お前ンとこがゴタついてるって聞いて、相馬組長が仕掛けてんじゃねぇかと思ったのよ。相馬組長と赤澤組長って昔からバチバチする事あるからよ。でも、よーく見たら、そっちと揉めてるの森鳳会の人間だって言うだろ。それって、繋がりあんの野上組長だろ。で、野上組長って、わりと手段選ばないとこあるから」



「いや、でも…どうなんだろ」



「どうなんだろって、相当黒いだろ。野上組長と森会長は兄弟盃交わしてる仲だろ。野上組長も跡目に浮上した今、おやっさんを蹴落としたいから、って考えれば納得いかねぇか? だからその面倒事は全部お前に降り掛かってる、そういう事なんじゃねぇのか」



ただ、そうなるとおかしな事がいくつかあった。



「でも、よ。親父は森鳳会の肩を持つ事が多い。まぁ、森鳳会というか野上組を立てているだけ、なような気もするが。…親父と野上組長、昔からの仲だし、そこで敵対するような関係になる、ってのはどうしたって思えられない」



「おやっさんと野上組長が仲良いのは知ってっけど、跡目となりゃ亀裂が入ってもおかしくはないだろ?」



「おかしくはねぇけど、…でも親父は野上組長の肩を持つし、俺が参ってても、野上組長ンとこと事を構えたくねぇってツラして、穏便に済ませようとする。だから森鳳会がやたら積極的で厄介なんだ」



「ほーう。おやっさんは野上組長の肩を持つのか。そうなりゃ若頭候補でいざこざ起きてるってのは読みが外れた…? いや、外れてはねぇと思うけどなぁ」



「分からない。…ちょっと読めねぇな」 

 


俺が大きな溜息をひとつつくと、永井は難しい顔をして俺の顔を覗き込むように見た。



「…お前、かなり参ってんだろ?」



「どうだろ。でも、まぁ、…正直、しんどいな」



口を歪める俺に、永井は少し黙り込んだ。それからタバコに火を点けて、「うーん」と何かを考えながら唸っている。



「そもそもよ、なんで最近、こうもゴタつきやすくなってんだよ」



「さぁな。俺が知りてぇよ。小さい事まで入れるとキリがねぇ。若いのが絡まれただの、怪我させただの。けど大きい事は大金が絡んでくる。その金欲しさに他の組といがみ合う。話で解決出来ない事が多くなったのは確かだな」



「俺ァよ、最近様子が変だと思うんだ。何かってのは分からねぇけどよ」



「抱えてる事案が大きいから動く金もデカい、伴って揉め事も多くなる、それだけだろ」



「本当にそう思ってんのか?」



「…はぁ、様子が変なのは俺も気付いてるが、それが何かってのが分からないンだから対処のしようもねぇだろ。今は目の前の事を片付けるしかない」



「へぇ。お前がそこまで追われてンの、初めて見る」



「そうかい。じゃぁ目に焼き付けとけ。これが片付いたら二度とこんなゴタつきにさせねぇからよ」



そう断言すると、永井はまた少し考えた後で、ぽつりと呟くように吐いた。



「なぁ、兄弟。お前さ、思ってるよりも、うんと面倒な事に巻き込まれてるのもしれねぇよ」



俺の何度目かの溜息に永井は頭を掻きながら、「身内も信用できねぇかもしれねぇな」と付け加える。



「……身内?」



「だってちょっと変だろ。毎回毎回、お前ンとこのシノギに邪魔が入るなんてよ」



「まぁ、…でもそれは森鳳会が絡んでるからで」



そう、今の今まで思ってた。大金が絡む事案は必ず森鳳会が出てくる。それは俺達の下調べが不十分なだけだと。



「確かによ、森鳳会ってのは表に出ない分、裏で静かに動く事が多い。でも毎回毎回、あいつらが唾つけてる所にお前が足を突っ込んでんのか? 違うだろ。お前が今何を狙ってるのか、それを知る人間が情報を流してる、そう思えてならねぇのよ。つまり、お前の組が狙われてんじゃねぇかと」



あり得る話だった。けれどそれは身内を疑うという事に繋がり、俺はそれが何よりも嫌だった。



「俺の情報を知るやつはそういないぞ」



「ひとりいるだろ」



そう、こいつが何を言いたいのか、嫌というほど分かってしまう。



「……やめろ。斉藤は俺を裏切らねぇよ」



「お前のためならなーんだってするような男だもんな? けどよ、斉藤ならお前の事は全て知ってる。今抱えてる情報も全て、だ」



「良い加減にしろ。もう、話はやめだ、やめ。俺は帰る。疲れてんの、分かってンだろ」



だが、ゴタつく全ての案件が俺の案件で、斉藤は全ての件に絡んでいる唯一の男だった。斉藤を疑う、それが何を意味するか。俺は十分すぎるほど分かってる。あいつが俺を裏切った時、俺は何もかもを失うだろうって事も。


若頭なんて大層な肩書きがあるのも、それを維持できているのも斉藤がいるからだ。長年の俺の右腕。だからこそ疑った事がない。信頼し、全てを託していた。


しかし永井は、「辛いかもしれねぇが、少し、冷静に考えた方が良いぜ、兄弟」そう低い声で俺を諭した。永井の顔は辛そうである。永井と斉藤も付き合いは長く、永井がそう俺に面と向かって伝えたという事はよっぽどなのだろう。



「芳原、家に戻ってくれ」



今はもう、家に帰って休みたい。



「は、はい…」



「兄弟、俺は忠告したからな」



「………」



斉藤が俺を裏切れば、全て終いだ。俺はそう苦虫を噛み潰した。家に着き、鍵を開けようとしてふと気付く。あぁ、帰ってたのか、と。ドアを開けて中に入ると、当たり前のように男がひとりキッチンに立っていた。



「帰ってたのか」



「てっきりお前のが早いと思ったけど。飲み歩いてた?」



「いんや、ちょっとね」



「ふーん」



こいつは、どうなんだろう。

俺を裏切るだろうか…。



「で、今日は何作ってんの」



「辛いカレーうどん」



「美味そう」



「美味いよ。味は保証する。ただ結構辛いよ。なんか無性に辛いもの食べたくなってさ」



「今、深夜2時よ」



「何、ダイエット? なら起きてから食えよ」



「いや、今食う」



「ふふ、食うンじゃん」



「なんだよ」



「なんでもない」



青木は片眉を上げて可笑しそうに笑うと、ぐつぐつと鍋を煮込んでいる。その青木の背中を見ながら、何故かゆるりと頬が緩んでいる事に気が付いた。


青木を信用しすぎるのは危険だと自分自身に警鐘を鳴らしているはずなのに。馬鹿だよな。こいつに裏切られる事が怖いと、既に感じてしまっていた。情報を漏らしてる奴がいるとするなら、こいつの可能性だってあるのに。過去に俺は何をしてきた? この男を信用したいのなら、過去を清算する必要があるだろ。その清算すら出来ていないのに、信用したいなんて、傲慢にもほどがある。


こいつを側に置く事が、自分を苦しめる事になると分かっていたのに。側に置けば置くほど、苦しくなると分かっていたのに。



「見てないで手伝えよ、若様」



「若様ってあのなぁ…」



身内も信用できない、そんな状況に置かれ、俺は青木を信用して側に置こうとしている。愚かな選択だと分かっているのに、どうにも足掻けないようだった。俺は青木の横に立つ。青木はただ側にいて、こうして飯を作ってる。



「器、出して。あと、白胡麻出しといて」



「ん」



すっかり一緒にいる事が当たり前のようになってるが、当たり前ではない。こいつの存在とは何なのか。誰かを側に置く事が不慣れな自分にとってあまりにも青木の存在は特殊で、青木は過去に何もなかったかのように笑いかけてくる。


けどその微笑みは何を意味しているのか。今はまだ、考えたくない。今は、まだ……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る