9. 偽言

「……待って下さい」



朝八時。西公園。ジョギングする人がちらほら。花壇の前に老婆がひとり。朝っぱらから体操をするご婦人集団が遠くに一組。ベンチにスーツを着た若い男が分厚い文庫本を片手に座っていた。男の事は知っていた。俺は"報告書"がまとめてあるメモリーカードを男の前にわざと落とてその場を立ち去ろうとした、その時だった。スーツを着た男があろう事か俺に声を掛けてきたのだ。話しかけるのは違反だろう事は、こいつも知ってるはずだった。足を止めるべきじゃなかった。聞かなかったふりをして進むべきだった。


なのに俺はぴたりと足を止めてしまったのだ。



「ベンチに忘れ物してますよ」



男の顔を見て、それから俺がさきまで座っていたベンチを見る。もちろん、そこには何もない。眉間に皺を寄せていた俺に男はすっと立ち上がると「鍵、落ちましたよ。気を付けて下さい」そう、まるでマジシャンのように袖から鍵を取り出して俺に手渡した。手渡す瞬間、鍵だけではなく、紙切れも一枚、俺に握らせる。



「それでは」



男は去り際、落ちていたメモリーカードを拾って俺の横を通り過ぎる。同じ組織の人間が、潜入中の俺に直接接触してくるなんて相当マズいんじゃないの? これバレたら俺もヤバイんじゃないの? そう思いながらも渡された鍵と紙切れをポケットに突っ込み、ジョギングしながら帰路につく。家の中は相変わらず静かだった。シャワーの湯を出しながら、脱衣所で鍵と紙切れを確認する。紙切れには明後日の日付と時間、アパート名とその住所が書いてあった。町外れの治安の悪い場所だった。鍵はたぶん、その部屋の鍵。


あいつ、何を考えてこんな事を…。男はかなり若いが、この組織内では古株のようで歴は長い。裏切る様なことはないだろうが、だとしたら尚更、なぜ…。


ひとまず再びポケットに突っ込み、シャワーを浴びて外へ出た。寝室のドアは閉じてある。物音は一切しない。半裸のままドアを開けて中へ入ると、遮光カーテンで真っ暗な部屋の中にデカイ体を横たえる男がひとりいた。赤澤は欠伸をひとつした。



「…おはよ。起きてたの?」



「いや、たまたま目が覚めただけだ。あんま眠れなくてね」



「ちゃんと寝とけよ。今夜、取引行くんだろ?」



「まぁ、難しい事にはならねぇと思うけど、相手がどーも苦手でさ」



赤澤の目の下にはクマが出来ている。どうやらかなり疲れているようだ。



「へぇ。お前が緊張するような相手なんだ」



「…あんたは知らないか。昔、敵対してた組織の若頭よ。今じゃ上と盃交わしちまって、厄介な事になってんの」



ぜーんぶ知ってた。相手が松葉といういけ好かない男だという事も。その男の素性も、目の前で寝れないと緊張してる男が知らない事も、何もかも、俺は調べ上げていた。森鳳会。だってそれが俺の狙いなのだから。



「若頭? じゃぁカシラ同士で受け渡しすんだ。大変そうだね」



「他人事じゃねぇぞ。あんたも行くんだからな」



「そうだった。頑張らないと」



「別にあんたが頑張る事は何もねぇけどよ」



赤澤は頭を掻きながら俺を見上げる。俺はその瞳を見下ろしたまま、赤澤が横たわるベッドに腰を下ろした。



「斉藤さんが命に代えてもお前を守れって言ってたから、俺もちゃーんと頑張らないとさ。その若頭っての、お前とバチバチなんじゃねぇの?」



「あいつは俺の命取るほどバカじゃねぇよ」



俺は赤澤がその松葉というイカれた若頭に、自分を刺すよう料亭で言った事を盗聴していたから知っていた。敢えて相手に弱味を見せた、と捉えて良いのかもしれない、目の前の大きな仕事を手打ちにする為の手段だったのかもしれない、だが、その手段を取ったことに俺は正直驚いた。元、とはいえ松葉は敵対組織の若頭だった男だ。本当に刺されるかもしれないと言うのに、何を頼んでんだと、その危うさに俺は心底苛立った。


もし刺されたらどうするつもりだったのだろう。それが原因で命を落としていたら…? 俺はお前が勝手に死ぬ事を許さない。ここまでようやく来たと言うのに、むざむざと殺されるなんて許せない。



「あ、そう。とはいえ油断大敵。俺はちゃーんとお前を守ってやるから安心しな?」



俺はそう愛想良く微笑んでやる。



「あんたが俺を守ってくれるなんて最初から思ってねぇよ。自分の身は自分で守るから安心しろ」



けど赤澤はそう言い切ると、その真っ黒な瞳で俺を見る。



「素直に守られとけよ。カシラなんだから」



「あんた、俺が殺されたら喜ぶだろ?」



赤澤はそう言うと、ふっと揶揄うように笑った。こいつ、俺の狙いが分かっているのだろうか。まさか。いや、どうだろう。俺は内心、自分の感情を知られたかとひやりとした。この男は、そんな事などお構い無しのようにへらへらと緊張感なしに笑っている。その顔を見ながら、俺はひくっと何かに引っ掛かった。



「喜ばねぇよ」



気付けばそう言葉が漏れて出た。



「んー? そうか? あんたなら泣いて喜ぶかと思ったけどよ」



赤澤は言って頬を緩めている。



「赤澤…」



俺はただ、お前を地獄に突き落としたいだけ。息の根を止めたいだけ。だからその感情は悟られたくはない。



「ん?」



感情を隠してお前に近付き、じりじりとその首に噛み付く機会を待っている。



「お前が勝手に死ぬのは許さないよ」



俺の言葉に赤澤は一瞬驚いて目を大きく見開くと、「……そうかい」とぽつりと呟いた。赤澤の顔を見下ろし、そっとその髪に触れる。変なやつと思われただろうか。それでも良い。俺はお前を心配してる。お前が死ぬ事は受け入れられない。そう赤澤に印象付ける必要があるのだから。



「お前が俺の前で殺されてみろ。お前の父親と斉藤さんに俺が殺される」



「斉藤は本当にあんたを殺しそうだな」



でも赤澤はケラケラと楽しそうに笑うのだ。



「冗談抜きで俺は命に代えてでもお前を守ってやるから。お前の座を奪うまでは、きっちりと」



そう言ってやると赤澤はあからさまに視線を外して、「あんたの命なんて欲しかねぇよ」と優しく呟いた。何だよそれ。どういうつもりで呟いたんだよ。その言葉を何度も頭の中で繰り返す。昔いじめていたヤツと再会して、そいつが殺されるような事があったら目覚めが悪いから? だからそんな事、言っちまったんだろ?


なぁ、そうだろ?



「もういいから寝ろ」



「そう、だね。おやすみ」



午後一時少し手前。自然と目を覚まし、時計を確認する。赤澤はまだ眠っていたが、俺は身支度を済ませて家を出た。金の回収に回り、仕事をひとつひとつと終わらせる。ヤクザとは名ばかりで暴力的な事は何ひとつ起こらず、事務所に戻ると暇そうに若いやつらが麻雀をしていた。



「…あ! 青木さーん! 青木さん、麻雀できるっすよね?」



ハタチになったばかりの誉という派手なチンピラが花牌を掲げている。麻雀なんてやった事ありません、と顔に書いてあって面白い。じゃぁなんで参加してんだよ。



「できますがしません」



「えーなんでっスか! 一緒にやりましょうよー」



その言葉を無視するように俺はそそくさと事務所の奥へと入った。誉は口を尖らせてぶつぶつと文句を言い、他のやつらとまた麻雀を開始する。俺はそいつらを横目に窓際のソファに腰を下ろして夜を待つ事にした。


今夜、赤澤が取引する相手、松葉という男は赤澤に変な執着心を持っている。それはただの敵視ではないような気がしていた。赤澤の周りをウロつく煩いハエは、何度か赤澤と殴り合い、その度に両者病院送りだったようだ。初めて会った時に酒瓶で赤澤に殴りかかった松葉という男は、なぜそこまで赤澤に執着しているのかは分からない。理由は分からないが、赤澤の足を引っ張るには持ってこいの存在だろう。


さてさて問題は、松葉をこちらにつけられるか否か。味方にできれば色々と楽になるんだけど、と俺は頭を傾けて携帯を眺めていた。


森鳳会について探る為には松葉が近道だよなぁ。もっと下っ端から近付こうと思ったが、案外、松葉ですんなり事は進むかもしれない。


松葉という男についてまとめたファイルを読み返し、この男が赤澤に対して何をしたいのだろうかと考える。組織を使って赤澤を落としたい、ように見えて、そうではない。だから読めない。赤澤を良い喧嘩相手とでも思ってるようだった。


けど、そんな青臭い事あるだろうか? 森鳳会の若頭になるような男がヤンキー漫画のような事、考えるか? たぶん、いや、きっと、赤澤の邪魔をするのには理由があるのだろう。アレが赤澤の前に現れる時、毎回大きな金が絡んでいるのだから、やはり金か。


松葉をどう上手く使えるか。それが重要で、金で動くなら松葉をコントロールする事は容易いかもしれない。ただ、金が理由ではないのなら厄介だった。多少手荒な真似をしてでも、松葉をこちらにつけなければならない。森鳳会を使って赤澤を追い込む、その筋書きが上手くいけば、赤澤はとてつもなく苦しむだろうから、俺の中で松葉という男はかなり重要な人物になっていた。



「お疲れ様です!」



そう考えていると、煩いほどの挨拶に俺は顔を上げた。急に事務所内が騒がしくなる。



「おう、早速麻雀やってんのか」



赤澤の登場に事務所内はわっと賑やかになった。この男は組内でえらく慕われ、人気である。あんな男がどうしてかな。自分勝手で傲慢で人を殴り、蹴るような男なのに。それがあの男の本性なのに。部下のために動くような人間じゃねぇだろ。誰かのために命を張るような男じゃねぇだろ。傲慢で私利私欲の為に動くような男で、その事をここの誰も知らない。



「マジであのボロいバー、宝の山っすよ!あのハゲ店長の借金の形に押さえましたけど、色んなお宝残して行ったんすよ! 蓄音機とか、レコードとか! あと何かよく分からない楽器とかもあるんすよ! 全部売ったら金になると思うんすよ!」



ならねぇよと、俺は聞きながら心の中で吐き捨てる。



「なるといいなァ。頑張って売り捌けよ」



でも赤澤は「金にならない」とは言わない。ただ優しく笑って、頑張れと背中を押している。



「はい! あ、でも一番の収穫はほぼ新品の雀卓っス! 兄貴達も喜んでくれました!」



「ほーう。でもお前、麻雀出来るのか」



「俺はできないっす!」



「そうか」



赤澤はふふっと笑う。入口にいた誉達と楽しそうに話し、俺は赤澤から携帯の画面へと視線を戻して読んでいたファイルを消してどうでも良いニュースサイトへと変えた。


しばらくすると赤澤は斉藤を部屋へ来るよう呼びつけ自室へと入った。自室手前に置いてある窓際のソファに座っていた俺と一瞬目が合うと、赤澤は表情を少しだけ緩めた。


赤澤が微笑むのは心を開いている証拠。馬鹿だな、お前。俺が何を考えてるのかも知らないで。



「青木さーん、やっぱり麻雀教えて下さい」



気がつくと目の前に誉が立っていた。派手な金髪、黒と金のダサいジャージ、金のネックレス、右耳にだけ着けている金のフープピアス。いつの時代のゴテゴテチンピラだよと、俺はそいつの派手な身なりを見ながら思った。



「他の人に聞いて下さい」



「どうしてっスか! 俺、青木さんに教えてほしいンすよぉー。もう十敗もしてるんすよぉー」



「ルールを知らないなら負けるのが当然じゃないですか」



「いや、そーすけど、あいつら驚かせたいじゃないすか。ずーっと馬鹿にしてくるし!」



「悪いけど忙しいんです」



「えー。今度、暇な時教えて下さい」



「はぁ…」



誉は俺が無視をしても携帯を見ていても、気にせず図太く俺の横に居座っている。変に俺に懐くようになり、こちらとしては動きにくく、厄介な存在だった。



「あ、そうだ。俺、スミ入れようと思ってるんすけどぉー」



忙しい、と言ったはずだが。それに誰がお前の刺青なんか興味あるか。俺は無視を決め込み、ニュースサイトを流し読みする。



「何が良いんスかねー。今いくつか候補あるんスけどぉー」



一方的な会話だという事にこのガキは気付いてないのだろうか。誉は指を折りながら、聞いてもいないのにベラベラと語り出した。



「龍って定番だし、縁起も良いし、何よりカッコいいじゃないスかー。青龍、昇龍、応龍、黒龍…種類ありすぎて良く分かンないんすけどー、でも龍を選ぶ人多いから、やっぱ被るの嫌だなぁーと思うンすよ。龍じゃないなら何が良いかなーって考えたら、騎龍観音とかも良くないっスか? 綺麗な顔した観音様を背負いてぇーなって思うンすよー。あ、それに……」



ベラベラベラベラ。俺は聞いていないと分かっているのだろうか。でかい独り言にこっちは飽き飽きしてんだと、嫌気をさしていた時だった。



「…あ、でもやっぱー、麒麟とかどうなんスかねー。あんま背負ってる人いなくないっスか? けど麒麟って平和の象徴とか言うし、この世界にいるンじゃちぐはぐになっちゃうンすかねー」



麒麟…。俺は携帯からつい視線を外して誉を見た。



「麒麟はやめといたらどうですか。カシラと被ります」



「え? カシラ?」



誉はきょとんと不思議な顔をし、俺は何かマズい事を言ったろうかとその顔を見る。もしかして、あいつに刺青が入ってる事を知らないのか…? そんな事あるか?



「カシラのスミ、知ってるんすか!」



「え、まぁ…」



やばい、面倒になった。



「カシラ、見せてくれないんすよ!」



誉は目を大きくさせてぎゃーぎゃーと騒ぎ出す。



「そもそも入ってる事自体、斉藤の兄貴に教えてもらうまで知らなかったンすよ! 兄貴は見た事あるって酒の席で言ってて、立派だって言ってたンすけど、何入ってるか聞きそびれちゃったんすよね。でもそっか、麒麟なんすね! 覚えておきます!」



斉藤、あの補佐役だけは赤澤の刺青を知ってんだ。へぇ。そうなんだ。



「ってか、青木さんは実際に見た事あるんすか?」



どきりとした。



「ありますけど…」



あいつの背中を見る時は…。そう考えて、あまりにも自分の思考がバカバカしくて嫌気がさす。本当、呆れるほど愚かな理由で動揺してる。



「羨ましい! 良いなぁ、カッコよかったっスか?」



「…チラッと見えただけです」



背中の刺青がチラッと見える瞬間なんてあるかよ。変な嘘ついちまったなと、俺は溜息を吐きそうになって飲み込んだ。けど誉はそんな嘘や違和感には何も気付いてない。



「チラッとでも羨ましいっす! 相当良いのが入ってるって聞いたから見てみてぇー」



悔しがっているだけだった。



「青木さん、ここに来てまだ全然経ってないのに、斉藤の兄貴に続いて二番目っすよ! これ、すげぇ事です!」



その言葉になぜかモヤッとした。正体の分からない軽い苛立ちだった。なぜそんな言葉に苛立つのかと考えてしまう自分に更に苛立って悪循環である。



「そうですか」



「もっと喜んで良いんすよ! マジでズルすぎるんすけど」



赤澤はなぜ、斉藤には麒麟を見せたのだろう。あの紫色の麒麟を見せる時って、どんな時だろう。



「もういいでしょう。悪いけど、ちょっと調べ物しなきゃならないんです」



どうして、そこまで気になるのかな。気にしたって答えは分からないだろうに。



「忙しいすねー。じゃぁ、最後にひとつ」



「なんですか」



「どうスか! これ!」



どうスか、と言われ見せられたのは右耳の金のフープピアスだった。



「……それが、どうしたんですか」



「お揃いっスよ!」



へらへらと笑う顔に、俺は訳が分からなくなる。何が揃いなんだ。何でそんなに嬉しそうなんだ。



「……は?」



「青木さん、右耳にだけピアス開いてますよね? 青木さんってー、いつも無表情で怖いけど、誰にも媚びねぇし、かっけーんスよ! その青木さんが右耳にだけピアスしてるから、なんか、すげぇーかっけーってなってマネしたくなるんスよね!」



誉は目をキラキラさせて俺にそれを自慢事のように話すが、全く、どうしてそうなった。好かれるのは面倒の他ない。まだ態度が悪いだのヒソヒソ陰口を叩かれている方が断然良い。嫌われる方がよっぽど楽だ。



「そう、ですか」



「反応うっすー! 薄すぎるっすよ! なんで右耳にしか開いてないんすか? 風水とか? 運気とか、そういう事っすか? それともオシャレっすか?」



よく喋るなと、俺はまた眉間に皺を寄せて携帯に視線を落とす。風水でも運気でもオシャレでもない。理由を言ったら赤澤を慕ってるこいつはどう思うんだろ。



「関係ないでしょう」



でも俺はその理由を言わなかった。誉が何か言おうと口を開いた瞬間、「青木」と俺にピアスを無理矢理に開けた張本人の声がした。声のする方を見ると部屋から斉藤が出て来て、赤澤がその後ろから声を掛けてきたようだった。


斉藤と目が合う。すぐに視線は外れ、斉藤はデスクに戻った。あいつは紫の麒麟を見た。赤澤の背中に映えるあの麒麟を。



「呼び出しっスね! いってらっしゃい」



誉に手を振られながら俺はソファを離れ、部屋へと入った。



「何?」



入ってそう訊ねると赤澤は椅子に座りながら、「時間が早まった」と面倒臭そうに溜息混じりに答える。



「受け渡しの時間?」



「あぁ。松葉がどうしても夜に外せない用事が出来たらしい。あと一時間後にはここを出たいんだが、あんた、大丈夫か?」



「俺はいつでも」



「そうか。それなら良いんだ。それで悪いんだが、そこのコンビニでビニール紐とガムテープ、一応買っておいてくれ。結束バンドは部屋のどこかにあったろうから、それも念の為に頼む」



「分かった」



赤澤は少し疲れてるらしかった。あの後、ぐっすり寝ているように見えたが寝ていないのだろうか。



「要件はそれだけ?」



「ん、あぁ」



赤澤は分かりやすい。それは俺にだけ、なのかもしれないが表情に良く出る。何かを言いたかったのだろう、唇が微かに動いて閉じた。



「買ってきたらこの部屋に戻る。お前、部屋にいるだろ?」



「いるけど、別に斉藤に渡しといてくれれば…」



「斉藤さんは受け渡しに行かないんだろ?」



「そう、だが…」



「ココに戻るからいろよ。それじゃ」



俺はコンビニへ向かう。頼まれたビニール紐とガムテープ。それからお疲れな様子の赤澤に疲労回復用のドリンクと水。鎮痛剤は鞄にあったはず。俺はお前を気にかけてる。そう、行動で示す。そうすればあいつは、俺に対する信用を揺るぎないものにする。俺から離れられないほど俺に依存させ、仕事面でも斉藤の話すら耳を傾けないように出来れば後は簡単。あいつが落ちるのも時間の問題。


しかし今はまだ、そこまでの信用は得ていないだろう。赤澤が斉藤という補佐役を心底信頼し、側に置いている事は目に見えて伝わるから、そこをどう切り崩すか、それが課題だ。コンコンと赤澤の部屋のドアを叩く。



「開いてるぞ」



赤澤の返事を聞いて部屋に入り、赤澤のいるデスクにコンビニ袋を置いた。



「疲れてんだろ」



「…え?」



「栄養ドリンクと水、買っといた。念の為に鎮痛剤もここに置いとくよ」



「あ、あぁ…悪いな」



赤澤の拍子抜けしたような顔を見下ろし、そんな顔するんだなぁ、面白いとなぁと俺は優しく口角を上げる。今、赤澤に触れたら怒られるだろうか。どんな顔を見せるだろうか。俺はそっと赤澤へ手を伸ばす。距離を縮め、首の後ろをまた手で包むと、「…おい」と赤澤が反応した。



「嫌ならやめるけど誰も来ないだろ。俺はただお前の頭痛を治してやろうとしてるだけだよ」



「なんで頭痛いって分かった?」



「んー、顔? この前みたいに眉間に皺寄ってるし、なんか疲れてる」



赤澤は何も言わず、体を強張らせているから、俺はふっと笑いかける。



「誰も来ないって。体の力抜いて、首を俺に預けて」



「……一応事務所だぞ」



「恥ずかしいのか?」



赤澤は少し困ったように口を噤んだ。



「大丈夫。誰も来ないだろ。それに、やらしー事してるわけじゃないし。それとも、そっちを期待しちゃう?」



「あんたな…」



「ふふ、そんな顔すんなよ。お前、緊張して頭痛くなってるだけだろ? だから首の後ろほぐして、深呼吸すれば大丈夫。それでも頭が痛いなら鎮痛剤を飲んで時間まで横になってろよ。な? 少し、俺に体を預けてよ」



そこまで言うと赤澤は諦めたように「…分かった」と、体を俺に預ける。ゆっくり首の後ろに指を押し込む。赤澤は気持ち良さそうに目を閉じ、俺は静かに赤澤の首筋を解すように指圧を繰り返した。時間がのんびりと過ぎていく。赤澤の心地良さそうな顔。無防備で、安心しきっている。


俺のベルトには折り畳み式のナイフが挟んである。もしここでこいつの首を掻っ切ったら、こいつはどんな顔で俺を見上げるのだろう。俺にこいつを始末しろと指令がきた時、こいつにはどう死んでもらおうか。



「…ありがとう」



言われて時間が止まったように、俺は動きを止める。思考も止まった。俺は一瞬動揺した。こいつは何故、今、ありがとうなんて言った? 感謝なんてした事なかったろ。こいつは何を考えてんだ。こいつの性格は誰よりも俺が知ってる。こいつの事は誰よりも。



「…もう、いいよ」



なのに、今のこいつが何を考えているのか俺には全く読めない。落ちて心開いただけ? 扱い易くなっただけ? …違う? 赤澤はぱちりと目を開け、俺と目を合わせる。少し口角を上げ、首の後ろをマッサージしていた俺の手を掴むと自分から離した。



「あんたの手、すげぇあったけぇから、触られるだけで頭痛が消えた気ィすんのな。楽になったわ」



赤澤はうんと伸びをすると、俺を見上げる。その顔はとてもスッキリして見える。こいつってたかがマッサージで感謝しちゃうほど弱ってたろうか。



「あんた、飯まだだろ? 時間あるし、向こうで食っとけ」



お前、俺が何を考えてるか、なんて考えた事ねぇよな?



「青…」



俺は赤澤の唇に噛み付くように唇を合わせた。驚いて何も出来ない男をよそに、ふふっと笑ってやる。



「分かった。時間になったら声、掛けろよ」



お前なんかに主導権は握らせないよ。お前なんかに。二度と。赤澤の部屋を出る。パタンとドアは閉まり、その音で我に返った。どうしてあそこまで焦ったんだろう。ありがとう、と感謝されて俺は過剰に反応した。言われるはずのない言葉を言われると怖くなり、心の中が読めなくなるようだった。何してんだよ…。


ありがとう、なんて、あいつが心を開いて信頼して、甘えた証拠にすぎないだろ。良い方に転がってる証拠で、コントロールしやすくなってる、それだけなはずなのに気付きたくないものに気付いてしまったような嫌な感覚。


飯を食い、時間を潰し、携帯を眺める。俺は自分の焦りに蓋をして、もうそれに関して考えないようにと必死になった。時間になると赤澤が部屋から出てきて、俺に声を掛け、斉藤が不満丸出しの顔で俺たちを玄関まで見送った。


涼司はすでに車に乗っていた。ビニール紐とガムテープと結束バンドをトランクに放り、ベルトにナイフを、いざと言う時の脅しのための偽の銃をスーツの内側に仕舞った。敵対していない組織相手に銃なんて持ち出して、事が大きくなっては面倒だから本物は持たないようだった。それでも一応、脅し道具は必要で、涼司も同じのを所持していた。


運転席に涼司、助手席に俺、後ろに赤澤が乗り、ネオン街を走り抜けて港まで向かった。しばらく走ると車はうんと少なくなり、待ち合わせ場所である倉庫へと着く。



「先、倉庫の中を見てきます」



涼司がそう言ってシートベルトを外した。



「待って下さい」



俺はそれを止めると涼司より先に外へ出る。



「涼司さんはここにいて下さい。俺が中の様子、見てきます。何かあったら俺を置いて逃げて下さい」



「いえ、しかし…」



「俺、運転が死ぬほど下手なんです」



そう俺が言うと涼司は黙ったまま、後部座席に座る赤澤の方をちらりと確認する。赤澤は俺を見ていた。心配かな? 赤澤の顔には大丈夫かと書いてある。何も言わない涼司に俺は言葉を続ける。



「10分経ったら電話します。もし経っても音沙汰なかったら一旦引いて下さい」



「青木、松葉は俺たちを騙そうとしてるわけじゃ…」



そんな事は分かってるよ、赤澤。



「元とはいえ敵対組織です。用心に越した事はないのでは?」



そう言ってやると、俺の言葉に涼司が食い入るように口を開く。



「カ、カシラ、俺も青木さんに賛成です。カシラはあの人を信用しているようですが俺は信用できません。本来であれば俺が様子を見に行くべきでしょうが、…運転がその、アレなようですし、…一旦、青木さんに任せませんか」



赤澤は涼司にそう説得されると少し考え、そして俺を見た。



「松葉は俺達に危害を加えるつもりはないだろう。だが、万が一、身の危険を感じたら逃げろ。いいな?」



「はい」



俺は頷き、その場を後にする。赤澤は俺に何かあったら嫌だなとか思ってんだろう。こうして自ら命を張って倉庫の中に行く。"元"敵対組織とはいえ、何を考えているのか分からないイカれた若頭の元へ、相手の人数も分からないのにひとりで出向く。お前の中で俺の黒はどんどん消えていくんだろうな。いや、もうとっくに消えて、微塵もないのかな。


けどな赤澤。俺がなんの魂胆もなく、相手の元へひとりで行くと思ってんなら大間違いだよ。


俺はポケットからマイクロカメラが付いているペンを取り出して録画ボタンを押す。それを胸ポケットに挿し、倉庫内に入った。倉庫の中には黒の高級ワゴンタイプの車が一台。



「……誰です?」



その車から出てきたのは松葉本人だった。少し驚いた。知らない相手に若頭本人が出てくるなんて。



「葉山組の青木といいます」



「はじめまして。森鳳会若頭、松葉です。で、そっちの若頭は?」



「もうすぐ来ます」



「へぇ。君ひとりで来たんですか?」



「はい」



「ふぅん。どうして?」



「危険があれば排除する必要がありますから」



「俺の事を信用してないと?」



「はい。正直、俺は信用していません」



「面と向かって言ってしまうのですね」



「変な言い逃れは通用しないかと思いましたので」



「あーそう。そっちの補佐並みの忠犬が増えたって事ですか、ややこしなぁ。でも君、見た事ないですね。新人ですか」



「はい。元瀬戸組です」



「あぁ。なるほど。ガサが入って壊滅した組ですか」



「はい」



松葉という男は淡々と言葉を吐く。表情は一切崩さず、一定のペースを保つ。俺は倉庫内を見渡し、車内に待機している男達以外で他に人がいない事を確認した。車の中には後部座席に三人。ひとりは受け渡しになる藤ヶ谷、そして厳つい如何にもソッチ系の男と目つきの悪いスーツの男。運転席に小柄な男がひとり。どうやら、赤澤をハメようとはしていないらしい。真っ当な取引と考えていいだろうなと、俺は周りを横目で確認しながら考えていた。


しかし、だとしたら尚更、この松葉という男が赤澤に何を望んでいるのか分からない。 



「松葉さん、カシラを呼ぶ前に聞きたい事があります」



「何でしょう。俺も暇ではありません。早く取引をしたいのですが」



俺は一歩、松葉に近付いた。松葉は動じない。一歩引くわけでも怪訝な顔をするわけでもない。表情は微動だにせず、鋭い目つきで俺を見た。俺は小さな声で、低い声で、車内にいる部下には聞こえないように言葉を吐く。



「カシラの邪魔をする理由はなんですか」



松葉の表情は変わらない。だから俺は言葉を続ける。



「あなた方が邪魔に入るのは今回だけではありませんよね。一年前、西区七丁目の地上げの件、葉山組が関わっていると分かるとあなたが出て来て、シノギがパーになった」



そこまで言うと松葉の冷たい瞳が俺を捉える。



「…君、新入りですよね? なぜ、一年前の事を?」



「調べました。あなたのせいで稼ぎがなくなったと」



「はぁ。その件に我々は関わってませんよ」



「直接邪魔に入ったのは柳田組。しかし指示を出していたのはあなたです。よね?」



「柳田組…」



松葉はぴくりと眉を動かした。



「あなたの事、調べたんです。カシラの邪魔をするあなたの狙いが知りたくて。それであなたの弱味、見つけてしまったんですよね」



「弱味、ですか。何を握ったか知りませんが、俺を脅すなんて大した度胸ですね」



「あなたにカシラを潰されると困るンですよね」



「カシラを潰されると、ですか。でもね、良い金になる仕事にはみーんな食いつく、そうでしょう? 俺じゃなくても、ね。あいつは良く鼻が利きます。あいつが狙う案件はどれも良い金に…」



「稗田 勝己、柳田組のヤクでヤク中になってる男があなたの弱味、ですね」



そうある男の名前を口にすると、松葉の表情は変わる。瞳の奥に動揺が見えた。



「………へぇ」



俺の口から稗田の名前が出た事に対して、不安と苛立ちを感じているようだった。俺は追い討ちを掛けるように更に不安を煽る。



「現役ホストでセックス依存症。柳田組と関わりのある青年です。柳田組から彼を引き離したいんじゃないですか? でもそうすれば、ちょっと事はややこしくなる。理由は分かりますね」



松葉は怒りを感じているのだろう。ギリリと奥歯を噛み締めた。その稗田ってやつの効果は覿面なんだなぁ。



「君、どこまで知ってるんですか。稗田の事はどこから。…赤澤、ですか? あいつが何か言いましたか」



なぜ、赤澤の名前が…? 一瞬分からなかったが、料亭で松葉が赤澤に稗田の名前を出した事を思い出し、俺は「いいえ」と静かに否定した。



「カシラは関係ありません」



「なら、どうしてあいつの事を…」



「その稗田って男の事、少し調べさせてもらいました」



「調べたって、どこから情報を?」



「教えられませんね。でも正確な情報でしょう? なんならもっと詳しく稗田について話しましょうか? 所属しているホストクラブはClub Sevens、有名な所ですよね。源氏名はレオ。今年で23…」



「もういいです。君、本当にただの組員ですか。極道には見えませんが」



「ただのヤクザですよ。カシラの為に必死に動くイチ組員です」



「俺を脅す理由は赤澤ですか」



「脅したつもりはありませんよ。ただ、邪魔をされては困るなぁと思ったんで忠告です」



「最初に言っておきますが、俺は赤澤から離れるつもりありませんよ。あいつが見つけるシノギはいつも美味いですから」



「どうしてそこまでカシラに付き纏うんですか。金ですか」



「金…そうですね、強いて言うなら俺はただ赤澤と真正面から殴り合いたいだけです。彼は昔から変わりません。彼とする喧嘩は世界一楽しいです。何もかもを忘れられます。ですが若頭となった以上、なかなか喧嘩なんてする機会もありませんので。その理由が欲しいだけです」



バカバカしい理由。鼻で笑ってしまいそうになる。けど、それならそれで良い。こいつは上手く利用できる。やっぱり近付くならこいつで正解だ。



「へぇ。喧嘩ですか」



「俺にとっては赤澤自身が全ての理由です」



「なぜ、そんなに執着してるんですか」



俺の問いに松葉はふっと笑った。



「君もなぜ、あいつにそこまで執着してるんです?」



執着。ハッキリ言われ苛立ち、その苛立っている事に気付いて更に苛立った。自分の組の若頭なのだから、心配しているだけだと言えば良いのだが、何故か口ごもり、言葉につっかえる。



「ふふ、君はワケありですか」



松葉は笑う。



「俺はただカシラを守りたいだけです」



「そうですか。まぁ、いいです。赤澤は裏も表もない。正直で男らしい。あーいう男って、なかなかいないんですよ。ね? 君にとってもあいつは唯一。そうじゃないですか?」



あんな男が唯一? 裏も表もない? 確かにな。アレは裏も表もなく、ただ暴力的で何も解決できないクズ野郎。殴って、蹴って、気が済むまで暴力に訴える。そんな男との喧嘩が楽しいだなんて、呆れるような理由で腹が立つ。腹が立って、苛々して、嫌悪に繋がる。だからこそ松葉を使わなければ。



「唯一ですよ。俺にとって大切なのはカシラだけです」



「そう」



脅せばこいつは赤澤を裏切る。この男を利用して赤澤をどん底に突き落としてやろう。この男もその裏切りに苦しめばいい。赤澤の周りにいる人間は全員、苦しめばいい。



「なーんてね、くだらない」



ぽろりと漏れた言葉に松葉は眉間に皺を寄せ、「なんて?」と眼鏡越しの目が吊り上がる。俺は囁くように松葉に耳打ちする。



「俺はね松葉さん、カシラをきっちり潰してくれる人間なのかと思ってました。なのにそんな青臭い理由だったなんてガッカリです」



「君、何を言って…」



「良い関係を築きましょう。ここでの会話は他言無用でお願いします。もし漏れる事があれば、ある日突然、Club Sevens のナンバースリーが、どこぞの若頭が住んでいる東区5丁目の高級マンションから飛び降りる事になります」



松葉の顔が青ざめ、そして拳を握り締めた。ここまで追い込めば後は簡単。



「やって頂きたい事があります。その代わり、あなたは大金を手にできます」



「君…」



「詳細は追って連絡します」



俺はそう言いながら携帯を手にすると、松葉は怒りを噛み殺しながらポツリと呟いた。



「…あいつは厄介なのを内側に入れたものですね」



次こいつに接触した時、こいつは俺の指示に従わざるを得ないだろうな。目の前の若頭をじっと見つめながら、俺は通話ボタンを押した。



「涼司さん、こちらは問題ありません。カシラと来て下さい」



電話を切り、俺は松葉の顔を見ながら口角を少しだけ上げた。



「互いに良いビジネスをしたいだけですので、勘違いはしないで下さい」



「君は赤澤が嫌いですか」



「俺はカシラの事を誰よりも想ってますよ。誰よりも」



松葉は何も返さなかった。ただ奥歯を噛み締め、怪訝な表情を見せた。ほどなくして涼司と赤澤が倉庫へ入ってくる。松葉は俺の顔を一瞬見ると、落ち着きを取り戻すように深呼吸をして赤澤へと視線を向けた。



「ようやく来ましたか」



松葉がそう赤澤に言うと、「さっさと渡してくれますか」と赤澤は面倒臭そうに返事をする。



「渡す前にひとつ。君んとこの忠犬、俺に対してすごく怖いから今度取引する際は補佐同様そいつも抜きにして下さい」



松葉は俺を指差して赤澤に言った。けれど何を言われたか、そして俺の狙いが何か、理由はもちろん言わない。



「…青木、あんた、何か言ったのか」



赤澤の低い声に俺は首を少しだけ傾けた。



「カシラに何かあっては困るので、防御網を張っただけです」



俺の言葉に松葉は嫌悪に満ちたような瞳で俺を見た後、ツカツカと赤澤に近付く。赤澤のすぐ後ろに涼司が、松葉と赤澤の間に俺がいる。この状況で松葉が赤澤に触れる事は出来ないだろうが、俺は可愛い忠犬のふりをしてすっと赤澤の前に腕を伸ばした。それ以上、赤澤に近づくなと敢えて行動に示すように。



「青木」



赤澤が俺を制するのは分かっていた。松葉が俺に笑いかけるのも。俺は嫌々腕を引っ込め、松葉を睨むように目を細めて見る。松葉は赤澤に近付くと溜息をつき、耳元に唇を寄せる。何を言っているのか、俺には聞こえない。ヒソヒソと小声で何かを赤澤に伝えているらしかった。


何を吹き込んでる? 脅された、あいつは裏切る、疑うべきだ、そう助言する? なぁ、松葉。言ったらどうなるか、分かるよな? じっと、俺は松葉と赤澤を見ている。声が聞こえない分、睨むようにじっと。


しかし、あろう事か赤澤がケタケタと笑い出したのだ。つい眉間に皺が寄る。



「…ハハハ、そうですか」



赤澤は俺を見ると楽しそうに口角を上げ、俺にこっちへ来いと手招いた。



「なんですか」



俺は眉間に軽く皺を寄せながら近付くと、赤澤は笑いながら俺の肩に触れる。



「こいつは大丈夫です。ちょっとワケありですが、俺のよく知る男なんです。ヤクザに見えなくても、こっち側の人間。俺を支えてくれています」



「ワケあり、ね」



松葉は俺を品定めするように見た。そりゃそうだよな、べらべらと自分の身の回りの事を語られ、脅されたのだから。でもやはり、俺の脅しは十分効いていた。



「俺は忠告しましたよ」



「えぇ」



松葉の俺を見る目はうんと冷たく嫌悪に満ちている。だが赤澤は何ひとつ気付かない。魂胆、目論見、この状況の酷さ。赤澤は俺と松葉をついに繋げてしまった。俺は心の中でほくそ笑む。お前に近付いた甲斐があったよ。



「取引は2000万と藤ヶ谷」



「あぁ」



松葉の合図に三人の男が車から出る。革のボストンバッグを持った男と藤ヶ谷と藤ヶ谷が逃げないよう側に張り付いている男。鞄は俺が受け取り、藤ヶ谷を涼司が受け取る。



「成立ですね」



松葉は口角を上げた。



「えぇ。あの件からは手を引かせてもらいます。そちらも藤ヶ谷には一切手出し無用でお願いします」



「もちろん」



「それでは」



「あ、待って下さい」



「なんですか」



「例の件、どうなりました? 梶柄は思った以上にカンカンみたいですけど」



「探り、入れたんですか」



「探ってほしかったんじゃないですか?」



「そんなわけないでしょう」



「それで、誰か引き金を引いてくれる人は見つかりましたか?」



「いいえ、いないですね」



「でしょうね。君を刺せば大問題です。そんな厄介事、君の願いだとしても聞きたくはありませんね」



「あなたなら聞いてくれるかと思ったんですけど」



「君はいつも図々しくて勝手です。痛い目に合って下さい」



「十分、合ってますよ。億って金を逃したんですから」



「確かにそうですね」



松葉はケタケタと笑う。



「では、俺達はこれで失礼します」



赤澤は一礼して去ろうとして松葉は俺に声を掛けた。



「青木、」



松葉の俺を呼び止める声に赤澤が足をぴたりと止める。俺以上に反応してるように見えた。松葉は俺の目を真っ直ぐ見ながら怪しげに笑っている。



「ビジネスパートナーはしっかり選ばないと後悔する事になりますよ」



ビジネスパートナー、ね。それはあんたの事を言ってんのかな? だとしたら後悔すると?



「肝に銘じておきます」



後悔なんかするかよ。俺は微笑んで、赤澤に肩を並べるとそのままその場を去った。


夜が深い。事務所に戻ると赤澤、涼司、斉藤、金谷が藤ヶ谷を連れて何処かへ消えた。俺は新崎と共にひとつ仕事を終わらせ、ひとり、帰路につく。ひとりの部屋は静かだった。何も音がしない。シャワーを浴び、髪を乾かしながらグラスにウィスキーを注ぐ。赤澤の家で録っていた盗聴器を鞄から取り出し、パソコンに接続して音を流した。一口、ウィスキーを飲み、胃が熱くなるのを感じた。


音はしばらく何も聞こえなかった。数分後、玄関が開く音がした。ガチャガチャと鍵を回し、部屋に赤澤がひとり入ってくる。シャワーの音が聞こえ、しばらくして時間が経つと料理をする音が聞こえる。何かを切る音、炒める音、皿を出す音、全て物音だけ。


情報は何も落ちず、時間だけが過ぎ、そしてようやく電話が鳴るが話す内容は藤ヶ谷と金のこと。どうやら藤ヶ谷にはまだ金を引っ張れる土地があるらしく、その事について長々と話していた。他の話は特にない。これといって俺が脅しに使えるようなネタもない。


赤澤は独り言も話さない。電話も赤澤から誰かに掛ける事は滅多にない。女の影もない。心配をするような相手もされるような相手もいない。ひとり、潰れて死んで行くのかな。哀れなもんだよなァ。


赤澤の動きで目立った事はなく、俺はそれをパソコンに保存するとメモリーカードに移して机の中の小さな隠し戸の中へ入れた。


翌日。俺は公園で俺に接触してきた男の場所へ訪れる。何の為に危険を冒してまで俺に接触してきたのか。あの男は何をしたいのか。欠伸をひとつしながら朝の9時丁度、指定されたアパートのある部屋をノックした。



「おはようございます」



褐色の若い男は俺を招くとすぐにドアの鍵を締めた。



「もっと厳重な所に住んでいるのかと思ってました」



「ふふ、まぁ、上がって下さい」



狭い部屋だった。町外れに位置して不便にも、車での移動は難しいような細い路地に面していた。陽の当たらない暗い部屋。カーテンは閉められている。物はかなり少ない。金には到底困らないだろう男が、こんな所に呼び出すとは。きっと棲家ではないのだろう。密会の為の場所、という事か。



「要件は何ですか」



椅子に腰を掛けてそう急かすと、男は俺の対面に腰を下ろす。



「危険を冒しているのは分かってます。それでもあなたは来てくれた。感謝しているのと、信用してほしいという事は先に伝えておきます」



そう言いながらそいつは一枚の写真を取り出した。



「協力してほしいんです」



「…協力?」



なぜ俺が、という疑問。だが知らない男が写る一枚の写真を見て考えを巡らせる。写真には色の白い若い男がひとり、ベッドの上に転がされていた。隠し撮りされたであろう写真だった。そこからわかる事はいくつかある。


茶色い髪の派手目な若い男がぐったりへばっている事、全裸である事、顔は乱れた髪とタオルでよく見えないが鼻筋が通っており唇が薄く、容姿が良い男だという事、右太腿の内側に小さな黒い星のタトゥーが入ってる事、シルバーの派手な指輪を数本の指につけている事。一見すると派手な若い男のベッドシーンだと思った。多分夜職の男が金の為に体を売った、そんな風に感じた。


しかしよく写真を見ると、写真の端に写るテーブルにはタバコの吸い殻と注射器が写っている。派手な身なりの男とヤク。



「青木さん、松葉という男に接触したでしょう」



松葉という名前を聞いて、これが稗田か、とその男に見当を付けたが、なぜそれを目の前の男が知っているのか分からない。



「…なんでそれを知ってるんですか」



「あなたが関わってる情報をまとめたのは俺です。松葉に接触するかもしれないと賭けに出ましたが、こんな早く会ってくれるとは思いませんでした」



仲間の顔はある程度知っていた。しかし誰が何を担当しているのか、どこへ潜入しているのかは、互いには分からないようになっていた。


けれど、そうか。俺のこの案件、サポートは彼だったか。



「俺にこの写真を見せる意図はなんですか。そっちの狙いは?」



「この写真が何か分かりましたか」



「まぁ…」



「俺の狙いは柳田組幹部のある男を守る事です。そしてそれにはこの写真の男が関わってます」



トントンと指で写真を叩き、目の前の男は俺を見た。変な話だと思った。同時に、これは仕事ではなく完全にこの男のプライベートかもしれないと、金にならない挙句、かなり危険な橋を渡らせる気かもしれないと思った。



「今すぐ何かしてほしい、というワケではないんです。ただ今後、何かあった時、味方を作っておきたかったんです」



「ここの古株が、そう簡単に新参者を信じて良いんですか。俺は情報屋ではありませんし、力になれる事はないかと思いますが」



「新参者ですけど、他のやつらよりあなたの事は把握しやすいですよ」



他のやつらより。確かにそうだろうなと、俺は頭を掻いた。



「その分、信用しやすいという事です」



「脅しをかけやすいって事でしょう」



「そうは言ってませんよ。隠せない過去ってのは誰にでもあります。ある男は元公安でしたし、ある男は元アメリカンマフィアでしたし、色んな人達の集まりですから」



「…はぁ」



「すみません、脱線しました。話、戻します」



「はい」



「今後、あなたは松葉に何度も会うでしょう? そして松葉を脅せる立場にある、そうですね? 今の俺にはあなたが必要です」



「面倒事は勘弁してほしいですが」



「もちろん見返りはしっかりと。ただ面倒には少し巻き込むかもしれません」



目の前の男は冷静に見えて、少し冷静を失っているのかもしれない。何かに焦り、俺を呼び出した。この男が切羽詰まる事があるのかと俺は男の目を見て考えた。



「荒木さん、結構追い詰められてますか?」



「精神的にはそうですね。かなり焦ってます」



「へぇ。あなたがね。俺に協力してほしいのなら、そちらの事情を教えてもらえますか」



「はい」



荒木は少し沈黙し、何かを考えてから眉間に皺を寄せると写真を見下ろす。



「この写真の男が原因で、ある人の命が危険に晒されます。それだけは避けたいんです」



荒木と呼ばれる目の前の若い男は組織内では有名だった。どこから情報を引っ張ってくるのか、こいつの情報網は異常なまでに広く、敵には最も回したくない存在であった。そんな男が焦り、怯える。只事ではないのだろうと俺はそいつの顔を見た。



「俺はずっとその人を探してたんです。それはもう子供の頃から、ずっと」



「はい」



「二年前、ようやくその人が刑務所に入ってる事を知り、個人的にその人へ接触していました。その人は今もまだ、塀の中で長い懲役を食らって外へは出られません。でもそれは彼にとっては幸い。安全なところで生きれます」



「釈放されるのが決まったから焦ってる、そうですか?」



「その通りです。その安全ももう保証できません」



「娑婆に出たら命を奪われると?」



「はい。あの人はようやく解放されるのに、命を狙われるんです」



「命を狙われると分かっていても、あなた自身で守ってやる事はできない、という事ですか」



荒木は大きな溜息をひとつついた。



「現状の立場だと、かなり厄介なんです」



と言葉を吐く。



「あまり多くは言えませんが、俺は今、あの人のフロントにいます。でも組織には情報を渡し、仕事をしなければならない。俺はあの人にとって裏切り者です。表立ってあの人を守れません。俺があの人を守るなんて、上にバレてしまえばそれこそ厄介なので」



「…なるほど、面倒極まりないですね。話を聞く限り、荒木さんはその人を守りたいが仕事上敵となる。どんな仕事を依頼されてるのか分かりませんし、言うつもりもないのでしょうから聞くつもりもありませんが、その状況、かなり危険ですよね。だから俺にそれを話すってことは相当、切羽詰まっていた。協力がほしかった。…ってことは、です。俺が乗ると踏まない限り、俺に接触してこない、そうでしょう?」



俺に何をしてほしいのか分からない。そして、何をしてくれるのか。荒木は頬を緩めた。



「はい。青木さんが乗ってくれるだろうと勝算はありました」



「へぇ」



「ですがその前に、話せる事は話しておいた方が良さそうですね」



「そうですね。是非」



「青木さんが今後、頻繁に会うであろう松葉ですが、柳田組の幹部連中を潰す気でいます」



「あー、この若いホストのために、ですか? アレ、そこまでするつもりなんですか」



「はい。狙いは柳田組そのもの。塀の中にいるあの人が直接関わりがなくても、松葉はあの人の命も狙います。あなたにも情報を渡した通りですが、松葉はそのホスト、稗田という歳の離れた若い男と最近頻繁に会っていて稗田の状況を知ったようです」



「みたいですね。ファイルを読んで、そんなに重要視するような人物ではないと思いましたが、そうじゃなかった。松葉に脅しをかけるために稗田という名前を出したら、あの男の目の色が変わりましたから」



「松葉にとって稗田はかなり特別な存在のようです。組織を敵に回すほどに、ね」



「ふたりの関係は?」



「コレ、という答えが見えないんです。ただ、稗田は松葉が東京へ出るまで、松葉の家の近所に住んでいた子供です。松葉はヤクザ社会に入った後、上京し、ふたりは疎遠になり、その後を追うように稗田も上京してます。そうして再会したのは一ヶ月ほど前。松葉は再会しても連絡先すら教えてないようで、稗田は一方的に松葉に付き纏い、松葉にとって稗田はただただ厄介な相手だと俺は思っていました。しかし、そうじゃなかった。自分が思ってる以上にヤバい状況なんじゃないかと思ったんです」



「ヤバい状況…っていうのは?」



「柳田組に対する松葉の異常な感情です」



「異常、ですか」



「えぇ。真っ当とはかなりかけ離れてます。そのイカれた男と稗田。ファイルに記載はしてありますが、稗田はもともと問題のある子供で、上京してからはかなり悪化してます。ヤク漬けにセックス依存、借金をしては簡単に体を売っています。見た目は良いのでホストとして稼いでいるようですが、その金も全てヤクに流れます。そんな男が、ある日偶然、松葉を自分のホストクラブで見つけた。稗田が所属しているホストのケツ持ちがたまたま森鳳会で、そこから松葉に付き纏っている、というのが流れなのですが…」



「待って下さい。でもそうなると、あの松葉がその稗田という男にそこまで左右されている、という事ですよね。松葉が柳田組を、ヤク漬けの男のために敵対するという構図、やはり腑に落ちません」



「俺だって最初は信じられませんでした。でも調べれば調べるほど、ただの昔馴染みってわけではなさそうなんです」



「確かに稗田は特別な存在かもしれませんが、その男のために柳田組を敵に回す、しかも幹部連中を潰そうとする、なんて事ありますか?」



「松葉の行動に変化が現れたのは、稗田がヤク中なのを知り、そのヤクが柳田組から流れてきた事を知り、そして稗田がその組の人間に暴力を受けた事を知った、その直後です」



「松葉は何か行動を取った、という事ですか」



「はい。森鳳会は最近、柳田組に敵意を向けるようになりました。柳田組と敵対する姿勢が顕著に見えます」



「一年前は地上げを頼んでいたような関係だったのに、という事ですね」



「はい」



あの松葉という男、相当曲者で狂っているらしい。これは予想以上に面倒な事になりそうだと俺は眉間に皺を寄せる。荒木は淡々と答えるが、俺は正直切り上げたかった。



「いつから敵視するような素振りが?」



しかしここまで聞いて、これ以上聞きたくない、関わりたくないと逃げる事もできないのが現実。それに悪い事ばかりでもない。全てはこの男が提示する"見返り"が何かということである。



「三週間ほど前から、でしょうか」



荒木はまた写真を見下ろした。



「前までは友好的とまではいかなくとも、悪くない仲でした。柳田組といえばヤクのイメージですが、それだけではなく地上げのプロですし、武器売買もしています。森鳳会が表立って動けない時は代紋の違う柳田組が動く事も多かった。しかし最近、松葉が依頼先から柳田組を切ったんです。それは何か大きな理由があると思うでしょう? この若い男のために何かを企んでる、そう思えば納得できます」



「柳田組に関してあまり知らないのですが、松葉が取引をしたがらない理由が柳田組自体にある、とは考えられませんか。森会長はヤクを嫌いますし、柳田組と取引しないと指示を出してもおかしくはないと思いますが」



「考えられない事もありません。ただ、あの組の金関係は全て松葉の指示です。取引先もシノギも松葉のコントロールかと。そうだとするなら、会長が指示を出したようには思えません。それに指示を出したのなら、今更、ではありませんか? 松葉は特に、柳田組と関係がある事を会長に隠していたわけではありませんから」



「…まぁ、たしかに。そうですね。松葉が柳田組を敵対するようになった、というところまでは分かりました。しかしやはり、あの松葉が個人的な理由で組同士の抗争になりかねない事をしますかね。それに塀の中のいる人まで狙うでしょうか」



「松葉は柳田組の幹部連中を潰しにかかっている。柳田組の代紋を背負っている人間に対して殺意を抱いている。…俺が焦っているのは、これだけじゃないんです」



「他にもあるということですか」



「えぇ。一週間前から柳田組幹部の三人が忽然と消えたんです。一週間前にひとり、五日前にひとり、そして昨日、またひとり、消えました」



「松葉がすでに三人殺したと?」



「殺したかどうかは分かりませんが、その三人は稗田に暴力を振るった男達だったようですから、俺には偶然に思えません」



「三人も、となると偶然は考えにくいですか」



「はい。それにもうひとつ。柳田組が経営していた裏カジノが一週間前に摘発されてます。ガサが入り、大量のヤクと銃が押収されて損失は数千万。そこでも二人の組員が逮捕されています。そいつらは稗田と何ら関係ありませんが、逮捕されて柳田組を追い詰める要因となっている事に違いはありません」



「合計五人。柳田組にしたら相当痛手ですね」



「しかも裏カジノがバレた理由は密告です。少し匂いませんか?」



「誰が密告したかは調べがついてるんですか」



「確定ではありませんが、かなり怪しいのがひとり。松葉の右腕、森鳳会若頭補佐、切田 哲平。あまり表には出ない男です。その彼が裏カジノにガサが入る数日前から目撃されており、当日も同じビルで目撃されてます。松葉は稗田に暴力を振るった幹部連中だけではなく、柳田組そのものを壊滅させる気だと考えた方が筋が通ります。だからあの人を守る為に、青木さんに協力してほしい」



「…これ、仕事ではないですね? あなた個人の問題。それでも俺が協力すると勝算を立てた、そうなら、俺にとってのメリットをそろそろ教えてませんか? 俺に何をしてくれるんですか」



目の前の若い男は優秀だ。情報を仕入れるコネもずば抜けている。こいつと手を組むのは悪い事ではない、だが、この件はかなり面倒で厄介である。危険を顧みず突き進むメリットがあるのだろうか。考えていた俺に、荒木はにたりと笑う。



「赤澤 邦仁を始末する手筈を整えます」



赤澤を始末する手筈、その言葉を何度も頭の中で繰り返す。望んでいた事だ。心の底から俺が願っていた事だ。あんな男、泣いて喚き散らして落ちるとこまで落ちるべきだ。あの三年間は地獄だった。毎日毎日、復讐しか考えていなかった。俺の手で息の根を止めたいとずっと願って生きてきた。散々、俺に屈辱を与えたあの男を。ある日、俺の前から突然消えたあの男を。地の底まで落としたい、そうだろ。



「もし協力してくれるなら、組織として仕事として葉山組若頭を始末できるようバックアップします。もちろん、その男の周りの人間について、あなたの知りたい情報は全てお渡しします。組織としての狙いはただ、葉山組の情報を探るだけ。そんなのあなたは望んでません、そうですよね? あなたはあの赤澤という男を苦しめ、息の根を止めたい。それなら俺が協力した方が、うんと楽に進みます」



組織としての命令は葉山組に潜入し情報を渡すだけ。今のところはそれだけだった。つまり重要なのは情報。誰の命でもない。とはいえ組が危機に晒され、"不運な事故"によって死ぬ事だってありえる。だからこそ俺はこの組にいる。そのチャンスを掴む為に。


しかし組織の古株であり、上と強い繋がりのある荒木なら、その命令を変える事が出来るだろう。つまり赤澤の死を望むクライアントを探すか、でっち上げるか。こいつなら、それが出来てしまう。もし荒木がきちんとこの約束を守ってくれるのなら、俺は赤澤を自分の手で葬り去れる。大金を手にして、尚且つ、あの憎むべきあの男を始末できる………。



「青木さん、お願いします。松葉と会って、そこに誰がいたか、松葉の側近は誰か、取引に連れて来た幹部は誰か全て教えて下さい。その代わり、俺はあなたに赤澤を始末できるよう進めます」



「……分かりました」



あの赤澤を潰す為なら、何だってしたい。赤澤の息の根を止める為なら、何だって。なのに、どうして。


どうして、今になって異様に緊張するのだろう。



「良かった。そう言ってもらえて嬉しいです」



荒木はそう安堵した表情を見せた。



「では、まずは周りから攻めましょう。松葉を使ってあの組の資金源を減らして兵力を奪う。それから父親も使いましょう」



「父親…?」



「えぇ。葉山組の組長。人ひとり潰すなら徹底的に。組長を丸め込むんです。調べたところ、かなりの野心家のようですよ。地位と権力に固執するタイプかと。格上げをチラつかせましょう。次期本家若頭、食いつくと思いますよ」



「本家若頭、ですか」



「えぇ。船木組長はもう長くないですから」



「そうですか…」



「確かな情報です。なので本家若頭の枠を空けて、それを赤澤組長にチラつかせる。知らず知らずに自分の子供の首を絞め、最後には…、ね? そうすればあの男の周りには何もなくなる。自ら死ぬかもしれませんよ。手を汚さなくても済むかもしれませんよ?」



荒木のいやらしい笑みに嫌悪感を感じた。なぜだろう、喜ぶべき事なのに。



「あいつは自殺なんかしないですよ。何があっても」



「そうですか? では最後はきっちり、あなたの手で葬り去りましょう」



荒木は俺の望みを叶えてくれるのだから、俺は今、安堵し、歓喜に満ち溢れていなければおかしいのに。



「そう、ですね」



「何か、不安な事ありますか?」



なのに俺は今、不安なのか? 嫌な何かに気付きたくないと、考えないようにしていた。だってもう後戻りはできないのだから。



「青木さん?」



そんな俺の顔を覗くように荒木はじっと俺の瞳を見つめている。



「いえ、何も…。ただひとつ確認させて下さい。赤澤を始末できるよう手筈を整えると言いましたが、どうやるんです? クライアントを探して見つからなければでっち上げ、ですか」



荒木はふっと笑った。



「それに関して、あなたは知らない方が良いかもしれませんよ? でも安心して下さい。でっち上げたとしても、きちんと報酬は出ますよ。青木さんが乗ってくれるのなら、俺もそれ相応の事、しなきゃですから」



それ相応の事、それがつまり赤澤の命というわけだ。俺は視線を逸らし、カメラが内蔵されているペンを差し出した。



「松葉について、その仲間について、この中に入ってる動画を確認して下さい。知ってるとは思いますが、メガネの黒髪が松葉本人です」



「助かります。確認しておきます」



荒木はそう言うと微笑み、ペンを受け取った。



「青木さん、何か知りたい情報ありますか?」



ペンを見ながら荒木がそう訊ねる。



「いえ、…ありません」



俺がどれほどあの男を嫌悪しているか、荒木は十分すぎるほど分かっているだろう。俺の過去を調べ上げた荒木なら。それなのに、荒木は鎌をかけるように微笑んだ。



「それともいざ赤澤を始末するってなると、怖いですか」



この男は恐ろしい。



「何を言って…」



「いじめっ子とはいえ高校の同級生ですものね。思い出もたーくさんあるんじゃないですか?」



荒木は俺の沈黙に対して、そう不気味に口角を上げた。



「…怖い? そんなわけないでしょう。なぜ、そう思うんですか」



「なぜって、あまり浮かない顔してますよ?」



「今も昔もあいつを潰したい、そう思ってます。だから俺はこの組織にいるんです。危険な事も苦しい事も経験して生き抜いてきたのは、ここにいれば、赤澤の息の根を止める事ができると、そう思ったからで…」



それは本当だった。本気、だった。



「そうですよね。失礼しました。…でも、安心しました。俺、嘘をつかれるのがとても嫌いなんです」



赤澤のこれは、嘘、になるのだろうか…。



「…そう、ですか」



今はどこかそれが、分からない。



「青木さんは俺に嘘、つかないで下さいね」



「…あなたに嘘が通用するとは思ってません。でも良いんですか、荒木さんはここの組織の重鎮でしょう? いくら俺の過去を知ってるからって、俺なんかに個人的な内情を話してしまって大丈夫ですか。それこそ仕事に影響は出ませんか」



「ふふ。大丈夫です。俺とあなたは似ていますから」



「似てる?」



「なんでもありません。今の所、仕事に支障がでるような内容ではありませんので問題ありません。塀の中の彼がこっちに出ようと出まいと、俺は彼の組のフロント企業で、外に情報を流してはちょっとだけダメージを与えてるくらいです。でも、そのうち俺はあの人の敵になるかもしれない。その時、どうするんでしょう。…さて、青木さんならどうしますか?」



「どうって…」



「赤澤 邦仁を殺せと命令が出た後に、赤澤に絆されて取り返しがつかない、なぁんて事になったら、あなたはどうします?」



ひくっと目の下が痙攣する。



「絆される? 間違ってもそんな事はあり得ません」



「冗談ですよ。ごめんなさい」



荒木は掴み所がなかった。何を思って俺と似ていると言ったのか、そして絆されるなんて言ったのか。俺があの男に絆されるなんて事はない。高校の三年間を傲慢に生き、暴力に頼るような男なんかに、絆されたりなんかしない。


あんな男なんかに、絶対……。

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