8. 内と外

「いらっしゃませ、赤澤様。鶴の間にご案内致します」



橘園は西区の端に位置し、色んな界隈の地位も名誉もコネもたーっぷりと持っているような人間が利用する料亭だった。秘密事は守られ、外に漏れる事はまずない。そんな料亭に呼び出す、という事はただ事ではなく、内容が予想できるからこそ俺の足取りは重かった。部屋に入った瞬間、正直気分が悪くなる。この男と会合というだけで吐きそうだ。


松葉は豪勢な懐石料理を目の前に、日本酒を飲んでいた。真っ黒な髪は昔と変わらず、短髪のセンターパートで、銀縁眼鏡から冷たい切長の瞳で俺を捉えている。黒いスーツに黒いシャツ。大人しい柄の入った黒いネクタイを締め、高級腕時計をつけている。一見大人しそうなこの男。しかしその風体、どう見てもカタギでない。松葉は薄い唇を開いて、「やはり来てくれましたか」と静かに言った。



「あんたが呼び出したんでしょう。来なきゃもっと面倒になるなら、そりゃ来るでしょう」



「確かに、そうですね」



松葉と向かい合って座ると、松葉は徳利を少し上げて一杯飲めと俺に勧める。俺は仕方なく逆さに伏せられていたお猪口を上げ、松葉から日本酒を貰う。



「乾杯」



「……いただきます」



一口でそれを飲み干すと、松葉はじっと俺を見ていた。



「何ですか」



「あなたは嘘が上手い」



「…土地開発の件なら俺は本当に知りません」



「調べはついてます。そっちで主だって動いてるのは君ンとこの若衆、金谷 明。彼が動いてますね? しかも彼、君の補佐のお気に入り。補佐君の小中高の後輩だって言うじゃないですか。喧嘩は相当強くて、昔からヤンチャで手に負えない。それを上手くコントロールできるのはその補佐君だけ。そしてその補佐君をコントロールしてるのは、君、だ。赤澤」



金谷の事についてかなり調べたらしい。そこまで掴んでんのかと俺は度肝を抜いた。金谷と斉藤の事で調べがついているならどこまで知ってるのか。いや、どこまでではないのかもしれない。大方、全て目星はもうついてるし、こいつには全てが見えているのかもしれない。俺が否定したところで、こいつを止める事はできないのかもしれない。だとしても、だ。組としてこの件を認めるわけにはいかない。



「…金谷、ですね。分かりました。俺にこの件、預からせてください。俺から直接あいつに聞きますんで」



「この件は金谷ひとりがやった、個人の仕事だって言いたいのは分かってます。でもここまできたらソレは無理があるってものですよ」



「そう言われましても、俺は把握してませんので」



松葉は日本酒を自分のお猪口と俺のに注ぐと、くっと一口飲んだ。



「この件に費やした金は相当でしょう。回収しなければお父様に殺されますもんね。だから君は組が関わってると口が裂けても言えない」



揶揄うような言い方に腹は立つが、ここで相手の調子に乗っては全て終いに成りかねない。そう俺は一息吐き、口を開く。



「もし本当にこの件に金谷が関わっているなら、それ相当のケジメは取らせます。けど関わっているか否かは現時点、俺からは断言出来ない。だからまずは俺が聞き出します。今後どうするかはそれからです。どれほどの損益か問いただす必要がありますから」



「俺の言葉だけじゃ信用にならないと、そういう事ですね? 金谷がこっちのシノギに邪魔を入れてるのは確かだと言うのに」



松葉は呆れたように溜息をついた。



「証拠はありますか?」



「さて、どうでしょうね」



まだ金谷が関わっているという証拠はないらしい。それならばこっちはしばらく知らないを通せる。



「俺に預からせて下さい」



松葉は目を少し細めて俺を見た。



「元はあの土地開発に一枚噛んでいた藤ヶ谷土木のせいですよね? 負債の回収を頼まれ、グルグル色んな所を巡っているうちにこの土地開発を知った。そうですね? けどもとはその負債のせい。その額二千万。君達はその額よりも、この土地開発が後々大きな金に繋がると考えた。だからそのおこぼれを貰おうと動いてる。そんなところでしょう?」



「だから俺は何も知らないと何度も…」



「でもまさかその土地開発に代紋違いの兄弟分が関わってるとは知らなかった。同情しますよ」



松葉はにやりと笑う。



「これは俺達のシノギです。俺達は慎重に動き、外には漏れないよう行動しています。だからこの件について、君達は事前に知る事はできなかった。深く同情します」



現役の議員が関わってんだ、相当慎重に動いていた。だからここまで分からなかった。そういう事だがこっちだって、はいそうですか、と易々とこの件から手は引けない。



「話を一方的に進めてますが、俺は何も知りません。本当に金谷があなた達のシノギに邪魔を入れているかも怪しい状況です。今は保留にして持ち帰らせてくれと言ってるんです」



俺のその言葉に松葉は片眉を上げた。



「逃げ切れると思わないで下さい。この件に関して話したのには理由があるんです。要求があり、今日はそれを提示したかったので君を呼びました。こちらも鬼じゃない」



要求? この大金が動く件をご破算にしようとして、何が要求だ。ふざけんな。この男、本当に好かない。



「聞く義理はないと思いますが」



「聞けば考えるはずです。だって君はこれから大金を回収をしなきゃならないのですから」



「確かに、こっちは金の回収に回ります。何がどうあっても金はきっちり回収させてもらいます。藤ヶ谷が今、そっちの手の中にいるとしても取り立てますよ」



「手の中にいるとしても、ですか。いると分かっているくせに。もう言ってしまえば良いじゃないですか。腹割って話しませんか?」



「何度も言ってる通り俺はこの件の詳細が分かりません」



「そうですか。まぁ、うちと正面切って争いはしたくない、という事ですね」



「…さぁね。まずは自分の中で状況を把握しない限りは動きようがない。それだけは確かです」



「知らぬ存ぜぬを突き通すようですが、君達も可哀想ですから藤ヶ谷の負債分、二千万は現金で渡しましょう。呑むのであれば、今日にでも渡せます」



「それで手打ちという事ですか」



「えぇ。可哀想な君に損をさせないように」



「舐められたもんですね。二千万なんてもともとうちの金です。返ってきて当然の額、って事ですよ。二千万で手打ちにできるわけがありません。金貸しはボランティアじゃないんですから」



「だからおこぼれでプラスを稼ぎたい。そういう事なんでしょうけど、君にはちゃんと言う必要がありますね」



松葉はにやりと怪しく口角を上げた。



「何をですか…」



「君は何も報告を受けてないようですが、こっちの若いのが随分とやられてるんです。金谷ひとりに何人もノされています。若衆頭がキレまくってましたが、俺個人としては金谷の強さに驚愕してます。けどね、治療費はかさむし、こっちの面目は潰れる一方。若いのを押さえつけるにも限度がある。あいつらが暴れないように俺がきっちり抑え込みます。その代わり、治療費は君ンとこに負担してもらいます。総額、一千万。なので残りの額が最終的に君に渡す金額です」



こいつ、本当嫌な野郎だなと俺は内心呆れ果て、舌打ちしたい気分だった。



「一千万は泣けと言う事ですか。なら、尚更…」



松葉の表情は相変わらず変わらない。



「そもそも、うちに楯突いてるって事は分かってやってるんでしょう? 組同士の争いを避ける為に君は知らないと言い続けているのでしょうから、十分頭では理解してるはずです。争いにするか穏便に済ませるか、全ては君の判断次第。こっちは穏便に済ませてやろうと金の提案をしてるんです。可哀想な赤澤に損してほしくありませんから。でも、可哀想なのは怪我を負わされた組員も。なので金は半分。良いですね?」



もともとそれがこいつの考えだ。たかだか一千万でこの件から手を引けと、それがこいつの狙いだったのだ。



「もともと二千万なんで出す気はなかったでしょう。最初っから吹っかけるつもりだった、そういう事ですね。あなたのやりそうな事です」



これだから俺はこの男が嫌いなのだ。昔から何かとぶつかる事が多かったのに、上の組が兄弟盃なんて面倒なものを交わすからこうなった。もし、こいつが今でもまだ敵対組織だったら、俺は全部ぶちまけてこの男に殴りかかっていたろう。



「俺は正直、あなたの組が代紋違いの兄弟分として楽しくやってんのが気に入りません。あなたには昔から世話になってますからね、またひりついた関係に戻るのも悪くはありません。むしろ、俺はそれが良い。真っ向からあなたを叩きのめす事ができますから」



「ほーう、言いますね」



「ただ、その頃のような関係に戻る事、森会長はどう思うでしょうか。野上組長とせっかく盃を交わして争いを避けてきたと言うのに、若頭が勝手な事をして、それが戦争の火種となったら。元はといえば議員連れて横取りしようとしてんのはそっちだ。それなのに負債を背負わせたまま、兄弟分だから残りの金は泣け、だなんて都合が良すぎます。そんな事、出来るわけありません。これはいくらなんでも無茶というものですよ」



「………議員連れて、横取り、ですか」



松葉の目の色が変わった。



「君はこの件を予め知ってましたね? この案件は八坂議員が進めている案件です。うちとの繋がりを知っていた、今、そう吐きましたね」



「あんたらの弱味、八坂議員だろ。自分が優位に立っていると思ったら大間違いですよ。八坂議員の名前、出したくはなかったんですけどね。仕方ありません。もし、大事にしたくないのなら藤ヶ谷をこっちに渡して下さい」



藤ヶ谷にはまだ価値がある。でもきっとそれを松葉は知らない。だから最悪、藤ヶ谷さえ手に入れば良いだろうと俺は踏んでいた。



「渡すと思いますか」



「なら、八坂議員に直接話しをさせてもらうしかないですね。あの方なら二千万くらい簡単に引っ張れそうです。このご時世です、八坂議員がヤクザの会長と知り合いだなんてバレてしまえば一巻の終わり。あなたが慕っている会長もタダでは済まないでしょうね」



松葉はとんでもなくデカい荷物を抱えた。それが運の尽き。バレちゃいけねぇネタだろうに。



「赤澤…テメェ」



案の定、松葉の表情は一変した。ぎりりと奥歯を噛み締め、瞳の奥に怒りが見える。



「戦争、なんかには出来ないですよね。穏便にいきたいですね? だとしたら、二千万と藤ヶ谷を渡して下さい。悪くない条件だと思います。それが出来ないなら、出るとこ出ましょう」



さて、どう出るよ、松葉。この目の前の男がそれでも騒ぎ立てたら、俺は覚悟を決める必要があった。苦虫を噛み潰した様な表情の松葉を見ながら、俺は酒を一口飲んで口を開く。



「松葉、俺はここから手は引けない。それは探りを入れたあなたなら十分理解しているはずです。二千万と藤ヶ谷なんかじゃ釣り合わないほど、この件は美味しいですから。ざっと調べただけでも、数十億って金が動くんですから。だったら、戦争なんかに時間も金も使ってる場合じゃないでしょう」



「やっぱり君を見れば殴りたくなる。腹が立ちます」



「初めて会った時から馬が合わない事は分かってました」



松葉は居心地悪そうに舌打ちをして、一度深呼吸をする。松葉の苛立ちは見ていて優越感に浸れる。こいつとしてはちんけな金で俺をこの件から退けるつもりだったのだろうが、こっちとしては事の発端である負債は現金で返して貰いたい。プラス、今までに注ぎ込んだ金も回収したいが、そこまで欲は出せない。イカれ野郎がギリギリ出すであろう額を提示しなければご破算。失敗すれば組同士で揉める事は間違いない。だから二千万の現金と藤ヶ谷だった。俺は藤ヶ谷を良い金になるだろうなと踏み、たぶん、この目の前の男は藤ヶ谷にもう価値はないと踏んだ。


けれどそれでも松葉はかなり渋る。まさかなと俺は松葉の無言に焦りを感じている。八坂を突きつけられて、俺に弱みを握られていると知りながらも、「やってやろうじゃないか」と戦争に傾くつもりじゃねぇよな? いや、こいつならあり得る…か? 苛立ちが顕著に現れていた。今にも刺して来そうだなと思い、ふと、ある考えが脳裏によぎった。


今、こいつにとってネックなのは若衆の存在かもしれない。そいつらの怒りを収める事ができる手段を提示してやれば、こちらの条件をあっさりと飲むのではないだろうか。そしてこいつはそれをきっと実行できない。けれどその裏にある何かを嗅ぎつけて、自分にも利があると考えつく。だとすれば、そう思って俺は口を開いた。



「松葉さん、」



「松葉、でいいです。今更、さん付けなんて気持ち悪い」



「松葉」



「なんですか」



「あなたがここで俺を刺せば、面目保てるんじゃないですか? 若頭を病院送りにしたとなれば万歳でしょう」



松葉の眉間には皺が寄り、怪訝な顔を見せた後にふっと鼻で笑った。



「君は本当に何考えてるのか昔から分かりません。君をここで刺してしまえばそれこそ戦争になってお終い。確かに若衆頭の機嫌はうんと良くなるし、組内の悪い雰囲気も一蹴できるでしょう。俺も喜んで刺したいし、きっと少し前の俺なら君に言われる前にやってたでしょうね。俺へのご褒美ではあっても今は出来ない。平和に過ごしたいオヤジを裏切る事になりますから」



「ふふ、まぁそうですよね。…ひとつ聞いてほしい事があります」



「なんでしょう」



「別件でちょっとゴタついてます。梶柄組に口ききをしてほしいんです。若頭を紹介してくれりゃぁ有難いのですが梶柄組と仲良かったですよね?」



「……なんであんな組を。今度は何をしでかしたんですか」



松葉は手前にあった海鮮の小鉢をつついている。



「詳しい事は言えませんが、ただ、金谷が潰したそっちの若い衆、それに若衆頭の怒りもあるだろうし、上に立つあなたはそれを何としても抑え込みたい。俺からすれば億という案件を逃すわけで、現金二千万と藤ヶ谷の身柄は絶対に譲れない。だったら俺が潰れりゃぁ、そっちの若衆の怒りは収まるし、俺にもメリットがある。で、刺されるのであればもう一つ、梶柄組の情報もほしいなと、そう思ったまでです」



「……へぇ。なんとなーく見えました」



松葉はもぐもぐと飯を食い、酒をくいっと飲む。



「図々しくて腹が立ちます、が、こういう事でしょう。最近、そっちの組で不祥事がひとつ。その詫びがゴタついていると聞いてます。その相手がどこかまでは噂ばかりでよく分からなかったのですが、梶柄組だった、という事ですね。君が刺されれば、他の連中は梶柄組を疑う。あそこは素行が悪い上にタチも悪いですから。で、今君は俺に刺せと言ったが、刺されない事は分かった上での提案、という事です。正解でしょう?」



「そこまで読まれますか…。俺としては戦争は避けたいが制裁は加えたい。けど金じゃ埒が明きません。五百万で手打ちにしようとしましたが、その倍を要求し、プラスうちの大事な組員を寄越せと言ってきた。ちったぁ痛い目を見て欲しいんです」



「なるほどね」



「これでもあなたは信用できる方なので」



「盃さえ交わしてなければ、その話乗ったんですけど。今の俺には自由がありません。梶柄組とはとーっても仲が良いですからね。もちろん、向こうの若頭の連絡先も分かりますよ。何より、君を刺せるなんて興奮します。しかもお互い利益のある話だなんて都合が良い。……けれど、残念な事に断らせて頂きますよ。もちろんね」



松葉は深い溜息を吐くと箸を置く。



「それにね、組員は君よりも金谷を潰したいんですよ。心底腹を立ててますから」



「そうですか、残念です」



「金谷で十分なんです。ま、なので六丁目の土地開発の件は二千万と藤ヶ谷で手打ちです。そんで今後、この件に関わらないで下さい。うちと八坂議員の関係は今すぐ記憶から消して下さい」



「分かりました。これで手打ちです」



松葉は俺のお猪口に酒を注ぎ、自分にもなみなみに注いで一気に飲み干した。



「それにしても君が梶柄と揉めてるとなると、面白い事になりそうですね」



こいつは案の定、そこに食い付いた。弱味を握り、そこから金を引っ張れると考えているのかもしれない。こっちとしては藤ヶ谷と金が手に入れば最低のラインは良しとしたい。こいつが関わってるとなれば、これ以上は動きにくいし、この件はここで引くのが妥当だ。俺はひとまず落ち着いたと足を崩した。



「二千万と藤ヶ谷の受け渡しはどうしますか」



「明日取り来ますか? うちまで」



「ふざけないで下さい。下手すりゃ弾かれます」



「うちのはしっかり躾られてますよ」



「明日、午後十一時に西区第七倉庫でどうですか。斉藤を向かわせます」



「場所はどこでも構いません。ただ、その補佐君は連れて来ないで下さい。君が必ず来てください」



「やたら斉藤を毛嫌いしますね」



「あれ、怖いんですよね。俺が君にちょっとでも触ろうものなら物凄い目付きで見てくるんです。なので、あれ以外。ひとりで来るのは大変でしょうし、誰か信用できる若いのでも連れて来てください。腕の立つ子の方が良いですね? 藤ヶ谷、暴れると面倒ですから」



「若いのねぇ……。なら涼司を向かわせます。もう一人連れて行きますが、ちょっと考えておきます」



「プラス、君も、ですよ」



「俺が行く必要ありますか」



「大いに。君が来ないのなら、この話は無かった事に」



「…分かりました」



俺はそう言って注がれていた酒を飲み干して立ち上がった。松葉は俺を見上げたまま「飯は食べないのですか」と首を傾げている。



「不味くなります」



「失礼ですね」



松葉が口を尖らせ、そう言ったのと同時くらいに、「失礼します」と襖の向こうから女性の声がした。



「はい」



松葉が答えると襖が少し開き、さきほど案内をしてくれた着物の仲居がひとり正座で座っている。



「松葉様にお客様がいらしてます。こちらにはいないと説明致しましたが、どうしても会いたいと大声を出しておられまして、今、別の者が対応しております。ただ、その…関係者かもしれないと思いまして、念の為、お伺いしたく。クロサクと、名乗っておりましたが、如何いたしますか?」



松葉へ来客とはどういう事態だろうか。こんな料亭まで押し掛けて来る組員なんてまずいないだろう。組員なら松葉の連絡先を知っているだろうし、それに料亭で誰かと会っていると知っているなら、尚更押し掛けては来ない。となると組員ではなさそうだと松葉を見ると、松葉は分かりやすく項垂れている。



「その彼、長身の細身、目のデカイ女顔、派手なスーツにキツい香水、そんで緩い癖毛の焦茶色の髪、ですね?」



「は、はい」



「本名は稗田(ヒエダ) 勝巳です。通して下さい。申し訳ない。後で言って聞かせますので」



「いえ、…では、お知り合いの方でございますね。お連れ致します」



「宜しくお願いします」



「では、失礼致します」



仲居は頭を下げると襖を締めた。



「そっちもそっちで揉め事ですか」



俺が立ったままそう聞くと、松葉は項垂れたまま酒を一口飲む。



「揉め事ってわけじゃありませんよ。組には関係のない事です。ちょっと面倒くさいのに絡まれてるってだけで」



「極道モンにわざわざ絡みに行くようなカタギいるんですね」



「…なぜカタギだと?」



「こんな料亭まで乗り込みにくる組員がいるとは思えませんから。それに組員ならあんたの電話番号知ってるでしょう? となると、あんたは連絡先すら教えていない相手。キツい香水って言ってましたが、水商売をしてるのか、それともヤク中か、または両方か」



「へぇ、そこまで読めますか。…ま、これは俺のプライベート。そういうわけです。ここにいても面倒に巻き込まれますよ」



「有り難く退散します。それでは、明日」



「えぇ、明日」



廊下へ出ると丁度、仲居と派手な見た目の男がいた。女ウケしそうな甘い顔、少し長めの髪は緩いパーマのようだが癖毛らしい。背も高く容姿が良い上に、派手な身なりでまぁ目立つ。モデルだと言えば信じるだろう見た目で、今時の若いモンって感じがした。けど、その派手さはどう見ても水商売だってのはすぐに分かった。すれ違う瞬間、その男は俺と目が合った。合った瞬間、親の仇のようにぐっと俺を睨むものだから驚いた。本当にカタギか…? 怖い怖い。


仲居に案内されて部屋に入ったそいつは入るや否や、「松葉くん!」と大声を上げている。松葉くん、か。やはりヤクザじゃねぇな。


けど、強い香水の匂いはしていたが、ヤクをやってるようには見えなかった。とはいえ、あーいう見た目には分からないヤク中ってのもゴマンといるなと俺はひとり納得している。



「さっき、松葉くんの部屋から出てきた人、どう見てもヤクザだったよ! ねぇ、なんでそんな格好してんの! ここは松葉くんのいる世界じゃないよ!」



「デカイ声出すな! うっさいのぉ! それに俺のスーツはマトモじゃ! お前の仕事用スーツに比べればうんとマトモじゃ! 俺に構うなよ!」



「構うよ! だって、松葉くんはヤクザなんか出来る人間じゃないもの!」



「うるさいなぁ…」



盗み聞きをするつもりはないが、どうしても聞こえてしまう。案内を済ませた仲居が早歩きで俺を抜いて行き、俺は笑い出さないよう口を固く閉じ、ちょっとその会話を聞いていた。


どういう関係なんだよ。松葉くん、と言ってる派手な男と、あのイカれヤクザの松葉。ヤクザなんか出来る人間じゃない、なんてあのカタギさんは言うけれど、あいつほどヤクザらしいヤクザもそういないぞと言ってやりたくなった。このまま盗み聞きしてりゃぁ、あの松葉の弱味のひとつやふたつ知れるかもしれないと思ったが、「松葉くんの事、心配なんだもん! やっと会えたんだよ?」なんてちょっと甘い雰囲気が出るものだから、やめておこうとその場を後にする。


それにしてもあの松葉が声を荒げるなんて、どういう状況なのか。正直、かなり興味が湧いた。関わりたくはないけれど、面白そうなプライベートだという事は十分理解した。外に出て、俺はタバコに火を点ける。涼司は俺を確認すると運転席から出て、後部座席を開けた後、「お疲れ様です」と低い声と共に頭を下げた。俺はそそくさと車に乗り込んだ。



「斉藤はまだ事務所にいたか?」



「はい」



「そうか。なら、このまま事務所に戻ってくれ」



「分かりました」



しばらく車を走らせると賑やかな灯りが見えてくる。繁華街はいつ見てもギラギラのゴテゴテで眩しすぎるくらいだ。そこからまた少し車を走らせて事務所へ到着すると、何人かの若い組員に出迎えられ、俺はそのまま事務所の中へと入って行く。



「お疲れ様です!」



「おう」



事務所内にいた数人の組員は頭を下げ、斉藤は部屋の端にある自分のデスクで何やらパソコンと資料とを睨んでいた。俺を見ると頭を下げ、「どうでしたか」とすぐに近寄ってくる。



「部屋に来い」



「はい」



斉藤を部屋に入れ、俺はジャケットを脱いでソファに座る。



「お前も座れ」



「はい」



斉藤はそそくさとソファに腰を下ろし、言葉を待っていた。



「結論から言うと二千万の現金、プラス藤ヶ谷のおっさんの引き渡しでこの件は手打ちだ」



「二千万も…」



「あぁ。金は藤ヶ谷から引っ張るしかない」



「分かりました。正直、金は一銭も返って来ない可能性の方が高いと踏んでいましたので…、二千万も現金で受け渡す事自体、異例ですよね。あの松葉さんがよく飲みましたね」



斉藤は眉間に皺を寄せて俺の目をじっと見ている。



「お前が八坂議員と向こうの会長の関係を調べてくれたお陰だ。助かったよ」



「そ…そう、ですか。お役に立てて良かった…」



胸を撫で下ろす斉藤は心底素直なやつで、こうして褒めると犬のように顔に出る。嬉しそうに頬を緩めるものだから可愛らしい。



「おう。ありがとな。あの情報なかったら、金の回収なんて出来てなかったし、藤ヶ谷も向こうの手の中にあったろうよ」



「よ、良かったです…」



「そういえば、むこうは金谷に相当カンカンだったぞ。かなりの数、ノしちまったらしいじゃねぇか」



「情報聞き出すのに少し手荒なマネになったと聞いてます。金谷も青あざ作ってました」



「ハハハ、あざだけで済んだのか? 他に怪我は? お前自身は大丈夫か?」



松葉は斉藤が金谷をコントロールしている事を知っていた。斉藤だって反感買って殴られていてもおかしくはないが。



「金谷は青あざだけです。脇腹と胸、右頬の3箇所です。俺は平気です。特に何も影響はありません。…松葉若頭から俺の名前が出ましたか」



俺の心配を良い方に裏切ってくれる。



「直接名前は出てねぇな。顔の綺麗な補佐君が云々言ってたくらいだ。いや、なに、何かあったわけじゃないなら良いんだ」



「…そう、ですか。あの、カ、カシラは、心配しすぎです」



斉藤は少し頬を緩めると目を伏せてしまった。照れてるのだろうか? 困ってるのだろうか? 心配くらいするだろうがと、俺は眉根を顰めた。



「お前がいつも俺にしてる事だろう」



「それはカシラの部下として…」



「心配に上も下もねぇだろうが。それにお前が怪我なんかして入院してみろ。俺ァ仕事ままならねぇぞ」



ケタケタと笑ってやると斉藤は少しの沈黙の後、ほんのり頬を赤らめて「け、怪我も風邪も引きません」と断言する。本当に愛らしいやつだ。



「そうだな。そうしてくれると助かるよ」



「はい…」



「金谷には少し休むよう伝えてくれ」



「分かりました」



「あの件からは完全に手を引く。億の金が絡むから手は引きたくないってのが本音だが、楯突いたの何だの、上と揉めるのは厄介だ。野上組長が出てきても、親父が出てきても厄介になるだろうしな。金は藤ヶ谷から引っ張るから、どう引っ張るかってのは引き続き金谷とお前に任せる」



「分かりました」



「ありゃ金のなる木だからな」



「ですね。あいつの妻が所有してる古い土地について詰めてみます」



「おう。今回こそは下手うちたくないからな」



「はい。あ、カシラ。金と藤ヶ谷はいつ引き渡されますか」



「明日の夜だ。けど松葉がお前は連れて来るなってよ。腕の立つ若いのを代わりにって言ってたな。悪いが、お前は留守を頼む」



そう伝えると、斉藤の目の色が変わった。



「……受け入れられませんね。今回もカシラひとりで行かせたのに、次も、なんて嫌です」



どこまでも可愛い忠犬のような動きを見せる斉藤を見てつい可笑しくなってしまう。嫌です、って何だよ。



「お前は怖いんだと」



「仕方ないでしょう。あの人、カシラに何するか分かったもんじゃないですから」



「ふふ、確かになぁ。あれ、頭イカれてるからな」



「はい、だから心配なんです」



「過保護だな、お前」



「笑い事ではありません。もとは敵対組織です。…どうしても俺は一緒に行けませんか」



「連れて行きたいんだけどよ、お前連れて行ったら御破産って言われてンだ。他のやつを連れて行くよ」



「誰ですか」



「そうだなぁ、…明日、新崎忙しかったよな?」



「えぇ。夜は金の回収に回ってます。夜逃げした男の身柄抑えたので、新崎に対応してもらうつもりでしたが、新崎、連れて行きますか?」



「いや、忙しいなら良いんだ。今、書き入れ時だから人員はそっちに割いてほしい。となると、んー。…青木、暇してたよな? 明日は青木を連れて行く」



「青木、ですか…。腕の立つ"若い"やつ、ですか」



斉藤のあからさまな怪訝な顔を見て、俺はつい吹き出した。



「アハハハ、確かに、あいつはお前らに比べたら若くねぇやな。ここの新入りではあるけどよ」



俺がケタケタと笑ってみせると、斉藤の眉間に軽く皺が寄る。



「カシラ、俺はまだ青木を信用しているわけではありません。いくら松葉若頭が敵対組織ではなくなったと言っても何を考えてるのか、腹の底は読めません。カシラを刺しに来るかもしれないですし、そうなった時、青木が身を挺してカシラを守ってくれるようには思えないんです。俺は賛成できません」



「あー、まぁなぁ…」



青木は身を挺して俺を守ったりはしねぇだろうなと、俺はその時思った。むしろ刺されりゃぁ喜ぶんじゃねぇかと。



「でも松葉は俺を無闇に攻撃できなない。俺を刺しちまうとあいつは平和主義な自分のオヤジを裏切る事になるから」



そう松葉が言っていたとは言わなかった。俺が刺してくれと提案しても、刺さないと断固断った男だという事も。



「……そう、ですけど」



斉藤はもごもごと返事をする。



「心配なのは藤ヶ谷のおっさんよ。あれ、190超えてるだろ。そんで柔道やってたらしいし、そっちのが怖ぇよ。あれ暴れられたら困るからなぁ、青木と涼司と俺で行って来るかな」



「青木、腕は立つんですか」



俺を簡単に組み敷いた事のある男。あんなナリだが、銃だって平気でぶっ放す。腕が立たないわけないだろうなと、俺は首を傾ける。



「んー? んー。まぁ、大丈夫だろ。何かあったら涼司が一発殴ってくれるだろうし」



「俺ならどうにでもできますよ。柔道も有段ですし、ボクシングも経験ありますし、喧嘩も上等です。高校の時は無敗でした。…カシラ、やっぱり俺を連れて行きましょうよ」



犬みてぇだなぁ、ほんと。可愛いンだけどなぁ。連れて行きたいンだけどなぁ。俺は顎を撫でた。



「松葉がお前を連れてきたら、話はなかった事にするって言うからさ、悪いな」



「…カシラに何かするつもりなんじゃないでしょうか」



「大丈夫だって。心配すんな、な? 涼司いるし、終わったら電話入れるから。たかが引き渡しだ。安心しろ」



「悔しいです。が、分かりました。カシラが言うのなら従う他ありません」



「ふふふ。でもお前、本当、その見た目でゴリゴリの武闘派っての、やっぱり面白いな」



「武闘派…」



「元ヤンだもんなぁ。爽やか好青年みたいな雰囲気出してるくせによ」



「黒歴史です…。触れないで下さい」



「そうかそうか。そりゃ悪かった。ま、明日、お前は留守番頼むな」



「はい、俺と金谷は事務所にいますので何かあれば連絡を」



「おう。頼んだ」



斉藤と話を済ませ、俺はふぅと一息ついた。窓の外を眺めながらタバコに火を点ける。さて、明日の件について青木に連絡しようか。


青木は今頃、どこで何をやってんだろ。この時間だと飲み屋か? キャバだったりするか? 新崎とソープだったりすんのかな。ま、なんでも良いか。なんでも、ね。

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