52.真夜中の喧騒

 

 

 壁掛けの水晶灯から、淡いオレンジの光が洩れている。

 ぼんやりとした薄闇の中で体を小さくすると、床の上に二枚敷きにされた毛布がずるりとずれていった。

 

 ……眠れない。

 

 何度となく繰り返したその動作の果てに、俺は溜息を吐く。

 腕の中で丸くなっていたホムラが、瞼をピクピクとさせるのがわかった。

 

 折角の安眠を邪魔してはいけない。

 そう思いつつも、俺は毛布の上から抜け出す。

 季節柄、上には何も羽織っていない。

 そのまま息を顰めて壁に寄りかかり、片膝を抱え込んで目を閉じてみる。

 

 ……やはり、眠れなかった。

 歩き通しの旅で、体も頭もくたくだった。

 なのに、うまく寝つけない。

 

 何処で人の声がしている。

 床板を伝い、ひっきりなしに物音が響いてきている。

 恐らくは、下の階で誰かが騒いでいるのだろう。

 宿の一階は酒場となっていたので、きっとそこからだ。

 

 不意に、寝台の上の影が動いた。

 フェレシーラだ。

 闇に慣れていた目が、首元まで覆った薄手の毛布を捉えている。

 

「起きてるのか……?」 

 

 起こしてはいけない。

 そう思いながらも反射的に声をかけるも、返事はない。

 ただの寝返りだ。

 

 しんと冷えた壁と床からは、相も変わらず声が響いてきていた。


 高い声、低い声。

 陽気な声、怒鳴り声。

 男の声、女の声。

 それに唱和するように、ガチャガチャ、ガタガタという音も混じっている。

 

 周囲の部屋の人の入りまではわからないが……そちらは静かなものだった。

 どうやら寝つけていないのは、俺だけらしい。 

 

 だがそれは、階下からの喧噪に皆が無関心、というわけでもないのだろう。

 単に俺だけが、こういった場所に不慣れなのだ。

 

 生まれ育った『隠者の塔』以外で睡眠を取るのは、これで五日目だ。

 初めの一日は、シュクサ村。

 館の離れで、フェレシーラと二人きり。

 その後の三日は、野営地でのテントの中で一人きり。

 そして今日はいえば、酒場を兼ねた宿でこの体たらくだ。

 

 実のところ騒々しさで言えば、これまでがそう静かだったわけでもない。

 

 ここよりも自然の多い場所では、虫や梟といった真夜中の住人たちが、皆こぞって騒ぎ出すからだ。

 俺にとっては、それら全てが子守唄に等しいが……

 不慣れな人間にとっては、草木の揺れる音すら眠りを妨げてくることだろう。

 

「トイレ、いっとくか……」 

 

 こういうことは、慣れだ。

 気にしたところで仕方がない。

 未経験の出来事に体が過剰に反応するのは当然だ。

 新鮮味を感じるということは、何もいいことばかりではない。


 逆に言えば、いま楽しいことも、慣れてしまえば、ということなのだろうか。

 ……捻くれた思考を頭を振って追い払い、俺は床板を支えに身を起こした。

 

「鍵は確か、テーブルの上に……お、これだな」 

 

 ついつい声が出てしまうのは、心の何処かで他の誰かも起きてくれるのを期待している証だ。

 こんな夜中にうるさいね、眠れないね、と。

 そう言って、自分と同じだと安心したいからだ。

 馬鹿馬鹿しいほどに、子供っぽい考えだ。考えというよりは、欲求なのだろうが。

 

「トイレ、二階にもあったよな。廊下の突き当たり、だったっけ……」 

 

 闇というものは、無性に人の不安を掻き立ててくる。 

 目に見えるはずのものを覆い隠すだけでなく、心が創り出したものまでも助長させる。 

 何気ない物音を魔物の足音に変えて、それを静寂で包み隠す。

 引き開けようとした扉の向こうに、得体の知れない何かを佇ませる。 

 

 ……そういえば小さい頃、夜中に「お化けが怖い」って、師匠に泣きついたりしてたっけ。

 その度に、「怖くない、怖くない」って言って抱きしめてくれてた気もする。あっちも涙目で。

 

 それを思い出したら、何でもない気もしてきた。


「怖くない、怖くない……と」

 

 ぎぃ、と蝶番の軋む音が消え去る前にと、俺は廊下へと向けて足を踏み出す。

 

 ……真っ直ぐに伸びた廊下には、ところどころに小型の水晶灯が設置されていた。

 さして大きくもない宿にまで、こうした術具が当然の如く出回っている。

 それはレゼノーヴァという国ならではの、特徴であり利点なのだろう。

 

 お蔭でこんな時間まで馬鹿騒ぎをされているとも思ったが……

 それは他所の国であっても、酒の類がある限り、然して変わらないのかもしれない。

 

 余計なことばかり考えながら、廊下を進んでゆく。

 軋む床板を、走り出したくなる衝動を抑え込みながら、一歩一歩と踏み出してゆく。

 その度に、騒ぎ声が大きくなってゆく。

 

 途中、下へと続く階段があった。

 幅2mほどの、手摺を備えた大きな階段だ。

 そこをとおり過ぎようとすると、ピタと喧騒が消え失せて、宿全体が静まり返った。

 

 奇妙に思い、明々とした光を振りまいていた踊り場に目をやる。

 すると不意に階下から、「わあっ」という熱気に包まれた歓声が吹き上がってきた。


 続いてやってきたのは野次混じりの拍手喝采と、それを突き抜けてきた、二つの声。

 

「クソッタレがっ!」という、野太い男の声と、

「イエーイ! ごめんね、おっちゃーん!」という、甲高かな女の声だった。 

 

 どうやら一階の酒場で、賭け事か何かが行われていたらしい。 

 馬鹿笑いに混じりやってくる硬貨が打ち合わさる音が、俺の予想を確信へと変えた。

 

 そんな一連の音のうねりに若干の興味を惹かれながらも、再び廊下を進み始める。

 派手な勝負の後とあれば、それを区切りに床に就く者も多いだろう。

 用を足すのであれば、早めに終わらせておかないと大渋滞、という可能性もある。

 

「ふぅ……」 

 

 気持ち急ぎ目、用を済ませる。

 こちらも術具式だけあり、快適な使い心地だ。

 そうしてトイレの戸を後ろ手に閉めると、俺は無人の廊下で息を吐いた。

 

 あれから誰も、二階には上がってきていないようだった。

 階段側からやってくる声は小さくなっていたが、光と熱の雑多さはそう変わらないが……

 

 しかしそれも、長続きはしないだろう。

 今度こそ眠りにつける。

 そんな期待を胸に、俺はポケットにしまっていた鍵を握りしめ、廊下を進み始めた。

 

「あー、勝った勝った! 爽快爽快! 見てたレヒネ、あのおっさんの顔!」 


 部屋へと戻る途中、それは踊り場のほうからやってきた。

 何処かで耳にしたことのある若い女性の声。

 驚き、俺は反射的に廊下の片隅に移動する。 

 

「見てたけど……町について早々、派手にやり過ぎよ。こっちでもまた敵を増やす気?」


 続いてやってきたのは、先程よりの女性よりも落ち着いた声。

 大人の女といった感じの、艶のある声だ。


「むぅ……だ、だってアイツ、アタシたちのコト、若造若造ってバカにしてたじゃない!」 

「そんなことで一々突っかかっていたら、限がないし。それよりも……ほら、プリエラ、部屋まで歩ける?」

「あ、ありがとうございます、レヒネ……う、ぷ……っ」 


 最後の声は、儚げというか、弱弱しげというか……明らかに無理をしている、女の子の声だった。

 

「あれま。プリエラも毎度毎度、大変だねー。お世話になってるアタシが言うのもなんだけど。あんま無理して食べるのもよくないと思うよー」 

「それは、仰るとおりなのですが……うぅ……」 

「ああ、もう。肩、貸してあげるから。喋らないで、そっちの手摺にぎって」 


 三人分の声が、踊り場からどんどんと近づいてくる。

 どうやら具合の悪い子に合わせて、ゆっくりと上がってきているらしい。

 

「それにしても、あの人にしては珍しいこともあるのね。いつもなら一緒に戻るのに、今日に限って一人で飲みたいだなんて」 

「たしかに。特に今日なんて久しぶりの屋根の下なのにねー……って、もしかして、アレかな? ここってホラ、ナントカ教団の前だし。一応自粛してるとか?」 

「自粛って……ああ。公国の掲げてる、一夫一妻制を気にしているって話? 流石にそれは……今更すぎない? どっちもって意味で」

「そっかー。あ、じゃあさじゃあさ。実は今日、二人と合流する前にね――」


 ゆっくりと、しかし着実に近づいてくる声。

 その会話の波に合わせて、俺は歩みを再開する。

 

 話の内容から察するに、彼女たちにはもう一人連れがいるようだが……

 不可抗力とはいえ、このままでは盗み聞きも同然だ。

 それに相手は、酒が回っている可能性だってある。

 夜中に騒ぎを起こしては、フェレシーラにも迷惑をかけてしまうだろう。

 

 そう判断して、俺は迷わず廊下を突き進む。 

 背後からの声が、瞬く間に遠ざかってゆく。

 ポケットから鍵を取り出す頃には、話し声は一切届いて来なくなっていた。


「ふぅ……セーフ、セーフ」

 

 本心からの言葉を口にしつつ、ドアノブを回す。

 

 予想外の出来事に焦ってしまったが、お蔭でというべきか、酒場からやってくる喧噪にも慣れてきた気もする。

 この分なら、案外すんなりと眠りに就けるかもしれない。

 そんなことを考えながら、俺が部屋に舞い戻ると、

 

「ちょっと、フラム……」


 そこには寝台の上で半眼となり、ネグリジェ姿でこちらを見据えてくるフェレシーラの姿があり。


「貴方こんな時間に、どうしてくれるのよ……これ……」 

「ピィ……ピィ、ピィィー!」

 

 床の上を泣き喚きながらグルグルと走り回る、ホムラの姿があったのだった…… 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る