35.白羽根一閃
「フェレシーラは……!」
遅まきながら俺は頭を巡らせて、状況の再確認へと移行する。
場所は滝壺の中……正確には、その裏側だ。
大の大人が同時に四人は通れそうなほどに、ぽっかりと開いた洞窟の入口だ。
そこで俺と影人が縺れ合っている。
それ以外のことは、わからない。
というか、目に入れる余裕が欠片もない。
無理に洞窟内の様子を探ろうとすれば、影人に自由を与える可能性が高かった。
なので、それはやるべきではない。
今優先すべきことは、とにもかくにもピィピィと喚くチビを守り抜く。
それだけだった。
それが出来なければ、こんな真似を仕出かした意味もなくなってしまう。
目の前で倒れてしまった彼女の想いを叶えてやることだけが、今の俺の目的だった。
それを馬鹿げているとは思わない。
だが、またも付き合わせてしまった、という想いだけはある。
背後から時折やってくる光の瞬きに、俺は心の中で詫び続ける。
それはフェレシーラが、今も人型の群れと交戦している証左に他ならない。
おそらくは影人が、足止め用の人型を今も生み出し続けているのだろう。
「くそっ……!」
それを理解したところで、俺には腕に力を籠めたまま歯ぎしりすることしか出来ない。
今更ながら、揉み合いに強い短剣を手放していたことが悔やまれた。
一瞬、両の手に視線が行くが……それも諦めるしかなかった。
手甲の力を用いた疑似的な術法の行使には、まだ自信がなかったからだ。
影人を倒すだけの出力を捻出する。
その上で、雛を巻き込まないように範囲を絞る。
それを両立するだけのアトマのコントロールを、取っ組み合いの真っ最中にやってのける。
そんなことが、今の俺に出来るとは到底思えなかった。
例え万全の状態であったとしても、最初の二つを満たすことすら難しいだろう。
つまり今の俺には、状況を打開する術がまったく見当たらなかった。
「くそっ、こんなことなら……首にでも、しがみ付いとけよ……! ほんと馬鹿だな、俺ぇ……!」
「グ、ガァッ……!」
せめてもの抵抗とばかりに両腕を締めつけると、激しい抵抗が跳ね返ってきた。
「でも……こうしていれば、お前も手詰まりだ!」
ざまあみろと吐き捨てて、俺は腕に籠める力を一層と強めた。
今の俺には、これぐらいのことしか出来ない。
出来ないが……こちらには幸い、フェレシーラという心強い味方がいる。
影人が囮の為に分裂体を産み出そうとも、それが衰える兆候は既に見て取れていた。
ゆえに今の俺に出来る最善の手は、こうして時間稼ぎに徹することだと断言出来る。
無闇に手甲の力に頼る必要はない。
どれだけ影人が暴れようとも、こっちはこのまま――
「――え?」
このままこいつを羽交い絞めにしておけばよい、と。
そう結論付けたところで、それは起こり始めていた。
「グ、オ、ァ……ギ、グゥ……!」
気づけば、濁った獣声と共に腕の中の抵抗が増し始めていた。
「こ、のぉ……おとなしく、しやがれ……!」
それを俺は悪足掻きだと決めつけて、押さえ込もうとする。
すると影人の肩に触れていた顎下へと、何かが押し付けられてきた。
硬いゴツゴツとした、だがそれまで感じていた地肌とは異なる、奇妙な滑らかさ。
それに顎がグイグイと押されてゆき、横向きにさせられる。
突然の、しかし初めてではない影人の変容。
「くっそ……こい、つ……またかよっ!」
その変化に巨人化した影人の姿を想起させられて、焦りの声があがる。
あれだけのダメージを受けた上、分裂体まで乱造したというのに……こいつはまだそれだけの余力を残しているというのか。
ならば、迷っている余裕など何処にもない。
リスクを冒してでも、手甲を介しての攻撃魔術でダメージを入れておくべきだ。
不可能となりつつある最善を捨てて、可能な次善を取るべきだ。
「カッ……」
その選択を嘲笑うように、腕の中のそいつが声をあげてきた。
続けて、頬に当たっていた何かが大きく膨れ上がり始める。
急速に体積を増してゆくそれに、こちらの胸部が圧迫されてゆく。
「カカ、カカカカカ……!」
嘲笑が、洞窟中へと反響してゆく。
影人がこちらを振り返る。
「な――」
その姿に、俺は絶句していた。
見れば無貌であったそいつの顔には、一対の瞳があった。
だがそれは、それまでの影人が備えていたヒトのものではない。
それは、獣の目だった。
レモンイエローの眼球の中心に黒点を浮かべた、獣の目。
それがこちらをギラリと睨み、犬歯を剥き出しにして笑みを見せていた。
その影人の体から、淡い輝きが発せられる。
獣の目に、四肢に、力が宿り始める。
翡翠色の燐光を立ち昇らせて、耳障りな笑い声をあげるその姿に。
明らかに巨人化とは異なるその異様に、怖気が走る。
「おま、え」
背筋を駆け抜ける、吐き気を伴う悪寒。
このままでは危険だ。
今すぐこいつから距離を取れ。
影人に対して力負けしているという現実と、未知の事象に対する怖れから、理性が警鐘を鳴らしてくる。
だが俺は、それに従うことが出来ずにいた。
先程から頬骨に押し付けられてきていた茶褐色の物体が、そうさせてはくれなかった。
こちらの眼前にまでせり上がってきたそれが、見覚えのあるものだったからだ。
「おま、え……それは、お前が……っ」
同時に、胸の奥から沸々とした感情が湧き上がってくる。
目の前の影人が放つ翡翠色の燐光。
アトマを吸い上げたというフェレシーラの推測。
鬱蒼たる森の中天を飛翔していた幻獣の、最期の姿。
それらが次々と頭の中で混じりあい、一つの結論となった瞬間に。
「それは……それは、お前のモノじゃねえんだよ! この、糞野郎!」
俺は叫んでいた。
「返せよ……!」
既に上半身をグリフォンのそれへと変容させていた影人に向けて、俺は叫ぶ。
それは、怒りの声だった。
しかし同時に、疑問も湧き上がってくる。
爪を突き立て、殺傷した対象の姿を模倣、もしくは複製する。
そうした一連の事象を見るに、髪も瞳もない影人は『素体』とでもいうべき代物なのだろう。
ならば影人が、そうして吸い上げたアトマを元に変容するというのならば。
何故今までの影人は、あんな姿をして――
「どうでも! いいんだよ! 今は! そんなことは!」
「カカカ、カカ……ッ!」
加速的に力を増す影人を相手に、俺は尚も叫ぶ。
肩が大きく押され、脚が乱暴に蹴飛ばされて、後頭部が岩壁へと擦り付けられる。
痛みが、全身のそこかしこからやってくる。
耳元ではピィピィという、小さく、不安げな声。
負けるわけにはいかなかった。
何としてでも、何に変えてもこの盗人を自由にさせてやる気はなかった。
だがしかし、そんな俺の決意も虚しく影人の勢いは増してゆく。
「カカカ……ケェーッ!」
「ぐっ!?」
焦げ茶の羽根が肩から抜け出て、バサリとはためいた。
その衝撃に抗しきれず、俺は仰向けの体勢で地面に押し付けられる。
自由となった影人の腕が、鉤爪が、己が胴を捉えていた非力な男の下腕へと喰い込む。
鋭い痛みがあり、それはこちらの肘を伝い脳にまで響いてきた。
「ぐ、ぎ……!」
岩壁と両腕。
中と外からやってくる激痛に、情けなくも悲鳴があがる。
限界だ。逃げられる。
こんなヤツを逃がしてしまう。仇も討てずに、終わってしまう。
頭の中が悔しさと諦めで一杯になる。
――そこに、濡れた砂利土を蹴り飛ばす音がやってきた。
それまで幾度となく耳にしていたその音に、頭の中に巣食っていた闇が祓われてゆく。
敷き詰められていた絶望を、真っ白なブーツが蹴散らしにかかってきた。
「――フェレシーラ!」
「お待たせ! それでもって、そのまま!」
駆けながらの一声に、俺は戦槌を握りしめる少女の姿を幻視する。
目の前には、相も変わらず暴れまわる糞野郎。
頭の中に残るのは、刺すような痛み。
「どっちも――」
それをまとめて殴りつけるつもりで、両の拳に意思を乗せて。
「止まってろ!!」
俺は手甲の力で以て、影人を縛り付けていた。
「カカ――ガカッ!?」
不意に腹部へとやってきた締め付けに、影人が全身を跳ね回らせる。
俺は動かない。
既に感覚の麻痺した腕がミシミシと骨の軋む音を立てるも、意地でも動いてはやらない。
影人の頬が大きく膨らむ。
乱杭歯を覗かせたその奥に、逆巻く翡翠の輝きが灯る。
それを俺が、何らかの攻撃の予兆だと捉えた瞬間に――
「聖伐の浄撃よ!」
横合いからやってきた光槌の一閃が、偽鳥の頭部へと叩き込まれた。
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