34.疾駆する獣


 無数の影人との乱戦の最中、俺は走り出す。


「いたぞ、フェレシーラ!」 


 そうしながらも従士の少女の名を叫ぶと、「どこ!」という声が返されてきた。

 

 距離は、こちらが近かった。

 間に立つ分裂体もいない。 


「滝壺側だ! こっちでやる!」

「ちょ……気を付けなさいよ!?」

「ああ! そっちこそな!」 


 慌てる声に短く応えて、俺は上体を下げて加速する。

 右手は既に、焦げ付いた短剣の柄を握りしめている。

 

 見据えた先には、一匹の影人。

 ぱっとみは、他の分裂体とかわらぬ小柄なタイプ。

 俺たちを取り囲む包囲網の一番外側にいた、湧きたてのヤツだ。

 

 そいつに向けて、俺は突進してゆく。

 すると、他の分裂体の動きに変化が現れた。


「お、わっと!?」


 不意に横から掴みかかってきた一匹を、俺はスライディングに移行して何とかやり過ごす。

 万全の体調であれば、前に出続けるだけでも十分に避けれた攻撃だが……

 フェレシーラの回復術を受けたとはいえ、思っていた以上に体力を消耗していたらしい。


「でも――よっと!」 


 ここまで来て、という思いで俺は態勢を立て直すと、再び礫地を駆け出していた。

 みれば目標の影人は、こちらに背を向けて走り出している。

 目玉も髪の毛もないそいつが、何故、遠目にあって背を向けたとわかったのか。 

 答えは、簡単だった。

 

 そいつの顔には、大きな牙があったからだ。

 ついでに言えば、その腕からは短いながらも鉤爪まで生えている。 

 それは、これまで俺たちが目にしてきたタイプの影人が持つ特徴だ。


「頃合いをみて、川にでも飛び込むつもりだったんだろうけどな!」


 分裂体が出てくるとなれば、その大元……本体がいる。

 そしてそいつは――正にその呼び名の如く――影となって地表に張り付き、こちらの目から逃れていたのだろう。

 

 だが、俺とフェレシーラは既にその出現を予期していた。

 だから彼女は、心配しながらもこちらに本体への追走を任せてくれたのだ。

 その信頼を糧に、俺は疾駆する。


「光よ! 仇なす者共を、討ち払え!」 


 そこに高らかな呪文の詠唱が響き渡り、閃光が瞬く。

 遅れてやってきた爆風を背に受け、一気にスピードに乗る。

 残す影人との距離は十数m。

 

 短剣を逆手に、手甲に意識を集中する。

 斬撃で殺れなければ、逃げる背中を焼き払ってやるまでのこと。


「ピィ――」 


 そんな算段を立てていた俺の耳に、微かな鳴き声が聞こえてきた。

 声は、影人のほうからやってきていた。


「ピィ、ピィ……」

「え――あ、わっ!?」


 その小さな声に気を取られた瞬間、俺は踏み込んだ足を滑らせていた。

 そしてそのまま、濡れた砂利の上へとものの見事にすっ転ぶ。


「んな……! グリフォン、か……!?」


 滝壺の向こう――いや、その裏側からやってきたそれに、俺は思わず誰何の声を投げかけて。

 そしてそのまま声を失い、そいつの姿を呆然と見つめる羽目に陥っていた。


「ピィ! ピィィ!」 


 それは、地面スレスレにあったこちらの視界に飛び込んできた。 

 

 羽根は白茶の斑模様、頭は純白、嘴は真っ黄色。

 腹から下はずんぐりとした黄褐色で、尻尾はさきっちょだけが真っ黒。

 それが頼りない鳴き声をあげながら、滝壺近くの河原をよちよちと歩き回っている。

 

 俺はそれを、馬鹿みたいに口を空けたまま凝視する。


『グリフォンの番いが、平野部から森の奥深くにまで移動してくるのはね――』


 脳裏では、忘れ去っていた師匠の言葉が響き始めていた。

 焦り立ち上がろうとするが、そこで俺はまたしても無様に足を滑らせる。

 

 勘違いをしていた。

 ブーツの爪先が丸石を噛み損ねて、みっともなく滑り藻掻く最中。

 俺は自身の思い違いに、今更ながら気づかされていた。 

 

 影人は、俺たちから逃走していたわけではなかったのだ。

 一直線に駆ける黒塗りの後ろ姿を目にしながら、俺は遅まきながらそれを理解する。

 

 不安げに視線を彷徨わせる雛に向けて、どんどんと距離を詰める鉤爪を前に、俺は――


「や、やめ――」 


 制止の声をあげる間もあらばこそ。

 影人の振り上げた凶器は、グリフォンの喉首を捉えていた。


「――」 


 その光景を前に、頭の中が真っ白となる。

 なんの思考も果たせなくなったそこに、声だけが響いていた。


『数年に一度、子を産み、育てる為だけにやってきているの』


 水晶球を見つめる、金と銀の瞳。

 あのどこか物悲しい色をした眼差しの、その意味を。


「あ……」 


 再び天へと掲げられた一対の翼を前に、俺はようやく理解していた。


「あああ」 


 足が駄目なら、手しかなかった。

 右手を思い切り叩きつけると、逆手にしていた短剣が独りでに地に突き立った。

 それを梃に、俺は無理矢理体を引き起こす。


「ああああああぁ」 


 口が勝手に何かを喋ろうとしているが、形にならなかった。

 鉤爪が、動く。

 上から下に、堂々たる姿を見せていた彼女の喉から胸元へと。


 彼女は動かない。

 迫る影人を前に、我が子の元へと躍り出ていた雌の――母グリフォンは、微動だにせずにその狂爪を我が身で受け止めていた。 


 視界が、急にブレた。

 とっくにボロボロだったはずのグリフォン。

 動きを止めた影人。

 その二つを捉えようとして、ただそれだけのことが上手く行かず。


「あ――」


 だがそれがどんどんと大きく見え始めた中、その足元で嬉しそうに「ピィピィ」とはしゃぎ始めた雛を見て。


「あああああああああああッ!」 


 俺は四足の獣の如く、その光景の只中へと飛び込んでいった。

 どんっ、と頭から黒い背中にぶつかった。


「おまえ、おまえ」


 やめてくれ、やめてくれと懇願する代わりに、手がそいつの胴へとしがみつく。


「おまええええええッッ!!」 


 いまだ腕の力を一向に抜こうとはしない影人に縋りつくように、俺は叫んでいた。

 

 気付けば手の中に、短剣はなかった。

 しかしそれも仕方がない。

 獣は道具を扱えないがゆえに、獣なのだ。

 なのでそれは仕方がない。

 考えるまでもない。

 なので俺は、獣らしくやることにした。


「おおおおおおおお」


 腕に力を、脚に踏ん張りを。

 そして喉からは怒気を撒き散らして、俺はそれを実行する。

 抱きかかえるようにしていたそいつが、吠え声をあげて抵抗する。

 だが、そんなことは知ったことではない。


「お、ああ゛っ!」 


 そして俺は、濁った獣声と共に地に転がった。

 獣が二匹、仲良く砂利土の上で横倒しだ。


 しかし今の俺には、ざまあみろと口にする余裕すらない。

 ただ頭の中にあったのは、せめて、という願いだけだった。


「おい……おい、チビ! 逃げろ! 逃げろ、チビ!」


 腕の中で狂ったように藻掻く影人に必死に組み付きながら、そこでようやく意味のある言葉が出てきてくれた。

 やっとの思いで首を巡らせると、そこには崩れ逝くグリフォンの姿があった。


 再び、頭の中が空っぽになりそうになる。

 なるが、そうなるわけにはいかなかった。

 今の俺は、この影人を離すわけにはいかない。

 彼女の為にも、絶対に死んでも離すわけにはいかないという思いしかなかった。


「おい、なにしてんだ! 早く逃げろって! 早く、はやく、してくれ……!」 


 だがしかし、懸命の想いでそう叫ぶも、雛は全く動いてはくれない。

 そいつは既に地に倒せ伏していた母親の周りとウロウロとするばかりで、こちらの声など全く聞こえていないようだった。

 馬鹿かと思った。


 いや、馬鹿だった。


「ああ、そっか……そうだよな。そりゃあ、そうだよな……!」


 思わず自分の頭を殴りつけたくなる衝動に駆られながら、俺はそれを口にする。

 言葉が通じないことを失念していただとか、そんな次元の話ではなかった。


「かあちゃん置いて、何処かに行けだなんて……ないよな、そりゃあ!」


 馬鹿は、俺だった。

 それを自覚したことで、ようやく思考が回り始めていた。


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