思い出コーヒー
長井景維子
短編です。5分で読了可能。
その店の外壁には蔦が絡まり、小さな看板には控え目な書体で『道草』と書いてある。
フランチャイズのカフェが多くなってきた昨今、珍しくなった純喫茶の一つだ。扉の周りだけ、蔦を刈り込んであり、開閉には困らないものの、蔦の伸び具合はこの店がもう四、五十年は営業しているらしいことを容易に物語っていた。
私は30分ぐらい時間を潰さなければいけなくて、この喫茶店の前に来た。今までに入ったことはなかった。不思議と前を通っても、気に止めることなく通り過ぎてしまっていた。
「こういう店にもたまには入ってみようか。」
初夏の眩しい日差しに目を細めながら、私は喫茶店の扉を開いた。
中は薄暗く、明るい外の日差しに慣れていた目がこの暗さに慣れるまでに数秒かかった。テーブル席が四つ、カウンター席もあり、年老いたマスターが入って来た私に気づいて、
「いらっしゃいませ。」
と、一言、ガラスのコップを磨きながら、ニコリともせず顔だけこっちを見て言った。マスターは80になろうかという、長い白髪を後ろに束ねた老人で、口ひげを蓄え、赤いエプロンに黄色いバンダナを首に巻いていた。客は他にいなかった。
私は軽く会釈をすると、一番近いテーブル席に座った。店内は喫煙も出来ると見えて、透明なガラスの丸い灰皿がテーブルごとに置いてある。
マスターは磨いていたコップに氷水を注いで持って来た。
「メニューはひとつだけです。思い出コーヒー。豆は直焙煎のハワイコナを使ってます。」「思い出コーヒー?」
「はい。目をつぶって味わってください。心を込めて淹れますので。」
「じゃ、それください。」
「はい。」
マスターはカウンターの奥へ戻ると、ティーケトルでお湯を沸かし始めた。そして、カウンターの奥の食器棚からコーヒーカップとソーサーのセットを選び取って、自分の前に置いた。コーヒーカップとソーサーは1客づつ色々な種類が並んでいる。どれもマスターの趣味の良さを表すように味のあるものばかりだ。
ドリッパーとサーバーをセットすると、ティーケトルのお湯が沸き始めた。マスターはケトルのお湯でまずカップを温め、次にサーバーを温めた。温めたお湯を捨てると、ドリッパーにフィルターをセットして、挽いておいたハワイコナを測ってフィルターに入れた。
そして、ティーケトルからゆっくりとお湯を注ぎ始めた。少し注ぐと、しばらく蒸らすように待って、注いだお湯が下のサーバーに落ちたら、次を注ぎ、ちょうどカップ一杯分のコーヒーをドリップした。出来たコーヒーをあらかじめ選んで温めて置いたコーヒーカップに注ぎ、コーヒーシュガーと生クリームをお盆に乗せて、ソーサーと一緒に私の方へ運んで来てくれた。
「お待ち遠様。どうぞゆっくり、口に含んだら、目をつぶって味わってくださいね。」
私は妙なことを言うこのマスターをじっと見上げて、次にマスターが置いて行ったコーヒーとシュガーとミルクを見つめた。まず、ブラックで飲んでみようと思った。
一口、口に含もうとすると、上品で奥の深いアロマが鼻腔をくすぐった。まず、香りでこの喫茶店に入ってよかったと思った。
「思い出コーヒーってなんだろう?」
一口ブラックで口に含み、目を閉じると、目の前に花束が現れた。白いバラの花束だ。それを飲み込むと、ウエディングドレスを着た、美しい花嫁が現れた。あまりの美しさに気を取られていると、その花嫁の隣に若い男が現れた。白いスーツを着ているから、新郎だ。そこで、画像が乱れ、昔のブラウン管のテレビが時々荒れた画像を出したときのようなザーザーとした画面になった。
私は目を開き、コーヒーに今度はミルクを入れてかき混ぜて、また一口口に含んで目を閉じた。すると、さっきの続きの画像が現れた。新郎の顔を見て、どこかで見た男だと思い、考えていると、さっきのマスターの若い頃だとすぐにわかった。また飲み込むと画像が荒れ始める。私はまたコーヒーを口に含み、目を閉じて、この結婚式を傍観した。コーヒーを口に入れるたびに花嫁と新郎のキスの場面、花嫁の両親、新郎の両親にそれぞれが手紙を読む場面などが現れたが、不思議と無音でなんの音もしなかった。最後にコーヒーシュガーも試しに入れてみたが、相変わらず、画像が浮かぶだけで、音はなかった。
コーヒーを飲み終えて、マスターを見ると、何食わぬ顔でまたグラスを磨いている。
「ごちそうさま。美味しかったです。」
私は会計を済ませようと、席を立ち、マスターに千円札を一枚渡して、お釣りの550円を受け取った。
「また来ます。美味しかったから。素敵な奥様ですね。」
「ありがとうございました。」
私は扉を開け、外に出た。三十分が丁度経って、目的地に歩き始めた。
またある日、その喫茶店『道草』が気になって、もう一度、訪ねた。この間、飲んだコーヒーとマスターの思い出の結婚式の映像が忘れられず、また、思い出コーヒーが飲みたくなった。話してもきっと思い出コーヒーなんて信じる人はいないだろうと思い、不思議と人に話す気が起きず、誰にも話さなかった。
マスターはバンダナの色をブルーに変えただけで、この間と同じ出で立ちで、カウンターの奥に立っていた。
「いらっしゃいませ。」
「この間、美味しかったので、また来ました。」
「そうですか?ありがとうございます。」
「じゃ、また、思い出コーヒーを。」
「はい。」
マスターはティーケトルを火にかけると、コーヒーカップとソーサーのセットを選び始めた。今度は白の地に淡いピンクの花柄のカップだ。マスターはこの間と同じ要領で丁寧にコーヒーをドリップしてくれた。
コーヒーとシュガーと生クリームが運ばれて来た。私はブラックのまま、香りを嗅いで、口に含んだ。そして目を閉じ、飲み込んだ。すると、今度は若かりし頃のマスターが赤ん坊を抱いている。赤ちゃんは女の子のようだ。また画像が荒れ始めたので、急いでコーヒーにミルクを入れてかき混ぜて、口に含んだ。目を閉じると、赤ちゃんが泣き始めた。美しい奥さんらしい女の人が哺乳瓶を持って現れた。私がコーヒーを飲んでいる間中、赤ちゃんはミルクを飲んでいた。三人がいるのはアパートの一室のようだった。そして、コーヒーがなくなり、画像は終わった。
「ごちそうさま。今度、家内を連れて来ていいですか?」
「どうぞどうぞ。」
マスターはにっこりと微笑むと、私にこう言った。
「カップの数だけ思い出があります。家内はその全てに登場するんですよ。」
「素敵なご夫婦ですね。奥様はお元気ですか?」
「はい。時々店にも出てくれます。もう、七十をすぎてますが。若い頃は綺麗でしたよ。」「はいはい。私もお綺麗な方だと思いました。」
「それでは、奥様にはうちの家内から思い出コーヒーを淹れさせましょう。」
「はい。楽しみにしています。」
私は、近いうちに妻と二人で来ようと思い、妻に話そうと思った。妻なら信じてくれるだろう。信じられないと言っても、ぜひ連れてこようと思った。
(終わり)
思い出コーヒー 長井景維子 @sikibu60
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