第4話 震天動地
レースが始まると同時にプリテイキャストはスタート下手な彼女にしては珍しく好スタートを決めてハナを切り、カツラノハイセイコ以下の後続は模様眺めに徹していた。だが道中を単騎一人旅で進むうちに気分が良すぎたのか、プリテイキャストは鞍上の柴田政人騎手の指示を無視して暴走気味にリードを大きく広げていく。
しかし、毎日王冠から手綱を取り直前の目黒記念での大敗を経験していた柴田騎手は最初からこうなることを予期しており、そもそもの話として人気薄で気性難の逃げ馬に乗っている以上暴走して負けたところで真面目に走って負けたのと大きく変わりはない、という気持ちも少しはあっただろうか。一応は手綱を握りながらもプリテイキャストの好きにさせてやろうと腹を括って騎乗を続けていた。この時、彼にはあまり正確に後続が見えていなかったに違いない。
だが、仮に見ようとしたところで見えるはずもなかった。プリテイキャストと後続との差は最大で100mを超えているかと思われるほどに開いている。あの長い東京競馬場の直線でコーナーからコーナーまで目一杯に馬が離れている光景を想像してみてほしい。それくらいの差であった。しかもプリテイキャストの逃げはハイペースにはほど遠い、当時の平均からしてもスローに属するかもしれない時計でしかなく、向正面の模様を観戦していたファンには次第に期待とも不安ともつかない異様な雰囲気が広がっていく。
勿論、追っている側全員がそれに気づけなかったわけではない。一時期プリテイキャストの主戦を務めレースでは四番人気のメジロファントムに騎乗していた横山重雄騎手はあまりにもプリテイキャストが気楽に逃げすぎていることへ危機感を強めつつあった。
これはまずい。
同様の懸念を人気薄のアラナスゼットに騎乗していた岡部幸雄騎手も抱いていたが、肝心のカツラノハイセイコとホウヨウボーイが目の前にいたまま動こうとしなかったため対応に苦慮していた。カツラノハイセイコ鞍上の河内洋騎手と、ホウヨウボーイ鞍上の加藤和宏騎手は揃って馬の能力に自信を持っていたがゆえ「本気を出せばプリテイキャストを捉えるのは容易い」と慢心し他のライバルのことにしか気が向いていない。動かない本命馬たちを無視して動くわけにもいかない他の馬たちも凍りついたように仕掛け時を見失っている。
そんな展開のままプリテイキャストが向正面の直線を抜け早めのスパートをかけ始めたところで、我慢の限界を迎えたメジロファントムとアラナスゼットが本命馬たちに目もくれず進出を強行し、それを見たカツラノハイセイコやホウヨウボーイ、また他の馬たちもようやく出番が来たかとばかりに動き出したが、彼らは気づけていなかった。
自分たちがすでに主役の座から引きずり降ろされていたことに。
勝負どころを迎え、本格的に後方の状況へ意識が向いた柴田騎手は降って湧いた千載一遇の好機を逃すまいと渾身のムチを振るっている。ペース配分も何もなく気ままに走っていたプリテイキャストは騎手の𠮟咤激励もむなしく直線でずるずる失速していったものの、それまでについていた差は最後の直線に入った時点でも尚50mくらい離れており、いかに失速しようと後方が必死に追いかけようと時すでに遅し、どうにもならない状況にスタンドのファンは騒然となった。
周囲の喧騒をよそにプリテイキャストが見事ゴールを果たしたあと、先に動いて何とか二着を確保したメジロファントムとの差は最終的に七馬身開いていたと記録されている。三着にはやはり先に動いていた十番人気のアラナスゼットが食い込んでおり、当時三連単馬券が買えたとしたら壮絶な配当となっていたのは確実だろう。一方、本命と目されていたカツラノハイセイコとホウヨウボーイは双方ともに掲示板から外れる大惨敗を喫しファンからの厳しいブーイングをもって迎えられる結末となった。
なお、1953年のクインナルビー以来秋の天皇賞では9年ごとに牝馬が勝利していてある種のジンクスとして知られておりプリテイキャストが勝利したことで一応は維持されたものの、その後は距離変更や競走体系の変化など様々な要因が重なったことでそれは途絶え、次に秋の天皇賞を勝つ牝馬が現れるのは1997年、平成初期の女帝エアグルーヴまで待たねばならない。
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