9,月が満ちる

 正直なところ、あまり覚えていない。

 その時の感触、景色、考えていたこと、痛みについて。

 記憶にあるのは、ほのかな血の匂いと、喉を突くような胃酸の味だけだ。

「大丈夫? もう落ち着いた?」

 みぞれが俺の傍に来て、壁にもたれかかる。

「――大丈夫。うん、大丈夫」

 少しでも気を抜くと、また吐き気に襲われそうになる。

 命を奪うという行為は、俺には重すぎた。

 床にしゃがみこんで、周囲を囲むフェンスを眺める。生徒にも解放されている屋上では、必然的にフェンスが高い。空はもう夕焼けが広がっていて、幻想的で、こんな物騒なことをするのにはあまりにも似合っていない。

 昨日、無様にもみぞれに泣き顔を晒して、家に帰って計画を考えた。今までは、「暴力に頼るのはやめよう」というプライドがあったけれど、なんだかどうでもよくなってしまった。

「ごめん、こんなことに付き合わせて」

「いーよいーよ。言ったでしょ? 透夜くんのためにはなんでもするって」

 みぞれには、あいつを呼び出して、それから気を引いてもらった。あたかも告白するための呼び出しかのような手紙を書いてもらって、靴箱に入れる。あとは、適当に雑談をしてもらって、その隙に、俺が後ろから――。

 角材を使った。ホームセンターで買った。どれくらい必要か分からないから、何度か殴った。

「それじゃ、誰かに見られたらいけないし、もう行こうか」

 みぞれが、俺にそう促す。

 あいつの体は、気分が悪かった俺に代わってみぞれが隠してくれた。いろいろとやらせてしまって本当に申し訳ない。でも屋上は誰でも入ることができるのだから、見つかってしまうリスクはある。早くこの場から離れないと。

 俺は差し出された手を取って、立ち上がる。

 沈みかけの太陽に、背を向けた。


「そういえば、昨日から気になってたことがあるんだけど。聞いてもいいかな?」

「いいけど……なに?」

「昨日の透夜くん、朝から暗い顔してたでしょ? あれって結局なんだったの?」

「あれは……、明路とケンカして、家出されたから……」

「あー……それはヘコんじゃうね、生きがいがいなくなるっていうのは」

「自殺しようかとも思ったけど……でも、しなくてよかった」

「えっ、それって、今この瞬間、かわいいみぞれちゃんとお話できてるから?」

「…………なわけないだろ」

「っはは、冗談だよ。あと、もう一つ疑問ができたんだけど、言ってもいい? 言うよ?」

「あ、どうぞ」

「透夜くんにとっての明路ちゃんって、君の理想的な『生きがい』が具現化したようなものだと思うんだけど、だったらなんで、家出なんかして、透夜くんを絶望させるようなことをしたのかな?」

「たしかに……なんでだろう」

「もしかして、明路ちゃんがいなくなることが、君の本当の望みなんじゃないかなー………って、思っちゃったり」

「……………」

「………ごめん、ひどいこと言ったよね」

「い、いや……、大丈夫」

「あんまり大丈夫じゃなさそうだね……本当にごめん」

「平気だから。謝らないで。……じゃあ、俺からも質問、いい?」

「もちろん! えっちなことでもいいよ?」

「……みぞれって、俺のためにならなんでもするって言ってくれるけど、そろそろその理由を教えてくれないか?」

「えー、それ聞いちゃう? 自分で考えてって言ったのに」

「ごめん。理由がわからないのになんでもしてくれるっていうのは、やっぱり怖いから」

「まあ……いっか。教えてあげる。――本当に大したことない理由だけど……、笑わないでね?」

「うん。絶対笑わない」

「ありがと。……透夜くんって、似てるんだよね」

「誰に?」

「お父さんに。目元とか、そっくりなんだよ」

「お父さんって、みぞれの、だよな?」

「そうそう。私が小さい頃に死んだ、お母さんと心中した人」

「………。そのお父さんの名前って、聞いてもいいか?」

「? 輝陽だけど……それがどうかした?」

「そうか……、……。いや、なんでもない。いい名前だな」

「でしょ⁉ 明るくて、みんなに幸せを分けてくれそう。――でも実際は、不倫しちゃったんだけどね!」

「そんなことを元気に言うなよ」

「――――あ、着いたね」

 日は沈み、空には、真ん丸な満月が輝いている。

 俺たちが到着したのは、大きな橋。俺とみぞれが、最初に出会った場所だ。

「ねえ、透夜くん。さいごの質問なんだけどさ」

 当然のように腕を組んで歩いてきた。みぞれは頭部を俺の肩に委ねて、言った。

「透夜くんは、今まで明路ちゃんのために生きてきたって言ったけど……、私のために生きたいとは、思わないの?」

「……そうだな」

 俺はそんなことを、思えない。

「俺は、お前のために生きることはできない……。みぞれのためには、死ぬことしかできない。それしかしたくない」

「うん……そっか。っははは! よかった!」

 嬉しそうに笑って、俺の腕を離し、欄干に飛び乗るみぞれ。それだけでも見ていてヒヤヒヤするのに、それに加えて片足で一回転してみせる。……恐怖という感情が死んでいるのだろうか。

「透夜くん!」

 みぞれは、片手をこちらに伸ばす。

 初めて会ったときのように、月明かりに照らされて。

 きれいだ。

「私と、踊ってくれますか?」

「――はい」

 俺は、みぞれの手を取った。

 ……取ったものの、この手に縋って欄干に上れば、みぞれもさすがに落ちてしまいそうだ。俺は自力で、欄干に――、ステージに上った。

 この粗末な晴れ舞台が、俺たちにはよく似合っている。


 二人で、フォークダンスを踊った。今年の体育祭、俺は学年でフォークダンスをしたから、多少はみぞれに動きを合わせることができたが、素人の俺には難しかった。

 細い足場の上で、二人きりでいるのは楽しくて。少しでも長く踊っていたかった。

 でも、終わりの時間はすぐにやって来た。

 足を踏み外した。道路側ではなく、川の方へと。足場が消えたことへの恐怖が、俺を支配する。

 だけど――それは一瞬のことで。

 橋から落ちかけた俺は、みぞれに抱きつかれる。

 それだけで、恐怖も不安も、絶対的な安心へと変わった。

 俺と、みぞれ。二人で、抱き合いながら落ちていく。浮遊感、風を切る音、腕の暖かさ。 全てが心地いい。

「――っはは」

 俺の目を見て、幸せそうな表情で、みぞれは笑う。

 伝えたい。

 自分の正直な気持ちが、口から勝手に流れ出てしまいそうだ。

 だけど――

「……、あはは!」

 だけどそれは、今じゃない。今はただ、笑っていたい。この幸せに、吞まれていたい。

 この気持ちは――、次に会ったときにでも、伝えよう。

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「生きる」のは性に合わない 翅音 @kurukkurin

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